変貌山が明らかにした答え
そして、マタイ17章の変貌山で、すべてが明らかになります。
イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れました。興奮したペテロは言いました。「三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」(17:4)
つまりペテロは、三人を同列に置こうとしました:
- モーセ(律法)
- エリヤ(預言者)
- イエス
しかし、父なる神が雲の中から語られました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」(17:5)
そして、雲が去った後—
「ただイエスおひとりだけであった」(17:8)
これが答えでした。
これは11月12日 学んだことですが、私にはいつまでも心に響いています。
この時はマタイの福音書でした。今回は、マルコの福音書からです。
変貌山の雲が去った後、主イエスだけが私のそばにいて下さている。祈りも、み言葉の朗読そして学びも、すべて毎回、主の御顔を慕い求め、主イエスにお会いする為であることを覚えます。
「イエス様」と言う時、「主イエスこそ、そばにいてくださる私の救い主です」と告白しているのですと、今日の礼拝メッセージで学びました。
ここでコービーブレイクタイム、今日の記事にピッタリな曲です。
私は少しながら族なので、この曲を小さくBGMにして聖書を読んでいます。
目次
神の時を待つ忍耐と従順の完成
2025年12月21日(日)の通読
創世記 41章14節〜36節
Ⅱ列王記 5章〜6章
マルコの福音書 9章1節〜29節
今日の通読箇所には、一つの共通したテーマが流れています。それは「神の時を待つ忍耐」と「従順の完成」、そして「イエスだけ」という信仰の核心です。ヨセフの13年間の忍耐、ナアマンの七度の従順、そして変貌山で弟子たちが最終的に見たイエスだけ――これらの記事が互いに響き合い、私たちの信仰を深めてくれます。
1. ヨセフ ― 地下牢から王の前へ
「ひげをそり、着物を着替えた」の意味
そこで、パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。
― 創世記 41:14
この小さな描写には深い意味があります。地下牢から急いで呼び出されたヨセフ。パロの前に出る前に、彼は身なりを整えたのです。
これは単なるエジプトの習慣(エジプト人はひげを剃る文化)への適応だけではありません。ヨセフはどんな状況でも、神の代表として立つ者としての品位を保ったのです。13年間の奴隷生活と投獄。普通なら心が荒み、「早く行かなければ!」と焦るところです。しかしヨセフは急ぎながらも、整えるべきものは整えました。
これは彼の内面の状態を表しています。彼の心は地下牢にいても腐っていなかった。神の時が来た時、すぐに立ち上がれる状態にあったのです。
「私ではありません。神が」― シャロームの深い意味
ヨセフはパロに答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」
― 創世記 41:16
ここで「繁栄」と訳されている言葉、原語ではשָׁלוֹם(シャローム)です。単なる「繁栄」ではなく、「平和、完全、健全さ」を含む豊かな言葉です。
ヨセフは「神がパロにシャロームを答えてくださる」と言ったのです。夢の解き明かしだけでなく、神がパロの全存在に対して平和の答えを与えてくださるという宣言でした。
そしてこれが異邦人の王に対して語られていることに注目してください。ヨセフを通して、イスラエルの神の祝福が異邦人に流れ出ている。まさにアブラハム契約の「あなたによって全ての民族が祝福される」(創世記12:3)の成就の型です。
二度繰り返される夢の意味
夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。
― 創世記 41:32
聖書において、神が同じことを二度語られる時、それは確定と緊急性を意味します。七頭の牛と七つの穂という二つの異なるイメージで同じ内容が示されたのは、神の御計画が変わらないことの証しでした。
イエスの型としてのヨセフ
ヨセフの生涯は、驚くほど主イエスと重なります。
| ヨセフ | 主イエス・キリスト |
|---|---|
| 兄弟たちに拒絶され、売られた | ご自分の民に拒絶され、引き渡された |
| 地下牢(死の場所)から引き上げられた | 死からよみがえられた |
| 異邦人の王の前に立った | すべての権威を受けられた |
| 飢饉の中で命のパンを与えた | 霊的飢饉の中でいのちのパンとなられた |
| 「私ではありません。神が」 | 「わたしの教えはわたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです」(ヨハネ7:16) |
| 兄弟たちを赦し、和解をもたらした | 十字架で赦しを宣言し、神との和解をもたらされた |
特に心に留まるのは、両者とも拒絶した者たちを赦し、救ったという点です。ヨセフは自分を売った兄弟たちに「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創世記50:20)と言って赦しました。主イエスは十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈られました。
地下牢から引き上げられたヨセフが、飢饉の中でエジプトと周辺諸国に命のパンを与えたように、死からよみがえられた主イエスは、霊的な飢饉の中にある全人類にいのちのパンを与えてくださいます。創世記を読むたびに、旧約聖書全体がイエス様を指し示していることを実感します。
2. ナアマン ― 七度の従順
将軍の信仰の旅
アラムの将軍ナアマンは、権力も富も名声も持っていました。しかしツァラアト(重い皮膚病)に冒されていた。彼の信仰の旅は、私たちすべての信仰者の旅を映し出しています。
「幼子のからだのように」― 新生の型
すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
― Ⅱ列王記 5:14
単に皮膚病が治ったのではありません。ナアマンは新しく生まれたかのようになったのです。これはヨハネ3章のニコデモへの主イエスの言葉を思い起こさせます。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。
アラムの将軍、異邦人、力ある者が、ヨルダン川で七度身を浸した時、幼子として生まれ直したのです。そして彼の口から出た最初の言葉は、信仰告白でした。
「二頭の騾馬に載せるだけの土」を求めたナアマンの願い(5:17)は、イスラエルの土の上で主を礼拝したいという純粋な信仰の表れでした。
