2026年2月25日の聖書通読 「地よ、私の血をおおうな——降伏することすらできない私に、神はすでに動いておられた」 —ヨブの絶叫から空の墓へ、先行く恵みの軌跡—

聖書の名言集
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2026年2月25日 出26章1から14 ヨブ16章17章 ルカ24章1節から12節

前書き

「地よ、私の血をおおうな。」

これはヨブが神に向かって叫んだ言葉である。全てを失い、友人には責められ、病に倒れながら、それでも彼は神に訴え続けた。降伏することすらできない自分を見ながら、それでも天を仰いだ。その魂の渇望が、まだ見ぬとりなし手——後にイエス・キリストとして来られる方——の輪郭を先取りした。

時代は下り、復活の朝、ペテロは空の墓の前に立った。答えはなかった。亜麻布だけがあった。彼は驚き続けながら家に帰った。信仰の完成ではなく、問いの前での降伏が、復活の命への入口だった。

そしてその遥か前、荒野でイスラエルの民は幕屋を建てた。神が先に設計図を与えられた。人間が願う前に、神はすでに「共に宿る場所」を備えておられた。

三つの箇所、三つの時代。しかし一本の糸が貫いている。

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:トーラー——神が先に設計された場所

出エジプト記26章1〜14節

神はいつも、人間より先に動いておられる。


幕屋の設計図が始まる。これほど細かい寸法と素材の指定が、なぜ聖書に記録されているのか。多くの読者がここで戸惑う。しかしこの細部こそが、神の性格を最も鮮明に映し出している箇所の一つである。

神は「だいたいこんな感じで」とは言わない。

28キュビト(約13メートル)の亜麻布の幕、青・紫・緋色の撚り糸、金の留め金50個、やぎの毛の幕11枚、赤くなめした雄羊の皮。これだけの精度で命じられた設計図は、神がご自分の臨在される場所に対してどれほど真剣であるかの表れである。

ここで注目したいのは素材の価値である。

素材 ヘブライ語 意味・背景
亜麻布(撚り糸) שֵׁשׁ(シェーシュ) 最高品質のエジプト亜麻。当時の最高級織物
紫色 אַרְגָּמָן(アルガマン) 地中海ムレックス貝から採取。1gに数千匹必要な超高級染料。王族の色
青色 תְּכֵלֶת(テケレット) 同じくムレックス貝系。神聖さを象徴する色
緋色 תּוֹלַעַת שָׁנִי(トラアト・シャニー) コチニール虫から採取。「緋の虫」という意味を持つ

かつてエジプトで奴隷として働いていた民が、これを作り上げた。しかし逆説がある。奴隷時代にエジプトの高度な建築・織物技術を叩き込まれていたからこそ、この精緻な幕屋を作ることができた。神は苦しみの中でも、次の使命のための技術を蓄えさせておられた。

そしてケルビムが幕に織り込まれた。ケルビムは創世記3章でエデンの園の入口を守った天使である。神の臨在の場所には、常にケルビムがいる。幕屋はエデンの回復の予型でもあった。

さらに深い逆説がある。これほど精密な設計図を与えたのは人間ではなく神である。つまり神が先に設計された。人間は後から従っただけである。臨在の場所を整えることすら、神の側からの働きかけで始まった。

これが今日の通読全体を貫くテーマの入口である。神はいつも先に動いておられる

幕屋の層構造図

幕屋の層構造図(断面)

出エジプト記26章1〜14節 内側から外側へ、四層の覆い

第四層:じゅごんの皮のおおい 第三層:赤くなめした雄羊の皮のおおい 第二層:やぎの毛の幕(11枚) 第一層(最内側):亜麻布の幕(10枚) 青色・紫色・緋色の撚り糸 ケルビムの刺繍 金の留め金50個でつなぎ合わせる 28キュビト(約13m)×4キュビト(約1.8m)×10枚
素材 ヘブライ語 神学的意味
第一層(最内側) 亜麻布+青・紫・緋の撚り糸
ケルビムの刺繍
שֵׁשׁ(シェーシュ)
תְּכֵלֶת(テケレット)
אַרְגָּמָן(アルガマン)
神の栄光・聖性の象徴。ケルビムはエデンの守護者。神の臨在の直接の覆い
第二層 やぎの毛の幕(11枚) עִזִּים(イッジーム) 罪の贖いを象徴。「いけにえのやぎ」との関連。聖所を守る実用的な覆い
第三層 赤くなめした雄羊の皮 אֵילִם(エイリーム) 血による贖罪の予型。キリストの血による贖いを先取りする
第四層(最外側) じゅごんの皮 תַּחַשׁ(タハシュ) 外部の風雨から守る。神の臨在は外側からは目立たない。謙遜の象徴とも

※ キュビト(אַמָּה アンマー):指先から肘までの長さ、約45〜50cm


第二部:旧約——ヨブの絶叫と、天の証人への渇望 ヨブ記16〜17章


友人たちの「慰め」が続く。しかしヨブはそれを「煩わしい慰め手」と呼ぶ。なぜか。彼らの言葉は神学的に整っていたかもしれない。しかし正しい答えが、正しい人から来ていなかった。理屈は合っていても、愛がなかった。ヨブの魂はそれを見抜いていた。

