2026年2月17日の聖書通読 見えない法廷、見えない神、見える信仰

聖書の名言集
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天の法廷で証しされるもの—

すべてを失った人間の口から最初に出る言葉は、何によって決まるのか?

通読箇所:出エジプト記23:1〜19/エステル記10章/ヨブ記1章/ルカの福音書20:27〜47

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】

第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。

時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

目次

第一部:トーラーポーション — 出エジプト記23章1〜19節

「正義の法廷に立つ者たちへ」

出エジプト記23章は、シナイ契約の中でも特に実践的な律法が並ぶ箇所である。ここには「偽りのうわさを言いふらしてはならない」「悪者と組んで悪意ある証人となってはならない」(1節)という命令から始まり、裁判、安息年、三大例祭に至るまで、イスラエルの共同体生活の基盤が記されている。

一見すると雑多な規定の羅列に見えるかもしれない。しかしこの章を貫いているのは、一つの明確な原則である。神は「見えない動機」をご覧になっているということだ。

偏りのない裁き——神の正義の本質

冒頭の規定で注目すべきは、2節と3節の対になる構造である。

「悪を行う権力者の側に立ってはならない」(2節)

「その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない」(3節)

これは現代の感覚からすると意外に感じるかもしれない。弱者を守ることは正義ではないのか。しかし神の律法が求めているのは、弱者保護ではなく「真実に基づく裁き」である。権力者に偏るのも、貧しい人に偏るのも、どちらも裁きを歪める行為として同列に禁じられている。

ヘブライ語で「裁きを曲げる」はナーター・ミシュパート(נָטָה מִשְׁפָּט)と言う。ナーターは「傾ける、曲げる」という意味で、天秤が一方に傾く姿を思わせる。神の法廷では、天秤は常に水平でなければならない。

8節の「わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる」という警告も同じ線上にある。ヘブライ語で「盲目にする」はイェアッヴェール(יְעַוֵּר)。わいろは知性の問題ではなく、霊的な視力の問題なのである。どれほど聡明であっても、利害が絡めば真実が見えなくなる。

敵のろばを助けよ——律法の心

4〜5節に、この章で最も意外な命令がある。

「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない」(4節)

「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合……必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」(5節)

「あなたの敵」「あなたを憎んでいる者」——律法は、人間関係に摩擦があることを前提としている。理想論として「敵を作るな」と言うのではなく、敵がいる現実の中で、なおどう行動すべきかを命じている。

ここで主イエスの言葉が響く。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。イエスの教えは律法を廃棄したのではなく、律法の中にすでに埋め込まれていた精神を完全に花開かせたのである。

安息の神学——息をつかせるため

10〜12節では、安息年と安息日の規定が語られる。六年耕作し、七年目に土地を休ませる。六日間働き、七日目に休む。

12節の理由が美しい。「あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。」

ヘブライ語で「息をつかせる」はヴェインナーフェシュ(וְיִנָּפֵשׁ)。語根はネフェシュ(נֶפֶשׁ, 魂・いのち)である。つまり安息とは単なる労働停止ではなく、魂を回復させることなのだ。そしてその恩恵は、家畜にも、奴隷の子にも、在留異国人にも及ぶ。神の安息は排他的ではない。

9節の「在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは在留異国人であったから」という命令と合わせて読むと、ここには経験に基づく共感の倫理がある。自分が苦しんだからこそ、同じ苦しみの中にいる者を理解できる。これは後に見るヨブの物語とも深くつながっていく。

三大例祭——救いの全体像

14〜17節では、年に三度の例祭が命じられる。

第一に、種を入れないパンの祭り(マッツォート)。過越に連なるこの祭りは、エジプトからの解放を記念する。新約においては、キリストの十字架による贖いの開始を指し示す。

第二に、刈り入れの祭り(シャブオット/七週の祭り)。初穂を神に捧げるこの祭りは、使徒の働き2章でペンテコステとして成就し、聖霊の注ぎと契約の内面化を意味する。

第三に、収穫祭(スコット/仮庵の祭り)。年の終わりの収穫を祝うこの祭りは、終末における神の民の完全な集め入れと神の住まいの回復を予表する。

過越が「救いの始まり」、七週が「聖霊による契約の内面化」、仮庵が「完成」——この三つの祭りの中に、救済史の全体像が凝縮されているのである。

17節の「年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない」は、この三大例祭の総括命令である。神は年に三度、ご自分の民を御前に集め、救いの物語を身体的に追体験させることを望まれた。

