聖書通読 2026.7.21 申命記2章1節から25節 エレミヤ書20章21章 エペソ人への手紙4章——語らずにいられない者の苦しみと祈り——

エペソ人への手紙
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通読箇所:申命記2章1節〜25節 エレミヤ書20章1節〜21章14節 エペソ人への手紙4章1節〜32節

言いたくないことを、それでも言わなければならない時——あなたならどうするだろうか。エレミヤは「もう語るまい」と決意しながら、なぜ語り続けたのか。今日の通読箇所を通して、境界線を定める神、いのちの道を示す神、そして赦し合う恵みの神の姿を辿ってみたい。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:トーラー(申命記2章1節〜25節)

境界線を定める神

イスラエルの民が荒野をさまよい始めてから、すでに長い年月が過ぎていた。セイル山の周りを「長らく」回っていた民に、主はついに「北のほうに向かって行け」と告げる(2:3)。その道の先には、エサウの子孫が住むセイル、そしてモアブ、アモンの領土が待っていた。

ここで繰り返される主の命令は、当時の常識からすれば意外なものだった。「彼らに争いをしかけてはならない」「わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない」(2:5)。同じ命令が、モアブについても(2:9)、アモンについても(2:19)繰り返される。

イスラエルは今まさに「約束の地」を目指して進軍している民である。その民に向かって、主は「この土地は取るな」と三度も釘を刺す。なぜか。理由は明確に語られている。エドムの地はエサウに、モアブの地とアモンの地はロトの子孫に、主ご自身がすでに所有地として与えられたからだ(2:5, 2:9, 2:19)。

ここで見えてくるのは、イスラエルへの土地の約束が、他の民族への配慮を踏みにじる形では実現しない、という一貫した原則である。主はイスラエルの神であると同時に、全地の国々の境界を定める神でもある。後に使徒パウロが「神は……住まいの境界をお定めになった」(使徒17:26)と語る思想の原型が、すでにここに埋め込まれている。

【図解:申命記2章 イスラエルの進路とエドム・モアブ・アモンの位置関係図】

申命記2章 イスラエルの進路と周辺諸民族
「わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない」
セイル山周辺 (長らく周回・2:1-3) エドム(エサウの子孫) 主の所有地として付与(2:5) → 争いをしかけず通過 ゼレデ川 38年目に渡る(2:14) 不信仰の世代が絶える モアブ(ロトの子孫) 主の所有地として付与(2:9) → 敵対せず通過 アルノン川 アモン(ロトの子孫) 主の所有地として付与(2:19) → 争いをしかけず通過 ヘシュボン(王シホン) 主が手に渡す・占領開始(2:24)
エドム・モアブ・アモンは、いずれも主がすでに他の民族(エサウ、ロトの子孫)に相続地として与えられた土地。イスラエルはこの三つの領土には手を出さず、最終的にアモリ人の王シホンとの戦いへと向かう。

巨人族の記憶

2章の後半には、興味深い挿入句が二度出てくる。かつてこの地域には「エミム人」(2:10-11)、「ザムズミム人」(2:20-21)と呼ばれる民族が住んでいた。いずれも「数も多く、アナク人のように背が高かった」と描写され、レファイムの一族とみなされていたという。

アナク人といえば、後にカレブとヨシュアが偵察したときに民を恐れさせた、あの巨人族である(民数記13章)。その同族が、実はエドムやアモンの地にもかつて存在し、そして主によって、あるいは主の許しのもとに、すでに歴史から姿を消していたことが、ここでさらりと語られる。

興味深い点として、この記述はイスラエルの民に向けた一種の励ましとして機能していたと考えられる。「かつて強大な民がいた土地でも、主が動かれれば覆る」という前例が、まさにこれから戦いに向かう世代に示されているのである。恐れるべきは敵の背丈ではなく、主が共におられるかどうかだ、という無言のメッセージがここにはある。

三十八年という数字

そして2章14節、静かだが重い一節が置かれている。「カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。」

