——廃墟のぶどう畑に残されたもの——
申命記7章1〜11節/エレミヤ書40章・41章/コロサイ人への手紙4章
バビロン捕囚のあと、ユダの地は本当に無人になったのでしょうか。神殿が焼け落ちたその年に、ぶどうが大豊作だったという記述に、気づいておられたでしょうか。総督ゲダルヤという人の死が、今日に至るまで毎年ユダヤ人によって断食をもって記憶されていることを、ご存じでしょうか。そして神はなぜ、選びの理由として「あなたがたは最も数が少なかった」と語られたのでしょうか。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部|トーラー 申命記7章1〜11節
七つの名前が並ぶとき
モーセの語る言葉は、まず七つの民族の名前から始まります。ヒッタイト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人。
聖書の中で、カナンの住民のリストは何度も出てきますが、その数は場面によって変わります。創世記15章では十の民族が挙げられ、出エジプト記では六つで語られることが多い。ここ申命記7章だけが、七つという数で並べています。
七は聖書において「満ち足りた数」「完結した数」です。天地創造の七日、七日ごとの安息日、七年ごとの安息年。ここで七つの民が挙げられるのは、民族学的な正確さを競っているのではなく、「この地を占めている勢力のすべて」という意味を持たせているのだと考えられます。イスラエルの前に立ちはだかるものは、完全に、余すところなく、主が追い払われる——そういう宣言です。
そして続けて、こうも言われます。「あなたよりも数多くまた強い七つの異邦の民」。
強いのは相手です。多いのも相手です。この前提を、聖書ははっきり書いています。
「聖絶」という、避けて通れない言葉
7章2節に出てくる「聖絶」という訳語は、日本語としてもかなり異様な響きを持っています。原語の発音はヘーレム。意味は「神に完全に引き渡して、人間の手元に一切残さないこと」です。
戦利品を分け合わない。奴隷として使わない。財産にしない。すべてを神のものとして手放す。もともとは「人間の利用から切り離す」という概念で、そこから「滅ぼし尽くす」という用法が生まれました。滅ぼすこと自体が目的なのではなく、神に完全に委ねた結果として、そうなるのです。
正直に言えば、ここは読んで気持ちのよい箇所ではありません。読み飛ばしたくなる箇所です。
ただ、続く3節から5節を読むと、命令の焦点がどこにあるかが見えてきます。「姻戚関係に入ってはならない」「祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、彫像を火で焼け」。
つまりこの命令が守ろうとしているのは、礼拝の対象が入れ替わってしまうことです。4節がその理由をはっきり述べています。「彼らはあなたの息子を私から引き離し、ほかの神々に仕えさせ」。
当時のカナンの宗教は、豊穣と多産を神格化した儀礼を中心としており、幼児犠牲を含む慣習が広く行われていました。考古学的にも、それを裏づける遺構が繰り返し発見されています。イスラエルがこの土地で共存を選んだとき、何が起こるか——それは後の歴史が証明することになります。
そしてここに、聖書全体を貫く痛みがあります。イスラエルは、この命令を実行しませんでした。追い出さず、契約を結び、姻戚関係を結んだ。士師記が繰り返し嘆いているのは、まさにこの一点です。
突然の転回——7節
ここまでの六節は、命令、命令、命令と続いてきます。厳しく、重く、息苦しいほどです。
ところが7節で、文章の空気が一変します。
「【主】があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった」(7:7)
「慕い」と訳された言葉の発音はハーシャク。これは政治的な選抜や合理的な人事の言葉ではありません。心が引き寄せられて離れなくなる、という語です。同じ語が創世記34章では、若者が娘に心を奪われる場面で使われています。理屈ではなく、惹かれてしまった、という響きを持つ言葉です。
そして「最も数が少なかった」。ここに使われている「少ない」はメアト。ただ数が小さいというだけでなく、「取るに足りない」「わずかな」というニュアンスを含みます。
1節で「相手は数多く強い」と言われ、7節で「あなたがたは最も少なかった」と言われる。この対比は偶然ではありません。神が選ぶ基準は、最初から「多さ」ではなかった、ということが、ここで初めて明かされるのです。
6節の「宝の民」も見ておきたい言葉です。原語は二つの単語からできています。前半のアムは「民」。後半のセグッラーは、王が国庫とは別に、自分の手元に置いて大切にする私有の宝物を指します。国家予算ではなく、王の手箱の中身。
つまり神は、イスラエルを「役に立つから」でも「規模が大きいから」でもなく、自分のポケットに入れておきたいものとして選ばれた、ということになります。
