——時を越えて届く言葉——
通読箇所:申命記9章1節〜6節/エレミヤ書46章・47章/テサロニケ人への第一の手紙3章
四十年前、彼らを震え上がらせた巨人がいました。その名はアナク人。「われわれは自分の目にはいなごのようだ」——斥候たちはそう報告し、民は一晩中泣きました。
では、この巨人たちは、その後どうなったのでしょうか。
驚くべきことに、彼らの名前ははるか後の時代になってから、もう一度だけ聖書に現れます。しかも、モーセとは何の関係もないように見える、預言者エレミヤの口から。
今日の三つの箇所は、その一本の糸で静かにつながっています。
| ※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。 |
| 【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。 |

第一部 トーラー——「あなたが正しいからではない」
四十年前の恐怖の報告書を、そのまま読み上げる
申命記9章は、独特の呼びかけで始まります。
イスラエルよ、聞きなさい。あなたは、きょう、ヨルダンを渡って行って、あなたよりも大きく、かつ強い国々を取ろうとしている。(9章1節)
「イスラエルよ、聞きなさい」——ヘブライ語ではシェマ・イスラエル。ユダヤ人が今日に至るまで、朝と夕に唱え続けている信仰告白(申命記6章4節)と同じ書き出しです。この言葉が出てくるとき、聞き手は姿勢を正しました。これから語られるのは、聞き流してよい話ではない、という合図だからです。
そして続く言葉が、実に意外です。
その町々は大きく、石がきは天に達している。その民は、あなたの知っているアナクびとの子孫であって、大きく、また背が高い。(9章1〜2節)
これは四十年前の斥候の報告と、ほとんど同じ内容です。民数記13章で、カナンを偵察してきた十人の斥候はこう言いました。「その町々は堅固で非常に大きい」「そこでネフィリムの子孫であるアナクびとを見た」「われわれは自分の目には、いなごのように思われた」(民数記13章28・33節)。
この報告を聞いた民は一晩中泣き、エジプトへ帰ろうと言い出し、その結果として荒野で四十年を過ごすことになりました。恐怖の報告書。世代がまるごと入れ替わる原因となった、あの言葉です。
ところがモーセは、その恐怖の報告を否定しません。「あの話は大げさだった」とも「巨人など本当はいない」とも言わない。むしろ「あなたはまた『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と人の言うのを聞いた」(2節)と、当時の民の言葉をそのまま引用してみせるのです。
聖書は、恐れの対象を小さく見せることで人を慰めるという方法を、ここで使いません。
比較の相手を、入れ替える
代わりにモーセが置くのは、たった一行です。
あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれる(9章3節)
「焼き尽くす火」——ヘブライ語でエーシュ・オクラー。「エーシュ」が火、「オクラー」は「食べる」という動詞から来た言葉です。つまり直訳すれば「食べる火」。何かを焦がすだけの火ではなく、対象を残さず飲み込んでしまう火。この表現は申命記4章24節にも出てきて、そこでは「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神である」と語られています。
ここで起きているのは、比較の相手の入れ替えです。
天に届く城壁と、自分の身長を比べれば、絶望しかありません。巨人と自分を並べれば、いなごです。しかしモーセは、城壁と巨人を「焼き尽くす火」の隣に置き直しました。すると、城壁の高さは変わらないのに、その意味が変わります。
さらに注目したいのは、「あなたの前に進まれる」という言葉です。ヘブライ語ではオヴェール・レファネイハ。「オヴェール」は「渡る・越えて行く」という動詞で、1節の「ヨルダンを渡って行って」と同じ言葉が使われています。
つまりこの章はこう語っているのです。ヨルダン川を渡るのはあなたがただが、先に渡るのは主である、と。民が渡るのではなく、民は「渡られた後を歩く」。この語順が、この章全体の主題を先取りしています。
三度繰り返される「あなたが正しいからではない」
そして4節から6節にかけて、申命記全体でも屈指の、容赦のない言葉が三度繰り返されます。
あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。(4節)
あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。(5節)
あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。(6節)
一度でも十分伝わる内容を、三回。しかも三回目には「あなたは強情な民である」という一言が付け加えられます。
「正しい」と訳されている言葉は、ヘブライ語でツェダカー。義、正義、正しい行い、という意味の名詞です。旧約聖書でとても重要な語で、後の預言書では「主は我らの義」(エレミヤ23章6節)のように、神ご自身を指す言葉としても使われます。ここでモーセは、その「ツェダカー」を民から徹底的に取り上げているのです。
5節の「心がまっすぐ」はヨシェル・レヴァヴ。「ヨシェル」がまっすぐさ・公正さ、「レヴァヴ」が心。二語で「心の直さ」を表します。行いも動機も、どちらも根拠にならない、という二重の否定です。
そして6節の「強情な民」は、有名なアム・ケシェー・オレフ。「アム」が民、「ケシェー」が硬い、「オレフ」がうなじ。「うなじの硬い民」です。これは農耕の比喩で、牛に軛をつけて畑を耕すとき、御者が向きを変えようとしても首が硬くて曲がらない牛のこと。頑固というより、方向転換ができないというニュアンスです。
では、理由は何なのか
正しさが理由でないなら、なぜ土地は与えられるのか。申命記は、理由を二つだけ挙げます。
理由その一——「この国々の民が悪いから」(4節・5節)。
これは創世記15章に遡ります。神はアブラハムに、子孫が四百年間よその国で苦しむと告げた後、こう言われました。「アモリ人の悪がまだ満ちないからである」(創世記15章16節)。神は四百年待ったのです。裁きは気まぐれではなく、限界まで猶予された末の結論でした。
理由その二——「先祖への誓いを果たすため」(5節)。
これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
土地が与えられる根拠は、生きている世代の側には一つもありません。根拠はすべて、四百年前に神が一方的に立てた約束の側にあります。
ここで注目したいのは、この章の順序です。まず「これから巨人と戦う」(1〜3節)、次に「あなたの正しさは理由ではない」(4〜6節)。戦いに勝つ前に、勝利の解釈を先に禁止しているのです。
人は、勝った後に理由を作ります。「うまくいったのは、自分が正しかったからだ」と。モーセはその物語が生まれる前に、先回りして封じました。そしてこの直後の7節から、金の子牛の事件が延々と語られ始めます。「あなたが正しいからではない」という宣言の、これ以上ないほど具体的な証拠として。
【図解①】申命記9章の論理構造——「与えられる理由/与えられない理由」の対比
第二部 旧約——世界が動いた年と、時を越えて呼ばれた名前
まず、エレミヤ書の地図を持とう
エレミヤ書が読みにくいと感じる方は、決して少なくないと思います。その最大の理由は、書かれている順番と、出来事の起こった順番が一致していないことにあります。
そこで、まず全体の地図を持っておきましょう。エレミヤ書は大きく四つの部屋に分かれています。
第一の部屋(1章〜25章)——ユダへの警告。「北から災いが起こる」という主題が繰り返されます。
第二の部屋(26章〜45章)——エレミヤ自身の受難の記録。逮捕され、投獄され、泥の穴に投げ込まれる伝記部分です。
第三の部屋(46章〜51章)——諸国民への裁きの預言。今日、私たちはここに入りました。
付録(52章)——エルサレム陥落の歴史記録。
つまり今日から、エレミヤ書は新しい大きな部屋に入ったところです。ここまで「ユダよ、ユダよ」と語り続けてきた預言者が、突然カメラを引いて、地中海世界全体を見渡し始めます。
その順番も見事です。エジプト(46章)から始まり、ペリシテ、モアブ、アンモン、エドム、ダマスコ、ケダル、エラムと周辺諸国を一巡し、最後に最大の敵バビロン(50〜51章)で終わります。
興味深い点として、この諸国民への預言は、ヘブライ語本文では巻末近くに、ギリシャ語訳(七十人訳)では25章の直後に置かれています。25章には「主の怒りの杯を諸国民に飲ませよ」という場面があり、その杯を飲む国々のリストが、まさにこの46章以降の内容と対応するからです。実は七十人訳のエレミヤ書はヘブライ語本文より一割以上短く、二つの本文は異なる編集の歴史を経てきたと考えられています。どちらの配置にも読み方としての筋が通っているところが、興味深い点です。
