通読箇所:出エジプト29:1〜18 ヨブ30〜31章 ヨハネ3:22〜36
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
「神の前に立つ」とは、どういうことなのだろうか。
今日の三つの通読箇所を開いた時、一つの問いが浮かび上がってきた。出エジプト記の祭司の聖別式を読みながら、ふと気づく。水で洗われ、油を注がれ、いけにえの血が捧げられる——この三つは何を指し示しているのか。
Ⅰヨハネ5:8にはこうある。「証しするものが三つある。御霊と水と血である。この三つは一つに合わさっている」。みことばの水の洗い、聖霊の注ぎ、キリストの血潮——神の前に出るための三つの備えが、何千年も前の荒野の儀式にすでに刻まれていた。
しかし「神の前に立つ」とは、儀式だけの話ではないはずだ。苦しみの中のヨブは、怒りも訴えも何も隠さず、本音で神と格闘し続けた。ヨハネは「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と語り、自分ではなく主イエスを見上げた。
水と血と御霊によって備えられ、本音で神に向かい、主イエスを見上げる——この問いを抱えながら、今日の箇所を読んでいただきたい。
目次
第一部:トーラー——祭司の聖別、神に近づくための「儀式」
出エジプト記29章1〜18節
※この第一部だけで、「神の前に立つとはどういうことか」という今日の中心メッセージが示されます。時間のない方はここまでで十分です。
「あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない」(29:1)
この命令を受けた「あなた」とは誰か。ここで度々登場する「あなた」は、レビ族でも他の祭司たちでもなく、モーセである。
これは重要な構造を示している。アロンとその子らを「祭司として聖別する」のはモーセの役割であり、聖別する者は聖別される者より上の権限を持っている。モーセは大祭司にはならなかったが、神と民の仲介者として、大祭司を任命する権限を与えられていた。後にイエス・キリストが永遠の大祭司として立てられ(ヘブル7章)、同時に新約の聖徒を「王なる祭司」として立てる(Ⅰペテロ2:9)という構造は、まさにここに原型がある。
水で洗われることから始まる
「アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない」(29:4)
祭司の聖別式は、まず水による洗いから始まる。装束を着る前、油を注がれる前、いけにえを捧げる前——最初に行われることが「水で洗う」ことだというのは、偶然ではない。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| רָחַץ | ラーハツ | 洗う、沐浴する |
| מַיִם | マイム | 水 |
| קָדַשׁ | カーダシュ | 聖別する、区別する |
エペソ5:26には「みことばによる水の洗いで、きよめて聖なるものにするため」とある。祭司が奉仕の前に水で洗われること——これはみことばによって聖別されるという新約の原理の先取りである。水が洗うのではなく、水の洗いという行為が指し示すものが洗うのだ。
装束を着せる——役割を与えられる
水で洗われた後、アロンは段階的に装束を着せられる(29:5〜6)。長服、青服、エポデ、胸当て、帯、かぶり物、そして聖別の記章。これらは単なる制服ではない。特に注目したいのは「聖別の記章」(29:6)で、これはかぶり物の前面に付ける金のプレートであり、「主に聖なる者」と刻まれていた(出28:36)。
祭司は自分の資格で神に仕えるのではない。神から与えられた「聖別の記章」——すなわち神に区別された者としての身分によって仕えるのである。これは新約聖徒が「キリストにある者」として神に近づく構造と全く同じである。
油を注がれる——権威を授けられる
「そそぎの油を取って、彼の頭にそそぎ、彼に油そそぎをする」(29:7)
頭への油注ぎは権威と任命のしるしである。後にイスラエルの王たちもこの油注ぎによって任命される(サウル、ダビデ、ソロモン)。そして「キリスト」(הַמָּשִׁיחַ、ハ・マーシアハ)、ギリシャ語で「クリストス」(Χριστός)とは「油注がれた者」という意味である。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| מָשַׁח | マーシャハ | 油を注ぐ |