▶【図解:なぜ選ばれたのか——七つの民と、最も少ない民】
選びの根拠は、選ばれた側にはない
では理由は何なのか。8節が二つだけ挙げます。
「しかし、【主】があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから」(7:8)
一つ目は「愛」。二つ目は「誓いを守る誠実さ」。どちらも神の側にある性質です。イスラエルの側には、根拠が一つもありません。
このことは、私たちの信仰にそのまま重なります。自分の中に選ばれる理由を探し始めると、必ず行き詰まります。理由は最初から向こう側にあるからです。
9節は、その神をこう表現します。「主は信頼すべき神であり」。ここで使われている語はネエマーン——「アーメン」と同じ語根から来ています。アーメンという言葉は本来「そうなりますように」という願望ではなく、「これは確かだ、揺るがない」という確認の言葉です。神ご自身が「アーメンなお方」だと言われている。
なお、「恵みの契約」と訳されている部分は、原語では「契約」と「恵み(ヘセド)」という二つの言葉が、並べて置かれています。直訳すれば「契約とヘセドを守られる」。旧約聖書では、この二語がしばしば対で現れ、ほとんど一組の定型表現のように用いられます。
つまりここで語られているのは、「契約を結んだ」という事実と、「その契約に忠実であり続ける愛」とが、切り離せない一つのものだということです。神は約束を交わし、そしてその約束を裏切らない。この二つが、一息で語られています。新改訳2017の「恵みの契約」という訳は、その趣旨をよく汲んだ日本語だと言えます。
そして、その契約を「千代までも」守られる。
10節では逆に、憎む者への報いが語られます。ここで注目したいのは、恵みが「千代」であるのに対し、報いは「一人ひとりに」と語られていることです。同じ十戒の言葉(出エジプト20:5-6)でも、災いは三代四代、恵みは千代と語られていました。神の側の重心が、どちらに置かれているかは明らかです。
少なさから始まった契約
この箇所を、今日の他の二つの箇所と並べて読むと、思いがけない光が差します。
エレミヤ40章で焼け跡に残されたのは、「その地の貧しい民たち」でした。バビロンが連れて行く価値もないと判断した人々です。数は少なく、力もない。
コロサイ4章で、パウロが「神の国のために働く同労者」として名を挙げられたユダヤ人は、三人だけでした。
「最も数が少なかった」——申命記7章7節の言葉は、過去形で語られているようでいて、実は聖書全体を貫く現在形です。神の働きはいつも、私たちが「これでは足りない」と感じる人数から始まります。
そして、その少なさこそが、選びの根拠が人間の側にないことの証明になっているのです。
第二部|旧約 エレミヤ書40章・41章
焼け跡には、人がいた
エレミヤ40章を読むとき、多くの人が驚くことがあります。
バビロン捕囚と聞くと、私たちはつい「ユダヤ人が全員連れ去られ、土地は無人になった」という絵を思い浮かべます。しかし聖書は、そう書いていません。
「バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地の総督にして、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、その地の貧しい民たちを彼に委ねた」(40:7)
第二列王記25章12節も、エレミヤ39章10節も、同じことを記録しています。バビロンは、連れて行く価値があると判断した者だけを連れて行きました。技術者、指導者、王族、祭司。残されたのは「ぶどう作りと農夫」——つまり、財産も地位もない人々です。
さらに驚くのは、そのあとに続く記述です。
「モアブや、アンモン人のところや、エドムや、あらゆる地方にいたユダヤ人もみな……ユダの地に帰って来て……非常に多くのぶどう酒と夏の果物を収穫した」(40:11-12)
戦火を逃れて周辺国に避難していた人々が、戻ってきた。そして大豊作を得た。
神殿は焼け落ち、都は瓦礫となり、王は目をえぐられてバビロンへ引かれて行った——その同じ年に、ぶどうは実っていたのです。ここで注目したいのは、裁きの真っ只中でも、神が民を飢えさせなかったという事実です。裁きは徹底していましたが、絶滅ではありませんでした。「残りの者」は、確かにその土地に生きていました。
焼け跡の人物たち
40章から41章にかけて、次々と人名が登場します。整理しながら読むと、この二章は一気に立体的になります。
ネブザルアダン——裁きの言葉を認めた異邦人
エレミヤを鎖から解いた人物です。肩書きは「親衛隊の長」。この肩書きは二つの単語からできていて、前半のラヴは「長・かしら」、後半のタッバーヒームは「屠る者たち」を意味します。もともとは肉を屠る者、そこから王宮の厨房責任者を指し、さらに王の側近としての護衛隊長・執行隊長へと意味が広がったと考えられています。創世記37章36節のポティファルにも、同じ称号が使われています。つまり、肩書きそのものが血のにおいのする役職です。
