聖霊の涙——日いずる国、日本への執り成し

礼拝
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異言は、御霊の賜物の発電所だと言われます。伝道において、御霊の賜物は不可欠だと思わされます。

御霊によって祈る時、主が近くにおられ、うめきのような主の愛しさを感じます。み言葉を朗読する時、御霊によって祈る時、主のことを思う時、血潮を宣言する時——どんな時でも、天にも地にも満ちておられる主が、共にいてくださいます。

何よりも、主と共にいることが大好きです。だから、このところ御霊によって祈っています。

最近、色んな教会では7時間もの異言の祈りを捧げていると聞きました。私の教会ではそういうことはありませんが、一人でも異言で祈ることはできます。主が共におられることは、所属する教会とは関係のないことだからです。教会以外の場所でも、主は共におられます。

毎日の通読からも、主が近くにおられることを感じます。何かあるといつも主に目を向けるように、心を切り替える癖がついています。通読の力は強いと思います。み言葉が、確かに入ってくるからです。

毎日、真理の御言葉である主イエスと共にいることができる。ますます、離れたくなくなる。主イエスの素晴らしさを、日々み言葉から体験しているからかもしれません。聖書は不思議な書物です。読めば読むほど、神の愛の深さに圧倒されます。

そんな日々の中で、今日、車の中で祈っている時のことです。

今日も車の中で、異言で祈っていました。

言葉にならない言葉で祈る中、深い深い御霊の愛を感じました。まるで、聖霊様が涙されているような、そんな感覚でした。

その時、ふと思いました。聖霊様は、人々が滅びることを苦しんでおられるのではないか——そう感じたのです。

御霊の執り成しについて、聖書はこう語っています。

「同じように御霊も、私たちの弱さを助けてくださいます。私たちはどう祈ったらよいかを知りませんが、御霊ご自身が、言いがたい嘆きをもって、私たちのためにとりなしてくださるのです。」(ローマ8:26)

御霊は私たちの理解を超えて、神の御心にそって嘆き、執り成してくださいます。それは単なる感情ではなく、神の本質そのものから出てくる嘆きです。

「『私は悪人の死を喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ』と主、神は言われる。」(エゼキエル33:11)

神は、ひとりも滅びることを望まれません。

「主は、ある人々が遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。それは、ひとりも滅びることを望まないで、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからです。」(ペテロ第二3:9)

この御心を思う時、私は日本のことを思わずにいられません。

日本のクリスチャン人口は、1%に満たないと言われています。「宣教師の墓場」と呼ばれることもあるこの国で、長い間、多くの宣教師や信仰者たちが種を蒔き続けてきました。

それでも、私は信じています。神はこの国を見捨ててはおられない、と。

エルサレムから見て最も東にある国、日いずる国・日本。この国もまた、決して神の慈愛から外れた場所にはいない——そう信じたいのです。たとえ今、目に見える実が少なくとも、聖霊様は今日も、言いようのない深いうめきをもって、この国のために執り成してくださっています。

携挙が近いのかもしれません。だからこそ、今この時を主と共に過ごしたいと思うのです。

今日、車の中で感じたあの涙は、日本という国、そしてここに生きる一人ひとりへの、神の深い愛だったのかもしれません。

私たちも、その愛に応えて、執り成しの祈りを続けていきたいと思います。

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