導入:クリスマスに聖書を通読する意味
クリスマスおめでとうございます。
今日、私たちはキリストの御降誕を祝います。しかし、クリスマスの意味は12月25日だけに限られるものではありません。聖書全体が、イエス・キリストを指し示しているからです。
イエス様ご自身がこう言われました。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)
「モーセの律法と預言者と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ず全部成就します。」(ルカ24:44)
創世記を読んでも、列王記を読んでも、福音書を読んでも、すべてがキリストを指し示しています。毎日の通読は、毎日キリストと出会う時間であり、毎日が「クリスマス感謝します」を思い起こす機会なのです。
目次
ヘブライ語に刻まれたメシアの影
新宿シャローム教会の富田愼悟先生から、YouTubeの礼拝で興味深い霊的黙想を教えていただきました。ヘブライ文字を象徴的に読み解くと、そこにメシアの姿が浮かび上がるというものです。
※これは学術的に証明された解釈というより、霊的黙想として味わうものですが、聖書全体がキリストを指しているという真理を印象深く教えてくれます。
תּוֹרָה(トーラー):律法
- ת(タヴ)= 古代ヘブライ文字では「十字架」の形
- ו(ヴァヴ)=「釘」
- ר(レーシュ)=「頭」
- ה(ヘー)=「見よ」
→「十字架につけられた頭なるお方を見よ」
יהוה(ヤハウェ):主の御名
- י(ヨッド)=「手」
- ה(ヘー)=「見よ」
- ו(ヴァヴ)=「釘」
- ה(ヘー)=「見よ」
→「手を見よ、釘を見よ」
復活のイエス様がトマスに言われた言葉が響きます。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい」(ヨハネ20:27)。主の御名そのものに、十字架が刻まれていたのです。
בְּרֵאשִׁית(ベレシート):初めに
聖書の最初の言葉「ベレシート」は、「家」を意味する「ベイト」(בֵּית)の中に、「頭、初め」を意味する「ローシュ」(רֹאשׁ)が入っている構造になっています。
→「頭なるキリストの住まいである家」
コロサイ1:18には「キリストは教会というからだの頭です」と記されています。聖書は、頭なるキリストが住まわれる家=教会について書かれた書物でもあるのです。
ヘブライ文字に刻まれたメシアの影
聖書の言葉に隠されたキリストの啓示
トーラー(律法)
※ヘブライ語は右から左に読みます
「十字架につけられた頭なるお方を見よ」
ヤハウェ(主の御名)
※ヘブライ語は右から左に読みます
「手を見よ、釘を見よ」
ベレシート(初めに)
「頭なるキリストの住まいである家」
創世記43章:ユダの変化とヨセフの愛
飢饉の中のカナンの名産
ヤコブは息子たちに、エジプトの支配者への贈り物を持たせます。
「この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、くるみとアーモンド」(43:11)
これらが当時のカナン地方の特産品でした。
- 乳香(צֳרִי ツォリ):樹脂から作る香料、医薬品として重宝された
- 蜜(דְּבַשׁ デヴァシュ):ナツメヤシの蜜と考えられている
- 樹膠(נְכֹאת ネホート):香料の一種
- 没薬(לֹט ロート):香料・防腐剤
- くるみとアーモンド:高級なナッツ類
興味深いことに、穀物が取れない飢饉の中でも、これらの特産品は持っていくことができました。カナンは穀倉地帯ではありませんでしたが、香料や果実では豊かだったのです。
ユダの変化:売る者から保証人へ
ここで注目すべきは、ユダの劇的な変化です。
37章で、ヨセフを売ることを提案したのはユダでした。「さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう」(37:27)。しかし今、同じユダがこう言います。
「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」(43:9)
「保証人となる」は、ヘブライ語で「אָנֹכִי אֶעֶרְבֶנּוּ(アノキ・エエルヴェンヌー)」。動詞「עָרַב(アラヴ)」は「保証する、担保になる」という意味で、自分の命を差し出す覚悟の言葉です。