子やぎを母親の乳で煮てはならない——創造の秩序

19節の後半に、唐突とも思える命令がある。「子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。」

この規定は出エジプト34:26と申命記14:21にも繰り返され、聖書の中で三度登場する。ユダヤ教ではこの三回の繰り返しから、肉と乳製品のあらゆる混合を禁止する食物規定(バーサール・ベハラーヴ)を導き出した。

しかし聖書本文の文脈で見ると、この命令は少なくとも二つの層を持っている。

第一に、異教儀式の禁止である。ウガリット文書(古代カナンの文献)には、豊穣祈願として子山羊を母乳で煮る儀式が記録されている。19節前半の「初穂の最上のものを主の家に持って来なければならない」の直後にこの命令が置かれていることは、正しい礼拝と異教的礼拝の明確な区別を意図している。

第二に、創造の秩序の尊重である。母の乳は子を生かすために存在する。その乳で子を煮るという行為は、いのちを育むものでいのちを奪うという、創造の目的に対する根本的な逆転である。レビ記22:28の「母と子を同じ日に屠ってはならない」という規定も、同じ精神に基づいている。

神は細部にまでいのちの尊厳を埋め込まれた。律法の一つひとつの規定が、「わたしはいのちの神である」という神の自己宣言なのである。


第二部:旧約 — エステル記10章・ヨブ記1章

「見えない神、見えない法廷」

今日の旧約通読は、二つの書が並ぶ。わずか3節で閉じられるエステル記の最終章と、壮大な苦難の序幕が開かれるヨブ記1章。この二つは一見まったく異なる書に見えるが、その底流には共通する問いが流れている。神が見えない場所で、神は何をしておられるのか。

エステル記10章——神の名なき署名

エステル記は聖書の中で唯一、神の名が一度も登場しない書である。「主」も「神」も「エロヒーム」も「ヤハウェ」も出てこない。にもかかわらず、この書全体が神の摂理の物語であることは、読む者すべてが感じ取る。

最終章の3節は短いが、その一語一語に重みがある。

「モルデカイはアハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め(ドレーシュ・トーヴ)自分の全民族に平和を語った(ドベール・シャローム)

ヘブライ語のドレーシュ(דֹּרֵשׁ)は「求める、探求する」という能動的な動詞である。トーヴ(טוֹב, 善・幸福)を「求める」とは、善が自然に訪れるのを待つのではなく、自ら追いかけるということだ。

そしてドベール・シャローム(דֹּבֵר שָׁלוֹם)。シャロームは単なる「平和」ではなく、完全さ、充足、回復された関係を意味する。モルデカイは権力を得た後、報復ではなくシャロームを語った。

ここに注目したいのは、モルデカイの歩みとヨセフの歩みの類似である。異国で迫害され、しかし神の摂理によって高められ、最終的に自分の民を救う。ヨセフは「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創世記50:20)と語った。エステル記にはこのような神学的宣言はない。しかしモルデカイの生涯そのものが、言葉にされない創世記50:20なのである。

エステル記が神の名を記さないことは、欠如ではなく意図的な神学である。神は、ご自分の名前が明記されていなくても働かれる。人間の目に見えなくても、歴史の細部に介入しておられる。それは、私たちの日常においても同じではないだろうか。

ヨブ記1章——天の法廷が開かれる時

エステル記が「見えない神」の物語なら、ヨブ記は「見えない法廷」の物語である。

ヨブ記の冒頭は、地上の場面から始まる。「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」(1節)。

ウツの地とヨブの正体

ウツ(עוּץ, ウーツ)は、イスラエルの外にある土地である。創世記10:23ではアラムの子として、創世記22:21ではアブラハムの兄弟ナホルの長子としてウツの名が登場する。哀歌4:21ではエドムと関連づけられ、地理的には現在のヨルダン南東部からアラビア北部にかけての地域と考えられている。ヨブの友人エリファズが「テマン人」(エドム系の地名)であることも、この位置を裏付ける。