ここで注目したいのは16章17節である。

「しかし、私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい」

皮膚病で地に伏し、財産も子どもも失い、友人には責められているヨブが、これを言える。これは傲慢ではない。長年神と歩んできた者の静かな確信である。常日頃から神と共に歩んでいなければ、あの状況でこの言葉は出てこない。

そして16章18節、聖書の中でも最も激烈な叫びの一つが来る。

「地よ。私の血をおおうな。私の叫びに休み場所を与えるな。」

これは絶望ではなく、神への訴訟である。

古代の概念では、殺された者の血が地に覆われると、その訴えが天に届かなくなると考えられていた。創世記4章10節でカインに殺されたアベルの血が「地の中から叫んでいる」と神が言われた場面と同じ構造である。ヨブは言っている——「私が死んでも、私の訴えを消すな。神よ、聞き続けてくれ」と。

しかし次の節で、驚くべき転換が起きる。

「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(16:19)

ヨブは神を「敵」と感じながら、その同じ神に訴えている。神以外に正しい裁判官がいないことを知っているから。そして天の証人もまた神であると、魂で知っている。**訴える相手と、証言してくださる方が同じ方。**人間の法廷ではあり得ない構造である。しかしこれがキリスト教信仰の核心である。神は裁判官でありながら、弁護人でもある。

そして16章21節で、ヨブは思わぬ言葉を口にする。

原語 発音 意味
מֵלִיץ メーリーツ 仲介者・弁護者・とりなし手
גֶּבֶר ゲーベル 人・勇士(「人の子」に相当)

「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」

ヨブはメシアを名指しで知らなかった。しかし「そういう方がいなければならない」という神学的必然を、苦しみの中で魂が発見した。論理ではなく、極限の痛みの中から絞り出された渇望が、キリストの輪郭を先取りした。これを神学的に預言的先取りと呼ぶ。

17章でヨブの言葉はさらに沈んでいく。

「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。」(17:1)

しかし注目したいのは17章9節である。

「義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える。」

絶望の言葉の中に、これが置かれている。ヨブは自分の状況を嘆きながら、同時に義の原則を手放さない。苦しみが信仰を壊さなかった。むしろ苦しみの中で信仰の核が露わになった。

そしてヨブ記の最後で、神はヨブの友人たちではなくヨブを正しいと言われた。「だいたい合っていた神学」より、「正直な魂の叫び」の方が神には届いていた。

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第三部:新約——空の墓と、問いの前での降伏

ルカ24章1〜12節

週の初めの日の明け方早く、女たちは香料を持って墓に向かった。彼女たちの目的は明確だった。死者に香料を塗る、という愛の行為である。復活を期待していたわけではない。ただ愛する方の遺体を丁重に扱いたかった。

しかし墓に着くと、石がわきに転がしてあった。

「入って見ると、主イエスのからだはなかった。」(24:3)

聖書はここで何も説明しない。驚きも、叫びも、感情の描写もない。ただ「なかった」という事実だけが置かれている。この簡潔さが、かえってリアルである。

途方に暮れる女たちの前に、まばゆい衣を着た二人の人が現れ、言った。

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(24:5〜6)

この問いかけは鋭い。「なぜ死人の中で捜すのか」——女たちは間違った場所を正しい方法で捜していた。愛は正しかった。しかし前提が古かった。イエスはもはや死の領域にいない。

そして天使は続ける。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」

**記憶を呼び起こすことが、信仰の回復の入口だった。**女たちはイエスのみことばを思い出した。理解が先ではなかった。言葉が先にあり、状況がその言葉に追いついた。

女たちの報告を聞いた使徒たちは「たわごと」と言って信じなかった。これは当時の文化的背景もある。ユダヤ社会では女性の証言は法的効力を持たなかった。しかし神は意図的に、最も社会的証言力の低い者たちを復活の最初の証人とされた。これは神の逆説的な働き方である。

そしてペテロだけが走った。

ここで注目したいのは、ペテロが走った動機が「信じたから」ではないことである。他の弟子たちと同様、彼も完全には信じていなかったかもしれない。しかし体が動いた。

なぜか。

三年間イエスのそばにいたペテロには、消えない記憶があった。鶏が三度鳴いたあの朝、イエスが振り返ってペテロを見た目である(ルカ22:61)。聖書はその目に何が宿っていたかを書いていない。しかしペテロが「外に出て激しく泣いた」という事実が、すべてを語っている。怒りの目で見られた人間は逃げる。愛の目で見られた人間は泣く。

その目が忘れられなかった。だから体が動いた。信仰より先に、愛された記憶が走らせた。

墓に着いたペテロが見たのは、空の墓と残された亜麻布だけだった。答えではなく、問いだけがあった。

原語          発音              意味

ὀθόνια          オソニア                亜麻布・細い麻の布

ἐθαύμαζεν       エタウマゼン         驚いた・不思議に思った(未完了過去:驚き続けた)