その彼が、エレミヤにこう語ります。
「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。……あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ」(40:2-3)
ここは、この二章で最も奇妙な場面かもしれません。割礼のない外国人の処刑部隊長が、エレミヤが語り続けてきた裁きの言葉を、そのまま認めているのです。ユダの王も祭司も預言者も、ついに受け入れなかった言葉を。
神はご自分の言葉を語らせるために、必ずしも信仰者を必要とはされません。誰も聞かないなら、バビロン人の口からでも語られる。慰めであり、同時に厳しい指摘でもあります。
ゲダルヤ——みことばに仕えた家の相続人
この二章の中心人物です。名前の発音はゲダルヤーフー、意味は「主は大いなる方とされた」。
彼を理解する鍵は、その系図にあります。
シャファン → アヒカム → ゲダルヤ
シャファンは、ヨシヤ王の書記官でした。神殿の修理中に「律法の書」が発見されたとき、それを王の前で読み上げた人です(第二列王記22章)。ユダ王国最後の大改革は、この人が声に出して読んだところから始まりました。みことばを読んだ人です。
アヒカムはその息子。エレミヤが神殿説教のあとに殺されかけたとき、身を挺してかばった人物です(エレミヤ26:24)。みことばを語る人を守った人です。
そしてゲダルヤは、その息子。焼け跡の総督に任命されました。
さらに同じシャファン家からは、ゲマルヤという人物も出ています。エホヤキム王がエレミヤの巻物を焼こうとしたとき、思いとどまるよう懇願した一人です(エレミヤ36:25)。
つまりゲダルヤは、代々みことばに仕えてきた家の相続人でした。国が滅びたとき、最後に残された民が託されたのは、この家の人だったのです。
彼の人柄は、40章の終わりに凝縮されています。ヨハナンから暗殺計画を知らされても、彼は信じません。「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ」(40:16)。
これを甘さと読むこともできます。実際、彼はその甘さで命を落としました。しかし見落としてはならないのは、彼が拒んだのが「疑うこと」ではなく、先手を打って闇討ちすることだったという点です。ヨハナンの提案は「だれにも分からないように打ち殺しましょう」(40:15)——暗殺の提案でした。
ゲダルヤは、汚れた手段で自分の政権を守ることを選びませんでした。そして殺されました。聖書は彼を批判も称賛もせず、ただ事実を記しています。
イシュマエル——王家の血を引く暗殺者
名前の意味は「神は聞かれる」。この人物の行いを思うと、名前の意味が痛烈に響きます。
41章1節の肩書きに注目してください。「王族の一人」。原語は三つの部分からなり、「〜から」「種」「王権」を組み合わせた表現です。直訳すると「王権の種から」——ダビデ王家の血筋です。
聖書は、彼の動機を説明していません。しかしこの肩書きは、動機を推し量る手がかりになります。自分にはダビデの血が流れている。それなのに、王権とは無関係な書記官の家系の男が総督に座っている。しかもバビロンの任命で。——そのような思いがあった可能性は、十分に考えられます。
そこにアンモン人の王バアリスが資金と後ろ盾を与えました。アンモンはヨルダン川の東側の国で、当時バビロンへの反乱を画策していました(エレミヤ27章)。ユダに親バビロンの安定政権ができることは、アンモンにとって不都合だったのです。
興味深いことに、1984年、ヨルダンのテル・エル・ウメイリ遺跡から「バアリスの僕」と刻まれた印章が出土しています。聖書に一度しか名前の出ない王が、地面の下から現れたことになります。
イシュマエルの犯行は三段階で進みます。
第一に、ゲダルヤ暗殺。「ミツパで食事をともにした」(41:1)上で殺しました。古代近東において、食卓を共にすることは単なる会食ではなく、信頼と友好、そして保護の関係を表す重要な行為でした。パンを分けた相手に剣を向けることは、殺人以上の背信と見なされます。
第二に、80人の巡礼者の虐殺。
第三に、生き残った住民全員の拉致。王の娘たちを含む、ミツパに残っていた民を人質として連れ去りました(41:10)。
ヨハナン——有能で、そして恐れた人
名前の発音はヨーハーナーン。意味は「主は恵み深い」。この名前がギリシャ語に移されるとイオアンネス、日本語でヨハネになります。
彼は、この物語で最も有能な人物です。暗殺計画を事前に察知し、警告し、事件後は即座に追撃してイシュマエルを敗走させ、人質を全員取り返しました(41:11-14)。判断が速く、行動力があり、人を救う力がある。
しかし41章の最後で、彼は決定的な選択をします。
「エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまった。……カルデア人を恐れたからである」(41:17-18)
この続きは42章から43章で描かれます。彼はエレミヤに「主のみこころを求めてください、必ず従います」と誓っておきながら、答えが「この地にとどまれ」だと分かると、それを拒んでエジプトへ下ります。しかもエレミヤを無理やり連れて。
「主は恵み深い」という名を持つ人が、最後まで恵みに信頼しきることができませんでした。彼は正しい情報を持ち、正しく行動し、多くの人を救いました。ただ一つ、神の言葉より自分の危機管理を上に置いたのです。
読者として恐ろしく感じられるのは、イシュマエルよりもむしろヨハナンかもしれません。イシュマエルは分かりやすい悪人ですが、ヨハナンは誠実で有能な人だからです。
▶【図解:エレミヤ40〜41章 人物相関図】
三つの現場が語ること
廃墟へ向かった80人(41:5)
ゲダルヤ暗殺の翌日、80人の男たちがやって来ます。出身地はシェケム、シロ、サマリア。
——これらはすべて、滅びた北王国の町です。北イスラエルは紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、すでに150年近くが経っていました。それでも彼らは、穀物のささげ物と乳香を手にして「主の宮」へ向かっていたのです。
神殿は、もう焼け落ちていました。彼らが喪の装いをしていたことから、都に何が起きたかを、少なくとも部分的には知っていたと考えられます。それでも彼らは、献げ物を手にして歩いていました。
しかも、41章1節が「第七の月」と記しています。ユダヤ暦の第七の月(ティシュレー月)は、ラッパの祭り、贖罪の日、そして仮庵の祭りが集中する、一年で最も聖なる月です。彼らの巡礼が、これらの祭りに関わるものであった可能性は高いでしょう。
ただし彼らの姿には、注意して読むべき点があります。「ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけ」——最後の一つは、レビ記19章28節と申命記14章1節で、明確に禁じられている異教の哀悼習慣です。彼らの信仰は、混じり物を含んでいました。
それでも彼らは歩いていました。混じり物のある信仰で、瓦礫となった神殿へ向かって。
そしてイシュマエルは、「泣きながら」彼らを迎えに出ます(41:6)。悲しみを装って迎え入れ、町の中で殺しました。
アサ王の穴(41:9)
死体が投げ込まれた穴について、聖書はわざわざ由来を記しています。「アサ王がイスラエルの王バアシャに備えて作ったもの」。
第一列王記15章22節によれば、アサ王は北王国の脅威に備えてミツパを要塞化しました。この穴は、その際に掘られた貯水槽です。籠城戦を戦い抜くための、命の水を蓄える施設でした。
300年前、同胞から民を守るために掘られた穴が、いま同胞の死体で満たされる。
命を守るために造られた設備は、そのまま残っていました。しかし、その水によって守られるはずだった民が、そこに投げ込まれたのです。
ベツレヘムの傍らで(41:17)
ヨハナンたちが立ち止まった「ゲルテ・キムハム」は、「キムハムの宿営」という意味です。キムハムは、ダビデがアブサロムの反乱から帰還するとき世話になったバルジライの息子で、ダビデが恩返しに土地を与えたと伝えられています(第二サムエル19章)。
場所はベツレヘムの傍ら——ダビデの町です。
ダビデの町のすぐ隣で、ダビデの民が、エジプトへ下る決断をしました。出エジプトの、逆再生です。神が四百年かけて連れ出した場所へ、自分の足で戻っていく。
そしてもう一つ。何百年か後、同じベツレヘムから同じエジプトへ、幼子を抱いた夫婦が下って行きます(マタイ2章)。片方は神の言葉に背いて下り、片方は神の言葉に従って下りました。地図の上では、まったく同じ道です。
▶【図解:ミツパ・ギブオン・ベツレヘム——41章の地理と逃走ルート】
今も嘆かれ続けている日
最後に、ぜひ知っておきたいことがあります。ゲダルヤの死は、現代に至るまでユダヤ人によって毎年記念されています。「ツォム・ゲダルヤ(ゲダルヤの断食)」と呼ばれる断食日です。日付は第七の月の三日——ロシュ・ハシャナ(ユダヤ暦の新年)の翌日にあたります。
【ロシュ・ハシャナ】ユダヤ暦の新年。ラッパを吹き鳴らして始まり、十日後の贖罪の日へ向かう、悔い改めの期間の初日です。
新年の祝いの直後に断食するというのは、不思議な習わしに思えます。ラビの伝統的な理解では、「義人一人の死は、神殿の崩壊に等しい重さを持つ」とされます。神殿はすでに焼かれていました。ゲダルヤの死は、その灰の上に辛うじて残っていた最後の秩序が崩れた瞬間だったのです。
ゼカリヤ書7章5節と8章19節に出てくる「第七の月の断食」は、この断食を指すと考えられています。
私たちが今日読んでいるこの短い記事は、およそ2600年にわたって、ユダヤ人の共同体の中で毎年記憶され、嘆かれ続けてきた出来事なのです。