【図解②】エレミヤ書の四つの部屋——構造図
一行に凝縮された、古代オリエントの大転換
さて、46章2節をもう一度読んでみてください。
エジプトの事、すなわちユフラテ川のほとりにあるカルケミシの近くにいるエジプトの王パロ・ネコの軍勢の事について。これはユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年に、バビロンの王ネブカデレザルが撃ち破ったものである。(46章2節)
一見、退屈な地名と人名の羅列です。しかしこの一行は、古代オリエントの覇権が入れ替わった瞬間を記録しています。
紀元前605年、カルケミシュの戦い。
ここに至るまでの流れを追ってみましょう。
紀元前612年——三百年にわたって世界を恐怖で支配したアッシリア帝国の首都ニネベが陥落します。ヨナが遣わされたあの町です。帝国は瀕死の状態となり、残党が西へ逃れました。
紀元前609年——エジプトの王パロ・ネコが軍を率いて北上します。目的は、瀕死のアッシリアを助けること。強大なバビロンが台頭してくるより、弱ったアッシリアを生かしておいたほうがよいという計算でした。そしてその通り道で、南ユダの善王ヨシヤがメギドで迎え撃ち、戦死します。
ヨシヤの死後、民は三男エホアハズを王としましたが、ネコはわずか三か月で彼を廃してエジプトへ連行し、兄エホヤキムを傀儡として立てました。この時点で、ユダはエジプトの属国になっていたのです。
紀元前605年——そして、カルケミシュ。バビロンの王子ネブカデネザルがユーフラテス川のほとりでエジプト軍を粉砕します。パロ・ネコは命からがら本国へ逃げ帰りました。
ネブカデネザルはそのままシリア・パレスチナ一帯を制圧していきます。エルサレムもこの過程で服属し、ダニエルたちが連れて行かれた第一次捕囚が起こりました。そして遠征の最中に父の訃報が届き、彼は急ぎバビロンへ戻って王位につきます。
つまり46章は、当時のユダの人々にとって、こう響いたはずです。
「お前たちが頼りにしてきた後ろ盾は、もう存在しない」
これはエレミヤ書全体を貫く一本の芯でもあります。ユダは最後まで「バビロンが怖い、ではエジプトに助けてもらおう」という外交をやめられませんでした。イザヤはそれを折れた葦の杖と呼んでいます。寄りかかった瞬間に折れて、手のひらを突き刺す杖(イザヤ36章6節、列王紀下18章21節)。46章は、その杖が実際にへし折れる音の記録なのです。
【図解③】カルケミシュへの道——紀元前612年〜586年の年表
46章を三つの場面で読む
長い詩ですが、場面が三つに分かれているだけだと分かれば、ぐっと読みやすくなります。
場面① 1〜12節——威勢のいい出陣と、突然の潰走
大盾と小盾とを備え、進んで戦え。騎兵よ、馬を戦車につなぎ、馬に乗れ。かぶとをかぶって立て。ほこをみがき、よろいを着よ。(3〜4節)
まるで軍歌のような号令です。装備を並べ、士気を上げ、隊列を整える。ところが5節で、映像が突然切り替わります。
わたしは見たが、何ゆえか彼らは恐れて退き、その勇士たちは打ち敗られ、あわてて逃げて、うしろをふり向くこともしない(5節)
準備万端の描写のすぐ隣に、潰走の映像を置く。この落差そのものがメッセージです。装備が足りなかったのではない、訓練が甘かったのでもない、と。
7〜8節の「ナイル川のようにわきあがる」という表現も味わい深いところです。ナイルの増水はエジプトに毎年命をもたらす、彼らの誇りそのものでした。その誇りの比喩がそのまま、溢れ出して他国を飲み込もうとする傲慢の比喩に転じています。
そして11節。
おとめなるエジプトの娘よ、ギレアデに上って乳香を取れ。あなたは多くの薬を用いても、むだだ。あなたは、いやされることはない。(11節)
ギレアデの乳香は、古代世界で最も名の知れた薬でした。ヨルダン川東岸の丘陵地で採れる樹脂で、傷薬として珍重され、国際交易品でもありました。なお「乳香」と訳されていますが、原語は東方の博士がささげた乳香(フランキンセンス)とは別の語で、ギレアデ産の薬用樹脂・バルサムを指します。
ここで注目したいのは、この言葉をエレミヤが以前どこで使ったかです。
ギレアデに乳香があるではないか。その所に医者がいるではないか。それにどうしてわが民の娘は、いやされることがないのか。(8章22節)
