― サウルとダビデから学ぶ信仰 ―
目次
導入
今日の通読箇所は創世記29章1-14節、第二サムエル8-9章、マタイ26章30-46節でした。
ヤコブとラケルの出会い、ダビデの征服と王国の確立、メフィボシェテへの恵み、そしてゲツセマネでの主イエスの祈り。どれも深い気づきを与えてくれる箇所です。
今日の箇所で気づきはたくさんありましたが、特に「主を信じます」という賛美を思い出す箇所が心に残ったので、ここに集中して分かち合います。
それは、第二サムエル8章を読んでいて湧いてきた一つの疑問でした。
「神様は不公平ではないか?」
サウルとダビデ:なぜ扱いが違うのか
第二サムエル8章18節に、こう記されています。
「ダビデの子らは祭司であった」
ダビデはユダ族です。レビ族でなければ祭司になれないはずなのに、なぜダビデの子らが祭司と呼ばれているのか。ダビデ自身もエポデを着て契約の箱の前で踊り、いけにえを捧げました。律法的には問題があるはずの行為です。
ここで思い出すのは、サウル王のことです。
サウルの罪(第一サムエル13章、15章)
・サムエルを待ちきれず、自分で全焼のいけにえを捧げた
・アマレク人との戦いで、滅ぼし尽くせと命じられたのに、良いものを残した
・結果:王位を剥奪され、神の霊が離れた
ダビデの「律法違反」的行為
・エポデを着て踊った(第二サムエル6章)
・いけにえを捧げた(第二サムエル6:13、24:25など)
・垂れ幕のない幕屋を建てた
・異邦人(ケレテ人、ペレテ人)を近くに置いた
・聖別されたパンを食べた(第一サムエル21章)
・結果:叱責されず、むしろ祝福された
正直に告白します。これは不公平に見えます。
いくつかの解釈
この違いについて、聖書学者たちはいくつかの解釈を提示しています。
1.「心の違い」説(伝統的解釈)
サウルの問題は行為そのものより心の動機だったという解釈です。サウルは自分の立場を守るため、民の顔色を見て行動しました(第一サムエル15:24「民を恐れて」)。一方ダビデは、純粋に神を喜ばせたい、神の臨在を慕い求める心から行動しました。
2.「メルキゼデク的王=祭司」説
神はダビデと特別な契約(ダビデ契約)を結ばれ、その中でダビデに特別な祭司的機能を許可されたという解釈です。創世記14章に登場するメルキゼデクは「サレムの王であり、いと高き神の祭司」でした。王でありながら祭司でもあるという、レビ的祭司制度とは別のカテゴリーです。
詩篇110:4で主はメシアについてこう宣言されています。
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である」
ダビデはこのメシア的な「王であり祭司」の型(タイプ)として、神から特別な許可を与えられていた可能性があります。
3. 並行箇所の言い換え
興味深いことに、第二サムエル8:18の「ダビデの子らは祭司であった」という箇所は、歴代誌第一18:17では「ダビデの子らは王の側近の第一の者であった」と言い換えられています。
これは「祭司」(コハニーム)という言葉が、必ずしも文字通りのレビ的祭司職を意味していなかった可能性を示唆しています。宗教的役職ではなく、政治的・行政的な「王の相談役」という意味だったのかもしれません。
4.「時代の違い」説
サウルの時代はまだ律法が厳格に適用される過渡期であり、ダビデの時代には神が新しいことを始められていたという解釈もあります。ダビデの幕屋は来るべきメシア時代の「型」として神が特別に許可されたものでした。
それでも残るモヤモヤ
これらの解釈はどれも一理あります。しかし、正直に言うと、完全には納得できない部分が残ります。
聖書には「なぜダビデには許されたのか」の明確な説明がないのです。神様は説明されていません。
これは私たちにとって信仰のテストなのかもしれません。
神様の主権を認めるか。神様が「この人には許す、この人には許さない」と決められる権利を持っておられることを受け入れられるか。
ローマ9:20-21にはこうあります。
「形造られた者が形造った者に向かって、『あなたはなぜ、私をこのように造ったのですか』と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器と、卑しいことに用いる器を造る権利を持っていないのでしょうか。」
私の中にある痛み
この疑問が私の心に深く刺さるのは、おそらく私自身の経験と重なるからです。
私は厳しく育てられました。同じことをしても、私は叱られ、他のきょうだいは許される。そんな経験が積み重なると、「なぜ私だけ?」という感覚が心に染みついていきます。