ここで決定的に重要なのは、ヨブはイスラエル人ではないということである。アブラハム契約の外にいる。モーセ律法を持たない。割礼を受けていない。にもかかわらず、神ご自身が「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」(8節)と証言される。

ヨブの時代設定も族長時代(アブラハムの前後)と見る学者が多い。その根拠は明確である。祭司制度がなく、ヨブ自身が家族のために犠牲を捧げている(5節)。富の単位が家畜であり、貨幣経済以前の世界が描かれている。42章では140年の寿命が記録されている。そしてモーセ律法への言及が一切ない。

このことが意味するのは、神の主権と人間の信仰は、イスラエルという枠組みの「前」から存在していたということである。神はアブラハムを選ぶ前から、世界中に信仰の民を持っておられた。

「いつもこのようにしていた」——日常の忠実さ

5節は、ヨブ記全体を理解する鍵となる一節である。

「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」

「いつもこのようにしていた」——ヘブライ語でコル・ハッヤーミーム(כָּל־הַיָּמִים)、直訳すると「すべての日々」。これは習慣ではなく、生き方そのものである。ヨブは祭司ではないが、家族のための祭司的役割を自ら担っていた。「あるいは罪を犯したかもしれない」——この「かもしれない」のために、毎朝早く起きて犠牲を捧げ続けた。

この日々の忠実さが、21節の告白を可能にした。試練の瞬間に突然信仰が生まれるのではない。日常の中で培われた神との関係が、危機の時に言葉となって現れるのである。

天の法廷——告発者ハッサーターン

6節から場面は一変する。「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。」

ここで注目すべきは、ヘブライ語原文でサタンに定冠詞がついていることである。הַשָּׂטָן(ハッサーターン)——「その告発者」「その敵対者」。固有名詞としての「サタン」ではなく、天の法廷における役割名として描かれている。古代イスラエルの法廷用語で、サーターンは検察官に相当する存在であった。

これは出エジプト23章の法廷用語と響き合う。出エジプト23:1の「悪意ある証人(エード・ハマース, עֵד חָמָס)」——ハッサーターンがヨブについて行ったのは、まさにこの悪意ある証言である。

「ヨブはいたずらに(חִנָּם, ヒンナーム)神を恐れましょうか」(9節)。

ヒンナームは「ただで、理由なく、無償で」という意味である。サタンの告発は本質的にこうだ。「ヨブの信仰は取引にすぎない。祝福があるから従っているだけだ。利益を取り除けば、信仰も消える。」

これはすべての信仰者に向けられた究極の問いでもある。あなたは神から何も得られなくても、なお神を信じるか。祝福がなくても、癒しがなくても、祈りが聞かれなくても、それでも「主の御名はほむべきかな」と言えるか。

神がヨブの名を出された意味

8節で見逃せない点がある。サタンがヨブを指名したのではなく、神のほうからヨブの名を出している。

「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。」

なぜ神は、ご自分の忠実なしもべをサタンの前に差し出すようなことをされたのか。この問いはヨブ記全体を通して読者の心に重くのしかかる。

しかしここに一つの視点がある。神はヨブの信仰を信頼しておられた。サタンの告発に対して、神は理論で反論されなかった。代わりに、ヨブの信仰そのものを証拠として提出された。「では見てみよ」と。

同時に、神は明確な境界線を設けられた。「彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」(12節)。試練には神が設定された限界がある。サタンに無制限の権限が渡されたのではない。これはコリント人への手紙第一10:13の「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」という約束の旧約的な原型である。

「主は与え、主は取られる」——信仰の極点

すべてを失った後のヨブの応答は、聖書の中で最も崇高な告白の一つである。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(21節)

ヘブライ語で「主は与え」はヤハウェ・ナータン(יְהוָה נָתַן)、「主は取られる」はヤハウェ・ラーカハ(יְהוָה לָקָח)。ヨブは災いの原因をサタンに帰さず、シェバ人に帰さず、大風に帰さず、すべてを主の主権の下に置いた。

