——契約は血統ではなく応答で測られる——
申命記4章32〜49節 / エレミヤ書34章・35章 / コロサイ人への手紙1章
神の民とは、誰のことだろうか。生まれによって決まるのか、それとも別の何かによって決まるのか。今日の三つの箇所は、それぞれ違う角度から、この一つの問いに答えている。
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第一部 国民の内側から取り出された民(申命記4章32〜49節)
モーセの語り口が、ここで一段変わる。命令でも警告でもなく、いきなり問いかけになるのだ。
過ぎ去った時代に尋ねてみよ、と彼は言う。神が地上に人を造られた日から今日まで、天のこの果てからかの果てまで。検証の範囲は、人類の全歴史と全世界である。その全部を調べたうえで、これに匹敵することがあったかと問う。
これは信仰の勧めというより、論証に近い。証拠を並べるから自分で確かめよ、という姿勢である。
「聞いてなお生きていた民」
三十三節に、その論証の核心がある。火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。
現代の読者には、この一節の異様さが伝わりにくいかもしれない。古代の世界では、神と直接触れた人間は死ぬ、というのが共通の認識だった。聖書自身もそう語っている。わたしの顔を見て、なお生きている人はいない(出エジプト記33章20節)。神聖なものへの接近は、火に近づくのと同じで、焼かれるのが当然だった。
ところがシナイでは、民全体がその声を聞いた。そして生きていた。モーセが持ち出しているのは、この一点である。個人の神秘体験ではない。何十万という民が同じ場所で同じ声を聞き、誰も死ななかった。
だから彼は続けて言う。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。
ここで使われている言い方は、エン・オード・ミルヴァドー(「彼のほかにはない」)。ほかの神々より優れているという比較ではない。ほかには存在しない、という断言である。この断言が、二節あとの三十九節でもう一度繰り返される。上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はない。天も地も含めて、全部見渡してから言え、という念の入れようだ。
「中から」という語
三十四節に、見落とされやすい語がある。
一つの国民を他の国民の中から取って、と訳されている箇所。この「中から」にあたるヘブライ語は、ケレヴという。単に「〜の内側」を意味することもあるが、この語は身体について使われるとき、腹の中、内臓を指す。
文字どおりに訳すなら、「国民の腹の中から、一つの国民を取り出した」となる。
子宮を明示する語は別にあるから、ここを「胎内」と訳すのは行き過ぎである。しかしこの節の他の言葉と並べると、一つの光景が浮かんでくることも確かだ。試みがあり、しるしがあり、不思議があり、力強い御手があり、伸べられた腕があった。伸べられた腕とは、取り上げる腕である。
旧約は、イスラエルの誕生をしばしば出産の光景で語る(イザヤ書26章、66章、ミカ書4章など)。その語り方の中に置いてみると、この一節も、エジプトという体の内側から新しい民が引き出される情景として読める。語義が直接そう言っているのではない。そう読むことができる、という比喩の域である。
それでも、伸べられた腕という表現は、取り上げる腕を思わせずにおかない。
なお、この三十四節に並ぶ語彙——試み、しるし、不思議、力強い御手、伸べられた腕——は、現代のユダヤ人の家庭でも、過越の食卓で毎年朗読されている。三千年を越えて、モーセの言葉がまだテーブルの上で生きている。
血の中で、生きよ
この誕生の主題は、預言者のうちにも響いている。しかも、まったく違う角度から。
エゼキエル書十六章は、旧約の中でも屈指の激しい章である。主はエルサレムに向かって、まずその出自を突きつける。あなたの出所と生まれはカナン人の地、父はエモリ人、母はヘテ人(十六章三節)。選ばれた民に向かって、おまえの血筋は異邦人だと言うのだ。
