聖書通読 2026.8.10 申命記13章/エゼキエル書4章・5章/テモテへの第二の手紙2章主は自分の者たちを知る―試みの中で明らかになるもの―

エゼキエル書
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預言が的中したら、その預言者は本物でしょうか。

奇跡が実際に起こったなら、その教えは正しいのでしょうか。

聖書は、この問いに驚くべき答えを出しています。今日の三つの箇所は、それぞれまったく違う時代と状況を描きながら、ひとつの問いを共有しています。偽りが神の民の内側に入り込んだとき、どうするのか。

申命記は「断て」と命じます。エゼキエル書は「断たなかった結果」を見せます。そしてテモテへの手紙は「柔和をもって教え導け」と言います。

矛盾しているように見えるこの三つが、実は一本の糸でつながっている――その糸を握っているのは、パウロが引用したたった一句でした。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

※本記事の聖書引用は、特に断りのない限り口語訳聖書(1954・1955年発行)によります。ヘブライ語・ギリシャ語のニュアンスを補うために私訳を用いる場合は、その都度「拙訳」と明記します。

第一部 申命記13章――投げる手は、主のものだ

※この第一部だけで、「偽りをどう見分け、どう扱うか」という今日の中心メッセージが示されます。

しるしが当たっても、従うな

まず、この章の出発点が衝撃的です。

“あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。”(申命記13:1-3)

注目したいのは「実現して」という一語です。ここで想定されているのは、予言が外れた偽預言者ではありません。当たった場合の話をしているのです。

現代の教会にも、この基準はそのまま通用します。癒しが起きた、預言が的中した、だからあの教師は本物だ――聖書はこの論法を、真っ向から否定しています。判断基準は現象ではなく、その人がどの神へと導くか。それだけです。

主イエスも同じことを警告されました。

“にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。”(マタイ24:24)

神が偽預言者を「泳がせる」理由

さらに驚くのは、その次の一節です。

“あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。”(申命記13:3)

つまり、偽預言者の登場そのものが、神の許しの中にあるということです。

ここで「試みる」と訳された言葉は、ヘブライ語でナサーと発音します。「試す」「吟味する」という意味の動詞です。

この言葉が使われている有名な場面が、創世記22章――アブラハムがイサクを捧げよと命じられた、あの出来事です。神がアブラハムを「試みられた」時と、まったく同じ動詞が使われています。

試みは、神が情報を得るためではありません。神はすでにご存じです。試みは、私たち自身が、自分の愛の実体を見るためにあります。信仰は、選択を迫られたときにはじめて、その形が見えるものだからです。

三つの同心円――誘惑はどこから来るか

13章は、三つの段落で構成されています。この構造が実に緻密です。

第一の段落(1-5節)は、預言者。宗教的な権威の口から来る誘惑です。

第二の段落(6-11節)は、家族と親友。

第三の段落(12-18節)は、町全体。共同体の空気そのものが変質する場合です。

権威の口からも、愛する人の唇からも、そして共同体の常識としても、誘惑は来る。特に第二の段落の表現が胸を打ちます。

“同じ母に生れたあなたの兄弟、またはあなたのむすこ、娘、またはあなたのふところの妻、またはあなたと身命を共にする友が、ひそかに誘って『われわれは行って他の神々に仕えよう』と言うかも知れない。”(申命記13:6)

この「身命を共にする友」を直訳すると、「あなた自身の魂のような友」となります。

実は、この表現とほぼ同じ言葉が、聖書のもう一箇所で使われています。ダビデとヨナタンです。

“ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。”(サムエル記上18:1)

聖書が最も美しい友情を描くために使った言葉が、ここでは最も危険な誘惑者の描写に使われている。愛が深いほど、その誘いは断りにくい。神はそれを承知の上で、この章を語っておられます。

【図解A:三つの同心円(預言者→家族と親友→町全体)】

誘惑はどこから来るか
申命記13章 三つの段落は、三つの円になっている
預言者
1〜5節
宗教的な権威の口から
町全体(12〜18節)
家族と親友(6〜11節)
あなた
内側の円ほど、線が太くなっています。距離が近いほど、誘いは断りにくい。危険度は、距離に反比例します。
中心のすぐ外にいる「身命を共にする友」は、直訳すると「あなた自身の魂のような友」。聖書がダビデとヨナタンの友情を描くのに使ったのと同じ言葉です(サムエル記上18:1)。

ラビたちが二千年間、一度も執行しなかった律法

第三の段落、町全体が偶像に走った場合の規定は、読むのがつらい箇所です。町の住民も家畜もことごとく滅ぼし、戦利品は広場に集めて焼き尽くせ、と命じられます。

ここで、ユダヤ人がこの箇所をどう扱ってきたかを知ると、視界が大きく開けます。

ラビたちはこの町を、イール・ハニッダハトと呼びました。「イール」が町、「ハニッダハト」が「押しやられてしまった」という意味です。

この呼び名は、実はテキストそのものから取られています。この章には「押しやる・道から逸らせる」という意味の動詞が三度出てきます。口語訳ではそれぞれ「そむかせ」(5節)、「離れさせよう」(10節)、「誘惑した」(13節)と訳し分けられていますが、ヘブライ語ではすべて同じ動詞です。申命記13章は、「押しやる」という一つの動詞が三度打ち鳴らされる章なのです。