これは無感情な諦めではない。上着を引き裂き、頭をそっている(20節)。深い悲しみの中にいる。しかしその悲しみの底で、なお神を礼拝した。

22節の結語は静かだが決定的である。「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」ヘブライ語で「愚痴をこぼす」はティフラー(תִּפְלָה)。これは「的外れなことを言う、神に不当な非難を向ける」という意味である。ヨブは悲しんだ。しかし神の性質を誤って告発することはしなかった。

サタンの問い「ヨブはヒンナーム(ただで)神を恐れましょうか」に対する答えは、ここで明確に出ている。YES。ヨブはただで、無償で、何の報酬もなく、神を恐れていた。

二つの書が語る一つの真実

エステル記10章とヨブ記1章は、表と裏のように対をなしている。

エステル記では、神の名は書かれていないが、神は歴史の背後で確かに働いておられた。ヨブ記では、天の法廷が開かれているが、地上のヨブにはそれがまったく見えていない。

モルデカイは迫害を経て高められ、民に平和を語った。ヨブは祝福を奪われ、なお神を礼拝した。どちらも、見えないものへの信頼によって生きた人物である。

そしてどちらの書も、人間の側からは見えない領域で、神が決定的なことをしておられるという真実を証言している。エステル記の神は見えないが歴史を動かし、ヨブ記の天の法廷は見えないがヨブの運命を左右している。

私たちの人生もまた、見えない領域で神が何かをしておられる最中なのかもしれない。

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第三部:新約 — ルカの福音書20章27〜47節

「生きている者の神」

ルカ20章の後半は、イエスとエルサレムの宗教的権威者たちとの緊迫した対話が続く場面である。ここには二つの論争と一つの警告が含まれている。サドカイ人との復活論争(27〜38節)、ダビデの子についての問いかけ(41〜44節)、そして律法学者への警告(45〜47節)。この三つを貫くのは、「あなたがたは本当に聖書を読んでいるのか」というイエスの根本的な問いである。

復活を信じない者たちの質問

サドカイ人は、当時のユダヤ教の中で独特な立場にあった。彼らはモーセ五書(トーラー)のみを最高権威とし、口伝律法も預言書の権威も認めず、復活も天使も霊も信じなかった(使徒23:8参照)。祭司貴族階級に多く、エルサレム神殿の運営を握る政治的にも強力な集団であった。

彼らがイエスに持ちかけた質問は、申命記25:5-6のレビラート婚(兄弟が子を残さず死んだ場合、弟がその妻を娶り、兄のための子をもうける制度)に基づいている。七人の兄弟が順番に同じ女性を妻とし、全員子なく死んだ。復活の時、この女性は誰の妻になるのか。

これは真剣な質問ではない。復活という概念の不合理さを、律法の規定を使って証明しようとする論理的罠である。「復活を信じるなら、この矛盾をどう説明するのか」と。

イエスの答え——次元の転換

イエスの答えは、サドカイ人の想定そのものを根底から覆すものであった。

「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません」(34〜35節)

サドカイ人は、復活後の世界をこの世の延長として想像していた。だから「誰の妻になるか」という問いが成立すると考えた。しかしイエスは、復活の世界はこの世とは質的に異なる次元であると教えられた。

36節の「彼らは御使いのようであり」という表現は、人間が天使になるという意味ではない。ギリシャ語でイサンゲロイ(ἰσάγγελοι)、「天使に等しい」という意味である。この語はルカだけが使っている特別な表現で、死の支配から解放された存在としての復活の体を指している。死がないところには、死に備えて子孫を残す必要もない。したがって婚姻という制度の目的そのものが変わるのである。

ここに深い慰めがある。復活の世界では、地上の人間関係が「失われる」のではなく、より完全な交わりへと変容する。地上の婚姻は、神と民の関係を映し出す影であった(エペソ5:31-32)。影が本体に出会う時、影としての役割は終わるが、それは喪失ではなく成就である。

モーセ五書から復活を証明する——論争の核心

イエスの答えの中で最も鮮やかなのは、37〜38節の論証である。

「死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

この論証の巧みさは、サドカイ人がモーセ五書のみを権威として認めていたことにある。イエスは詩篇からでもイザヤ書からでもなく、出エジプト記3:6のモーセ自身の体験から復活を論証された。サドカイ人が拒否できない典拠を選ばれたのである。