この三十八年という数字は、民数記13-14章での不信仰——約束の地を目前にしながら偵察の報告に恐れをなし、主に逆らった、あの出来事の直接の代償である。荒野の四十年のうち、実に三十八年がこの一つの不信仰の結果として費やされたことになる。

不信仰の代償は、しばしば劇的な裁きとしてではなく、静かに過ぎていく歳月として現れる。戦士たちは劇的に滅ぼされたのではなく、「宿営のうちから絶えて」いった、と淡々と記される。この静けさの中にこそ、不従順の重さが表れているように思う。

第二部:旧約(エレミヤ書20章1節〜21章14節)

打たれ、つながれた預言者

祭司であり神殿の監督者であったパシュフルは、エレミヤの預言を聞くと、彼を打ち、神殿の足かせにつないだ(20:1-2)。翌日解放されたエレミヤは、パシュフルに向かって、その名の意味を変えるような宣告をする——「あなたの名は『恐れが回りにある』と呼ばれる」(20:3)。国家の滅びをそのままパシュフル個人の運命として突きつける、痛烈な言葉である。

だがこの章の本当の中心は、20章の後半、エレミヤが神に向かって吐き出す独白にある。

骨の中に燃える火

「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました」(20:7)。この一節の原語は「説得する、誘う」を基本の意味としながら、文脈の激しさの中で「欺かれたように感じる」「だまされた思いだ」という感情の響きを伴う。エレミヤは神が実際に欺いたと断定しているのではなく、あまりの苦しみの中で、抑えきれない感情をそのまま神にぶつけているのである。

彼が置かれていた状況は過酷だった。「私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざける」(20:7)。語るごとに「暴虐だ、暴行だ」と叫ばねばならない役回り(20:8)。誰も好んで引き受けたい仕事ではない。

だからエレミヤは決意する。「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」(20:9前半)。しかし、その決意はすぐに崩れる。

「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません」(20:9後半)。

この「火」は、エレミヤが望んで灯した情熱の炎ではない。むしろ、抑え込もうとすればするほど内側で燃え広がる、逃れようのない炎である。語りたくない。でも語らずにいられない。この矛盾した二つの感情が、同じ一節の中に同居している。

そして20章は、あの衝撃的な結びで終わる。「私の生まれた日は、のろわれよ」(20:14)。ヨブ記3章とほぼ同じ構造の慟哭が、預言者の口からも漏れる。強く見える信仰者ほど、実は誰よりも深く痛みと格闘していることを、この箇所は隠さずに見せている。

いのちの道と死の道

場面は変わり21章、ゼデキヤ王がバビロンの脅威に直面し、使者を送ってくる。「どうか、私たちのために主に尋ねてください……主がかつて奇しいみわざを行われたように」(21:2)。かつての勝利の記憶にすがり、一縷の望みを託す王の姿がここにある。

しかし返ってきた答えは、期待とは正反対のものだった。「わたし自身が……あなたがたと戦い」(21:5)。主ご自身が、今度はイスラエルの敵としてバビロンの側に立つ、という宣告である。

そして21章8-9節、預言全体の核心とも言える一節が置かれる。「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は……死ぬが、出て……くだる者は、生きて」。

包囲された都に踏みとどまることは、人間の直感では「抵抗すること」「守り抜くこと」であり、それこそが生きる道のように思える。だが主が示す答えは真逆だった。降伏することが、いのちの道である、と。

これは同胞にとって、受け入れがたい言葉だったに違いない。敵に下れと勧める者は、当時の感覚では裏切り者と見なされてもおかしくない。エレミヤはこの後、実際にそう糾弾され、泥の穴に投げ込まれることになる(38章)。20章で語られたあの「骨の中の火」は、まさにこの21章で語ることになる言葉の重さを、あらかじめ引き受けていた苦しみだったのだと分かる。

