2026年1月29日の聖書通読 心を定めて神を求める—規定を超える主の恵み—

聖書通読

—規定を超える主の恵み—

通読箇所:出エジプト記12章37節〜51節、第二歴代誌30章〜31章、ルカ10章25節〜42節

モーセ五書から新約聖書まで、三つの箇所を貫く神様のメッセージを探る記事です。まず第一部(トーラー)をお読みいただくだけでも豊かな学びが得られます。時間がある時、さらに深く学びたい時は、第二部(旧約の歴史書・預言書)、第三部(新約)へとお進みください。そうすると神様の一貫したご計画が鮮明に見えてきます。


第一部:トーラー(出エジプト記12:37-51)

出発の夜—主の軍団として

イスラエルの民がついにエジプトを出る瞬間が記されています。ラメセスからスコテへ、徒歩の壮年男子だけで約六十万人。女性や子どもを含めれば、おそらく二百万人規模の大移動です。

注目すべきは「入り混じって来た多くの異国人」(38節)の存在です。ヘブライ語で עֵרֶב רַב(エレヴ・ラヴ)、「混じり合った多くの者」という表現が使われています。過越の出来事を目撃し、イスラエルの神に従おうとしたエジプト人や他の民族がいたのです。出エジプトは最初から、イスラエル民族だけの出来事ではありませんでした。

寝ずの番をされた主

42節の「寝ずの番」(שִׁמֻּרִים シムリーム)は、「見守り」を意味する語の強調形です。詩篇121篇4節には「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない」とありますが、これは神の本質的な性質を語っています。一方、出エジプト記12章が語るのは、この特定の夜に主が特別に集中して見守られたということです。

滅びの使いがエジプト中を巡る恐ろしい夜、主ご自身がイスラエルの家々を守り通された。だからこそイスラエルも「代々にわたり、主のために寝ずの番をする」(42節)よう命じられています。主が私たちのために夜通し見守ってくださった。だから私たちも主を覚えて夜を過ごす。これが過越の夜の本質です。

軍団ごとに—霊的戦いとしての出エジプト

51節には「軍団ごとに」(עַל־צִבְאֹתָם アル・ツィヴオターム)導き出されたとあります。41節の「主の全軍団」(כָּל־צִבְאוֹת יהוה)と合わせて読むと、イスラエルは単なる難民の群れではなく、「主の軍隊」として組織された民であることがわかります。

「万軍の主」(יהוה צְבָאוֹת ヤハウェ・ツェヴァオート)という称号と同じ語根です。出エジプトは逃避行ではなく、霊的な意味での戦いの始まりでした。

エジプトはヘブライ語で מִצְרַיִם(ミツライム)、「狭い場所」「圧迫」を意味する語根に由来します。奴隷状態、抑圧、神の約束からの隔絶、自力への依存—それらすべてから解放されるためには、戦いが必要でした。私たちの心のミツライムからの脱出もまた、霊的戦いなのです。

過越の規定—誰が参加できるか

43-49節では、過越に参加できる者の規定が記されています。

  • 異国人はそのままでは参加できない(43節)
  • しかし割礼を受ければ参加できる(44, 48節)
  • 割礼を受けた寄留者は「この国に生まれた者と同じになる」(48節)
  • このおしえは「この国に生まれた者にも、寄留している者にも同じ」(49節)

ここに福音の予型があります。過越への参加は血統ではなく、契約のしるしを受け入れるかどうかで決まりました。異邦人であっても、割礼を受けて契約の民に加わるなら、完全に同じ権利を持つ。

これは後のルツ、ラハブの物語へと繋がり、最終的には新約においてキリストの血による新しい契約へと発展していきます。パウロが「割礼も無割礼も関係なく、キリストにあってすべての者が一つ」と語る土台が、すでにここにあるのです。

種なしパンの意味

39節では、パン種を入れる時間がなかったので種なしパンを焼いたとあります。これは歴史的事実であると同時に、霊的な意味を持ちます。パン種は聖書でしばしば「罪」「偽善」「悪い教え」の象徴として使われます(マタイ16:6、第一コリント5:6-8)。