そしてラビたちは、この律法の適用条件を積み上げていきました。誘惑者は町の内部の者でなければならない。複数でなければならない。町の大多数が実際に従っていなければならない。裁くのは七十一人の最高法院のみ――。

決定的な条件が、最後にあります。町の中に「メズーザー」が一つもないこと。

メズーザーとは、もともと戸口の柱そのものを指す言葉ですが、後代のユダヤ教では、そこに取り付ける小箱を指すようになりました。中には申命記6章の聖句を記した羊皮紙が納められています。そこには神の御名が書かれている。律法は「町のすべてを焼け」と命じますが、神の御名が記されたものを焼くことは、別の律法で厳しく禁じられています。

つまり、メズーザーが一枚でも残っていれば、この律法は執行不能になる。そして当時、メズーザーのないユダヤ人の家など、まず存在しませんでした。

タルムードには、こう記されています。イール・ハニッダハトは、かつて存在したことがなく、これからも存在しない。ではなぜ書かれたのか――ドローシュ・ヴェカベール・サハール。

これは「探求せよ、そして報いを受けよ」という意味の三語です。「ドローシュ」は「尋ね求めよ」、「カベール」は「受け取れ」、「サハール」は「報い」。

行うためではなく、学ぶためにある律法。学ぶこと自体に、主からの報いがある――彼らはそう受け取ったのです。

ここで注目したいのは、彼らがこの律法を軽んじたから執行しなかったのではないという点です。むしろ逆です。重すぎたのです。「これほど恐ろしい裁きを人の手で行うことに、我々は値するのか」という畏れが、二千年分の条件を積み上げさせました。

「まず、あなたが手を下せ」

もうひとつ、見逃せない規定があります。

“必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、あなたがまず彼に手を下し、その後、民がみな手を下さなければならない。”(申命記13:9)

告発した証人が、第一の石を投げる。これは申命記17章7節にも繰り返される規定で、目的は明白です。告発者に、血の責任を負わせるため。偽証すれば、自分の手で人を殺したことになります。口先だけの告発を封じる仕組みでした。

この規定を知ると、ヨハネによる福音書8章の、あの場面がまったく違って見えてきます。

姦淫の現場で捕えられた女が、イエスの前に引き出されました。律法学者とパリサイ人は言います、モーセは石で打ち殺せと命じている、あなたはどう思うか、と。

“彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。”(ヨハネ8:7)

この「まず」が決定的です。

主イエスは、律法を破っておられません。律法が定めた通りの順序を、そのまま要求されたのです。ただ、資格要件をひとつだけ加えられました。

律法は言う――第一の石は、証人が投げよ。

主は言われる――第一の石は、罪のない証人が投げよ。

「罪のない者」と訳されたギリシャ語は、アナマルテートスと発音します。「罪を犯していない」という意味の形容詞で、「罪を犯す」という動詞に否定の接頭辞が付いた形です。

そして、その動詞がもともと持っていたイメージが「的を外す」でした。語源をたどれば、アナマルテートスとは「一度も的を外したことのない者」ということになります。

興味深いことに、この単語は新約聖書全体で、ここ一箇所にしか登場しません。主イエスが、この場面のためだけに投げ込まれた一語です。

結果は、聖書が記す通りでした。

“これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。”(ヨハネ8:9)

長く生きた者ほど、自分に資格がないことを早く悟ったのです。

そして読者は知っています。その場に、的を外したことのない方が、ただひとりおられたことを。唯一、石を投げる資格を持っておられた方が、投げなかった。

“女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕”(ヨハネ8:11)

(なお、ヨハネ7章53節から8章11節は、写本により位置の揺れがあることが知られています。しかし極めて古くから伝えられた記事であり、教会は一貫してこれを主の物語として受け取ってきました)

投げる資格のあった方は、石を投げず、後にご自身が十字架を受けられました。ただし主は「今後はもう罪を犯さないように」と付け加えておられます。赦しは、罪をなかったことにする宣言ではありません。

だから、申命記13章はこう読むことができます。投げるべき石の重さを知りなさい。しかし、投げる手は主のものだ。

押しやられた者を、神は集めに行かれる

最後に、ひとつの言葉の旅を追ってみましょう。

この章を貫いていた「押しやる」という動詞。押しやられた町は、火に投じられます。

ところが同じ動詞が、聖書の別の場所では、まったく違う響きを持って現れます。口語訳は箇所によって「追放された」「追いやられた」と訳し分けていますが、ヘブライ語では同じ語です。

“わたしたちはみな死ななければなりません。地にこぼれた水の再び集めることのできないのと同じです。しかし神は、追放された者が捨てられないように、てだてを設ける人の命を取ることはなさいません。”(サムエル記下14:14。拙訳では「神は、追いやられた者が追いやられたままでいないように、はかりごとを立ててくださる」)

“主はエルサレムを築き、
イスラエルの追いやられた者を集められる。”(詩篇147:2)

“たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。”(申命記30:4)

押しやられた町は、滅びる。

しかし押しやられた者を、神は集めに行かれる。

同じ動詞です。申命記13章の裁きを語られた主が、同じ書の30章で、地の果てまで追いやられた者を迎えに行くと約束しておられる。

そして、この13章そのものが、こう閉じられていることも見落とせません。

“主が激しい怒りをやめ、あなたに慈悲を施して、あなたをあわれみ、先祖たちに誓われたように、あなたの数を多くされるためである。”(申命記13:17)