自分の同胞に向かって、泣きながら語った言葉です。それを今度は、敵国エジプトに向けて語っている。しかも語彙は嘆きのまま。エレミヤは、裁きを語りながら一度も「ざまあみろ」と言わない預言者なのです。
場面② 13〜24節——バビロンがエジプト本土へ
ここで舞台が移ります。ミグドル、メンピス(メンフィス)、タパネス——エジプト国内の町の名が並びます。
背筋が寒くなるのは、この三つの町が、後にエレミヤ自身が連れて行かれる場所だということです(44章1節)。エルサレム陥落後、彼は自らの意志に反してエジプトへ連行されました。自分が語った預言の成就する土地に、預言者本人が立たされることになるのです。
15節に、不思議な一節があります。
なぜ、アピスはのがれたのか。あなたの雄牛は、なぜ立たなかったのか。それは主がこれを倒されたからだ。(15節)
アピスは、メンフィスで礼拝されていた聖なる雄牛の神です。額に白い三角の斑紋を持つ黒い雄牛が「アピスの化身」として選ばれ、生きたまま神殿で飼われ、贅を尽くした世話を受けました。死ぬとミイラにされ、巨大な地下墓所に石棺で葬られたことが、考古学的にも確認されています。
なお、ヘブライ語本文は「あなたの強い者(雄牛)は、なぜ流し去られたのか」とも読めます。ギリシャ語訳が、エジプトでは雄牛といえばアピスであるという文化背景から、これを神の名として訳しました。口語訳はその伝統を受け継いでいます。
いずれにせよ問いは同じです。「あなたの雄牛は、なぜ立たなかったのか」——国家の守護神が、立てない。
そして20節では、エジプト自身が牛に喩えられます。
エジプトは美しい雌の子牛だ、しかし北から、牛ばえが来て、それにとまった。(20節)
「牛ばえ」と訳された言葉は、旧約聖書の中でここにしか出てこない珍しい語で、その意味は確定していません。アブ、吸血バエ、刺す虫——現代の翻訳も分かれています。ただ共通しているのは、刺す小さな虫というイメージです。
神々しい聖牛が、虫一匹にたかられて苛立ち、暴れる家畜として描かれる。この落とし方は痛烈です。
17節の奇妙なあだ名も見ておきましょう。
エジプトの王パロの名を、『好機を逸する騒がしい者』と呼べ。(17節)
原語では音の遊びになっています。「騒音・空騒ぎ」を意味する言葉と、「定めの時を過ぎ去らせた」という句を組み合わせた、あだ名のような表現です。「大音量だけの男、時を逃した男」。パロという称号の重々しさに、笑いのような軽さをぶつけているのです。
場面③ 27〜28節——裁きの真ん中に置かれた慰め
そして、諸国への裁きの列の中に、突然これが挟まります。
わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、イスラエルよ、驚くことはない。……わたしはあなたを追いやった国々をことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従って、あなたを懲らしめる、決して罰しないではおかない。(27〜28節)
これは30章10〜11節とほぼ同じ言葉の反復です。エジプトへの裁きの文脈に、神の民への約束が「異物」のように埋め込まれている。
しかも「懲らしめないわけではない、無罪放免にはしない」と、正直に付け加えられます。甘やかしではない。しかし絶滅でもない。この線引きが、今日の他の箇所とも深くつながってきます。
47章——「アナクびとの残りの民よ」
47章はわずか7節の短い章です。しかし今日の通読において、ここが最も重要な場所かもしれません。
見よ、水は北から起り、あふれ流れて、この地と、そこにあるすべての物、その町と、その中に住む者とにあふれかかる。(2節)
「北から」——エレミヤ書の第一声、召命の場面での言葉が「北から災いが起こる」(1章14節)でした。四十年語り続けたモチーフが、ここでも鳴っています。平地に住むペリシテ人にとって、洪水は実感のある恐怖でした。
そして3節。
そのたくましい馬のひずめの踏み鳴らす音のため、その戦車の響きのため、その車輪のとどろきのために、父はその手が弱くなって、自分の子をも顧みない。(3節)
戦車の轟音のただ中で、父親が振り返れない。手を伸ばせない。軍事描写の中に、一組の親子を差し込む——エレミヤの筆は、こういうことをします。敵国の父と子であっても。
4節のカフトルはクレタ島、またはエーゲ海地域を指すと考えられています。ペリシテ人は「海の民」と呼ばれた移住者で、彼ら自身がかつて海を渡ってきた人々でした(アモス9章7節、創世記10章14節)。来た海の方角から、滅びが来る。