第三部|新約 コロサイ人への手紙4章
牢の中から書かれた手紙
コロサイ書の最終章を読むとき、まず思い出しておきたいことがあります。この手紙を書いているパウロは、獄中にいます。
「この奥義のために、私は牢につながれています」(4:3) 「私が牢につながれていることを覚えていてください」(4:18)
手紙の最初と最後を、鎖の話が挟んでいるのです。
そしてエレミヤ40章では、預言者エレミヤが鎖から解かれていました。同じ日の通読で、片や鎖を解かれた預言者、片や鎖につながれた使徒が並びます。しかし興味深いことに、自由になったエレミヤは孤独になり、鎖につながれたパウロの周りには人が集まっています。
「みことばの門」
4章3節でパウロが求めている祈りの内容は、少し意外なものです。
「神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください」(4:3)
自分が牢から出られるように、とは言っていません。言葉が出て行けるように、と言っています。
「みことばの門」は二つの単語からできています。前半のテュラは「戸・門」。後半のロゴスは「ことば」。パウロは、自分の体の解放ではなく、ことばの通り道が開くことを願いました。
この願いは実際に聞かれました。獄中で書かれた手紙が、二千年後の日本語で読まれているからです。人は縛れても、ことばは縛れません。
塩味の効いたことば
そして4章6節。今日の通読で、旧約と新約を静かに結び合わせる一節がここにあります。
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」(4:6)
「塩味の効いた」と訳された部分は、二つの単語でできています。前半のハラスは「塩」。後半のアルテュオーは「味つけする・整える」という料理の動詞です。文中の形は完了受動分詞で、すでに味つけされ、その状態が続いているというニュアンスを持ちます。
ここで、なぜ「塩」なのかを考えたいと思います。
現代の私たちは塩を「味つけ」や「保存」の道具として理解します。それも間違いではありません。しかし聖書における塩には、もう一つ、決定的に重要な意味があります。
「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの神の契約の塩を、あなたの穀物のささげ物に欠かしてはならない」(レビ記2:13)
塩は、契約のしるしでした。
塩は腐らず、変質しません。だからこそ「変わらない誓い」の象徴とされました。民数記18章19節では、祭司への取り決めが「塩の契約」と呼ばれ、第二歴代誌13章5節では、ダビデ王朝への約束が同じ言葉で語られています。
そして今日、私たちはもう一つの食卓を読んできました。
「王族の一人……イシュマエルは……ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに来て、ミツパで食事をともにした。ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた十人の部下は立ち上がって……ゲダルヤを剣で打ち殺した」(エレミヤ41:1-2)
イシュマエルは、食卓を共にした相手を刺しました。信頼と保護のしるしであるはずの席を、殺害の舞台に変えたのです。
同じ日の新約で、パウロは牢の中から「あなたがたのことばを塩味の効いたものに」と書いています。ことばで人を刺すのではなく、ことばで人を保つ。ここで注目したいのは、パウロが求めているのが「上手な話し方」ではなく、言葉に契約の誠実さを宿らせることだという点です。
イシュマエルは剣を持っていました。私たちが日々手にしているのは、ことばです。人を穴に投げ込むことも、人を立たせることも、ことばはできます。
この三人だけ
そして4章11節に、今日のテーマがはっきりと現れます。
「割礼のある人では、この三人だけが神の国のために働く私の同労者です。彼らは私にとって慰めになりました」(4:11)
アリスタルコ、マルコ、ユスト。パウロが名前を挙げられるユダヤ人の同労者は、たった三人でした。
パウロはユダヤ人です。生粋のパリサイ人であり、同胞への愛のためなら自分が呪われてもよいとまで書いた人です(ローマ9:3)。その彼の周りに残ったユダヤ人が、三人。
「慰め」と訳されたこの語は、新約聖書でここにしか出てこない珍しい単語で、パレーゴリアと発音します。もともと「苦痛を和らげる」「痛みを鎮める」という意味を持つ言葉で、古代の医学文献にも、痛みを和らげる働きを指して用いられた例があります。
気分を明るくする類の慰めではありません。痛みそのものは残っているけれども、その痛みが少し和らぐ——そういう種類の慰めです。パウロは牢の中にいて、鎖は外れていません。それでも三人がそばにいることが、彼の痛みを和らげていました。
エレミヤ40章で焼け跡に残されたのは「その地の貧しい民たち」でした。申命記7章で選ばれたのは「最も数が少なかった」民でした。そしてコロサイ4章で、パウロを支えたのは三人でした。