ここで「慈悲」と訳された言葉は、ヘブライ語で「母の胎」を意味する語から生まれています。血なまぐさいこの章の結論が、母の胎のような憐れみで閉じられているのです。

――第一部は以上です。ここまでで、今日の恵みは十分にお持ち帰りいただけます。

第二部 エゼキエル書4章・5章――体で語る預言者

※第二部は、申命記が警告したことが実際に起こったとき、何が見えるのかを確認する箇所です。時間のない方は、読み飛ばしても差し支えありません。

口を封じられた者が、体で語る

前日に読んだエゼキエル書3章で、神は預言者にこう告げておられました。

“そして、あなたの舌をわたしはあなたの上あごに付着させる。あなたは物を言えなくされ、彼らを責める人ではなくなる。彼らは反逆の家だからだ。”(エゼキエル書3:26・拙訳)

言葉を取り上げられた預言者に、神が次に命じられたことが、4章です。

“人の子よ、一枚のかわらを取って、あなたの前に置き、その上にエルサレムの町を描きなさい。”(エゼキエル書4:1)

説教ではありません。演技です。

かわらの上に故郷の都を描き、その周りに攻城用の土塁と陣を配置し、鉄の板を立てて自分と町とを隔てる。そして左脇を下にして横たわる。三百九十日。

捕囚の民は、毎日そこを通りかかりました。奇妙な男が、子どもの遊びのようなものを地面に広げ、身動きもせず横たわっている。エゼキエルの生活そのものが、掲示板になったのです。

ここで注目したいのは、材料の選択です。「かわら」と訳されたのは、日干しの粘土板のこと。それはバビロニアの標準的な建築材であり、書字材でもありました。捕囚民が毎日目にしていた、バビロンそのものの素材です。

バビロンの土で、エルサレムを描く。

その一点だけでも、この行為には痛切さがあります。

三百九十日と四十日――数字が語ること

続く命令に、聖書全体を貫く数字が現れます。

“わたしは彼らの罰の年数に等しいその日数、すなわち三百九十日をあなたのために定める。”(エゼキエル書4:5)

“あなたはその期間を終ったなら、また右脇を下にして寝て、ユダの家の罰を負わなければならない。わたしは一日を一年として四十日をあなたのために定める。”(エゼキエル書4:6)

三百九十と四十。合わせて、四百三十です。

この数字には、聞き覚えがあるはずです。

“イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。”(出エジプト記12:40)

同じ数字です。エゼキエルの横たわりは、逆向きの出エジプトを演じていることになります。かつて四百三十年の奴隷状態から導き出された民が、いま罪の重みによって、再び異国に横たわる。

さらに「一日を一年として」という換算方法も、荒野の四十年に由来します。

“あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」。”(民数記14:34)

聖書は、数字で記憶を呼び起こします。捕囚の民は、この日数を聞いた瞬間、自分たちがどこへ引き戻されたかを理解したはずです。

【図解B:390+40=430の対応(出エジプトとの照応)】

逆向きの出エジプト
エゼキエルが横たわった日数と、エジプト滞在の年数
出エジプト記12:40 エジプトに住んでいた年数
四百三十年
エジプト → 約束の地 (連れ出された)
エゼキエル書4:5-6 預言者が横たわる日数
三百九十日
イスラエルの家
四十日
約束の地 → バビロン (引き戻された)
三百九十 + 四十 = 四百三十
帯の長さは、実際の比率どおりに描いてあります。二本の帯は、同じ長さです。
「一日を一年として」という換算そのものも、荒野の四十年に由来します。偵察の四十日が、四十年になりました(民数記14:34)。捕囚の民は、この日数を聞いた瞬間に、自分たちがどこへ引き戻されたかを理解したはずです。

預言者が神に抗議し、神が譲られる

4章で最も人間味のある場面が、12節から15節です。

食糧は一日二十シケル(約230グラム)、水は一ヒンの六分の一(約0.6リットル)。これは籠城戦の配給量です。そしてそのパンを、人の糞を燃料にして焼け、と命じられます。

エゼキエルは叫びました。

“そこでわたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしは自分を汚したことはありません。わたしは幼い時から今日まで、自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べたことはありません。また汚れた肉がわたしの口にはいったことはありません」。”(エゼキエル書4:14)

彼は祭司でした(1:3)。生涯、清さの規定を守り抜いてきた人です。その彼に、汚れた食物を作れと命じられる。

そして次の一節が、この章の隠れた宝です。

“すると彼はわたしに言われた、「見よ、わたしは牛の糞をもって人の糞に換えることをあなたにゆるす。あなたはそれで自分のパンを整えなさい」。”(エゼキエル書4:15)

神が譲られたのです。

象徴の意味――異邦の地で汚れたパンを食べることになる――は保たれたまま、しもべの叫びに応じられました。

これはアブラハムがソドムのために値切った場面(創世記18章)、モーセが民のために立ちはだかった場面(出エジプト記32章)と同じ系譜にあります。神は、交渉することのできる方です。訴えを聞かない絶対者ではありません。

ここで注目したいのは、エゼキエルが抗議した内容です。彼は「つらいからやめさせてください」とは言いませんでした。「わたしは汚れたものを口にしたことがありません」――神ご自身が定められた清さの規定を根拠に訴えたのです。神のことばを握って神に訴える。これが聖書の祈りの形です。