| מָשִׁיחַ | マーシアハ | 油注がれた者=メシア |
アロンへの油注ぎは、来るべきメシアの型である。大祭司アロンが油注がれたように、真の大祭司であるイエスは聖霊によって油注がれた(ルカ4:18「主の御霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるために、わたしに油を注がれた」)。
いけにえの重さ——罪を取り除くことの「コスト」
聖別の儀式に必要なもの:若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭、種を入れないパン(29:1〜2)。雄牛の血を指で祭壇の角に塗り、残りの血は祭壇の土台に注ぐ(29:12)。内臓の脂肪を祭壇で焼く(29:13)。雄牛の肉と皮と汚物は宿営の外で焼く(29:14)。次の雄羊を屠り、その血を祭壇の周りに注ぎかける(29:16)。内臓と足を洗い、全部を祭壇で焼く(29:18)。
洗う、着せる、注ぐ、置く、屠る、塗る、注ぐ、焼く、洗う、焼く——肉体を使った、重く、においのある作業の連続である。罪を取り除くことがいかに重大な問題かを、頭でなく肉体に刻み込むためではないだろうか。罪は「軽く済む」ものではない。そのことを毎日、具体的な労働を通して確認する——これが旧約の礼拝制度の教育的機能であった。
そしてヘブル書はこう語る。「ただひとつのささげ物によって、聖なるものとされた人々を永遠に全うされました」(ヘブル10:14)。何千年分の祭司の労働が指し示していたもの——それが十字架の一度のいけにえに完成した。
「なだめのかおり」——神はこのにおいをどう受け取るか
「これは、主への全焼のいけにえで、なだめのかおりであり、主への火によるささげ物である」(29:18)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| רֵיחַ | レアハ | かおり、香り |
| נִיחוֹחַ | ニホアハ | 安息、なだめ、慰め |
「なだめのかおり」(רֵיחַ נִיחוֹחַ、レアハ・ニホアハ)は直訳すると「安息のかおり」「なぐさめのかおり」である。神はいけにえを捧げる者の心——悔い改め、感謝、献身——をそのかおりを通して受け取られる。
エペソ5:2は、このイメージをキリストの十字架に適用する。「キリストも、私たちを愛して、私たちのために、ご自分をささげ、神へのかぐわしい香りのささげ物、また、いけにえとしてくださいました」。旧約の祭司が捧げた「なだめのかおり」は、キリストが全人類のために捧げた唯一の、完全な「かぐわしい香り」の型であった。
【第一部のまとめ】出エジプト29章が示す「神の前に立つ」とは、自分の力や資格によってではない。水で洗われ(みことばによる聖別)、油を注がれ(聖霊による任命)、いけにえの血が捧げられる(キリストの十字架の血潮)——この三つは切り離せない。Ⅰヨハネ5:8はこう語る。「証しするものが三つある。御霊と水と血である。この三つは一つに合わさっている」。旧約の祭司の聖別式は、この「水・血・御霊」という神の前に出るための三つの備えの、完全な予型だったのである。すべては神の側からの働きかけによって初めて可能になる。私たちが神の前に立てるのは、自分の義によってではなく、キリストにあって聖別されているからである。
第二部:旧約——ヨブの自己吟味、魂をさらけ出して神の前に立つ
ヨブ記30章・31章
※第二部は、苦しみの中で神に向かい続けることを魂のレベルで掘り下げます。
「私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません」(30:20)
ヨブ記30〜31章は、ヨブの長い独白の頂点である。30章では苦しみの訴え、31章では自己の潔白の宣言——この二つが合わさって、人間が神の前に立つとはどういうことかを、圧倒的なリアリティで描き出している。
ヨブの転落——栄光から嘲りへ
30章の冒頭は衝撃的である。かつて長老として門に座り、若者たちが道を譲り、貴人たちが黙って耳を傾けた人物(29章)が、今や「私よりも若い者たちに嘲られる」(30:1)存在になっている。しかも嘲る者たちは社会の最底辺——荒野を漂い、えにしだの根を食べ、谷の穴に住む者たちの子どもたちである(30:3〜6)。「私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった」(30:29)——ヨブは自分の惨状を、荒野の動物に例える。