数が足りていたことは、一度もありません。
一度脱落した人が、そこにいる
その三人の中に、マルコの名があることを見逃せません。
マルコは、パウロの第一次伝道旅行に同行しながら、途中で離脱した人物です(使徒13:13)。そのことが原因で、後にパウロとバルナバは激しく衝突し、袂を分かつことになりました(使徒15:37-39)。パウロは「彼を連れて行くべきではない」と主張した側です。
その同じパウロが、いま獄中から「マルコがよろしくと言っています」と書き、「もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように」と念を押しています。
脱落した人が、同労者三人のうちの一人になっている。
さらに、彼の本名を思い出してください。ヨハネ・マルコです。「ヨハネ」はヘブライ語のヨーハーナーン——今日のエレミヤ書に登場した、あの有能な軍人と同じ名前です。当時、この名は非常にありふれたものでした。
片や、カルデア人を恐れて神の言葉に背き、エジプトへ下った人。
片や、危険を恐れて伝道旅行の途中で引き返し、しかし後に回復されて、マルコの福音書を書き記した人。
※新約聖書には同名の人物が複数います。ここでのマルコは、使徒ヨハネ——ゼベダイの子で「雷の子」と呼ばれ、ヨハネの福音書の著者とされる人物——とは別人です。
同じ名前を持ち、同じように一度は恐れに負けた二人が、まったく違う場所に立っています。恐れたこと自体が二人を分けたのではありません。その後、神の言葉のもとに戻ったかどうかが分けました。
祈りにおける格闘
もう一人、心に留めたい人物がいます。エパフラスです。
「彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます」(4:12)
「祈りに励む」と訳された部分の原語はアゴーニゾマイ。これは競技場で全力を尽くして闘うという意味の語です。英語の「アゴニー(苦悶)」の語源にあたります。
エパフラスは祈っていたのではなく、祈りにおいて格闘していました。
そして彼が求めている内容は、健康でも成功でも安全でもありません。「神のみこころを確信し、成熟した者として堅く立つこと」です。
コロサイ、ラオディキア、ヒエラポリス——この小さな三つの町の教会のために、一人の人が牢の隣で汗を流して祈っている。ここにも「残りの者」の姿があります。
名前が並ぶという恵み
コロサイ4章の後半は、エレミヤ40〜41章と同じように、名前がずらりと並びます。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユスト、エパフラス、ルカ、デマス、ニンパ、アルキポ。
しかし二つの名簿には、決定的な違いがあります。
エレミヤ書の名簿は、誰が誰を殺したかの記録です。
コロサイ書の名簿は、誰が誰によろしくと言ったかの記録です。
とりわけ心に残るのはオネシモでしょう。彼は逃亡奴隷でした(ピレモンへの手紙の主人公です)。その彼が、ここでは「あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟」と紹介されています。逃げた奴隷が、兄弟として送り出されている。
そして4章1節の「主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい」という言葉のすぐ後に、この名簿が来ることも偶然ではないでしょう。
▶【図解:牢の中のパウロを囲む人々——コロサイ4章の人物一覧】
なお、この名簿にあるデマスについては、後に「今の世を愛して」パウロを見捨てたと記されることになります(第二テモテ4:10)。名簿に載ったことが終着点ではない、ということも、聖書は正直に書き残しています。
第四部|全体の一貫性——最も数少ない民
三つの箇所を貫く一本の糸
今日読んだ三つの箇所は、時代も場所も文体もまったく違います。荒野で語られた律法、焼け跡の混乱を記した歴史、獄中から送られた手紙。
しかし三つを並べると、同じ言葉が響いていることに気づきます。
「事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった」(申命記7:7)
「バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、その地の貧しい民たち」(エレミヤ40:7)
「割礼のある人では、この三人だけが神の国のために働く私の同労者です」(コロサイ4:11)
数が足りていた場面が、一つもありません。
これは偶然ではなく、聖書全体を貫く神の働き方です。ヘブライ語には、この状態を指す言葉があります。発音はシェエリート。意味は「残された者・生き残り」。エレミヤ40章15節で、ヨハナンが「ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか」と語ったときに使われている、まさにその語です。