祭司が、祭司の禁を犯すよう命じられる

5章の冒頭は、さらに苛烈です。

“人の子よ、鋭いつるぎを取り、それを理髪師のかみそりとして、あなたの頭と、ひげとをそり、はかりで量って、その毛を分けなさい。”(エゼキエル書5:1)

祭司には、頭やひげを剃ることが禁じられていました。

“彼らは頭の頂をそってはならない。ひげの両端をそり落してはならない。また身に傷をつけてはならない。”(レビ記21:5)

エゼキエル自身が、後に44章20節で同じ規定を語る立場です。つまり祭司エゼキエルは、祭司として絶対にしてはならないことを、神から命じられている。

彼の頭は、神殿と祭司職の運命を演じました。神殿が汚され、祭司職が屈辱を受ける――そのことを、彼は自分の身体で予告したのです。

剃られた髪は、はかりで三等分されます。三分の一は町の中で焼かれ、三分の一は剣で打たれ、三分の一は風に散らされる。籠城中に飢えと疫病で死ぬ者、剣に倒れる者、諸国へ散らされる者を表しています。

剃られた髪は、もう元の頭には戻りません。取り返しのつかなさが、この行為の本質です。

衣のすそに包まれた、わずかな毛

しかし、ここに小さな光があります。

“あなたはその毛を少し取って、衣のすそに包み、”(エゼキエル書5:3)

全滅ではないのです。わずかに守られる者がいる。

聖書はこれを「残りの者」と呼びます。ヘブライ語ではシェエリートと発音し、「残る」という動詞から生まれた言葉です。この思想は聖書全体を貫いていて、預言者イザヤは自分の息子に「シェアル・ヤシュブ」(残りの者は帰る)という名前を付けたほどでした(イザヤ書7:3)。

ただし、聖書は甘くしません。次の節はこう続きます。

“またそのうちから少しを取って火の中に投げ入れ、火でこれを焼きなさい。火はその中から出て、イスラエルの全家に及ぶ。”(エゼキエル書5:4)

守られた者が、自動的に安全なのではない。恵みの中にも、なお精錬があります。厳しいけれど、誠実なテキストです。

「わたしはあなたを、万国の中に置いた」

5章5節から、裁きの理由が語られます。

“主なる神はこう言われる、わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。”(エゼキエル書5:5)

直訳すると「諸国民のただ中に」。中世ヨーロッパの世界地図がエルサレムを中心に描かれたのは、この句が根拠でした。

しかし、続く言葉は容赦がありません。

“それゆえ主はこう言われる、あなたがたはそのまわりにいる異邦人よりも狂暴であって、わたしの定めに歩まず、わたしのおきてを行わず、むしろ、あなたがたの回りにいる異邦人のおきてを守っていた。”(エゼキエル書5:7)

異邦人以下だ、と言われているのです。

同じ論法を、預言者エレミヤも使いました。

“その神を神ではない者に取り替えた国があろうか。
ところが、わたしの民はその栄光を
益なきものと取り替えた。”(エレミヤ書2:11)

異邦人でさえ自分たちの神々を捨てないのに、わが民はまことの神を捨てた、と。

ここに、選びについての重要な真理があります。真ん中に置かれることは、特権ではなく責任でした。

エルサレムは見られる場所に立たされていました。だからこそ、そこでの背信は、諸国民の前で神の名を汚すことになる。選ばれるとは、見られる場所に置かれることです。

これは現代の教会にも、信仰者一人ひとりにも、そのまま当てはまります。職場で、家庭で、地域で、「あの人はクリスチャンだ」と知られている場所に置かれること――それは名誉である以上に、責任です。

折られる、いのちの杖

4章と5章に、同じ表現が二度出てきます。

“人の子よ、見よ、わたしはエルサレムで人のつえとするパンを打ち砕く。”(エゼキエル書4:16)

“わたしはあなたの上にききんを増し加え、あなたがつえとするパンを打ち砕く。”(エゼキエル書5:16)

パンは、体を支える杖である――という美しい比喩です。そしてこの表現は、レビ記26章の警告と同じものです。口語訳はエゼキエル書で「打ち砕く」、レビ記で「砕く」と訳し分けていますが、ヘブライ語では同じ表現です。

“わたしがあなたがたのつえとするパンを砕くとき、十人の女が一つのかまどでパンを焼き、それをはかりにかけてあなたがたに渡すであろう。あなたがたは食べても満たされないであろう。”(レビ記26:26)

ここに、今日の三箇所の並行の妙があります。申命記で警告されたことが、エゼキエル書で成就している。モーセが荒野で語った祝福とのろいが、六百年後、バビロンの捕囚地で現実になっている。

申命記13章は「偽りを断て」と命じました。エゼキエル書4章・5章は、それが行われなかった結果を映しています。

そして、この二つの章のあいだには、六百年の時間が流れています。神の忍耐が、そこにあります。

第三部 テモテへの第二の手紙2章――「すでに」と「いまだ」のあいだで

※第三部では、旧約で示された「偽りへの対処」が、新約においてどのような形を取ったのかを見ます。

三つの職業、三つの覚悟

パウロは獄中から、若いテモテに手紙を書いています。これは彼の最後の手紙と考えられています。

冒頭で語られるのは、三つの職業の絵でした。

“キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。”(Ⅱテモテ2:3-4)