そして続く四節と五節が、この章の核心の光景を描く。
生まれた日に、へその緒は切られなかった。産湯も使わせてもらえず、塩でこすられもせず、布に包まれもしなかった。誰も憐れみの目を向けず、その子は野に投げ捨てられた。
ここに並んでいるのは、古代の助産で当然行われた四つの手順である。へその緒を切る。洗う。塩でこする(当時、皮膚を引き締め清めるための習慣だった)。布で巻く。その四つが、一つも、なされなかった。誰一人、この子を生かそうとしなかったのである。
そこへ、主が通りかかられる。
わたしがあなたのそばを通って、あなたが自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血にまみれているあなたに、「生きよ」と言った(十六章六節)。
注目したいのは、主がまず何をされたかである。抱き上げるより先に、洗うより先に、言葉をかけられた。ヘブライ語ではハイーという短い一語。生きよ、である。しかもこの一語が、同じ節の中で二度繰り返されている。血の中で、生きよ。血の中で、生きよ。
この赤子は、何一つしていない。泣くことしかできない。清くもなく、むしろ汚れの極みにある。にもかかわらず、通りかかった方の一方的な決断によって、生きることになった。
恵みの定義が、ここにある。
二つの角度から見た同じ出来事
申命記とエゼキエル書は、同じ誕生を語りながら、立っている位置が違う。
申命記が語るのは、取り上げる側の力である。試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力。これだけの語を積み重ねなければ言い表せない労苦が、そこにあった。
エゼキエル書が語るのは、受け取る側の無力である。何もできず、誰にも顧みられず、ただ血の中でもがいていた。
二つを合わせて、はじめて出エジプトの全体像になる。神の側の全力と、人の側の無力。この二つが出会ったところに、一つの民が生まれた。
なお、エゼキエル書十六章は、ここから急転する。拾われ、育てられ、王妃のように装われた娘が、その美しさに拠り頼んで裏切りに走る。しかも主から与えられた金銀で偶像を作り、与えられた食物を偶像に供える。章の大半は、この裏切りの克明な描写と、そこへの裁きに費やされる。読んでいて苦しくなる章である。
ところが最後の三節で、もう一度転じる。
わたしはあなたの若いころ、あなたと結んだわたしの契約を思い起こし、あなたと永遠の契約を立てる(十六章六十節)。
裏切った側の資格によってではない。契約を思い起こす側の記憶によって、関係が回復される。血の中の赤子を拾ったときの一方性が、最後にもう一度、そのまま働いている。
この構図を覚えておきたい。第二部で読むエレミヤ書三十四章は、まさに「人が契約を破る」場面だからである。
突然の転換——逃れの町
四十節までで、モーセの雄弁は頂点に達する。ところが四十一節で、話は何の前触れもなく変わる。
それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。
唐突である。神の唯一性という壮大な主題から、いきなり行政区画の話になる。しかしこの配置には意味がある。
申命記の一章から四章までは、過去の回顧にあてられている。五章から、律法の本体が始まる。つまりこの逃れの町の記事は、回顧と律法のちょうど継ぎ目に置かれているのだ。
そして継ぎ目に置かれたのが何かを見てほしい。神殿でもなく、祭儀でもない。誤って人を殺した者を守る制度である。
以前から憎んでいなかった隣人を、知らずに殺してしまった者。故意の殺人者ではない。そういう人間が、復讐の追跡から逃げ込める場所を三つ、モーセはあらかじめ取り分けた。ルベン人の地にベツェル、ガド人の地にラモテ、マナセ人の地にゴラン。
主だけが神であることを知った民は、次に何をするのか。その最初の答えが、故意と過失を区別する正義だった。ここに申命記の呼吸がある。神学が神学のまま宙に浮かない。すぐに、人が人をどう扱うかという具体に落ちてくる。
大祭司が死ぬまで