それでも21章12節、エレミヤは単なる裁きの宣告者では終わらない。「ダビデの家よ……朝ごとに、正しいさばきを行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ」。裁きの預言の中にすら、悔い改めへの招きと、正義への呼びかけが差し込まれている。エレミヤは滅びを願っているのではない。最後まで、民が生きる道を選ぶことを願っているのである。

第三部:新約(エペソ人への手紙4章1節〜32節)

召しにふさわしく歩む

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」(4:1)。この「召し」という語は、単なる「招待」ではなく「神からの召し」を意味する。パウロがこの手紙を書いていたのは、実際にローマで獄中にあった時期である。エレミヤが足かせにつながれたように(20:2)、パウロもまた自由を奪われた状態でこの手紙を記している。それでもパウロは自分を「不当に囚われた者」としてではなく、「主の囚人」として位置づける。境遇そのものではなく、誰に属しているかによって自分を定義する姿勢がここにある。

続く4:2-3では、「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」「平和のきずな」「御霊の一致」という言葉が畳みかけるように並ぶ。一人の預言者(エレミヤ)の孤独な戦いから、教会という共同体の歩みへと、視点が大きく転換していくのがこの箇所の面白さである。

怒ってもよい、しかし

4章後半、特に印象深いのは4:26の一節である。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」

ここで見落とされがちなのは、この節が詩篇4篇(七十人訳)からの引用だという点である。命令形の形を取ってはいるが、「怒ることを積極的に命じている」わけではない。むしろ「怒ることがあっても、その怒りを罪へと発展させてはならない」という戒めとして読むのが文脈に最もよく合う。エレミヤが神に向かって率直に不満をぶつけた姿(20:7)を思い起こすなら、感情を偽って抑え込むことが信仰の理想ではないことが分かる。むしろ、感情を認めながら、それを罪へと発展させないための知恵がここで語られている。

続く4:27「悪魔に機会を与えないようにしなさい」は、この文脈の中で読むとより鮮明になる。処理されないまま持ち越された怒りこそが、悪魔にとっての「機会」——原語では「場所・足場・付け入る余地」を意味する語——となる、という警告である。

赦し合う恵み

そして4章の結び、4:32。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」この「赦し合う」という語は「恵み」を意味する語根から派生しており、「惜しみなく与える」「寛大に赦す」というニュアンスを持つ。

この一節は、エレミヤ書で描かれた裁きと服従の物語の、いわば「その先」を示している。申命記2章で境界線を定め、エレミヤ書で不服従の代償といのちへの道を示した神は、ここではキリストにあって赦す神として現れる。裁きの厳しさと、赦しの豊かさは、決して矛盾する二つの神の姿ではなく、同じ神の異なる側面として、この日の通読箇所全体を貫いている。

第四部:全体の一貫性——境界線の神、いのちの道を示す神、赦し合う恵みの神

三つの箇所を貫く糸

今日の通読箇所を通して読むと、一つの流れが見えてくる。

申命記2章では、主はイスラエルに向かって、他の民族の土地には手を出すなと繰り返し命じられた。ここに示されているのは、境界線を定める神である。約束の地の相続は、他者の相続を踏みにじる形では実現しない。

エレミヤ20-21章では、その同じ主が、今度はご自身の民に向かって厳しい宣告を下される。都にとどまることは死であり、降伏することがいのちである、と。ここに示されているのは、人間の直感とは逆の道を示してでも、いのちを選ばせようとする神である。そしてその宣告を語る役目を負わされたエレミヤは、語りたくないのに語らずにいられないという、骨の中の火を抱えて生きた。

エペソ4章では、その厳しさの延長線上に、赦し合う恵みの神が現れる。怒ってもよい、しかしそれを罪にしてはならない。神がキリストにあって赦してくださったように、互いに赦し合いなさい、と。