「煩わされる」と訳された言葉は、「絡め取られる」という意味を持ちます。悪事に手を染めるという話ではありません。良いことであっても、絡まれば足を取られるということです。

次に競技者。

“また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。”(Ⅱテモテ2:5)

「規定に従って」はギリシャ語でノミモースと発音します。「法にかなって」という意味です。

興味深いのは、当時の競技会の実態です。オリンピア競技では、選手は定められた期間の訓練を経なければ出場資格そのものが与えられませんでした。走り方だけでなく、準備の仕方まで含めて「規定」だったのです。

そして農夫。

“労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。”(Ⅱテモテ2:6)

この順序が大切です。先に働き、後に受け取る。農業は、まいた種がその日のうちに実ることのない仕事です。

三つとも、今すぐの報酬がない働きです。兵士は司令官のために、競技者は規定のために、農夫は時間のために生きる。鎖につながれた老使徒が、これから長い戦いに入る青年に、この三つを差し出しました。

鎖につながれない言葉

“この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。”(Ⅱテモテ2:9)

ここで注目したいのは、ギリシャ語では「鎖」と「つながれていない」が同じ語根から出ていることです。パウロを縛る鎖と、神の言葉が縛られていないという宣言が、同じ語で結ばれている。「わたしは鎖の中にいる。しかし、これは縛られていない」――鋭い対比になっています。

そして、この手紙自体がその証拠です。獄中で書かれた言葉が、二千年後の日本の朝、開かれた聖書のページの上にある。これ以上の実証はありません。

初代教会が歌っていた四行

11節から13節に、少し様子の違う文章が挟まっています。

“次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。”(Ⅱテモテ2:11-13)

「次の言葉は確実である」という前置きは、パウロが引用を導入するときの決まり文句です。ギリシャ語で読むと対句のリズムがあり、パウロ以前から教会で歌われていた信仰告白だと広く考えられています。

四行の構造を見てください。

第一行――共に死んだなら、共に生きる。

第二行――耐え忍ぶなら、共に支配する。

第三行――彼を否むなら、彼も否まれる。

第四行――たとい我らが不真実でも、彼は真実である。

もし第三行で終わっていたら、これは恐ろしい歌です。しかし第四行が来ます。しかも理由まで添えられている――「彼は自分を偽ることが、できないのである」。

神が私たちに真実であられるのは、私たちが値するからではなく、神が神であることをやめられないからです。

ここが、今日の三つの箇所すべての重力の中心だと言えます。申命記13章の石も、エゼキエル書5章の火も、この一行の前では意味が変わります。裁きが軽くなるのではありません。裁きの向こうに、変わらない方が立っておられるということです。

まっすぐに切る

“あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。”(Ⅱテモテ2:15)

「正しく教え」と訳された言葉は、ギリシャ語でオルソトメオーと発音します。二つの語の合成です。

オルソス――まっすぐな。整形外科(オーソペディック)や正字法(オーソグラフィー)の「オルソ」です。

テムノー――切る。

合わせて「まっすぐに切る」。天幕作りを職業としていたパウロが、布を裁つ動作から取ったという説があります。道をまっすぐ通す、という解釈もあります。

いずれにせよ、曲げずに切るということです。

ヒメナオの誤り――主語のすり替え

そして、まっすぐでない切り方をした人物の名が挙げられます。

“彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。”(Ⅱテモテ2:18)

ここで、素朴な疑問が浮かぶかもしれません。主イエスの復活は、確かにもう起こったことではないか。なぜ「すでに済んだ」と言うことが誤りなのか。

答えは、主語にあります。

同じ章の8節で、パウロ自身がこう書いていました。

“ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。”(Ⅱテモテ2:8)

主イエスの復活については、パウロは完了したこととして語ります。しかし18節では「復活はすでに済んだ」を退ける。この8節と18節は、対になっているのです。

主イエスの復活は済んだ。しかし、私たちの体の復活は、まだ来ていない。

ヒメナオとピレトは、この二つを混ぜてしまいました。おそらく、バプテスマにおいて「キリストと共によみがえらされた」という表現を、これで全部だと受け取ったのでしょう。あるいは、霊が目覚めればそれが復活だという思想に傾いたのかもしれません。

どちらにせよ、こぼれ落ちるものがあります。体です。

なぜ「がん」と呼ばれたのか

“彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。”(Ⅱテモテ2:17)

「がん」と訳された言葉は、ギリシャ語でガングライナと発音します。医学用語の「壊疽」にあたる語です。組織が死に、放置すれば健康な部分まで巻き込んで広がっていきます。

パウロがこれほど強い言葉を選んだ理由は、三つあると考えられます。

第一に、慰めが消えます。先に死んだ家族はどうなるのか。復活が済んでしまったのなら、墓の中の人々は置き去りにされたことになります。

第二に、苦難の意味が消えます。これが2章全体との関係で決定的です。パウロは鎖につながれ、テモテには「苦しみを共にせよ」「耐え忍べ」と語っている。もし復活が済んでいるなら――なぜ耐えるのでしょうか。もう栄光の中にいるはずです。