論証の構造はこうだ。神はモーセに対して「わたしはアブラハムの神である」と現在形で語られた。出エジプト3章の時点で、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに数百年前に死んでいる。にもかかわらず、神は「わたしは彼らの神であった」とは言われなかった。「わたしは彼らの神である」と、現在の関係として語られた。

もし彼らが完全に消滅しているなら、神が現在形で「彼らの神である」と名乗ることは無意味になる。神が生きている者との関係の中でご自身を定義されるなら、彼らもまた神の前に生きているはずだ——これがイエスの論証である。

38節の最後の一文が決定的である。「神に対しては、みなが生きているからです。」ギリシャ語でパンテス・ガル・アウトー・ゾーシン(πάντες γὰρ αὐτῷ ζῶσιν)。「彼にとっては(アウトー)」——神の側から見れば、アブラハムもイサクもヤコブも今も生きている。

この宣言は、今日の旧約通読と直接つながっている。ヨブ記1章のヨブは、天の法廷で何が起きているか知らなかった。しかし神の側から見れば、ヨブの信仰は天の法廷で証しされていた。エステル記に神の名が出てこなくても、神の側から見れば、すべての出来事を導いておられた。人間の目に見えるものと、神の目に見えるものは、根本的に異なるのである。

ダビデの子、ダビデの主——メシアの本質への問い

39節で律法学者が「先生、りっぱなお答えです」と認めた後、今度はイエスのほうから問いを投げかけられる。

「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。』こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」(41〜44節)

引用されているのは詩篇110:1である。ヘブライ語原文では「ヤハウェはアドニーに言われた」となっている。最初の「主(ヤハウェ)」は神ご自身、二番目の「私の主(アドニー)」はダビデがメシアに対して使った敬称である。

イエスの問いの核心はこうだ。イスラエルの文化では、父祖は子孫より上位である。ダビデは王であり、イスラエル最大の英雄である。そのダビデが、自分の子孫であるはずのメシアを「私の主」と呼んでいる。子孫が父祖より上位であるとは、どういうことか。

答えは、メシアが単なるダビデの子孫ではないことにある。人性においてダビデの子、神性においてダビデの主。この二重性こそ、受肉の神学の核心である。ダビデの子孫として人間の体を取り、同時に万物の主として神の右の座に着かれる方——それがイエス・キリストである。

サドカイ人は復活を否定することで、神の力を過小評価した。群衆は「ダビデの子」という称号にメシアを閉じ込めることで、メシアの本質を過小評価した。どちらも、見えるもの・知っているものの範囲内でしか神を理解できなかった。

律法学者への警告——見えを飾る信仰の空虚さ

45〜47節は、この章の結びにふさわしい警告である。

「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。」(46〜47節)

「長い衣」はギリシャ語でストレー(στολή)、祭司や高位の者が着る正装である。彼らが好んだのは、人の目に見える敬虔さであった。広場でのあいさつ、会堂の上席、宴会の上座——すべて人前での評価に関わるものである。

そして最も厳しい告発が「やもめの家を食いつぶし」である。社会的に最も弱い立場にある寡婦から搾取しながら、「見えを飾るために長い祈りをする」。出エジプト23章の律法が禁じていたまさにその行為——弱者への不正義を、宗教的外見で覆い隠すこと——を、律法の専門家である彼ら自身が行っていた。

47節の「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」は、ギリシャ語でペリッソテロン・クリマ(περισσότερον κρίμα)。「より大きな裁き」。律法を知っている者は、知らない者より重い責任を負う。知識は特権であると同時に、より厳しい基準で裁かれる根拠でもある。

これは、聖書を深く学ぶ私たちすべてにとっての警告でもある。知識が増すほど、それが生活の中で実を結んでいるかが問われる。ヨブは律法を持たなかったが、その生き方が神の証言を得た。律法学者たちは律法を熟知していたが、その生き方が裁きの対象となった。信仰の真価は、知識の量ではなく、見えないところでの誠実さによって測られる。

第四部:全体の一貫性 — 見えないものの中にある神の真実

「天の法廷で証しされるもの」

今日の通読箇所——出エジプト記23章、エステル記10章、ヨブ記1章、ルカの福音書20章27〜47節——は、時代も文脈もまったく異なる四つのテキストである。しかしこれらを並べて読む時、一本の糸が浮かび上がる。神は見えない領域で決定的なことをしておられ、見えるものだけで判断する者は必ず誤るという真実である。