▶【図解:「残りの者」の系譜——聖書を貫く一本の線】
「残りの者」という思想
聖書を通読していくと、この「残りの者」という主題が繰り返し現れます。
ノアの家族八人だけが箱舟に残りました(創世記7章)。ヨセフは兄たちに「神が残りの者を与えるために」自分を先に遣わされたと語りました(創世記45:7)。エリヤが「私だけが残りました」と嘆いたとき、神は「バアルにひざをかがめなかった七千人を残している」と答えられました(第一列王記19:18)。イザヤは自分の子に「シェアル・ヤシュブ(残りの者は帰る)」と名づけました(イザヤ7:3)。
そしてパウロは、この主題を新約へ引き継ぎます。「今の時にも、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:5)。
神は一度も、多数派を通して働かれたことがありません。むしろ、多数になったときこそ、イスラエルは危うくなりました。
そして重要なのは、「残りの者」が優秀な精鋭を意味しないという点です。エレミヤ40章で残されたのは、バビロンが「連れて行く価値がない」と判断した人々でした。技術も財産も地位もない。選ばれたのではなく、選ばれ残ったのです。
申命記7章8節が語る選びの根拠を思い出してください。「愛されたから」「誓いを守られたから」。理由は最初から、神の側にありました。ならば、選ばれた側がどれほど小さくても、選びは揺るぎません。
少なさの中で、何が起きたか
しかし今日の箇所は、「少数は美しい」という単純な話ではありません。
エレミヤ40〜41章が突きつけるのは、残された者たちが、自分たちで自分たちを滅ぼしていくという現実です。
バビロン軍は去りました。外敵はもういません。それなのに、ゲダルヤを殺したのはユダヤ人でした。80人の巡礼者を穴に投げ込んだのもユダヤ人でした。300年前に同胞から身を守るために掘られた穴が、同胞の死体で満たされました。
そして生き残った人々は、恐れのゆえに神の言葉に背き、自分の足でエジプトへ戻って行きます。
少数であることは、それ自体では何の保証にもなりません。
だからこそ申命記7章11節が意味を持ちます。
「あなたは、私が今日あなたに命じる命令、すなわち掟と定めを守り行わなければならない」(7:11)
選びの根拠は神の側にある。しかし、選ばれた者が歩む道は、自分で選ばなければならない。この二つは矛盾しません。
三つの食卓
今日の通読には、三つの「食卓」が隠れています。
一つ目は、申命記7章の契約です。イスラエルは「宝の民」として、神ご自身の手元に置かれました。これは共に生きる約束です。
二つ目は、ミツパの食卓です。イシュマエルはゲダルヤと食事を共にし、その場で剣を抜きました。信頼のしるしを裏切った食卓です。
三つ目は、コロサイ4章6節の「塩味の効いたことば」です。パウロは獄中から、契約の誠実さを宿したことばを勧めます。
そして聖書には、もう一つの食卓があります。
「私のパンを食べた親しい友までが、私に向かって、かかとを上げます」(詩篇41:9)
イエスはこの詩篇を引用して、ご自分の食卓を指し示されました(ヨハネ13:18)。最後の晩餐——パンを分けた席で、裏切りが起こりました。ミツパの食卓と、まったく同じ構図です。
しかし決定的に違うことがあります。
ゲダルヤは、殺されて終わりました。ユダの最後の秩序は崩れ、民はエジプトへ散りました。
イエスは、殺されてそこから始まりました。その裏切りの食卓こそが、新しい契約の食卓になりました。「これはあなたがたのために与える、わたしのからだです」——刺された側が、食卓そのものになったのです。
裏切られた食卓を、赦しの食卓に変えられる方がおられる。これが、エレミヤ書の絶望から福音へ渡る橋です。
名簿の違いを生んだもの
今日は、二つの「名簿」を読みました。
エレミヤ書の名簿——ネブザルアダン、ゲダルヤ、イシュマエル、バアリス、ヨハナン。これは誰が誰を殺し、誰が誰から逃げたかの記録です。
コロサイ書の名簿——ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユスト、エパフラス、ルカ、ニンパ、アルキポ。これは誰が誰によろしくと伝えたかの記録です。
同じ「残りの者」でありながら、二つの共同体はまったく違う姿をしています。違いを生んだものは何でしょうか。
エレミヤ書のユダヤ人たちは、外敵を失ったあと、内側で互いを疑い、殺し、恐れました。コロサイの共同体は、外側から迫害を受け、指導者が投獄されている状況で、互いの名を呼び合い、祈り合っていました。
共同体を壊すのは、外からの圧力ではありません。内側の恐れと、傷ついた自尊心です。イシュマエルを動かしたのは、バビロンへの憎しみというより、「王家の血を引く自分がなぜ」という感情だった可能性があります。ヨハナンを動かしたのは、カルデア人への恐れでした。