ヒメナオの教えは、今、苦しんでいる人を説明できません。これは机上の神学論争ではなく、獄中の人間を侮辱する教えでした。

第三に、体が軽んじられます。体の復活がないなら、体で何をしても構わないことになる。放縦にも、逆に極端な禁欲にも転びます。

根本にあるのは、創造と受肉の否定です。神は体を造られ、御子は体を取られ、体で死に、体でよみがえられました。体を捨てる救いは、聖書の語る救いではありません。

【図解C:「すでに」と「いまだ」の復活理解】

「すでに」と「いまだ」
テモテへの第二の手紙2:18 ヒメナオは何を潰したのか
上段 聖書の理解
主イエスの復活
すでに
今 ― 苦しみと忍耐の時
パウロは鎖につながれている(2:9)
体の復活
いまだ
二点のあいだに距離があるから、「耐え忍ぶ」という言葉に意味が生まれます。
この距離を、一点に潰してしまうと
下段 ヒメナオの教え
「復活はすでに済んだ」
すでに=いまだ
慰めが消える
先に死んだ家族は
置き去りになる
苦難の意味が消える
もう栄光の中なら
なぜ耐えるのか
体が軽んじられる
放縦にも
極端な禁欲にも転ぶ
これは机上の神学論争ではありませんでした。ヒメナオの教えは、今まさに苦しんでいる人を説明できません。獄中にいる人間を侮辱する教えです。
根本にあるのは、創造と受肉の否定です。神は体を造られ、御子は体を取られ、体で死に、体でよみがえられました。体を捨てる救いは、聖書の語る救いではありません。

パウロ自身の「まだ」

パウロがこの緊張にどれほど自覚的だったかは、別の手紙にはっきり表れています。ピリピ人への手紙3章で、彼はこう書いています――自分はまだそれを得ていない、まだ完全な者になってはいない、と。

使徒パウロ本人が「まだだ」と言っているのです。ヒメナオは、パウロがまだ達していないと言うものを、済んだと言いました。

ローマ人への手紙8章の表現が、この緊張を最もよく言い当てています。御霊の初穂はすでに与えられている。しかし体の贖いは、なお待ち望むものである。私たちは、その間でうめいている、と。

「すでに」と「いまだ」――このあいだで生きることが、キリスト者の現在地です。片方に倒すと必ず壊れます。ヒメナオは「すでに」に倒しました。コリントの一部の人々は「復活などない」と「いまだ」の側に倒しました。パウロは、その両方と戦っています。

的を外す、という言葉

ここで、第一部に出てきた言葉を思い出してください。ヨハネ8章で主が使われた「罪のない者」――アナマルテートス。

この「的を外す」という動詞ハマルタノーから生まれた名詞が、ハマルティアです。新約聖書で「罪」と訳される、中心的な言葉です。

もともとは、槍や矢が的を外すことを指す言葉でした。それが「目標を達成しそこなう」「あるべき状態から逸れる」へと意味を広げ、「罪」を表す語になりました。

ヘブライ語も同じです。旧約で「罪」を表す主要な語ハーターは、士師記20章で、投石の名手たちが描写される場面に現れます。

“このすべての民のうちに左ききの精兵が七百人あって、いずれも一本の毛すじをねらって石を投げても、はずれることがなかった。”(士師記20:16)

この「はずれる」が、罪を表す語と同じ言葉なのです。

ヘブライ語もギリシャ語も、罪を「狙って外すこと」として捉えている。悪意より前に、まず照準のずれなのです。

そして、偽預言者や偽教師がすることは、まさに照準をずらすことでした。申命記13章の動詞「押しやる」――道から逸らせる――と、同じ運動です。

なお、士師記の名手たちが外さなかったのは、石を投げることでした。人は石を投げることには長けています。しかし、自分の照準のずれには気づかない。

そして、柔和へ

第一部で見た申命記13章は、剣と石を命じていました。ところが、この章の結びは驚くほど違います。

“主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。”(Ⅱテモテ2:24-26)

偽りを教える者に対して、パウロが命じるのは柔和です。

なぜ石から柔和へ変わったのか。それは第四部で見ます。

第四部 三箇所を貫く一貫性――主は、自分の者たちを知っておられる

石から柔和へ、何が変わったのか

今日の三つの箇所を並べると、ひとつの流れが見えてきます。

申命記13章は言いました――偽りは共同体を殺す。だから根を断て。

エゼキエル書4章・5章は見せました――断たなかった。その結果がこれだ。

テモテへの第二の手紙2章は命じます――柔和な心で教え導け。

一見すると、旧約の厳しさが新約でやわらいだように読めます。しかし、それは正確ではありません。

答えは、パウロが引用した一句にあります。

“しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。”(Ⅱテモテ2:19)

この二つの句は、パウロの創作ではありません。旧約からの引用です。

前半の「主は自分の者たちを知る」は、民数記16章のコラの反逆の場面から取られています。後半の「離れよ」も、同じ章の言葉に基づいています。

つまりパウロは、偽教師の問題を語るために、共同体の内側から起こった反逆の物語を、まるごと引っ張ってきたのです。

コラの反逆で、モーセは剣を取らなかった

民数記16章で起こったことを思い出してください。

コラとその一党は、モーセとアロンの権威に反抗しました。彼らはイスラエルの外の敵ではありません。レビ族であり、会衆の中の指導者たちでした。これはまさに、申命記13章が想定していた「内側からの誘惑」です。