境界を定め、時に厳しい道を示し、そして最終的には赦しへと導く——この三つは矛盾する神の姿ではなく、一貫した一つの神の性質の異なる現れなのだと思う。

骨の中の火を抱えて

エレミヤの姿を読みながら、思い出さずにいられない出来事があった。

ある年、台風による洪水が近づいていた日のことだった。息子の通学電車が、危険を察知して途中で後退し、そのまま家に戻ってきた。それほどの状況だったにもかかわらず、その日、教会が関わる幼稚園では、まさにその洪水の方向に向かってお泊まり会の行事が予定されていた。

「今回はこの行事を中止した方がいい。行かないでください。」——そう伝える必要があると分かっていた。しかし、伝える相手は威厳のある園長で、もともと言い出しにくい相手だった。それでも、黙っていることはできなかった。エレミヤが「もう主の名で語るまい」と思いながらも語らずにはいられなかったように、伝えないという選択肢は、心の中になかった。

結果は、「今更そんなことができるか」という一言で退けられ、行事は決行された。その後、天候は悪化し、二日間、父兄も園児も身動きが取れない状況になった。父兄からは園に苦情が寄せられた。

あの時、残された教会で、他の姉妹たちと共に祈った。「行事に参加している彼女たち、そして父兄と園児たちの、命だけは守ってください」と。エレミヤが裁きを語りながらも、最後まで民のいのちを願い続けたように、伝えた言葉が退けられた後も、心から願っていたのはただ一つ、彼らが無事であることだった。

結果として、誰も怪我をすることなく、全員が無事だった。

そして、それだけでは終わらなかった。しばらくして、その園長は謝罪をしてくれた。そして、他の姉妹たちを通して、あの二日間、無事を祈り続けていたことを知り、感謝の言葉を伝えてくれた。今、その園長はすでに天に召されている。

裁きの先にある赦し

この出来事を振り返ると、エペソ4章32節の言葉が、単なる教訓ではなく、実際に経験した恵みとして響いてくる。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

言うべきことを言い、それが退けられ、それでも祈り続け、そして時を経て和解が訪れる——この流れは、エレミヤが担った「語らずにいられない苦しみ」から、パウロが教会に勧めた「赦し合う恵み」への移行を、そのまま体現しているように思う。

エレミヤのように、時に孤独に、時に嫌われる覚悟をもって真実を語らなければならない場面が、信仰者の歩みには確かにある。しかしその先には、エペソ4章が示すような、赦しと和解へと導かれる恵みが備えられている。骨の中に燃える火を抱えながらも、最終的にはその火が、憎しみではなく、いのちを願う祈りへと向かうように——今日の通読箇所全体が、そのことを静かに教えてくれている。

語彙表

ヘブル語 語彙表
原語
発音
意味
מוֹרָשָׁה
モラシャー
所有地・相続地(申2:5,9,19)
פִּתִּיתַנִי
ピッティターニ
基本義は「説得する・誘う」。文脈では「欺かれたように感じる」という激しい感情の響きを伴う(エレ20:7)
עָצוּר בְּעַצְמֹתַי
アツール・ベアツモータイ
「骨の中に閉じ込められて」。抑え込まれた火のイメージ(エレ20:9)
דֶּרֶךְ הַחַיִּים
וְדֶרֶךְ הַמָּוֶת
デレク・ハハイーム
ヴェデレク・ハマーヴェト
「いのちの道」と「死の道」(エレ21:8)
ギリシャ語 語彙表
原語
発音
意味
κλῆσις
クレーシス
召し・神からの召し(エペ4:1)
ὀργίζεσθε
καὶ μὴ ἁμαρτάνετε
オルギゼステ・カイ・メー・ハマルタネテ
詩篇4篇(七十人訳)からの引用。「怒ることがあっても罪へ発展させるな」という戒め(エペ4:26)
τόπος
トポス
直訳は「場所」。「機会・足場・付け入る余地」の意(エペ4:27)
χαρίζομαι
カリゾマイ
「恵み」(χάρις)に由来。「惜しみなく与える・寛大に赦す」(エペ4:32)
🌱 聖書を初めて読む方へ
同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません
聖書を初めて読みたい方、ご家族やご友人に紹介したい方は、ぜひこちらからどうぞ。
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