弟を売った者が、今度は弟の保証人となる。これはやがてユダ族から出るメシア、イエス・キリストの型です。イエス様は私たちの「保証人」となり、ご自身の命をもって私たちを贖い出してくださいました。
ヨセフの愛:恐れる者を招く
兄弟たちがヨセフの家に連れて行かれたとき、彼らは恐れました。
「われわれが連れ込まれたのは、この前のとき、われわれの袋に返されていたあの銀のためだ。われわれを陥れ、われわれを襲い、われわれを奴隷として、われわれのろばもいっしょに捕らえるためなのだ」(43:18)
しかし、管理者は彼らにこう告げます。
「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。」(43:23)
兄弟たちは「罠にはめられる」と恐れていました。しかし実際は、ヨセフは彼らを祝福しようとしていたのです。恐れている相手を、愛で包もうとしている。
これは私たちの姿でもあります。神様の愛に気づかず、裁きを恐れながら近づく。しかし神様はすでに私たちを知っておられ、宴会を準備しておられるのです。
第二列王記13-14章:契約の神の忍耐
エリシャの最後の預言:三度の限界
エリシャが死の病を患っていたとき、イスラエルの王ヨアシュが見舞いに来ます。
「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」(13:14)
かつてエリシャがエリヤに叫んだのと同じ言葉です(2:12)。王はエリシャを敬っていました。
エリシャは王に預言的行為を命じます。「矢を射なさい」「地面を打ちなさい」。王は三回打ちましたが、それでやめてしまいました。
「神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。』」(13:19)
なぜエリシャは最初から回数を言わなかったのでしょうか。これは信仰の熱心さを試すテストでした。王ヨアシュには「もっと激しく、もっと徹底的に!」という情熱が欠けていたのです。
神様は私たちの信仰の「本気度」を見ておられます。中途半端な信仰では、中途半端な結果しか得られません。
エリシャの骨に触れて復活
驚くべき出来事が記録されています。
「人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。」(13:21)
エリシャは死んでもなお、神の力を帯びていました。これはキリストの復活の予型です。死を打ち破る力が、すでに旧約時代に示されていたのです。
契約の神:アブラハム、イサク、ヤコブ
13:23に重要な言葉があります。
「主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった。」
ここで「イスラエル」ではなく「ヤコブ」と呼ばれていることに注目してください。これは国家としての契約ではなく、族長たちとの個人的・家族的契約に立ち返っているのです。
エホアハズもヨアシュもヤロブアム二世も、みな「主の目の前に悪を行った」と記されています。それでも神様は「滅ぼし尽くすことは望まなかった」。
ここに神様の痛みを伴う愛があります。裏切られ続けても、見捨てない。契約を守り続ける。これがクリスマスの神、インマヌエルの神です。
ヨナ書のヨナ
14:25に興味深い記述があります。
「それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。」
この「アミタイの子ヨナ」は、まさにヨナ書のあのヨナです。ニネベに行くことを嫌がり、タルシシュへ逃げようとした預言者。大魚に三日三晩飲み込まれた預言者です。
興味深いことに、ここではヨナはイスラエルの領土回復を預言し、それが成就しています。ヨナは自国への預言は忠実に果たしましたが、敵国ニネベへの預言は逃げようとしました。人間らしい矛盾ですが、神様はそのようなヨナをも用いられました。
モアブとの継続的な敵対
13:20には「モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた」とあります。
モアブはロトの子孫であり、イスラエルとは同胞関係にあります。ルツがモアブ人であったことを思うと、民族全体が敵だったわけではありません。しかし政治的には敵対関係が続いていました。罪の影響は世代を超えて続くという悲しい現実を、ここに見ることができます。
マルコ11章:エルサレムに入られた王
ろばに乗る王
イエス様はエルサレムに入られるとき、ろばの子に乗られました。
「まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」(11:2)