そのとき、モーセは何をしたでしょうか。

彼は剣を取りませんでした。石も投げていません。彼が言ったのは「明日の朝、主はご自分に属する者を示される」という趣旨の言葉でした。判定を、翌朝の神にゆだねたのです。

そして翌日、地が裂けて反逆者を呑み込みました。裁きは、神が直接行われた。

ここに、決定的な鍵があります。

申命記13章の断固たる姿勢は、新約で消えたのではありません。執行者が変わったのです。

パウロが言っているのはこういうことです――偽りを最終的に断つのは神の仕事だ。あなたは離れなさい。まっすぐに教えなさい。そして柔和に忍びなさい。

これは寛容になったという話ではありません。むしろ逆です。人の手に渡すには危険すぎるから、神が握っておられる。第一部で見たイール・ハニッダハトをめぐるラビたちの畏れ――「これほど恐ろしい裁きを人の手で行うことに、我々は値するのか」――と、同じ場所に立っています。

そして主イエスは、姦淫の女の前でこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まず」。

投げるべき石の重さを知りなさい。しかし、投げる手は主のものだ。

「知る」という糸

もうひとつ、今日の三箇所を貫いている言葉があります。

申命記13章3節で、神が偽預言者を許される理由はこうでした――主を愛するかどうかを「知ろうと」して、試みられる。

そしてテモテへの第二の手紙2章19節――「主は自分の者たちを知る」。

神は、試みて知ろうとされる。

そして神は、すでに知っておられる。

矛盾しているでしょうか。そうではないと思います。

神が試みられるのは、神が情報を得るためではありません。私たち自身が、自分の愛の実体を見るためです。信仰は、選択を迫られたときにはじめて、その形が現れます。心の中で「私は主を愛している」と思っているだけでは、何も見えません。最も愛する家族が別の道へ誘うとき、はじめて自分がどこに立っているかが分かる。

そして、その試みの一部始終を、神はすでにご存じです。

これは怖い言葉でしょうか。それとも慰めでしょうか。

パウロがこの句を置いた文脈を見れば、答えは明らかです。彼はこれを「神のゆるがない土台」と呼びました。ヒメナオとピレトの偽りによって、ある人々の信仰がくつがえされていた――そういう状況の中で、パウロは言うのです。誰が本物かは、あなたには判定できない。しかし神はご存じだ。だから土台は揺るがない、と。

判定も、執行も、神のもとにあります。

これほど心を軽くする言葉があるでしょうか。私たちは、隣の人の信仰を判定する重荷を負わなくてよいのです。

【図解D:三箇所を貫く「知る」の糸】

三箇所を貫く「知る」の糸
同じ一語が、三つの書を縦につないでいる
申命記13:3
主を愛するかどうかを知ろうとして、試みられる
偽預言者が現れることを、神は許される
エゼキエル書5:13
彼らは主であるわたしが熱心に語ったことを知るであろう
裁きの目的も、知ることに置かれている
テモテへの第二の手紙2:19
主は自分の者たちを知る
これをパウロは「神のゆるがない土台」と呼んだ
神は、試みて知ろうとされる
情報を得るためではなく
私たちが自分の愛の実体を見るため
神は、すでに知っておられる
誰が本物かを
私たちは判定できない
判定も、執行も、神のもとにある
私たちは、隣の人の信仰を判定する重荷を負わなくてよい
投げるべき石の重さを知りなさい。しかし、投げる手は主のものだ。

二つの器

もう一本、細い糸があります。

エゼキエルは、汚れた穀物を「一つの器」に入れるよう命じられました(4:9)。異邦の地で汚れたパンを食べることになる、という象徴です。

そしてパウロは、テモテにこう書きます。

“大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。”(Ⅱテモテ2:20-21)

汚された器と、清められる器。

エゼキエルの時代、器を清める道はありませんでした。彼はただ、汚れを身に負って横たわるほかなかった。

しかしパウロは「清めるなら」と書きます。清めることのできる時代が来たのです。それは、真実であられる方が、私たちの不真実を負ってくださったからです。

「たとい、わたしたちは不真実であっても」

今日の三箇所は、重い言葉ばかりでした。

家族が誘っても手を下せ、という律法。町が焼かれ、髪が三分され、父が子を食うという預言。がんのように広がる偽りの教え。

しかし、その全部の重さを受け止めた上で、初代教会の人々が歌っていた四行目に戻りたいと思います。

“たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。”(Ⅱテモテ2:13)

神が私たちに真実であられるのは、私たちが値するからではありません。神が、神であることをやめられないからです。

申命記13章は、こう閉じられていました――主が激しい怒りをやめ、慈悲を施し、あわれまれるように、と。ここで「慈悲」と訳された言葉は、ヘブライ語で「母の胎」を意味する語から生まれています。

そして、押しやられた町は火に投じられても、押しやられた者を、神は地の果てまで集めに行かれる。

裁きは軽くなっていません。ただ、裁きの向こう側に、変わらない方が立っておられる。

私たちの側は「すでに」と「いまだ」のあいだで揺れています。救われているのに、まだ完成していない。信じているのに、まだ体は贖われていない。

その揺れの中で、ゆるがないものが一つだけあります。

主は、自分の者たちを知っておられる。

忘れられない、ということ

最後に、ひとつの歌を置かせてください。

一九九九年に発表された、LYREの「だから忘れないで」という曲です。

【YouTube LYRE「だから忘れないで」】

タイトルを見たとき、今日の三箇所とちょうど向かい合っていると感じました。

「忘れないで」というのは、呼びかける側の願いです。忘れられてしまうかもしれない、という不安がその底にあります。人と人のあいだでは、いつもそうです。どれほど深い関係でも、記憶は薄れます。ヨナタンとダビデのような友情でさえ、片方が世を去れば、残された側の記憶だけになる。