「驚いて家に帰った」——この「驚いた」はギリシャ語でἐθαύμαζεν(エタウマゼン)、未完了過去形である。一瞬驚いたのではなく、驚き続けながら帰ったという意味である。答えが出ないまま、問いを抱えて歩いた。

しかしその問いの中で、何かが変わっていた。

信仰はいつも証拠の完成から始まるのではない。問いの前での降伏から始まる。ペテロは空の墓の前で、自分の理解の限界を知った。そしてその限界の前で膝が折れた時、復活の命が彼の中に入り始めた。

これはヨブが「降伏することすらできない」と知った時に、天の証人への渇望が生まれたこととつながっている。そして幕屋の設計図が神から与えられたように、信仰の一歩も、神が先に備えてくださった場所に踏み込むことである。


第四部:全体の一貫性——神はいつも先に動いておられた

出エジプト26章・ヨブ16〜17章・ルカ24章を貫くテーマ


今日の三つの箇所は、時代も場所も文学ジャンルも全く異なる。幕屋の設計図、苦難の中の義人の叫び、そして復活の朝の空の墓。しかしこれらを一本の糸が貫いている。

神はいつも、人間より先に動いておられる。


出エジプト記26章で、神は幕屋の設計図を与えられた。人間が「神の住まいを作りたい」と願ったのではない。神が先に「ここに住む」と決め、その設計図を与えられた。臨在の場所を整えることすら、神の側からの働きかけで始まった。

奴隷だった民がこの精緻な幕屋を作れたのは、エジプトでの苦しみの中で技術が蓄えられていたからである。苦しみの時間さえも、神は無駄にされなかった。神は次の使命のために、すでに準備をされていた。

ヘブライ語で幕屋は

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原語 発音 意味
מִשְׁכָּן ミシュカン 住まい・臨在の場所・共に宿る場所

「共に宿る」という意味を持つ。神が人間と共にいたいという願いは、人間より先に神の側にあった。


ヨブ記16〜17章で、ヨブは極限の苦しみの中で叫んだ。「地よ、私の血をおおうな」——これは絶望ではなく神への訴訟だった。しかしその叫びの中で、ヨブは天の証人の存在を渇望した。「とりなしてくださる方がいなければならない」という魂の必然が、キリストの輪郭を先取りした。

ヨブはその方を知らなかった。しかし神はすでに、その方を備えておられた。ヨブの渇望が生まれる前に、答えはすでに神の御心の中にあった。

ここで注目したいのは、ヨブが「降伏することすらできない」状況に置かれていたことである。自分の力で信頼を作り出すことができなかった。しかしその無力の中でこそ、天の証人への渇望が生まれた。神は人間の無力を、信仰の入口として使われる。


ルカ24章で、ペテロは空の墓の前に立った。答えはなかった。問いだけがあった。しかしその問いの前で降伏した時、復活の命が彼の中に入り始めた。

ペテロを走らせたのは彼自身の信仰の強さではなかった。愛された記憶だった。イエスの目が彼を覆っていた。自分の力で信頼するのではなく、主が信頼できるように覆ってくださっていた。

復活もまた、人間が願ったのではなく神が先に備えられた出来事である。女たちは遺体に香料を塗りに来た。死を前提にして動いていた。しかし神はすでに、死を超えた場所に答えを置いておられた。


三つの箇所を並べると、一つの構造が見えてくる。

幕屋——神が先に設計し、住まいを備えられた。 ヨブ——神が先に、とりなし手を備えておられた。 復活——神が先に、死を超えた答えを置いておられた。

そしてこの三つに共通するのは、人間の側の「降伏」である。

イスラエルの民は設計図に従った。ヨブは「降伏することすらできない」自分を見た。ペテロは問いを抱えたまま帰った。誰も完全に理解してから動いたのではない。理解の限界の前で、それでも神の側に向いた。

これが聖書の信仰の構造である。

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箇所 神の先行く働き 人間の応答
出エジプト26章 幕屋の設計図を与えられた 従って作った
ヨブ16〜17章 とりなし手をすでに備えておられた 無力の中で渇望した
ルカ24章 復活を先に置いておられた 問いの前で降伏した

最後に、今日の三箇所が指し示す一つの真実を記したい。

神学的な言葉で言えば「先行恩寵」——神は人間が求める前に、すでに動いておられる。しかしそれは冷たい神学的概念ではない。

ペテロが墓から帰る時、驚き続けながら歩いた。答えがないまま、問いを抱えて歩いた。しかしその歩みの中で、何かが変わっていた。神はすでにそこにおられた。ミントのような清涼感と共に、静かに覆っておられた。

降伏することすらできない私たちに、神はすでに動いておられる。

それが幕屋の細部に込められた神の真剣さであり、ヨブの絶叫に応えた天の証人であり、空の墓が告げる復活の朝の意味である。

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