そして5節です。
ガザには髪をそることが始まっている。アシケロンは滅びた。アナクびとの残りの民よ、いつまで自分の身に傷つけるのか。(5節)
ここです。
今日の第一部、申命記9章2節に出てきた、あのアナク人です。
ヨシュア記11章22節に、こう記されています。「アナクびとは、イスラエルの人々の地には、ひとりも残っていなかった。ただガザ、ガテ、アシドドにだけ、少し残っていた」。
つまり、モーセが「恐れるな」と語ったあの巨人たちは、ペリシテの地に生き残っていたのです。ダビデが倒したゴリアテがガテの出身であったこと(サムエル記上17章4節)、その後もガテには巨人族の子孫がいたこと(サムエル記下21章15〜22節)も、この線上にあります。
そして今、エレミヤの口で、彼らの名がもう一度呼ばれます。しかもガザ——ヨシュア記11章22節で、アナク人が生き残った町として名指しされた、まさにその町の名とともに。
モーセの時代から、王国が滅びる直前まで。実に長い時間が流れています。それでも、言葉は失効していませんでした。
なお、この「アナクびと」という読みはギリシャ語訳に基づくものです。ヘブライ語本文は「彼らの谷の残りの者」と読めます。ギリシャ語訳の訳者が別系統の本文を用いたのか、あるいはそう理解したのか——これは今日でも決着のついていない問題です。
「自分の身に傷つける」というのは、異教の哀悼儀礼です。近親者や国家の死を嘆くとき、体に切り傷をつけ、髪を剃った。レビ記19章28節、申命記14章1節でイスラエルに厳しく禁じられていた行為が、ここでは滅びゆく民の姿として描かれています。
剣に向かって叫ぶ預言者
47章の結びは、預言者の絶叫です。
主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。(6節)
裁きを語っている本人が、その裁きに向かって「もうやめてくれ」と叫んでいる。
そして剣が答えます。
主がこれに命を下されたのだ、どうして静かにしておれようか。(7節)
ここに、神の言葉を取り次ぐ者の、引き裂かれた立ち位置があります。エレミヤは神の側に立ちながら、人間の側で泣いている。「涙の預言者」と呼ばれる理由は、同胞のためだけに泣いたからではありません。敵のためにも泣いたからです。
第三部 新約——「あなたがたが立つなら、わたしたちは生きる」
アテネに、一人で残るという決断
第一テサロニケ3章は、静かに始まりますが、その静けさの下に相当な緊張があります。
そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。(1〜2節)
背景を確認しておきましょう。パウロは第二回伝道旅行でテサロニケに福音を伝えましたが、わずか数週間で暴動が起こり、夜のうちに町を脱出せざるを得ませんでした(使徒行伝17章)。生まれたばかりの、生後一か月にも満たない教会を置き去りにする形になったのです。
その後、ベレヤでも追われ、パウロはアテネへ。そしてここで、彼は決断します。手元に残っていた同労者テモテを、テサロニケへ送り返す、と。
これは簡単な決断ではありません。アテネはギリシャ思想の中心地で、パウロはそこでアレオパゴスの説教をすることになります。あの困難な場所で、彼は一人になることを選びました。
「これ以上耐えられなくなって」——この言葉が1節と5節に二度出てきます。原語では「もはや我慢しきれず」「持ちこたえられなくなって」という意味の動詞で、屋根が雨漏りを防ぎきれなくなるような、覆いきれなくなる状態を表す言葉です。
パウロは、平静ではなかったのです。
「患難に会うように定められている」
3節に、現代の私たちがつまずきやすい一文があります。
このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。(3節)
「動揺する」と訳された言葉は、新約聖書でここにしか出てこない珍しい語です。もともとは犬が尻尾を振るという意味の動詞で、そこから「揺すぶられる」「心が揺らぐ」という意味に広がりました。地面が揺れるのではなく、心が揺すられる感覚。
そして「定められている」。「横たわる・置かれている」という意味の動詞が使われており、すでにそこに配置されているというニュアンスがあります。