逃れの町については、民数記三十五章がさらに詳しく定めている。そこに、注目すべき一条がある。
逃げ込んだ者は、いつ自由になれるのか。刑期を務めたらでも、賠償を払ったらでもない。大祭司が死ぬまでその町にとどまり、大祭司が死んだとき、自分の所有地に帰ることができる(民数記三十五章二十五節)。
考えてみてほしい。追われている者の解放が、自分の努力にも年月にも、まったく左右されない。彼と直接には何の関係もない、一人の人物の死によって、追及が終わる。
この構造が、そのまま福音の形になっている。
私たちが罪の追及から解放されたのも、償いを積み上げたからではない。大祭司であるお方が死なれたからである。ヘブル人への手紙が、キリストをまことの大祭司として繰り返し語るとき、その背後にはこの逃れの町の光景がある。
六つの町は、どこから選ばれたか
逃れの町は最終的に六つ設けられた。モーセが東岸に三つを取り分け、ヨシュアが西岸に三つを加えている(ヨシュア記二十章)。
その配置を見ると、一つのことが分かる。部族ごとの配分ではない。
東岸に住んだのは、ルベン、ガド、マナセの半部族という二部族半にすぎない。にもかかわらず三つ置かれた。ギルアデからバシャンまで、南北に長く伸びた土地だったからである。
一方、西岸には九部族半が住んでいた。それでも三つである。ケデシュを北のガリラヤに、シェケムを中央のエフライムの山地に、ヘブロンを南のユダの山地に。北と中央と南に振り分ければ、どこにいても届く距離になる。
つまり、この六つは部族の数で決められたのではなく、逃げる者の足が届くかどうかで決められている。制度の設計思想が、はっきりと見える。
そして、この六つがどこから選ばれたかが重要である。ヨシュア記二十一章によれば、六つの町はすべてレビ人の町であった。
レビ族には相続地が与えられなかった。そのかわり、全部族の領内に散らばって、四十八の町に住んだ。その四十八の中から、六つが逃れの町として選び出されたのである。
土地を持たない者の家が、行き場を失った者の避け所になった。
そして逃れて来た者は、そこで大祭司の死を待つことになる。祭司の一族の町で、祭司の死によって解放される日を待つ。制度の隅々にまで、贖いの型が織り込まれている。
★図解:六つの逃れの町
第二部 守られなかった契約と、守り抜かれた遺言(エレミヤ書34章・35章)
エレミヤ書の三十四章と三十五章は、並べて読むために置かれている。時代も、登場人物も、主題も違うのに、隣り合わせにされている。理由は読み進めればすぐに分かる。神が、二つの姿を比べて見せておられるのだ。
包囲された都で
三十四章の舞台は、絶望的である。バビロンの王ネブカデレザルの全軍が、エルサレムを包囲している。城壁のある町として残っているのは、もはやラキシュとアゼカだけ(三十四章七節)。
この七節には、思いがけない裏づけがある。
一九三五年、ラキシュの遺跡の門の跡から、陶片に書かれた手紙の束が出土した。ラキシュ書簡と呼ばれるものである。前線の将校が上官に送った報告が含まれており、その一通に、こういう趣旨の記述がある。ラキシュの烽火は見えている。しかしアゼカの烽火は、もう見えない。
アゼカが陥落した、その瞬間の報告である。
エレミヤが「これらがユダの町々で城壁のある町として残っていた」と書いた、まさにその時期のもの。聖書のこの一行が、灰の中から出てきた土器のかけらと、二千六百年の時を越えて握手している。
子牛を、二つに裂いて
その包囲のさなか、ゼデキヤ王は民と契約を結ぶ。同胞のヘブル人の奴隷を解放する、という契約である。
これは律法の実行であった。出エジプト記二十一章、そして申命記十五章に、六年仕えた同胞の奴隷は七年目に自由の身とせよ、と定められている。長らく守られてこなかった律法を、今こそ守ろうとしたのだ。
そしてその契約の結び方が尋常でない。十八節に、その儀式が記されている。子牛を二つに断ち切り、その間を通る。
ここで思い出したい箇所がある。創世記十五章。アブラハムが動物を裂いて二つに並べ、日が沈んで暗くなったとき、煙の立つかまどと燃えているたいまつが、その間を通り過ぎた。神ご自身が、裂かれた動物の間を歩まれたのである。