これはゼカリヤ9:9の預言の成就です。
「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」
軍馬ではなく、ろばに乗る。これは平和の王として来られたことを示しています。王なのに、へりくだって。
弟子たちへの指示も印象的です。「主がお入用なのです(ὁ κύριος αὐτοῦ χρείαν ἔχει)」。主は私たちをも「お入用」としてくださっています。私たちの小さな奉仕も、「主がお入用」だから用いられているのです。
しゅろの枝とホサナ
「すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。」(11:8)
ヨハネ12:13では、これが「しゅろ(φοίνιξ フォイニクス)の枝」であったことが明記されています。しゅろは勝利のシンボルでした。群衆はイエス様を政治的なメシア、ローマからの解放者として迎えようとしていたのです。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」(11:9)
「ホサナ」はヘブライ語「הוֹשִׁיעָה נָּא(ホシア・ナー)」から来ています。「どうか救ってください!」という意味で、詩篇118:25-26からの引用です。
群衆は救いを求めて叫んでいました。しかし彼らが求めていた「救い」と、イエス様がもたらそうとしておられた「救い」は、異なるものでした。
いちじくの木の呪い
翌日、イエス様は不思議なことをされます。
「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』」(11:13-14)
「いちじくの成る季節ではなかったのに」と私たちは疑問に思います。なぜイエス様は実のない木を呪われたのでしょうか。
いちじくの木はイスラエルの象徴として使われます(エレミヤ8:13、ホセア9:10など)。葉は茂っている(外見上は宗教的に見える)が、実がない(真の義の実がない)。
通常、いちじくは葉が出る前か同時に初なりの実(パグ)をつけます。葉が茂っているのに実がないということは、異常な状態でした。
宮清めの直前にこの出来事があるのは意図的です。神殿も「葉」(儀式)はあるが「実」(真の礼拝)がない状態だったのです。
宮清め:祈りの家
「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(11:17)
イエス様はイザヤ56:7を引用されました。注目すべきは「すべての民の祈りの家」という部分です。
当時、神殿の「異邦人の庭」で商売が行われていました。両替人や動物を売る者たちが、異邦人が祈るべき場所を奪っていたのです。神殿は本来、すべての民が神に近づける場所であるべきでした。
私たちも神の宮です(Ⅰコリント6:19)。聖霊の住まわれる神殿です。私たちの心は「祈りの家」となっているでしょうか。それとも「商売の場」、利益や自己中心で埋め尽くされていないでしょうか。
クリスマスの黙想:神が近づいてくださった
今日の三箇所を通して見えてくる共通のテーマがあります。それは**「神が近づいてくださった」**ということです。
ヨセフの物語
ヨセフは遠くエジプトの宮殿にいる支配者です。しかし彼は兄弟たちを自分の家に招き、一緒に食事をしようとします。距離を縮めようとしているのです。
契約の神
神様は「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」のゆえに、背信の民を見捨てませんでした。遠く離れていった民を、なおも追いかけ、顧みてくださいました。
エルサレム入城
ろばに乗って来られた王。天の栄光を捨て、人となってこの世界に来てくださった方。
これがクリスマスの本質です。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)
「住まわれた」は「幕屋を張られた」(ἐσκήνωσεν エスケーノーセン)という言葉です。神様が私たちのすぐ隣にテントを張って、一緒に住んでくださった。
遠くにおられた神が、近くに来てくださった。これがクリスマスです。
そして今日も、み言葉を通して、神様は私たちに近づいてくださいます。創世記を読んでも、列王記を読んでも、マルコを読んでも、そこにキリストがおられます。毎日の通読が、毎日のクリスマスなのです。
ヨセフとイエス様の並行