だから聖書を読んでいても、この疑問が湧いてくるのです。
「もし私がサウルのような失敗をしたら、神様は私を見放されるのではないか」
「他の人は許されても、私だけは許されないのではないか」
「神様は私を愛しておられないのではないか」
この恐れは、理屈では解決できません。
サウルとダビデの悔い改めの違い
しかし、サウルとダビデをよく見ると、確かに違いがあります。それは悔い改めの質です。
サウルが罪を指摘された時、彼はこう言いました。
「私は罪を犯しました…どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰って、私が主を礼拝できるようにしてください」(第一サムエル15:24-25)
一見すると悔い改めの言葉です。しかしサウルの関心は、民の前で恥をかきたくないという自分の体面にありました。「私といっしょに帰って」という言葉に、それが表れています。
一方、ダビデの悔い改めはどうでしょうか。詩篇51篇で彼はこう祈っています。
「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です」(詩篇51:4)
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません」(詩篇51:17)
ダビデは神の前だけを見ていました。人にどう見られるかではなく、神との関係だけを見つめていました。
この「心の向き」の違いは、確かにはっきりしています。私もダビデのこの姿勢は尊敬できます。本質を知って、神の御心を知って、御心に従い、神を敬って真心で悔い改める。
それでも、すべてが完全に説明できるわけではありません。モヤモヤは残ります。
あの主イエスが不公平なことをするわけがない
そんな時、私の心に浮かんだのは、ヨハネ8章の場面でした。
姦淫の現場で捕らえられた女性。律法学者やパリサイ人たちに引きずり出され、好奇の目にさらされ、石を持った群衆に囲まれている。彼らは「正義」の名のもとに、この女性を裁こうとしていました。
現代のSNSでもよく見る光景です。誰かの失敗を見つけると、「自分こそが正しい」という正義感を振りかざして批判する。それは本当の正義ではありません。
しかし主イエスは違いました。
群衆が一人また一人と去っていった後、主イエスはこの女性にこう言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:11)
ただお一人で、この女性を助けられたのです。
そして、このお方は、罪人を救うためにご自分の命を十字架で捨てられました。批判するためではなく、救うために来られた。裁くためではなく、いのちを与えるために来られた。
そのお方が、不公平なことをされるはずがない。
サウルとダビデの扱いの違いを、私は完全には理解できません。でも、あの主イエスのご人格を知っている。十字架の愛を知っている。だから、分からなくても信じることができる。
分からなくても信じる
この思いを抱えた時、一つの賛美が心に浮かびました。
「主を信じます」(訳詞:David Kazama)
あなたが見えない時 あなたが分からない時
約束強く握り ただひとつ望みを持つ
主を信じます 主を信じます
主を信じます あなたを信じます
神様が見えない時がある。分からない時がある。「なぜ?」と叫びたくなる時がある。
それでも、約束を握りしめて「主を信じます」と告白する。
これが信仰の本質ではないでしょうか。
▶ この賛美を聴く:YouTube
結び
私はこれからも、「なぜ私だけ?」という感覚と戦うことがあるでしょう。神様を不公平だと感じて、いじけてしまうこともあるかもしれません。
でも、そんな時に思い出したいのです。
姦淫の女性をただお一人で助けた主イエス。罪人を救うために十字架で命を捨てられた主イエス。あのお方が、不公平なことをされるはずがない。
だから、分からない時でも、見えない時でも、「主を信じます」と告白したい。
モヤモヤを抱えながらも、主イエスの人格を信頼して歩んでいきたい。
それが、今日聖書から与えられた恵みです。
今日の通読箇所:
創世記29章1-14節、第二サムエル8-9章、マタイ26章30-46節
こちらのnote記事は聖書初心者にもわかりやすく書かれています。
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