四つの「見えない領域」

出エジプト23章が扱っているのは、見えない動機の問題である。裁判において、外から見える行為だけでなく、その奥にある偏見、わいろ、悪意を神は見ておられる。「わいろは聡明な人を盲目にし」(8節)——人間の目を曇らせるものを、神の目は見通される。

エステル記10章が証言するのは、見えない摂理である。書全体を通して神の名は一度も記されない。しかしハマンの陰謀の挫折、モルデカイの高挙、ユダヤ民族の救済——すべての出来事の背後に、名前を記さない神の手が確かに動いていた。

ヨブ記1章が明かすのは、見えない法廷である。天ではハッサーターン(告発者)がヨブの信仰の動機を告発し、神がそれに応答しておられた。しかしヨブ自身は、自分の人生を左右するこの天の対話を一切知らない。知らないまま、苦難の中で神を礼拝した。

ルカ20章が突きつけるのは、見えない現実である。サドカイ人は復活を否定した。彼らにとって、死んだ者は死んだ者であり、目に見える現実がすべてであった。しかしイエスは「神に対しては、みなが生きている」と宣言された。人間の目に見える「死」と、神の目に映る「いのち」は、まったく異なるのである。

告発と弁護——法廷のモチーフ

今日の四箇所を結ぶもう一つの糸は、法廷というモチーフである。

出エジプト23章は、地上の法廷における正義を命じている。偽りの証言、悪意ある証人、裁きの歪み——これらは共同体の法廷を腐敗させるものとして禁じられた。ヘブライ語のエード・ハマース(עֵד חָמָס, 悪意ある証人)は、法廷における最も危険な存在である。

ヨブ記1章では、舞台が天の法廷に移る。ハッサーターンは天の法廷における検察官として、ヨブの信仰の動機を告発する。「ヨブはヒンナーム(ただで)神を恐れましょうか」——この告発は、出エジプト23:1が禁じる「悪意ある証言」の天的な版である。ヨブの信仰の真実を、利害関係にすり替えようとしている。

ルカ20章では、サドカイ人と律法学者がイエスを試す。彼らもまた、一種の法廷でイエスを告発しようとしている。しかしイエスの答えによって、告発者が沈黙させられる(40節「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった」)。

そしてエステル記は、ペルシャの宮廷という政治的法廷の中で、ハマンの告発(ユダヤ人絶滅の訴え)が覆され、モルデカイが義と認められる物語である。

四つの書すべてにおいて、正しい者が不当に告発され、しかし最終的に神が正しい裁きを下されるという構造が見られる。出エジプト23:7の「わたしは悪者を正しいと宣告することはしない」という神の宣言は、この四書すべてに響いている。

ヒンナームの信仰——無償の献身

サタンの問い「ヨブはヒンナーム(חִנָּם, ただで)神を恐れましょうか」は、ヨブ記だけの問いではない。これは聖書全体を貫く問いである。

出エジプト23章の三大例祭の規定に、「だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない」(15節)とある。イスラエルは神の前に手ぶらで来ることを禁じられた。しかしこれは神が「見返り」を要求しているのではない。神はすでにエジプトからの解放という決定的な恵みを与えておられた。捧げものは、すでに受けた恵みへの応答である。

ヨブはすべてを失った後で「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白した。これは恵みへの応答ですらない。恵みが取り去られた後での、なおも変わらない信頼である。ヨブの信仰は、サタンが告発したような「取引としての信仰」ではなく、ヒンナームの信仰——無償の、理由なき、ただの信仰であった。

ルカ20章の律法学者たちは、この正反対に位置している。「やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをする」(47節)。彼らの信仰は「見えを飾るため」——人からの評価という報酬を得るための手段であった。まさにサタンがヨブについて告発した、取引としての信仰そのものである。

モルデカイはどうか。エステル記3:2で、モルデカイはハマンにひざまずくことを拒否した。この拒否には何の利益もない。むしろ命の危険を招いた。それでもモルデカイは自分の信仰の立場を曲げなかった。利益がなくても、危険があっても、なお正しいことを行う——これもまたヒンナームの信仰である。