創世記のヨセフは、来るべきメシアの型として描かれています。今日の箇所からも、その並行関係が見えてきます。
| ヨセフ | イエス・キリスト |
| 兄弟に売られた | ユダヤ人に引き渡された |
| エジプトで高く上げられた | 復活して天に上げられた |
| 飢饉の中でパンを与える | 「わたしはいのちのパン」(ヨハネ6:35) |
| 兄弟を赦し、食事に招く | 私たちを赦し、聖餐に招く |
| 「恐れるな」と言わせた | 「恐れるな」と繰り返し言われた |
| 兄弟たちはまだ気づいていない | 多くの人がまだ気づいていない |
| ユダがベニヤミンの保証人となった | ユダ族から出たキリストが私たちの保証人となられた |
| 兄弟たちへの愛のゆえに泣いた | エルサレムを見て泣かれた |
ヨセフとイエス・キリストの並行
旧約のヨセフは、来るべきメシアの「型」として描かれています
| ヨセフ(創世記) | イエス・キリスト(福音書) |
|---|---|
|
1拒絶と裏切り
兄弟たちに憎まれ、売られた
創世記37:28
|
拒絶と裏切り
同胞のユダヤ人に拒まれ、引き渡された
マタイ27:1-2
|
|
2苦難と高挙
エジプトで苦しんだ後、高く上げられた
創世記41:41-43
|
苦難と高挙
十字架で苦しんだ後、復活して天に上げられた
ピリピ2:8-9
|
|
3いのちのパン
飢饉の中で穀物(パン)を与えた
創世記42:25
|
いのちのパン
「わたしはいのちのパンです」
ヨハネ6:35
|
|
4赦しと食卓
自分を売った兄弟を赦し、食事に招いた
創世記43:16, 45:4-5
|
赦しと食卓
私たちの罪を赦し、聖餐に招いてくださる
ルカ22:19-20
|
|
5恐れるな
「安心しなさい。恐れることはありません」と言わせた
創世記43:23
|
恐れるな
「恐れるな」と繰り返し言われた
マタイ28:10、ルカ12:32
|
|
6気づかれていない
兄弟たちはヨセフだと気づいていない
創世記42:8
|
気づかれていない
多くの人が今もキリストに気づいていない
ヨハネ1:10-11
|
|
7保証人ユダ
ユダがベニヤミンの保証人となった
創世記43:9
|
保証人キリスト
ユダ族から出たキリストが私たちの保証人となられた
ヘブル7:22
|
|
8泣いた
兄弟たちへの愛のゆえに泣いた
創世記43:30
|
泣いた
エルサレムを見て泣かれた
ルカ19:41
|
クリスマスの日に、この通読を皆さんと分かち合えることを感謝します。
聖書全体がキリストを指し示しています。トーラー(律法)も、預言書も、福音書も、すべてがあの方を証ししています。
今日、この箇所を読んで、キリストの愛に触れていただけたなら幸いです。
メリークリスマス。
クリスマス通読
創世記43章 ・ 第二列王記13-14章 ・ マルコ11章
共通テーマ:神が近づいてくださった
三つの箇所すべてが、遠くにおられた神が私たちに近づいてくださることを示しています
創世記43章1-25節
宮殿の支配者ヨセフは、遠くにいる者ではなく、兄弟たちを自分の家に招き、食事を共にしようとしました。恐れる者を愛で包み、距離を縮めようとするヨセフの姿は、キリストの型です。
- ユダが保証人となる — キリストの型
- 「安心しなさい、恐れることはありません」
- まだ気づいていない兄弟たちへの愛
第二列王記13-14章
王たちは「主の目の前に悪を行った」と繰り返し記されます。しかし神様は「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに」彼らを見捨てませんでした。背信の民をなお顧みる、痛みを伴う愛がここにあります。
- エリシャの骨に触れて復活 — 死を超える力
- 三度の限界 — 信仰の本気度
- ヨナを通した預言の成就
マルコ11章1-19節
天の栄光を捨て、ろばに乗って来られた王。群衆は「ホサナ(どうか救ってください)」と叫びました。イエス様は神殿を「すべての民の祈りの家」として回復しようとされました。
- しゅろの枝 — 勝利のシンボル
- いちじくの木 — 実のない宗教への警告
- 宮清め — 祈りの家の回復
クリスマスの本質
「住まわれた」はギリシャ語で「幕屋を張られた」(ἐσκήνωσεν エスケーノーセン)。
神様が私たちのすぐ隣にテントを張って、一緒に住んでくださった。
遠くにおられた神が、近くに来てくださった。これがクリスマスです。


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