エジプトから出る時、古いパン種を持ち出す余裕はなかった。新しい出発には、古いものを置いていく決断が伴います。急いで出なければならなかった—それは制約であると同時に、恵みでもありました。


第二部:旧約(第二歴代誌30-31章)

ヒゼキヤの過越復興—分裂した民への呼びかけ

ヒゼキヤ王の時代、イスラエルは南北に分裂してすでに約二百年が経過していました。北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ(紀元前722年頃)、民の多くは捕囚として連れ去られていました。残された人々は霊的にも荒廃した状態にありました。

そのような時代に、ヒゼキヤは驚くべき決断をします。南王国ユダだけでなく、「ベエル・シェバからダンに至るまで」(5節)—つまり南の果てから北の果てまで—イスラエル全土に使者を送り、エルサレムでの過越の祭りに招いたのです。

手紙に込められた招き

ヒゼキヤは「エフライムとマナセに手紙を書いて」(1節)呼びかけました。これらは北王国の主要な部族です。口頭ではなく手紙という形式を取ったのは、距離の問題だけでなく、公式な招待状として、王の権威をもって呼びかける意図があったのでしょう。

手紙の内容は切実な悔い改めへの招きでした:

「イスラエルの子らよ、アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい」(6節)

「今、あなたがたは、自分たちの父たちのようにうなじを固くしてはなりません。主に服従しなさい」(8節)

「あなたがたの神、主は恵み深く、あわれみ深い方であり、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔を背けられることはありません」(9節)

嘲りと、へりくだり

使者たちへの反応は二つに分かれました。「人々は彼らを笑いものにして嘲った」(10節)。神の招きの言葉を携えた使者を嘲笑する—これは悲しい光景です。長年、偶像礼拝と霊的堕落の中にいた北王国の人々にとって、エルサレムへの巡礼は馬鹿げたことに思えたのかもしれません。

しかし11節には希望があります。「ただ、アシェル、マナセ、およびゼブルンの一部の人々は、へりくだってエルサレムに上って来た」。

「へりくだって」(ヘブライ語:נִכְנְעוּ ニフネウー)という言葉が重要です。多数派が嘲笑する中で、少数の者たちが自分を低くしてエルサレムに向かった。主は常に「残りの民」を備えておられます。

第二の月の過越—規定の柔軟な適用

本来、過越は第一の月(ニサンの月)の14日に行われるべきものでした(民数記9:1-5)。しかしヒゼキヤの時代、祭司たちの聖別が間に合わず、民も集まっていなかったため、第二の月に延期されました(2-3節)。

興味深いことに、これは民数記9:10-11の規定に基づいています。そこでは、汚れや旅行のために第一の月に過越を守れなかった者は、第二の月の14日に守ることが許されています。ヒゼキヤはこの規定を、国家的な状況に適用したのです。

律法の文字に縛られるのではなく、律法の精神を生かす知恵がここにあります。

心を定めて神を求める

今日の通読で最も心に響く箇所が18-20節です。

「民のうち大勢の者、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめずに、しかも、記されているのとは異なったやり方で過越のいけにえを食べてしまった」(18節)

本来なら深刻な問題です。規定通りに身を清めずに聖なるものを食べることは、「断たれる」(カレート)という厳しい罰に値する行為でした。

しかしヒゼキヤは彼らのために執り成し祈りました:

「いつくしみ深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは聖なるもののきよめの規定どおりにいたしませんでしたが、心を定めて神を、彼らの父祖の神、主を求めています」(18-19節)

「心を定めて」(ヘブライ語:הֵכִין לְבָבוֹ ヘーキーン・レヴァヴォー)は、「心を整えた」「心を向けた」という意味です。外側の儀式は整っていなかった。しかし内側の心は神に向いていた。