パウロは患難を、事故として語りません。避けられたはずの不運としても語らない。「そういうものとして、あらかじめ置かれている」と語ります。しかも4節では、それを前もって伝えてあったと念を押します。
あなたがたの所にいたとき、わたしたちがやがて患難に会うことをあらかじめ言っておいた(4節)
数週間の滞在で、パウロは「信じれば楽になる」とは語らなかったのです。むしろ苦しみが来ることを、先に教えていた。
「試みる者」という名前
5節に、もう一つ重要な表現があります。
もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって(5節)
「試みる者」——これはサタンを指す呼び名です。マタイ4章3節で、荒野のイエスに近づいた者も同じ言葉で呼ばれています。
注目したいのは、パウロが敵の存在を具体的に想定していることです。テサロニケの信徒が信仰から落ちるかもしれない理由を、彼らの意志の弱さや熱意不足に帰していません。攻撃する何者かがいる、という前提で心配している。
そして「わたしたちの労苦がむだになりはしないか」。パウロほどの人が、自分の働きが無になる可能性を本気で恐れている。この率直さは、かえって信頼できます。
パウロが生きる条件
そして、この章の頂点が8節です。
なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。(8節)
パウロの「生きる」が、テサロニケの信徒たちの信仰にかかっている。
これは修辞的な誇張ではないと思います。7節で彼は「あらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた」と書いています。慰めたのは、パウロ自身の状況の好転ではありません。遠くの誰かが立っているという知らせでした。
コリントで書かれたこの手紙の時期、パウロの状況は決して良くありませんでした。アテネでの説教は大きな実を結ばず、コリントでも苦戦していた。その彼を生かしたのが、テモテの持ち帰った吉報です。
あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え……わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。(6節)
「吉報」——この言葉は、新約聖書ではほとんどの場合「福音」と訳される単語です。文字通りには「良い知らせ」。パウロがこの語を、福音伝道以外の意味で使うのは珍しいことです。自分が伝えた福音の実りの報告を受け取ったとき、彼はそれを「良い知らせ」と呼びました。福音を語った人のところへ、福音が返ってくる。
清くするのは、誰か
章の結びは祈りです。ここに、今日の第一部と直結する一点があります。
どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを……増し加えて豊かにして下さるように。そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。(12〜13節)
主語を確認してください。
「愛し合いなさい」ではなく「主が、愛を増し加えてくださるように」。
「清くなりなさい」ではなく「主が、清くしてくださるように」。
命令形ではなく、願望形です。パウロは信徒に努力を命じる代わりに、神に向かって祈っている。
申命記9章の「あなたが正しいからではない」が、ここで完成しています。土地を得る根拠が民の義でなかったように、キリストの前に立つ根拠も、信徒自身の清さではない。神が清くしてくださるという一点にかかっています。
13節の「こられる時」は、パルーシアという語です。もともとは王や高官が都市を公式訪問する際の「到着・臨在」を指す言葉で、その際は市民が城門の外まで出迎えに行きました。パウロはこの言葉を、主イエスの再臨を表す語として繰り返し用います。
なお「すべての聖なる者と共に」の「聖なる者」が、天使を指すのか、主と共に来る信仰者たちを指すのかは、古くから解釈が分かれています。旧約では「主が聖なる者たちと共に来られる」(ゼカリヤ14章5節)が天使を指すことが多く、一方でパウロは信仰者を「聖徒」と呼ぶことも多いためです。近年の注解では天使と理解する立場がやや多いようですが、再臨のときに主と共に来る聖徒と読む立場も根強く、決着はついていません。
そして第一テサロニケは、この後4章で有名な再臨の記述へと進んでいきます。3章の結びは、そのための伏線でもあるのです。
テモテという人
最後に、この章の陰の主役に触れておきたいと思います。