ここで注目したいのは、ヨブが嘲る者たちを恨んでいないことである。彼が向けている怒りと問いかけは、一貫して神に対してである。
「あなたは、私にとって、残酷な方に変わられ、御手の力で、私を攻めたてられます」(30:21)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| אַכְזָר | アハザール | 残酷な、冷酷な |
| עָנָה | アーナー | 答える、応答する |
| שָׁוַע | シャーワ | 叫ぶ、助けを求める |
「残酷な方」(אַכְזָר、アハザール)——これは神への言葉としては、聖書の中でも最も激しい表現の一つである。神はこの言葉を聞いていた。そして沈黙していた。神が沈黙するのは、無関心だからではない。ヨブ記の枠構造を思えば、神は冒頭で「地上に彼のような者はいない」とヨブを誇っておられた(1:8)。その人物が今、神に向かって「残酷だ」と叫んでいる。神がここで弁解したら、試みは試みでなくなる。神の沈黙は、ヨブへの信頼の証でもあった。しかしその当事者には、どれほど孤独だったことか。
善を望んだのに悪が来た——信仰者の最も深い問い
「私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た」(30:26)
これはヨブだけの言葉ではない。信仰を持って生きる者が、ある時必ず直面する問いである。正しく生きようとしたのに、なぜ——。ヨブは「自業自得」ではない。それが前提である。彼の友人たちは「何か罪を犯したから苦しんでいる」と言い続けたが、神は最終的に友人たちを叱責し、ヨブの言葉が正しかったと認める(42:7)。「善を望んで悪が来る」経験は、因果応報の枠組みでは説明できない。これは信仰が本物かどうかを問われる場所である。
ヨブ31章——「もし私が〜したなら」の連続
31章はヘブライ文学における「潔白宣誓」の形式をとっている。「もし私が〜したなら、〜の罰を受けてもよい」という構文が繰り返される。ヨブが宣誓する内容を見ると、その倫理的水準の高さに驚かされる。
目の契約(31:1)——心の純潔を守ること。欺かなかった(31:5〜6)。僕とはしための訴えを無視しなかった(31:13〜15)——「私を胎内で造られた方は、彼らをも造られたのではないか」。主人と奴隷の間に、創造主の前では差がない——これは当時の文化水準を大きく超えた倫理観である。貧しい者、やもめ、みなしごを助けた(31:16〜23)。若い時から貧しい者の父のようであった(31:18)という深い共感から来ている。
富を拠り所にしなかった(31:24〜25)——問題は富の喜びそのものではなく、富を「拠り頼むもの」(神の位置)に置くことである(31:24「金をおのれの頼みとし」)。富を神からの祝福として喜ぶことと、富を神の代わりにすることは、全く異なる。敵の滅びを喜ばなかった(31:29〜30)——これは人間の本能に反する高い倫理基準である。旅人を戸口に泊めた(31:31〜32)——これはアブラハムの歓待の精神(創世記18章)の継承である。
「アダムのように隠さなかった」——最も深い宣誓
「あるいは、私がアダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか」(31:33)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| כְּאָדָם | ケ・アーダム | アダムのように/人間のように |
| כִּסָּה | キッサー | 覆い隠す、包み込む |
| פֶּשַׁע | ペシャ | そむき、反逆、罪 |
「アダムのように」という表現は二重の意味を持つ。一つは固有名詞のアダム——エデンの園で罪を犯した後、神から隠れようとした人物(創世記3:8)。もう一つは「人間として」という一般的な意味——人間なら誰でも罪を隠そうとする、という普遍的な傾向。ヨブは言う——私はそれをしなかった、と。罪を隠さず、咎を秘めず、神の前に全てをさらけ出した。これが31章全体の核心である。
「アダムのように隠す」ことは、今日の私たちにも深く刺さる言葉である。罪を認めることの恥ずかしさ、体裁を保ちたい気持ち——これは人間の最も古い本能である。しかしヨブは神の前で何も隠さなかった。この徹底的な透明性こそが、神がヨブの言葉を「正しい」と認めた理由の一つではないだろうか。
ヨブの最後の言葉——「だれか私に聞いてくれる者はないものか」
「だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。私を訴える者が書いた告訴状があれば」(31:35)
「私を訴える者」——ヘブライ語ではここに「告発者」という概念が込められている。ヨブは知らずに、自分の苦しみの背後にある構造——サタンという告発者の存在——を言葉にしていた。しかしヨブが求めているのは裁判での勝利ではない。神に聞いてもらうことである。答えを求めて神に向かい、神に向かって叫び続けたヨブ——その叫びそのものが、神との対話であった。
「ヨブのことばは終わった」(31:40)——この締めくくりの言葉は静かだが、重い。これほどの言葉を語りきった後の、深い沈黙である。
【第二部のまとめ】ヨブが示す「神の前に立つ」姿は、完璧な信仰者の姿ではない。怒り、訴え、嘆き——全てを神にぶつけながら、それでも神から離れない姿である。隠さず、飾らず、アダムのように逃げず——この透明な魂こそが、神が「正しい」と認めた信仰の姿だった。
第三部:新約——ヨハネの証し、喜びをもって衰えることができる者
ヨハネ3章22〜36節
※第三部では、自分の使命を全うして退くことの神学的意味を見ます。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(3:30)
聖書の中で最も美しい「引き際」の言葉の一つである。バプテスマのヨハネはこの言葉を、悔しさからでも、諦めからでも、義務感からでもなく——喜びをもって語った。なぜそれが可能だったのか。この箇所はその理由を丁寧に説明している。
二人が同時にバプテスマを授けていた
イエスとヨハネが同時期に、同じような活動をしていた。二人の働きが地理的にも重なり、人々が「あの方のほうへ行く」(3:26)という状況が生まれた。ヨハネの弟子たちはこれを問題視した。「先生、見てください。あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます」(3:26)——これは報告というより、不満の訴えに近いトーンである。注目したいのは、ヨハネ自身はこれを全く問題視していないことである。
「天から与えられるのでなければ」
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」(3:27)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| λαμβάνω | ランバノー | 受け取る、取る |
| δίδωμι | ディドーミ | 与える |
| οὐρανός | ウーラノス | 天、天上 |
「天から与えられる」——この神学は、ヨハネが単なる謙遜を語っているのではないことを示している。これは自分のものは何もないという根底からの確信である。使命も、人気も、弟子も、働きの成果も——すべては預かりものである。だから、神が別の器に移されるなら、それは当然のことだ。
花婿と花婿の友——使命の自己理解
「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです」(3:29)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| νυμφίος | ニュンフィオス | 花婿 |
| φίλος | フィロス | 友人、親友 |
| χαρά | カラー | 喜び |
| πεπλήρωται | ペプレーロータイ | 満たされている(完了形) |
「花婿の友」(フィロス・トゥー・ニュンフィウ)とは、ユダヤの結婚の習慣における特別な役割を担う人物である。花婿のために婚礼の準備を整え、花嫁を連れてくる仲立ちをし、婚礼の場で花婿の声を聞いて最も喜ぶ者——それが「花婿の友」であった。ヨハネはこの比喩を使うことで、自分の使命の本質を語っている。自分は花婿ではない。花婿のために道を整え、花嫁(神の民)を花婿(イエス)のもとへ導く役割だ。そしてその使命が完成した瞬間——それこそが自分の最大の喜びだ、と。
「満たされているのです」はギリシャ語の完了形(πεπλήρωται)で、既に完成した状態を示す。ヨハネはすでにその喜びの中にいる。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければならない」
| 原語 | 発音 | 意味 |
| αὐξάνω | アウクサノー | 増す、成長する、盛んになる |
