聖書は読むたびに深くなります。記事では偉そうなこと書いていますが、私が一番目が見えない者です。今日も聖霊様の光に照らされて一歩でも前進したいと願います。後退してもまた一歩、主にお会いするその日まで
2025年12月20日 通読箇所:創世記41:1-13、Ⅱ列王記3-4章、マルコ8:22-38
目次
🌿 見えないものを見る信仰
―三つの箇所が問いかける「霊的視力」
今日の通読箇所は一見バラバラに見えます。創世記のヨセフ物語、列王記のエリシャの奇跡、マルコ福音書のペテロの告白。しかし、これらを貫く一つの糸があります。
それは「霊的な視力」というテーマです。
目に見える現実と、信仰によって見える現実。その違いが、今日の三つの箇所すべてに流れています。
📖 マルコ8章の盲人の癒し―なぜ二段階だったのか
ベツサイダでの盲人の癒しは、福音書の中でも異例です。イエスは通常、一言で、一瞬で癒されます。なのになぜこの盲人だけ二段階なのでしょうか。
文脈が語る意図的な配置
この癒しの記事は、マルコによる意図的な「配置」です。前後の文脈を見ると、その意味が浮かび上がります。
直前(8:17-18):イエスは弟子たちに言われた―「目があっても見えないのですか。耳があっても聞こえないのですか」
直後(8:29):ペテロが「あなたはキリストです」と告白する
その直後(8:32-33):ペテロがイエスの十字架を理解できず叱られる
つまり、この盲人の二段階の癒しは、弟子たちの霊的状態の比喩なのです。
「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」
これはまさにペテロの状態。イエスが「キリスト」だとはわかった。でも、そのキリストが十字架で死ぬという真実はまだ「ぼんやり」としか見えていない。完全な視力を得るには、イエスの「もう一度の触れ」が必要でした。弟子たちにとって、それは復活後の聖霊降臨だったのかもしれません。
📖 創世記41章―夢を「見る」力と「解く」力の違い
パロは夢を見た。でも理解できなかった。エジプトのすべての呪法師と知恵ある者たちも、夢の内容は聞いた。でも解き明かせなかった。
ヨセフだけが解き明かせた理由がここにあります。「見る」ことと「悟る」ことの決定的な違いです。
パロの呪法師たちは、エジプトの「知恵」を持っていました。象徴を読み解く技術、夢判断のマニュアル、長年の経験。
でも神の霊がなければ、神のメッセージは解読できない。
献酌官長の「あやまち」
41:9で献酌官長が言った「あやまち」(ヘブライ語:חֵטְא ḥēṭ’「罪」「過失」)とは、ヨセフの無実を王に報告しなかったこと、ヨセフとの約束を忘れて2年間も放置したことでした。
しかし、これは人間的な恩知らずであると同時に、神の時が来るまでヨセフがエジプトで「隠される」という摂理でもありました。神の時(カイロス)は人間の計画より遅く見えても、完璧なタイミングで来るのです。
📖 列王記3-4章―エリシャの「見えている」世界
エリシャの奇跡を読んでいて気づくのは、彼がいつも見えない現実を見ているということです。
水のない谷で水を見る(3章)
目に見える証拠は何もない。風もない、雲もない、雨の気配もない。でもエリシャは神の言葉を通して、まだ存在しない水を見ている。
同じ窮地、違う反応
| 人物 | 同じ状況に対する反応 |
|---|---|
| ヨラム王(イスラエル) | 「ああ、主がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と絶望 |
| ヨシャパテ王(ユダ) | 「ここには主のみこころを求めることのできる主の預言者はいないのですか」と神を求めた |
同じ状況でも、神を求める人と諦める人がいる。私たちはどちらでありたいでしょうか。
シュネムの女の「シャローム」
今日の通読で最も心を打たれた箇所は、実はシュネムの女の信仰です。
原文で彼女が答えた言葉はשָׁלוֹם(シャローム)―「平安です」「大丈夫です」。
子どもが死んでいるのに「シャローム」と言った。
これは嘘ではありません。彼女はまだ見えていない神の働きを信じていたのです。エリシャのところに行けば何かが起こると信じていた。だから走った。手綱をゆるめずに走った。
目に見える現実は「死」。でも彼女は神の人を通して働かれる神の力という見えない現実を見ていた。これが信仰の視力です。
大麦のパン20個で100人を―予表としての奇跡
召使いには不可能に「見える」。でもエリシャには、神の約束という「見えない現実」が見えている。
大麦のパン20個で
100人を養い、余った
5つのパンと2匹の魚で
5000人を養い、12かご余った
私たちの手にあるものが少なく見えても、神の手に渡せば増える。これは新約の五千人の給食を予表する奇跡でした。
🔍 三つの箇所をつなぐ問い
「あなたは何を見ているか?」
今日の箇所に登場する人物たちの「見ていたもの」を整理してみましょう。
| 人物 | 見ていたもの |
|---|---|
| パロ | 夢は見たが、意味が見えなかった |
| 弟子たち | イエスを見たが、十字架の必要性が見えなかった |
| ヨラム王 | 窮地を見て「モアブの手に渡される」と絶望を見た |
| ヨシャパテ王 | 同じ状況で「主の預言者はいないのか」と希望を見た |
| シュネムの女 | 子どもの死を見たが、神の力への信頼を失わなかった |
| ベツサイダの盲人 | 最初「人が木のように」見え、やがてすべてがはっきり見えた |
📝 今日の適用
1. 神の時を待つこと
献酌官長が忘れた2年間、ヨセフにとっては長い待ち時間でした。しかし、パロが夢を見た「まさにその時」にヨセフは思い出された。神の時は人間の計画より遅く見えても、完璧なタイミングで来ます。
2. 信仰は段階的に成長する
盲人の癒しが二段階だったのは象徴的です。弟子たちも同じ―ペテロは「あなたはキリストです」と告白できたけど、まだ十字架の意味は理解できなかった。信仰の成長は一瞬ではなく、プロセスなのです。
3. 「シャローム」と言える信仰
シュネムの女は、子どもが死んでいる状況で「シャローム(平安です)」と言えた。これは現実逃避ではなく、まだ見えていない神の働きを信じる信仰でした。私たちも困難の中で、神の約束を「見る」ことができますように。
🙏 結びに
肉眼で見えることと、霊的に悟ることは違います。むしろ、肉眼で見えすぎることが霊的な盲目につながることもあります。
イエスが言われた言葉が響きます:
「自分には見えていない」と認められる謙遜さ。それが霊的視力の第一歩なのかもしれません。エリシャでさえ「主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ」(4:27)と言えたのですから。
私たちの霊的視力は今、どの段階にあるでしょうか。イエスの「もう一度の触れ」を求めて祈りましょう。

コメント