テモテは、パウロがリステラで見出した若い弟子でした。ギリシャ人の父とユダヤ人の母を持ち、体が弱かったことも知られています(テモテヘの第一の手紙5章23節)。パウロは彼をキリストの福音における神の同労者と呼びました(2節)。
危険な町へ、若く体の弱い弟子を単独で送り返す。パウロにとっても、テモテにとっても、これは重い任務でした。
しかしテモテは行き、そして帰ってきました。彼が持ち帰った報告が、パウロを生かした。
教会は、こうして生き延びてきたのだと思います。誰かが送り出され、誰かが立ち続け、その知らせが、別の場所で消えそうになっている誰かを支える。
第四部 全体の一貫性——期限切れにならない言葉
アナクびとの、長い道のり
今日の三つの箇所を並べたとき、最も鮮やかに浮かび上がるのは、一つの民族の名前が聖書の中でたどった道筋です。
モーセの時代——ヨルダン川の東岸で、モーセは民に語ります。「アナクびとの子孫であって、大きく、また背が高い」(申命記9章2節)。四十年前、この名を聞いた世代は泣き崩れ、エジプトへ帰ろうと言い出しました。今、その子どもたちが、同じ名を前にして立っています。
ヨシュアの時代——征服が終わり、記録はこう記します。「アナクびとは、イスラエルの人々の地には、ひとりも残っていなかった。ただガザ、ガテ、アシドドにだけ、少し残っていた」(ヨシュア記11章22節)。恐怖の対象だった巨人族は、ペリシテの町々にわずかに生き残りました。
ダビデの時代——「ガテのゴリアテ」(サムエル記上17章4節)。イスラエルの陣営を四十日にわたって嘲った巨人は、ヨシュアの記録が名指しした三つの町の一つから出てきました。その後もガテには巨人の子孫がいたことが記されています(サムエル記下21章15〜22節)。
エレミヤの時代——そして、王国が滅びようとしている時代に、預言者の口が最後にその名を呼びます。「アナクびとの残りの民よ」(エレミヤ47章5節)。しかも、ガザという町の名とともに。ヨシュア記が「そこにだけ残っていた」と記した、まさにその町です。
モーセからエレミヤまで、実に長い時間が流れています。王が二十人以上入れ替わり、王国は分裂し、預言者が何人も立っては去っていきました。それでも、言葉は失効していませんでした。
【図解④】アナクびとの道のり——モーセからエレミヤまでの縦の年表
これは、通読を続けている人にしか見えない景色だと思います。申命記だけを読んでも見えない。エレミヤ書だけを読んでも見えない。両方を、順番に読んだ人の中でだけ、線がつながります。
子牛は、どこから来たか
もう一本、今日の箇所を貫く線があります。
申命記9章は、6節までで「あなたが正しいからではない」と宣言した直後、7節以降で金の子牛の事件を延々と語り始めます。今日の通読範囲の、すぐ先です。
その子牛は、どこから来たのでしょうか。イスラエルの民が発明したものではありません。彼らが四百年暮らした土地の、宗教文化からの持ち帰りでした。エジプトでは牛が神聖な動物とされ、その頂点にいたのが、メンフィスの聖なる雄牛アピスです。
そしてエレミヤ46章15節。
なぜ、アピスはのがれたのか。あなたの雄牛は、なぜ立たなかったのか。それは主がこれを倒されたからだ。
イスラエルが真似た偶像の、本家が倒れる。
さらに20節では、エジプトそのものが「美しい雌の子牛」と呼ばれ、北から来た一匹の虫に苛立って暴れる家畜として描かれます。
出エジプトの十の災いが「エジプトのすべての神々に裁きを行う」ものであったこと(出エジプト記12章12節)を思い出せば、この線はさらに長く伸びます。裁きは一度で終わっていなかった。イスラエルがそこから連れ出された地の神々は、王国が滅びる時代になって、もう一度名指しされているのです。
三つの箇所を貫く、一つの文章
しかし、今日の記事の中心は、おそらくこれです。
申命記9章が三度繰り返した言葉——
あなたが正しいからではない(4節・5節・6節)
土地を得る根拠は、民の側に一つもありませんでした。理由は「他の国々の悪」と「先祖への誓い」の二つだけ。
エレミヤ46章28節も、まったく同じ論理の上に立っています。
わたしはあなたを追いやった国々をことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない。わたしは正しい道に従って、あなたを懲らしめる、決して罰しないではおかない。