ヘブライ語で「契約を結ぶ」は、文字どおりには「契約を切る」と言う。裂かれた動物の間を通ることは、こう宣言する行為だった。もしこの契約を破るなら、私はこの動物のようになってよい。
ゼデキヤと民は、アブラハムのときと同じ形式で、自らを死の誓いに置いた。
ただし、決定的な違いがある。創世記十五章では、裂かれた動物の間を通ったのは神ご自身だけであった。アブラハムは深い眠りに落ちていて、通っていない。ところがエレミヤ書三十四章では、人間の側が通っている。十九節は、通った者たちを名指しで列挙している。ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆。
つまり彼らは、自分の足で、自分に対する判決の中を歩いたのである。
そして、破った。
心を翻した理由
十一節が、ただ一行でその転落を記す。しかし、彼らは、そのあとで心を翻した。
なぜか。エレミヤ書三十七章五節が、その背景を教えてくれる。エジプトの軍勢が北上してきたため、バビロン軍がエルサレムの包囲を一時的に解いて撤退したのである。
つまり、こういうことだ。刃が首元にあるあいだは、彼らは律法を守った。刃が離れた瞬間、解放したはずの人々を連れ戻して、また奴隷にした。
塹壕の中でだけ神を呼ぶ信仰である。危機が去れば、悔い改めも去る。
解放という言葉の、恐ろしい返し
ここから神の言葉が来る。そして原語で読むと、これほど冷たく正確な言い回しはそうない、という一撃が放たれる。
十七節をご覧いただきたい。日本語では二度「解放」という語が出てくるが、実は原語でも同じ一語が使われている。デロールという。
この語は、ただの解放ではない。レビ記二十五章十節、ヨベルの年に「国中のすべての住民に解放を宣言する」——そのときの、あの語である。五十年に一度、負債が帳消しにされ、奴隷が家に帰り、失った土地が戻ってくる。イスラエルの祝福の制度を代表する言葉だ。
イザヤ書六十一章一節の「捕らわれ人には解放を」も、同じデロールである。そしてこの箇所こそ、後にイエスがナザレの会堂で巻物を開き、読み上げられた箇所にほかならない。
その祝福の語を、神はこう用いられる。
あなたがたは、それぞれ自分の同胞や隣人にデロールを告げなかった。だから見よ、わたしはあなたがたに、剣と疫病と飢饉のデロールを宣言する。
解放を出し惜しんだ者に、災いを解き放ってやろう、と言われるのである。祝福の言葉が、そのまま裁きの言葉として撃ち返される。言葉遊びであるが、笑えるものではない。
そして二十節。二つに裂いた子牛の間を通った者たちを、わたしは敵の手に渡す。誓いのとおりになる、ということである。
舞台が変わる——三十五章
三十五章に入ると、時代が数十年さかのぼる。ゼデキヤではなく、エホヤキムの時代である。エレミヤ書は年代順に並んでいないので、この配置は編集上の意図によるものだ。対比のために、ここに置かれている。
主はエレミヤに、奇妙な命令を下される。レカブ人の一族を主の宮の一室に連れて来て、ぶどう酒を飲ませよ。
預言者が、神殿で、酒を勧める。しかもこれは主ご自身の命令である。断る理由は、どこにもない。
ところが彼らは言った。私たちはぶどう酒を飲みません。
理由は先祖の遺言だという。レカブの子ヨナダブが命じた。ぶどう酒を飲むな。家を建てるな。種を蒔くな。ぶどう畑を持つな。一生、天幕に住め。
ヨナダブとは誰か
このヨナダブという人物は、列王記第二の十章に登場する。イエフがバアル礼拝を粛清したとき、その戦車に同乗した人物である。年代はおよそ紀元前八百四十年ごろ。
そこに、あの遺言の意味を解く鍵がある。
彼は、バアル礼拝が国を蝕んでいく様を、間近で見た人だった。カナンの宗教は農耕と結びついている。豊穣の神々、定住、ぶどう畑、収穫の祭儀。それらが信仰を内側から侵食していく過程を、彼は目撃した。
だから彼の遺言は、単なる禁欲の勧めではない。荒野の純粋さに帰れ、という信仰改革の宣言であった。ぶどう畑を持たないのも、家を建てないのも、天幕に住むのも、すべてカナン化した信仰への抗議である。イスラエルが天幕で神と共に歩んだ時代の姿を、意図的に保存しようとしたのだ。