見えるものの限界、見えないものの確かさ

サドカイ人は、見えるものだけを信じた。復活は見えないから信じない。天使も見えないから信じない。彼らは知的に誠実であろうとしたのかもしれない。しかしイエスは、彼らの知的誠実さそのものが聖書の誤読に基づいていたことを暴かれた。モーセ自身が、燃える柴の前で「アブラハムの神」に出会った——その出会いの中に、復活の真理がすでに埋め込まれていたのである。

ヨブもまた、見えない法廷の存在を知らなかった。自分がなぜ苦しんでいるのか、理由はまったくわからなかった。しかしヨブは見えないものに信頼した。見えない神の善意に、理解できない状況の中で、なお自分を委ねた。

エステル記の読者は、神の名を探しても見つからない。しかし物語を読み終えた時、神が最も見えない場所で最も決定的に働いておられたことを否定できる者はいない。

出エジプト23章の律法は、見えない動機の領域にまで踏み込んで正義を要求する。人間の法廷は行為しか裁けないが、神の律法は心の奥底にある偏見やわいろの誘惑にまで光を当てる。

現代の私たちへの問い

今日の四つの箇所は、現代を生きる私たちに同じ問いを投げかけている。

あなたは見えるものだけで判断していないか。状況が悪く見える時、神は不在だと結論づけていないか。祈りが聞かれない時、信仰は無駄だと感じていないか。

サタンの告発は今も響いている。「この人はただで神を恐れましょうか。祝福があるから信じているだけではないか。」この問いに対する私たちの答えは、順境の時にではなく、すべてが奪われた時に明らかになる。

しかし同時に、今日の箇所は深い慰めをも与えている。あなたの信仰は、あなたが知らない場所で証しされている。天の法廷で、神はあなたの名を呼び、あなたの忠実さを知っておられる。エステル記の神のように、名前が見えなくても、確かにあなたの物語の背後で働いておられる。

そしてイエスが宣言された通り、「神に対しては、みなが生きている」。私たちの信仰の労苦は、この世で報われなくても、神の前では一つも失われていない。

ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言った。この告白は、取引の信仰の終わりであり、ヒンナームの信仰——無償の信仰——の始まりである。

見えない法廷で、見えない神が、あなたの見える信仰を見ておられる。

* * *

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。

主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

(ヨブ記1:21)

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2026年2月17日 聖書通読 原語一覧

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2026年2月17日の聖書通読で登場したヘブライ語・ギリシャ語

ヘブライ語(旧約聖書)

原語 発音 意味
נָטָה מִשְׁפָּט ナーター・ミシュパート 裁きを曲げる・傾ける
יְעַוֵּר イェアッヴェール 盲目にする
וְיִנָּפֵשׁ ヴェインナーフェシュ 息をつかせる・魂を回復させる
נֶפֶשׁ ネフェシュ 魂・いのち
עוּץ ウーツ ウツ(ヨブの居住地)
כָּל־הַיָּמִים コル・ハッヤーミーム すべての日々(いつも)
הַשָּׂטָן ハッサーターン その告発者・敵対者(定冠詞付き)
עֵד חָמָס エード・ハマース 悪意ある証人・暴力的な証人
חִנָּם ヒンナーム ただで・理由なく・無償で
יְהוָה נָתַן ヤハウェ・ナータン 主は与えた
יְהוָה לָקָח ヤハウェ・ラーカハ 主は取られた
תִּפְלָה ティフラー 愚痴・的外れな言葉・不当な非難
דֹּרֵשׁ טוֹב ドレーシュ・トーヴ 善・幸福を求める
דֹּבֵר שָׁלוֹם ドベール・シャローム 平和を語る
שָׁלוֹם シャローム 平和・完全さ・充足・回復

ギリシャ語(新約聖書)

原語 発音 意味
ἰσάγγελοι イサンゲロイ 天使に等しい
πάντες γὰρ αὐτῷ ζῶσιν パンテス・ガル・アウトー・ゾーシン 彼にとっては皆が生きている
στολή ストレー 長い衣・正装
περισσότερον κρίμα ペリッソテロン・クリマ より大きな裁き

ヘブライ語 16語 / ギリシャ語 4語 / 計 20語

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