七という数字の意味
七は完全数 ― 神の働きの完成を表す聖書の数字
ナアマンは一度や二度では癒されませんでした。六度でもない。七度目に癒されたのです。神の御業が完成する時まで、従順に続けることが求められました。
もしナアマンが五度で「やはりだめだ」と諦めていたら?六度で「もう十分だろう」と自己判断していたら?神の完成の時まで従う。これが信仰の本質の一つです。
3. エリシャ ― 霊的な目で見る現実
「私たちとともにいる者は多い」
すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
― Ⅱ列王記 6:16
アラム軍が馬と戦車と大軍でドタンを包囲した時、エリシャの召使いは恐怖に打たれました。「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」(6:15)。しかしエリシャは全く恐れていません。なぜなら、彼には見えていたからです。
火の馬と戦車は実在していた
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
― Ⅱ列王記 6:17
ここで重要なのは、エリシャが「主に願った」ということです。そして「主がその若い者の目を開かれた」とあります。これは想像や信仰的な比喩ではありません。神が実際にその若者の目を開いて、霊的領域にある実体を見せたという記述です。
火の馬と戦車は、若者の心の中のイメージではなく、そこに実在していたのです。ただ普段の人間の目には見えない領域にあった。神がその領域を見る許可を与えられた時、若者は実際に見たのです。
町を包囲していた
「どうしたらよいのでしょう」
エリシャを取り巻いて
山に満ちていた
「恐れるな」
エリシャ自身はすでにその目を持っていたから、恐れませんでした。「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多い」と事実として語れたのです。これはまさに「見えるものにではなく、見えないものに目を留めます」(Ⅱコリント4:18)の実例です。
4. 変貌山 ― イエスだけ
マルコ9:1の解釈
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」
― マルコ 9:1
この言葉は何を指しているのでしょうか。文脈を見ると、「それから六日たって」(9:2)という接続があります。マルコがこの言葉の直後に変貌山の出来事を記録していることは、意図的な配置と考えられます。
- 変貌山での出来事(最も文脈に沿う)― ペテロ、ヤコブ、ヨハネが栄光の姿のイエスを「見た」。神の国の王が栄光のうちに現れた瞬間。
- 復活と昇天 ― イエスの勝利の完成。死に対する決定的な勝利。
- ペンテコステ ― 聖霊降臨により神の国が「力をもって」動き始めた。
- エルサレム陥落(AD70) ― 一部の学者が支持する見解。
直接の文脈(6日後の変貌)と、ペテロ自身が後に「私たちは主イエス・キリストの力と来臨を…目撃者として伝えた」(Ⅱペテロ1:16-18)と変貌山を振り返っていることから、変貌山が第一義的な成就と考えられます。ただし、復活・昇天・ペンテコステと重層的に成就していったとも言えるでしょう。
「自分たちといっしょにいるのはイエスだけ」
ペテロは幕屋を三つ造ろうとしました。モーセとエリヤをイエスと同列に置こうとしたのです。しかし神は雲の中から語られました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。
モーセとエリヤが消えた後、「自分たちといっしょにいるのはイエスだけ」(9:8)。律法も預言者も、最終的にはイエスを指し示すためにありました。そして目的地に着いたら、道しるべは必要なくなるのです。
どんなにみ言葉の知識を詰めても(モーセ=律法)、どんなに御霊に満たされて祈っても(エリヤ=祈りの勇士)、最終的に私たちと共にいてくださるのは主イエスだけ。主イエスの十字架の血潮の力なくして、私たちには何もないのです。
エリヤとバプテスマのヨハネ
しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。
― マルコ 9:13
「エリヤはもう来た」― これはバプテスマのヨハネのことです。ヨハネはエリヤの霊と力で来ました(ルカ1:17)。マラキ4:5-6の預言「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」の成就です。
「祈りによらなければ」
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
― マルコ 9:29
弟子たちはすでに悪霊を追い出す権威を与えられていました(マルコ6:7,13)。しかしこの場面では失敗しました。なぜでしょうか。
彼らは権威を「持っている」ことと、その権威が流れる「状態にある」ことを混同していたのかもしれません。祈りは神との交わり、神への依存を意味します。弟子たちは「自分たちにはできるはずだ」と、与えられた権威を自分のもののように扱い、源である神との繋がりなしに行使しようとしたのではないでしょうか。
マタイ17:21には「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」とあります(写本により異なる)。祈りと断食は、神への完全な依存と献身を表します。
結び ― 神の完成の時まで従う信仰
今日の通読箇所を通して、「神の時を待つ忍耐」「従順の完成」「イエスだけ」というテーマが響き合っています。
ヨセフは13年間、地下牢の中でも心を腐らせず、神の時を待ちました。ナアマンは七度目まで従順に従い、完全な癒しを受けました。エリシャは霊的な目で現実を見て、恐れませんでした。そして弟子たちは変貌山で、最終的にイエスだけを見ました。
その信頼の中で歩む者の姿が、今日の箇所全体に流れています。
🙏 祈り 🙏
天のお父様、今日の御言葉を感謝します。
ヨセフのように、どんな状況でもあなたを信頼し、
あなたの時を待つ忍耐を与えてください。
ナアマンのように、あなたの方法に完全に従う
従順の心を与えてください。
エリシャのように、見えない現実を見る
霊的な目を開いてください。
そして何よりも、私たちの目が
主イエスだけに向けられますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
noteの方では聖書初心者にも読みやすく記事を書いています。読んでくださいね
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