血統の外から来た一族
ここで、この一族の出自に触れておきたい。
歴代誌第一の二章五十五節に、こう記されている。これらはレカブの家の父ハマテから出たケニ人である。
ケニ人は、創世記十五章十九節で、アブラハムに示された約束の地の住民の筆頭に挙げられている。つまりアブラハムより前から、その地にいた人々である。イスラエルの系譜には属さない。モーセの義父イテロも、ミデヤンの祭司と呼ばれると同時に、ケニ人と呼ばれている(士師記一章十六節)。土地を持たず、天幕に住み、金属を鍛えながら諸部族の間を移動した一族だったと考えられている。
彼らは士師記の時代からユダ族と共に住み、その社会に溶け込んでいった。血統は外、暮らしは内。この二重性が、この章の意味を決定づける。
二百数十年
ヨナダブが遺言を残したのが紀元前八百四十年ごろ。エレミヤが杯を差し出したのが紀元前六百年ごろ。
その間、二百数十年。八世代から九世代である。
その二百数十年に、何があったか。王が何人も代わった。預言者が現れては去った。北王国イスラエルが滅んだ。ユダは幾度も偶像に走り、幾度か改革を経験した。国全体が揺れ続けた。
そのあいだずっと、この一族は先祖の言葉を守り続けた。
神の律法ではない。シナイの雷鳴もなく、石の板もなく、罰則の規定もない。ただ、一人の先祖が残した言葉があっただけである。それを、二百数十年。
そして神殿の一室で、預言者が杯を差し出したとき、彼らは飲まなかった。
神が突きつけられたもの
十四節に、主の言葉がある。
レカブの子ヨナダブが子らに命じた命令は守られた。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。
ここに、たびたび、という語が繰り返される。神は一度ならず語られた。預言者を早くからたびたび送られた。それでも聞かれなかった。
一方は、数か月で契約を翻した選民。もう一方は、二百数十年、人間の遺言を守り通した外来の一族。
神はこの二つを並べて、ご自分の民の前に置かれた。
わたしの前に立つ
そして三十五章十九節、レカブ人への約束が語られる。
レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。
この「わたしの前に立つ」という言い方には、注意が必要である。これは日常の表現ではない。祭司が神殿で奉仕することを指す、専門的な言い回しなのだ(申命記十章八節などで、レビ人の務めを表すのに用いられる)。
血統の外から来た一族に、祭司の言葉で、絶えることのない約束が与えられた。
契約への忠実さは、血統ではなく応答の姿勢によって測られる。この章が言おうとしているのは、そのことである。そして、この主題はここで終わらない。第三部で読むコロサイ人への手紙が、それを異邦人にまで押し広げていく。
★図解:レカブ人の二百数十年
第三部 あなたがたのうちにおられるキリスト(コロサイ人への手紙1章)
コロサイという町は、当時すでに衰えかけた地方都市だった。パウロ自身は一度も訪れていない。福音を運んだのはエパフラスという人物である(一章七節)。パウロがエペソで三年を過ごしたあいだに、その働きが周辺の谷筋へと広がり、コロサイにも届いた。
つまりこの手紙は、パウロが顔も知らない人々に宛てて書かれている。それでも彼は言う。私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています(一章九節)。
会ったことのない人のために、絶えず祈る。パウロにとって教会とは、そういうものだった。
主権の移動
十三節に、この手紙全体の土台となる一文がある。
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
ここで使われている「移す」という語は、当時の政治用語である。征服した王が、住民を集団で別の領土へ移住させる——そのときに使われる言葉だ。実際、イスラエルもユダも、この意味で「移された」民である。