そして20節、「主はヒゼキヤの願いを聞き、民を癒やされた」。

形式より心を見られる主

ここに深い真理があります。主は規定を軽んじる方ではありません。しかし同時に、規定の背後にある目的—神との交わり、神への献身—を何より大切にされます。

北王国から来た人々は、何世代にもわたって正しい礼拝から離れていました。彼らは「正しいやり方」を知らなかった。しかし彼らは心を定めて神を求めた。その心を、主は受け入れてくださったのです。

これは、形式さえ整えれば心はどうでもよいということではありません。むしろ逆です。形式を整える余裕がなくても、心が神に向いているなら、主はその人を受け入れてくださる。そして心が神に向いている人は、やがて形式も整えていくようになるでしょう。

大いなるリバイバル

26節には「エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代以来、エルサレムでこのようなことはなかったからである」と記されています。

ソロモン以来、約二百五十年ぶりの出来事でした。分裂していた民が一つになり、共に主を礼拝した。これは真のリバイバルの姿です。

そしてこのリバイバルは、礼拝だけで終わりませんでした。31章1節では、民が自発的に出て行き、偶像を打ち壊したと記されています。内側の変化が外側の行動となって現れたのです。


第三部:新約(ルカ10:25-42)

律法の専門家の問い

「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」(25節)

この問いを発したのは「律法の専門家」でした。彼はイエスを「試みようとして」問いかけています。純粋な求道者ではなく、イエスの答えに落ち度を見つけようとしていたのかもしれません。

しかしイエスは直接答えず、逆に問い返されました。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」(26節)。

律法の専門家は完璧に答えます。申命記6:5の「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、レビ記19:18の「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」。これはイエスご自身が「最も大切な戒め」として挙げられたものと同じです(マタイ22:37-40)。

イエスは言われました。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」(28節)。

「それを実行しなさい」の重み

これは非常に厳しい言葉です。イエスの教えは行いの表面だけでなく、心の奥底にまで届くものだからです。山上の説教でイエスは「殺してはならない」を「兄弟に怒る者も裁かれる」へ、「姦淫してはならない」を「情欲をもって見る者はすでに姦淫した」へと深められました(マタイ5:21-28)。

心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神を愛する。隣人を自分自身のように愛する。これを完全に実行できる人間がいるでしょうか。

イエスはこの律法の専門家に、律法を完全に守ることの不可能性を悟らせようとしておられたのかもしれません。自分の義では永遠のいのちを得られないことを。

自分を正当化しようとする心

しかし律法の専門家は「自分が正しいことを示そうとして」(29節)、さらに問いかけます。「では、私の隣人とはだれですか」。

ギリシャ語で「自分が正しいことを示そうとして」は θέλων δικαισαι αυτόν(セローン・ディカイオーサイ・ヘアウトン)、「自分自身を義とすることを望んで」という意味です。

彼は「隣人」の定義を狭めることで、自分がすでに律法を守っていると主張したかったのでしょう。「隣人とは同胞ユダヤ人のことであり、私はちゃんと彼らを愛している」と。

良きサマリア人—隣人とはだれか

イエスが語られたたとえ話は、この自己正当化を完全に打ち砕くものでした。

エルサレムからエリコへの道で強盗に襲われた人。祭司が通りかかり、レビ人が通りかかり—しかし二人とも「反対側を通り過ぎて行った」(31-32節)。

祭司とレビ人は、律法に最も精通しているはずの人々です。彼らが避けて通った理由として、死体に触れると汚れるという規定(民数記19:11)を守ろうとしたという解釈もあります。しかし、その人はまだ「半殺し」の状態で生きていました。彼らは律法の文字を言い訳にして、律法の精神—隣人愛—を踏みにじったのです。

そして「一人のサマリア人」が登場します。サマリア人はユダヤ人から「汚れた混血」として軽蔑されていた人々でした。律法の専門家にとって、サマリア人は「隣人」の範囲外の存在だったはずです。