| ἐλαττόω | エラットオー | 減る、衰える、小さくなる |
| δεῖ | デイ | 〜しなければならない(必然) |
「衰えなければならない」の「ならない」(δεῖ、デイ)は、ギリシャ語で神の必然、神の計画における必要性を示す言葉である。「仕方なく衰える」ではなく、「神の計画として衰えることが必要だ」という意味が込められている。この同じ「δεῖ」という言葉を、イエスもご自分の十字架について使われた。「人の子は必ず(δεῖ)苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない」(ルカ9:22)。ヨハネの「衰え」と、イエスの「十字架」が、同じ「神の必然」の言葉で語られている。
ヨハネは真の預言者——天から聞いたことを語る者
「上から来る方は、すべてのものの上におられ」(3:31)「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである」(3:34)
ヨハネはここで、イエスが「上から来る方」「神のことばを話す方」であることを明確に証言している。ヨルダン川でイエスにバプテスマを授けた時、ヨハネは聖霊が鳩のように降り、天から「これはわたしの愛する子」という声を聞いた(マタイ3:16〜17)。神から直接聞いたことを語る者——それが預言者である。
そして預言者の道がしばしば殉教に終わることは、旧約の歴史が繰り返し示してきた真実である。エリヤは命を狙われ、エレミヤは投獄され、イザヤは殉教したと伝えられる。ヨハネもまた、真実を語ったゆえにヘロデによって首を切られることになる。真理を語ることにはコストが伴う——ヨハネはそのことを知りながら、「花婿の声を聞いて大いに喜びます」と言った。
御子を信じる者は永遠のいのちを持つ
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(3:36)
「神の怒りがとどまる」——これは怒りが新たに下るのではなく、すでにそこにある怒りが「とどまり続ける」という意味である。罪の状態のままでいることは、神の怒りの中にとどまり続けることだ。逆に言えば、御子を信じることは、その怒りから出て、いのちの中に入ることである。
【第三部のまとめ】ヨハネが示す「神の前に立つ」姿は、自分の役割を正確に知り、それを全うして静かに退く姿である。「天から与えられたものは天に返す」——この確信があってこそ、衰えることが喜びになる。使命の完成は、舞台の中心にいることではなく、花婿の声を聞いて喜ぶことにある。
第四部:全体の一貫性——「神の前に立つ」とはどういうことか
出エジプト・ヨブ・ヨハネを貫く一本の糸
今日の三つの箇所は、時代も状況も全く異なる。荒野の幕屋で行われる祭司の聖別式、灰の中で神に訴え続けるヨブ、ヨルダン川のほとりで弟子たちに語るヨハネ——しかしこの三つを並べた時、一本の鮮やかな糸が見えてくる。「神の前に立つとはどういうことか」という問いへの、三つの異なる答えである。
第一の答え:聖別によって立つ(出エジプト29章)
出エジプト29章が示す「神の前に立つ」は、徹底的な準備と聖別によって可能になる。祭司は自分の力で神の前に立つのではない。神の側からの働きかけによって、初めて神の前に立てる。しかしこの制度には限界があった。いけにえは繰り返さなければならない。祭司は毎日、毎年、同じ儀式を繰り返す。ヘブル書はこれを「律法は、来たるべき良いものの影であって」(10:1)と表現する。影は実体を指し示す。旧約の聖別の儀式が指し示していた実体——それがキリストによる完全な聖別である。
第二の答え:透明な魂で立つ(ヨブ30〜31章)
ヨブが示す「神の前に立つ」は、何も隠さないことによって可能になる。「私がアダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか」(31:33)。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| תָּמִים | タミーム | 全き、傷のない、誠実な |
| יָשָׁר | ヤーシャール | 正しい、まっすぐな |
| אֱמוּנָה | エムナー | 誠実、信実、信仰 |
神がヨブについて「全き人」(תָּמִים、タミーム)と言われた時(1:1)、それは「完璧な人」という意味ではない。「誠実な人」「全き心で神に向かっている人」という意味である。傷のないいけにえを表す同じ言葉が、ヨブの人格を表すために使われている。ヨブ自身が、神への捧げ物のような存在だったのかもしれない。