しかしパウロは、その語を逆向きに用いる。私たちは奴隷として連れ去られたのではない。暗やみの支配下から、御子の王国へと移住させられたのだ。国籍が変わったのである。
そして重要なのは、動詞の主語がすべて神だという点である。救い出したのも、移したのも、神。私たちは移された側にすぎない。第一部で見た、血の中の赤子と同じ構図がここにもある。
万物より先に生まれた方
十五節から二十節は、初代教会で歌われていた讃美歌ではないかと考えられている箇所である。
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
この「先に生まれた」という語が、しばしば誤解を招いてきた。御子も被造物の一人なのか、という誤解である。しかし直後の十六節が、その読みを封じている。万物は御子にあって造られた。造られたものの中に、造った方が含まれるはずがない。
ギリシャ語のプロートトコスという語は、時間の順序よりも地位を指す。長子とは、家督を継ぐ者、相続の第一位に立つ者のことである。詩篇八十九篇二十七節で、神はダビデを「長子とする」と言われるが、ダビデは実際には末子であった。順番の話ではないのだ。
十七節も見ておきたい。万物は御子にあって成り立っています。この語は、ばらばらのものが一つに保たれている、という意味を持つ。宇宙は放っておいても回り続けるのではない。今この瞬間も、御子が支えておられるから、成り立っている。
栄光の望みとは何か
二十七節に、この手紙の中心がある。
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
栄光の望みとは何を指すのか。贖いのことか。復活の力か。それとも将来、栄光の体に変えられることか。
この問いは、時間軸に沿って並べると整理できる。
贖いは、すでに完了した過去である。十四節に、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています、とある。これは奥義の内容ではなく、奥義が語られる前提として、すでに置かれている。
内住は、現在の事実である。あなたがたの中におられるキリスト。この「あなたがた」とは異邦人のことだ。二十七節は、この奥義が異邦人の間にあってどれほど栄光に富んだものかを知らせたい、と明言している。当時のユダヤ人にとって、異邦人の内にメシアが宿るというのは、想像を超えた話だった。神殿の至聖所にとどまるはずの臨在が、割礼を受けていない者の胸の内にある。
栄光は、まだ来ていない未来である。望みという語が使われている以上、まだ手にしていない。ローマ人への手紙八章、コリント人への手紙第二の三章十八節、ヨハネの手紙第一の三章二節——いずれも、私たちがやがてキリストの似姿にまで完成されることを語っている。復活の体も、そこに含まれる。
三つを並べると、この一節の構造が見えてくる。
今すでに内におられるキリストご自身が、まだ見ぬ栄光の保証になっている。
エペソ人への手紙一章十四節で、聖霊が「保証」と呼ばれるのと同じ論理である。手付金が支払われたなら、残りは必ず支払われる。内住のキリストは、将来の栄化に対する手付金なのだ。
だから答えは、三つのうちのどれか一つではない。贖いは土台であり、栄光の体は結実である。しかしこの節が指しているのは、その両者をつなぐ現在の一点——今、内におられる方が、そのまま将来の保証であるという事実である。
異邦人である私たちにとって、これは他人事ではない。自分の内にキリストが住んでおられるという事実そのものが、完成の担保になっている。
欠けたところを満たす
二十四節は、古くから神学者を悩ませてきた一節である。
キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
十字架は完全なはずである。では、何が欠けているというのか。
多くの注解者は、こう説明する。ここでいう「キリストの苦しみ」とは贖罪の苦難のことではなく、キリストのからだである教会が担う苦難のことだ、と。だからパウロは直後に念を押している。キリストのからだとは、教会のことです。贖いに不足があるのではなく、教会が引き受けるべき苦難の分担が、まだ残っているという意味である。