そしてパウロの手紙が獄中から届けようとしているのは、まさにその逆です。「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」(4:2)。
そして、日本という「最も数少ない民」
最後に、正直に書いておきたいことがあります。
日本のキリスト教人口は、統計にもよりますが人口の1%に届きません。教会に集う人の数は減り続け、無牧の教会も増えています。この国で信仰を持つということは、確実に「最も数が少ない」場所に立つということです。
そのことに、疲れを覚える方は多いと思います。
しかし今日の三つの箇所は、その少なさを慰めるためではなく、少なさこそが神の通常の働き方だと告げています。
「あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった」——選びの理由は、最初から数ではありませんでした。
「非常に多くのぶどう酒と夏の果物を収穫した」——神殿が焼けた年にも、ぶどうは実りました。
「この三人だけ」——そしてその三人が、痛みを和らげる薬になりました。
シェケムから、シロから、サマリアから、80人が歩いて来ました。北王国が滅んで150年、神殿はすでに焼け落ちていたのに、彼らは献げ物を手に、廃墟へ向かって歩いていました。彼らの信仰には混じり物がありました。それでも彼らは歩いていました。
彼らは殺されました。聖書は、その名前を一人も記していません。
しかし神は、彼らが歩いていたことを記録されました。成果ではなく、向かっていたことが記録されたのです。
私たちも同じです。少ない人数で、思うような実りも見えないまま集まっています。誰も見ていないように思える朝に、聖書を開いています。
その一つひとつを、神は記録しておられます。
「主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる」(申命記7:9)
千代。私たちが数えられる範囲を、はるかに超えています。
今日の語彙表
ヘブライ語(申命記7章・エレミヤ書40〜41章)
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| חֵרֶם | ヘーレム | 聖絶。人間の所有から完全に切り離し、神に帰属させること |
| עַם סְגֻלָּה | アム・セグッラー | 宝の民。王が手元に置く私有の宝 |
| חָשַׁק | ハーシャク | 慕う。心が引き寄せられて離れない |
| מְעַט | メアト | 少ない。取るに足りないほどわずか |
| בְּרִית | ベリート | 契約 |
| חֶסֶד | ヘセド | 契約に基づく、変わることのない愛 |
| נֶאֱמָן | ネエマーン | 信頼できる。確かで揺るがない(「アーメン」と同じ語根) |
| אֶלֶף דּוֹר | エレフ・ドール | 千代 |
| רַב־טַבָּחִים | ラヴ・タッバーヒーム | 親衛隊の長。直訳は「屠る者たちの長」 |
| גְּדַלְיָהוּ | ゲダルヤーフー | ゲダルヤ。「主は大いなる方とされた」 |
| יִשְׁמָעֵאל | イシュマエール | イシュマエル。「神は聞かれる」 |
| מִזֶּרַע הַמְּלוּכָה | ミッゼラ・ハンメルーカー | 王権の種から。すなわち王族 |
| יוֹחָנָן | ヨーハーナーン | ヨハナン。「主は恵み深い」 |
| שְׁאֵרִית | シェエリート | 残された者。生き残り |
| מִצְפָּה | ミツパー | ミツパ。「見張り所」 |
| בְּרִית מֶלַח | ベリート・メラハ | 塩の契約 |
ギリシャ語(コロサイ人への手紙4章)
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| θύρα | テュラ | 戸・門 |
| λόγος | ロゴス | ことば |
| μυστήριον | ミュステーリオン | 奥義。隠されていて、今や明かされた事柄 |
| τοὺς ἔξω | トゥース・エクソー | 外部の人たち |
| ἐξαγοραζόμενοι | エクサゴラゾメノイ | 買い取りつつ。機会を十分に活かして |
| ἅλας | ハラス | 塩 |
| ἠρτυμένος | エールテュメノス | 味つけされた(その状態が続いている) |
| παρηγορία | パレーゴリア | 慰め。苦痛を和らげるもの |
| ἀγωνιζόμενος | アゴーニゾメノス | 格闘している。全力で闘っている |
| διακονία | ディアコニア | 務め・奉仕 |
※原語の表記・発音はClaude(AI)の支援を得てまとめています。発音はおおよそのカタカナ表記です。
※聖書引用は『聖書 新改訳2017』(©2017 新日本聖書刊行会)によります。

コメント