「霊と真をもって ― 本物になれなくても、素のままで」

通読

今日の通読箇所 2025年12月6日 創世記32章4節から21節 第二サムエル20章21章 マルコ1章1節から20節

天が裂けた日

マルコ福音書は、主イエスの公生涯の始まりをこう記している。

「水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(マルコ1:10-11)

このわずか二節に、三つのことが同時に起きている。

天が裂けた。御霊が鳩のように下った。父なる神の声が響いた。

父と子と聖霊。三位一体の神が、ヨルダン川のほとりで一つの場面に現れた瞬間だった。

霊と真

主イエスは「ことば」そのものだった。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)

「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)

生ける真理のみ言葉である主イエス。その方の上に、御霊が下った。

ここに「霊と真をもって礼拝する」(ヨハネ4:23)の原型がある。

主イエスはサマリヤの女にこう言われた。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ4:23)

み言葉と御霊が一つになった姿。それが主イエスであり、それが「霊と真」の礼拝の土台なのだ。

「真」とは何か

ヨハネ4:23の「真」は、ギリシャ語で「アレーセイア」(ἀλήθεια)という。

この言葉の語源をたどると、「隠されていないこと」「覆いが取られた状態」という意味がある。

つまり「霊と真をもって礼拝する」とは、神の前で自分を隠さないということではないだろうか。

完璧な人間が捧げる礼拝ではない。自分を飾らず、素のままで神の前に出る。それが「真」の礼拝なのだ。

本物になれなかった人たち

聖書には、「本物」とは程遠い人物がたくさん登場する。

ヤコブ。彼は兄エサウを騙し、父イサクを欺いた。「かかとをつかむ者」という名の通り、策略によって祝福を奪い取った男だった。

しかし20年後、エサウと再会する恐怖の中で、ヤコブはこう祈った。

「私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。」(創世記32:10)

自分が受けるに足りない者だと認めた。神の前で、自分を隠さなかった。

その夜、ヤコブは神の使いと格闘し、「イスラエル」という新しい名を与えられた。

ダビデ。彼は姦淫を犯し、忠実な部下を殺させた。王としても、人間としても、多くの失敗を重ねた。

しかしダビデは詩篇でこう告白している。

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

神が求めておられるのは、完璧さではなく、砕かれた心なのだと彼は知っていた。

サマリヤの女。五人の夫を持ち、今いる男も夫ではなかった。昼の暑い時間に一人で水を汲みに来るほど、人目を避けて生きていた女性だった。

主イエスは、そんな彼女に「霊と真をもって礼拝する者」の話をされた。

社会的にも道徳的にも「本物」とは程遠い彼女に、主は真の礼拝について語られたのだ。

神の前には隠されていない

私たちは「本物」になれない。嘘をつき、失敗し、弱さを抱えている。

でも、神の前にはすべてが隠されていない。私たちが隠そうとしても、神はすべてをご存知だ。

だからこそ、隠すのをやめることができる。

「本物になれない自分」を認めて、素のままで神の前に出る。それが「アレーセイア」、真の礼拝の始まりなのだと思う。

主イエスのバプテスマの場面で、天から声があった。

「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

この声は、主イエスが何かを成し遂げた後に語られたのではない。公生涯が始まる前、何も「実績」がない時点で、父なる神は「あなたを喜ぶ」と宣言された。

神は、私たちの業績や完璧さを見ておられるのではない。御子イエスを信じ、素のままで神の前に出てくる者を、神は受け入れてくださる。

下のリンクは、今日の箇所の素朴な疑問を解説した記事です。

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