ここに、もう一つの角度を添えておきたい。
後のラビ文献には、ヘヴレイ・マシアハ——メシアの産みの苦しみ——と呼ばれる概念がある。終わりの時が来る前に、神の民が通過すべき苦難には一定の量が定められている、という考え方だ。出産の陣痛が一定量あって、それを経なければ子が生まれないように。
この熟語自体が定式化されたのは、パウロよりずっと後の時代である。ただし、その背景にある思想——終わりの前に大きな苦難が来るという理解——は、パウロの時代の黙示文学にすでに見られる。コロサイ人への手紙のこの一節をその文脈で読む研究者もいるが、主流の解釈とは言えない。
それでも、産みの苦しみという像は、この節と静かに響き合う。パウロは苦しみを終わりの徴としてではなく、誕生の徴として語っているからだ。だから彼は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしていますと書ける。陣痛は、終わりではなく始まりの合図である。
そして第一部の主題が、ここで戻ってくる。エジプトという体の内側から、産みの労苦を経てイスラエルが引き出されたように、教会の完成にもなお労苦がある。
第四部 外側の火から、内側の栄光へ
三つの箇所を並べ終えて振り返ると、一本の糸が通っているのが見えてくる。神が誰を、どのようにご自分のものとされるのかという問いである。
誕生という主題
まず、三つの箇所すべてに、誕生の光景が置かれていることに注目したい。
申命記が語る出エジプトは、国民の内側から一つの国民が引き出される出来事だった。伸べられた腕は、取り上げる腕である。エゼキエル書は、その同じ出来事を反対側から描く。血の中でもがくことしかできなかった赤子に、通りかかった方が生きよと言われた。
そしてコロサイ人への手紙で、パウロは教会の苦しみを喜びと呼ぶ。まだ完成していないものが、今生まれつつあるからである。
イスラエルの誕生に労苦があった。教会の誕生にも労苦がある。神が民を生み出されるとき、そこには必ず産みの労苦がある——聖書は、そう語り続けている。
契約は、破られる
しかし生まれた民は、契約を守り通せなかった。
エレミヤ書三十四章が示すのは、その事実の最も生々しい形である。彼らは子牛を二つに裂き、その間を通った。もしこの契約を破るなら、私はこの動物のようになってよい、と自らに宣告しながら。そして数か月で翻した。
ここで思い起こしたいのは、創世記十五章である。アブラハムが動物を裂いて並べたとき、その間を通り過ぎたのは誰だったか。アブラハムではなかった。煙の立つかまどと燃えているたいまつ——神ご自身が、ただ一人でその間を歩まれた。
契約を破ったら裂かれた動物のようになる、という誓いを、神が片側だけ引き受けられたのである。
人間が契約を守れないことを、神は最初から知っておられた。だから創世記十五章で、代価を払う側にご自身を置かれた。エレミヤ書三十四章の失敗は、その先見が正しかったことの証明にすぎない。
そしてエレミヤは、同じ書物の三十一章で、新しい契約を予告する。石の板にではなく、心に書き記される契約を。破られない契約が来る、と。
血統ではなく、応答
だが、契約を守れないのは人間の側の常だとして、それでは神の民とは誰なのか。
エレミヤ書三十五章が、思いがけない答えを差し出す。
レカブ人。血統ではイスラエルの外にいた一族。与えられたのは神の律法ではなく、一人の先祖の遺言だけ。それを二百数十年、守り通した。そして神殿の一室で預言者が杯を差し出したとき、彼らは飲まなかった。
彼らに与えられた約束は、わたしの前に立つ人が絶えることはない、というものだった。祭司の言葉である。
血統の外にいた者が、祭司の言葉で祝福される。この一点に、旧約の中に開いた小さな窓がある。
窓が、扉になる
その窓を扉にまで押し広げたのが、コロサイ人への手紙である。
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト。