ところが今日読んだ三箇所は、これを逆側から語っていました。

申命記13章で、神は試みて知ろうとされました。エゼキエル書で、神は彼らが知るようになると言われました。そしてテモテへの第二の手紙で、こう記されています――主は自分の者たちを知る。

つまり、覚えていてくださるのは、神の側なのです。

私たちが忘れないように努力して、その努力によってつながりを保つのではありません。順序が逆でした。まず知られている。すでに覚えられている。そこから信仰が始まります。

これは、思っている以上に大きなことだと思います。

私たちは自分の信仰の質を疑います。今日は祈れなかった、今日は怒ってしまった、あの人を心の中で裁いてしまった。そうやって、自分がまだ神のものであるかどうかを、自分で判定しようとします。

けれども今日のパウロは、その判定を私たちの手から取り上げました。誰が本物かは、あなたには分からない。しかし神はご存じだ。だから土台は揺るがない、と。

判定も、執行も、神のもとにあります。

エゼキエルは舌を封じられ、三百九十日と四十日を横たわりました。言葉を奪われた預言者に残されたのは、体だけでした。それでも神は、その体を通して語られた。彼が何も語れない日々も、神は彼を忘れておられません。

不真実であっても、真実であられる方がおられる。それは、私たちが覚え続けられなくても、覚えていてくださる方がおられる、ということでもあります。

だから、忘れないでいてください。

忘れないでいてくださる方が、いるということを。

語彙表

ヘブライ語

原語発音意味
נָסָהナサー試す、試みる、吟味する(辞書形)
יְנַסֶּהイェナッセナサーの未完了形3人称男性単数。申13:3「試みられる」
יָדַעヤダー知る(辞書形)
לָדַעַתラダアト「知るために」。申13:3の不定詞形
נָדַחナダハ押しやる、追いやる、道から逸らせる(辞書形)
נִדַּחַתニッダハトナダハの女性単数受動分詞
הַנִּדַּחַתハニッダハト「その、押しやられた」。定冠詞+女性単数受動分詞
עִיר הַנִּדַּחַתイール・ハニッダハト押しやられた町、惑わされた町
נֶפֶשׁネフェシュ魂、命、自分自身
חֵיקヘークふところ、胸
כָּלִילカリール全部の、完全な。全焼のいけにえを指す祭儀用語
חֵרֶםヘーレム聖絶。主に献げるために完全に滅ぼすこと
רַחֲמִיםラハミーム慈悲、あわれみ(複数形)。レヘム(母の胎)から
שְׁאֵרִיתシェエリート残りの者。シャアル(残る)から
שְׁאָר יָשׁוּבシェアル・ヤシュブ「残りの者は帰る」。イザヤの息子の名
בֶּן־אָדָםベン・アダム人の子。エゼキエル書での預言者への呼称
לְבֵנָהレベナーかわら、日干し煉瓦
מַטֵּה־לֶחֶםマッテー・レヘムパンの杖。マッテー(杖)+レヘム(パン)
חָטָאハーター的を外す、罪を犯す(辞書形)
דְּרוֹשׁ וְקַבֵּל שָׂכָרドローシュ・ヴェカベール・サハール「探求せよ、そして報いを受けよ」
מְזוּזָהメズーザー戸口の柱、門柱。後代のユダヤ教では申命記6:4-9等を記した羊皮紙を納めた容器

ギリシャ語

原語発音意味
ἀναμάρτητοςアナマルテートス罪のない者。ハマルタノーに否定の接頭辞が付いた形(ヨハネ8:7、新約に一度のみ)
ἁμαρτάνωハマルタノー罪を犯す、的を外す(辞書形)
ἁμαρτίαハマルティア罪、的外れ
ἐμπλέκωエンプレコー絡める、巻き込む(辞書形)
ἐμπλέκεταιエンプレケタイⅡテモテ2:4。現在・中動/受動・直説法3人称単数
νομίμωςノミモース規定に従って、法にかなって
γεωργόςゲオールゴス農夫。ゲー(地)+エルゴン(働き)
δέωデオー縛る、つなぐ(辞書形)
δεσμόςデスモス鎖、束縛。Ⅱテモテ2:9では複数属格デスモーン
δέδεταιデデタイⅡテモテ2:9。完了・中動/受動・直説法3人称単数「縛られている」
ὀρθοτομέωオルソトメオーまっすぐに切る。オルソス(まっすぐな)+テムノー(切る)
γάγγραιναガングライナ壊疽
σκεῦοςスケウオス器、道具
λεῖμμαレインマ残りの者(ローマ11:5)
πραΰτηςプラウテース柔和

本記事の聖書本文は、日本聖書協会発行の口語訳聖書(1954・1955年発行)を使用しています。著作権の保護期間(財産権)は満了していますが、本文の改変は行っておりません。※聖書語句訂正一覧に該当する語句は使用しておりません。

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同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません
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