しかしこのサマリア人こそが、傷ついた人に近づき、介抱し、宿屋に連れて行き、費用まで負担しました。「見てかわいそうに思った」(33節)のギリシャ語 σπλαγχνίσθη(エスプランクニスセー)は、「はらわたが動いた」という意味の強い言葉です。内臓がねじれるような深い憐れみを表します。

「隣人になった」という逆転

イエスの問いかけは巧みでした。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」(36節)。

律法の専門家は「私の隣人とはだれですか」と問いました。隣人の定義を限定して、自分の義務の範囲を狭めようとしたのです。

しかしイエスは問いを逆転させました。「だれが隣人になったか」。問題は隣人の定義ではなく、あなたが隣人になるかどうかだ、と。

律法の専門家は「サマリア人」という言葉を口にすることさえ避け、「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えました。そしてイエスは言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい」(37節)。

マルタとマリア—必要なことは一つだけ

ルカはこのたとえ話の直後に、マルタとマリアの出来事を配置しています。これは偶然ではないでしょう。

マルタはイエスを家に迎え入れ、「いろいろなもてなし」(πολλν διακονίαν ポレーン・ディアコニアン)のために忙しく働いていました。ディアコニア(奉仕)は本来良いことです。マルタの働きは愛から出たものでした。

しかしマルタは「心が落ち着かず」(40節)、ついにはイエスに不満をぶつけます。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか」。

一方、マリアは「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」(39節)。「足もとに座る」は弟子の姿勢を表す表現です。マリアは客人をもてなす女主人ではなく、み言葉を学ぶ弟子の位置に自分を置いたのです。

イエスの答えは優しく、しかし明確でした。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」(41-42節)

行いより先に、主の足もとに

良きサマリア人のたとえでは「行って、同じようにしなさい」と言われ、マルタとマリアの箇所では「必要なことは一つだけ」と言われる。この二つは矛盾するのでしょうか。

そうではありません。順序の問題です。

マリアが選んだ「良いほう」とは、主の足もとに座り、み言葉を聞くことでした。そこからこそ、真の隣人愛が流れ出るのです。主のことばに聞き入ることなしに、自分の力で隣人を愛そうとしても、やがてマルタのように思い煩いと不満に陥ります。

第二歴代誌30章で、規定通りにできなかった人々が受け入れられたのは、「心を定めて神を求めて」いたからでした。外側の形式より、神に向かう心が先にある。

私たちは自分の力では律法を完全に守れません。だからこそ、まず主の足もとに座る。み言葉を聞く。そこで恵みを受け取る。その恵みから隣人愛が生まれるのです。


第四部:全体の一貫性

三つの箇所を貫くテーマ—規定を超える主の恵み

今日の通読箇所は、出エジプト記の過越の規定、第二歴代誌のヒゼキヤによる過越復興、そしてルカ福音書の良きサマリア人とマルタ・マリアの記事でした。一見すると異なる時代、異なる状況を描いていますが、これらを貫く一つのテーマがあります。それは「心を定めて神を求める者を、主は受け入れてくださる」ということです。

過越の規定—外側と内側

出エジプト記12章では、過越に参加できる者の条件が明確に定められました。異国人はそのままでは参加できない。しかし割礼を受ければ、「この国に生まれた者と同じになる」(48節)。

ここで重要なのは、血統ではなく契約への参加が決め手だったということです。エジプト人であっても、他の民族であっても、割礼を受けて契約の民に加わるなら、過越の食卓に着くことができました。38節に記された「入り混じって来た多くの異国人」(エレヴ・ラヴ)は、まさにそのような人々だったのでしょう。

規定は明確でした。しかしその規定の目的は、人を排除することではなく、神の民として一つにされる道を示すことでした。

ヒゼキヤの過越—規定の精神を生かす

約七百年後、ヒゼキヤ王の時代に過越が復興されます。しかしそこには問題がありました。北王国から来た多くの人々が、規定通りに身を清めないまま過越のいけにえを食べてしまったのです。