ここで神は、イスラエルの正しさに一言も触れません。むしろ「懲らしめる」「罰しないではおかない」と明言している。それでいて「滅ぼし尽くさない」。残される理由は、彼らが立派だからではない。神が約束したからです。
そして第一テサロニケ3章13節。
どうか……神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。
主語は神です。「清くなりなさい」ではなく「神が清くしてくださるように」。
三つの箇所が、同じ一つの文章を書いています。
立つ場所は与えられる。自分で勝ち取るのではない。
【図解⑤】三つの箇所を貫く「あなたが正しいからではない」の流れ
自分で勝ち取るのではない。
恐れは消えない。しかし、位置が変わる
最後に、もう一度申命記9章に戻りたいと思います。
今日の三つの箇所には、それぞれ「怖いもの」が出てきます。
イスラエルにとっては、天に届く城壁と巨人でした。ユダにとっては、北から来る軍勢と、すでに折れた葦の杖でした。テサロニケの信徒にとっては、迫害と「試みる者」でした。
聖書はこれらに対して、「大丈夫、たいしたことはない」とは決して言いません。アナク人は実際に大きく、バビロンは実際にエルサレムを焼き、テサロニケの迫害も実在しました。恐れの対象を小さく見せることによって人を慰めるという方法を、聖書は使わない。
代わりに置かれるのは、あの一行です。
あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれる(申命記9章3節)
城壁と自分の身長を比べるのをやめて、城壁と「焼き尽くす火」を並べる。恐れは消えません。しかし、位置が変わります。
そして「あなたの前に進まれる」——民が渡るのではなく、先に渡られた方の後を歩く。
エレミヤは、この立ち位置を最も苦しい形で生きた人でした。裁きを語りながら「主のつるぎよ、さやに帰れ」と叫び、敵国のために乳香の比喩を用いて嘆いた。神の側に立ちながら、人間の側で泣き続けた。
パウロも同じです。テサロニケの信徒に「患難に会うように定められている」と告げながら、その彼らが立っているという知らせによって、自分が生かされていました。
恐れが消えたから立てたのではありません。立たせてくださる方が、先に進んでおられたからです。
そして、その方の語った言葉は——モーセの時代から、王国が滅びる直前まで——一度も期限切れになりませんでした。
語彙表
ヘブライ語(申命記9章・エレミヤ書46〜47章)
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| שְׁמַע | シェマ | 聞け、聞き従え |
| אֵשׁ אֹכְלָה | エーシュ・オクラー | 焼き尽くす火(直訳「食べる火」) |
| עֹבֵר | オヴェール | 渡る、越えて行く |
| צְדָקָה | ツェダカー | 義、正しさ |
| קְשֵׁה־עֹרֶף | ケシェー・オレフ | うなじが硬い、強情な |
| צֳרִי | ツォリー | ギレアデ産の薬用樹脂 |
| שְׁאֵרִית | シェエリート | 残りの者 |
| עֲנָקִים | アナキーム | アナク人 |
| צָפוֹן | ツァフォーン | 北 |
| חֶרֶב | ヘレヴ | つるぎ |
ギリシャ語(テサロニケ人への第一の手紙3章)
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| στέγω | ステゴー | 覆う、持ちこたえる |
| σαίνω | サイノー | 揺すぶられる、心が揺らぐ |
| κεῖμαι | ケイマイ | 置かれている、定められている |
| θλῖψις | スリプシス | 患難(直訳「圧迫」) |
| ὁ πειράζων | ホ・ペイラゾーン | 試みる者 |
| στήκω | ステーコー | 立ち続ける |
| ἄμεμπτος | アメンプトス | 責められるところのない |
| παρουσία | パルーシア | 来臨、公式の到着 |
本記事の聖書本文は、日本聖書協会発行の口語訳聖書(1954・1955年発行)を使用しています。著作権の保護期間(財産権)は満了していますが、本文の改変は行っておりません。※聖書語句訂正一覧に該当する語句は使用しておりません。
※原語の表記・発音はClaude(AI)の支援を得てまとめています。発音はおおよそのカタカナ表記です。

コメント