パウロが奥義と呼ぶのは、異邦人の内にメシアが宿るという事実だった。神殿の至聖所にとどまるはずの臨在が、割礼を受けていない者の胸の内にある。ユダヤ人にとって、これは想像を超えた話だった。
そしてペテロは、異邦人を含む諸教会に宛てて、こう書く。あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です(ペテロの手紙第一二章九節)。
レカブ人に与えられた祭司の言葉が、ここで異邦人全体に向けられている。外から来て、留まり続けた者たち。それは、今日この文章を読んでいる私たちのことでもある。
三重の像
こうして、外から来た者の姿が三度、重なって現れる。
アブラハム。偶像礼拝の家から呼び出され、川を渡って来た人。ヘブルという呼び名そのものが、渡るという動詞から来ていると考えられている。故郷も、父の家も、慣れ親しんだ神々も、すべて向こう岸に残して来た。そして約束の地に着いてからも、生涯、天幕に住み続けた。
レカブ人。外から来て、留まり続けた一族。天幕に住み、ぶどう畑を持たず、二百数十年を歩き通した。
私たち。血統では神の家の外にいた者が、キリストにあって内に入れられた。そして同じ祭司の言葉で呼ばれている。
三者に共通するのは、自分の資格でそこにいるのではないということだ。アブラハムは呼び出された。レカブ人は選ばれて証人に立てられた。私たちは、暗やみの圧制から救い出され、御子のご支配の中に移された。
すべて、動詞の主語は神である。
火の中から、あなたのうちへ
最後に、もう一度シナイに戻りたい。
モーセは誇らかに問うた。火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あれほど恐ろしい接近が許されたことは、人類の歴史にほかに例がない、と。
あのとき、神の声は火の中から外へ向かって語られた。民は山のふもとに立ち、震えながらそれを聞いた。近づけば死ぬ、という境界線が引かれた山であった。
ところがコロサイ人への手紙では、神は人の内側に住んでおられる。
あなたがたの中におられるキリスト。
異邦人の胸の内が、シナイ山になったのである。
申命記が外から迫った真理——主だけが神であり、ほかに神はない——それが今、内側から支えるお方として与えられている。そしてその内住が、まだ見ぬ栄光の保証になっている。
火の中から聞こえた声が、今は内側から語りかけている。
同じ神である。同じ声である。距離だけが、変わった。
原語のまとめ
ヘブライ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| קֶרֶב | ケレヴ | 内部、腹の中、内臓。「〜の中から」(申命記4章34節)。子宮を表す語は別にあるため、「胎内」と訳すのは行き過ぎ |
| חֲיִי | ハイー | 生きよ。女性に対する命令形(エゼキエル書16章6節)。同じ節に二度繰り返される |
| דְּרוֹר | デロール | 解放。ヨベルの年の解放を指す語(レビ記25章10節、イザヤ書61章1節)。エレミヤ書34章17節では裁きの語として反転して用いられる |
| עִבְרִי | イヴリー | ヘブル人(創世記14章13節)。語源は未確定。「渡る」という動詞(アーヴァル)に由来する説と、人名エベルに由来する説がある |
| חֶבְלֵי מָשִׁיחַ | ヘヴレイ・マシアハ | メシアの産みの苦しみ。終末前に定められた苦難の総量を指す。この熟語の定式化は後代のラビ文献による |
※ヘヴレイ・マシアハの語の分解
חֶבְלֵי(ヘヴレイ)=陣痛、産みの苦しみ(複数連語形) מָשִׁיחַ(マシアハ)=油注がれた者、メシア
ギリシャ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| πρωτότοκος | プロートトコス | 長子。相続の第一位に立つ者。時間の順序より地位を指す(コロサイ人への手紙1章15節・18節、詩篇89篇27節) |

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