友人たちは神学的に「正しい」ことを語った。しかし彼らの言葉は、自分の神学体系を守るための言葉だった。ヨブの言葉は、たとえ神への怒りであっても、神に向かって語られた言葉だった。神から離れず、神に向かい続けた——これが「透明な魂で神の前に立つ」ということである。
第三の答え:自分を空にして立つ(ヨハネ3章)
ヨハネが示す「神の前に立つ」は、自分を空にすることによって可能になる。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」(3:27)。ヨハネは自分の使命を完全に理解していた。自分は花婿ではなく、花婿の友である。その役割を全うして退くことが、最大の喜びだと知っていた。自分を空にした者だけが、この喜びに達することができる。
三つの「神の前に立つ」姿を貫くもの
| 状況 | 「神の前に立つ」姿 | 核心 | |
| 出エジプト29章 | 聖別の儀式 | 神の側からの働きかけによって | 神が立たせる |
| ヨブ30〜31章 | 苦しみの中 | 何も隠さず魂をさらけ出して | 人間が向かう |
| ヨハネ3章 | 使命の完成 | 自分を空にして花婿を指し示す | 自己を渡す |
しかしこの三つは、実は一つのことの三つの側面である。神が立たせてくださる(聖別)——人間が全てをさらけ出す(透明)——自分を渡す(献身)。この三つが揃った時、「神の前に立つ」ことの全体像が見えてくる。
アダムから始まった「隠れる」歴史
創世記3章でアダムは罪を犯した後、「神である主の顔を避けて、園の木の間に隠れた」(3:8)。これが人類の問題の原型である。神の前に立てなくなった——隠れなければならない存在になった。旧約の祭司制度は、この問題への神の答えの第一段階だった。特定の人物(祭司)が、特定の手順によって聖別され、神の前に立つことを可能にする。しかし一般の民は幕屋の外にいる。
ヨブはその時代にあって、祭司制度の外で、個人として神の前に立とうとした人物だった。制度によってではなく、魂の透明さによって神に近づこうとした。ヨハネは旧約と新約の境界線に立ち、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)と叫んだ。彼は自分が指し示す方こそ、アダム以来の「隠れる」歴史に終止符を打つ方だと知っていた。
そしてヘブル4:16はこう語る。「ですから、私たちは憐れみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。「大胆に」——アダムが逃げた場所に、今や大胆に近づくことができる。それを可能にしたのは、真の大祭司であるキリストの働きによる聖別であり、ヨブが指し示した「神に向かい続ける魂」の成就であり、ヨハネが証言した「世の罪を取り除く神の子羊」の完成である。
今日の箇所を生きる
出エジプト29章から問われること——私たちが神の前に立てるのは、自分の義や努力によるのではない。キリストにあって聖別された者として、今日も神の前に立つことができる。
ヨブ30〜31章から問われること——苦しみの中で神に向かい続けることができるか。怒りも、訴えも、「なぜ」という問いも——全て神に向けて語ることができる。神から離れず、神に向かい続けることが「信仰」である。
ヨハネ3章から問われること——自分の使命と役割を正確に知っているか。自分が主役でないことを知り、真の主役を指し示す喜びに生きることができるか。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」——この言葉を、喜びをもって言える者でありたい。
三つの箇所が一つになる場所
「わたしはイスラエルの子らの中に住もう。わたしは彼らの神となる」(出エジプト29:45)
神が住もうとしておられる。ヨブはその神に向かって叫び続けた。ヨハネはその神の御子を指し示した。そして今、その神が私たちの内に住んでくださっている。聖別され、透明な魂で向かい、自分を空にして——この三つの姿で、今日も神の前に立つことができる。
* * *
「ですから、私たちは憐れみを受け、また恵みをいただいて、
折にかなった助けを受けるために、
大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」
(ヘブル4:16)

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