本来なら厳しい裁きに値する行為でした。しかしヒゼキヤは執り成し祈りました。「彼らは聖なるもののきよめの規定どおりにいたしませんでしたが、心を定めて神を、彼らの父祖の神、主を求めています」(30:19)。

そして主はその祈りを聞き、民を癒やされました。

ここに律法の精神が現れています。規定の目的は、人と神との交わりを守ることでした。北王国の人々は何世代にもわたって正しい礼拝から離れており、「正しいやり方」を知りませんでした。しかし彼らは心を神に向けた。その心を、主は受け入れてくださったのです。

良きサマリア人—律法の専門家への挑戦

ルカ福音書で律法の専門家は、律法の内容を完璧に知っていました。神を愛し、隣人を愛すること。しかし彼は「自分が正しいことを示そうとして」、隣人の定義を狭めようとしました。

イエスが語られたたとえ話では、祭司とレビ人—律法に最も精通しているはずの人々—が傷ついた人を避けて通りました。おそらく汚れに関する規定を守るためでしょう。彼らは律法の文字を守って、律法の精神を踏みにじったのです。

一方、サマリア人—ユダヤ人から見れば「正しい信仰」を持たない者—が、傷ついた人の隣人になりました。彼は規定を知らなかったかもしれません。しかし彼の心は憐れみに動かされ、行動へと導かれました。

マルタとマリア—必要なことは一つだけ

マルタの奉仕(ディアコニア)は、本来良いものでした。しかし彼女は「いろいろなことを思い煩って、心を乱して」いました。一方マリアは、主の足もとに座り、み言葉に聞き入っていました。

イエスは言われました。「必要なことは一つだけです」。

奉仕は大切です。隣人を愛する行動は求められています。しかしその源泉は、主の足もとに座ることにあります。み言葉を聞き、主との交わりの中で恵みを受け取る。そこから真の愛と奉仕が流れ出るのです。

形式と心—どちらが大切か

今日の三箇所が教えているのは、「形式は不要だ」ということではありません。出エジプト記の規定は神ご自身が定められたものでした。それには意味と目的がありました。

しかし形式は目的ではなく手段です。目的は、神との交わり、神に向かう心です。形式が整っていても心が神から離れているなら、それは空しい宗教行為に過ぎません。逆に、形式が整っていなくても心が神に向いているなら、主はその人を受け入れてくださいます。

ヒゼキヤの時代の北王国の人々は、形式を整える方法を知りませんでした。しかし彼らは「心を定めて」神を求めました。良きサマリア人は、ユダヤ教の正しい規定を知らなかったかもしれません。しかし彼の心は憐れみに満ちていました。マリアは食事の準備という「当然の務め」を後回しにして、主の足もとに座りました。しかしそれこそが「良いほう」でした。

私たちへの適用

この真理は、私たちに大きな慰めと同時に、問いかけを与えます。

慰めとは、私たちの不完全さにもかかわらず、心を定めて神を求めるなら、主は受け入れてくださるということです。完璧な礼拝、完璧な奉仕、完璧な信仰生活—そのようなものを私たちは持っていません。しかし主が見ておられるのは、私たちの心が神に向いているかどうかです。

問いかけとは、私たちの心は本当に神に向いているか、ということです。形式だけを整えて安心していないか。律法の専門家のように、自分を正当化するために神のことばを利用していないか。マルタのように、奉仕に忙しくして主の足もとに座ることを忘れていないか。

出エジプトの夜、主は寝ずの番をしてイスラエルを守られました。その同じ主が、今日も私たちを見守っておられます。その主の足もとに座り、み言葉に聞き入ること。それが「必要なことは一つだけ」なのです。

そして主の足もとで恵みを受けた者は、傷ついた人の隣人となる力を与えられます。自分の義ではなく、主からいただいた愛によって、隣人を愛することができるようになるのです。

み言葉を何度も噛みしめ味わうことは主の恵みです。今日の箇所を図解を見ながら思いめぐらし、反芻できます。図解はこちらです。 👇

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