―ヨシヤ王の改革と最期から学ぶ教訓―
今日の通読箇所は、創世記46章1-27節、第二列王記23-24章、マルコ13章24-37節です。
第二列王記23章には、ユダ王国史上最も徹底的な宗教改革を行ったヨシヤ王の記録があります。聖書は彼についてこう評価しています。
「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。」(Ⅱ列王記23:25)
しかし、この「最も忠実な王」は、39歳という若さで戦死します。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。
目次
ヨシヤの徹底的な改革
第二列王記23章を読むと、ヨシヤの改革がいかに徹底的だったかがわかります。
- 契約の更新:主の宮で発見された律法の書を民全体に読み聞かせ、契約を結び直した(23:1-3)
- 偶像の除去:バアル、アシェラ、天の万象のための器物をすべて焼き払った(23:4-6)
- 神殿男娼の廃止:主の宮の中にあった神殿男娼の家を壊した(23:7)
- 高き所の汚し:ゲバからベエル・シェバまで、すべての高き所を汚した(23:8)
- トフェテの廃止:子どもを火にくぐらせてモレクに捧げる場所を汚した(23:10)
- 太陽崇拝の廃止:太陽に献納された馬と車を除去した(23:11)
- ベテルの祭壇破壊:ヤロブアムが造った北イスラエルの祭壇まで破壊した(23:15)
- 過越の祭りの復興:士師の時代以来行われていなかった過越の祭りを復活させた(23:21-23)
- 霊媒・口寄せの除去:霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像をすべて除き去った(23:24)
これほど徹底的な改革を行った王は、ユダの歴史上他にいませんでした。
300年前の預言の成就
驚くべきことに、ヨシヤの改革は約300年前に預言されていました。
「見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをおまえの上でいけにえとしてささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる」(Ⅰ列王記13:2)
そして第二列王記23:16でまさにこの預言が成就しました。ヨシヤはベテルの祭壇の上で人の骨を焼き、祭壇を汚しました。神の言葉は一点一画も地に落ちることがありません。
悲劇的な死―メギドの戦い
しかし、これほど神に忠実だったヨシヤは、思いがけない最期を迎えます。
「彼の時代に、エジプトの王パロ・ネコが、アッシリヤの王のもとに行こうとユーフラテス川のほうに上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、パロ・ネコは彼を見つけてメギドで殺した。」(Ⅱ列王記23:29)
第二歴代誌35章には、さらに詳しい記述があります。
「しかし、ネコは彼のもとに使者を遣わして言った。『ユダの王よ。私はあなたと何の関係があるのか。私が関係しているのは、私と戦っている国であって、あなたとではない。私が急いでいるのは神の御告げによるのだ。神が私とともにおられるのだから、邪魔をしないでくれ。さもないと、神があなたを滅ぼされる。』」(Ⅱ歴代誌35:21)
そして聖書はこう続けます。
「ヨシヤはネコの口を通して語られた神のことばに聞き従わなかった」(Ⅱ歴代誌35:22)
異邦人の王パロ・ネコを通して、神が語っておられたのです。しかしヨシヤはそれを聞き分けることができませんでした。
なぜヨシヤは神の声を聞けなかったのか
いくつかの理由が考えられます。
1. 「異邦人から神の言葉?」という先入観
偶像崇拝のエジプト王から神の言葉が来るとは、普通は考えません。しかし神は、バラムのろばを通しても語られた方です(民数記22章)。神は誰を通しても語ることができます。
2. 改革の成功による自信
あれだけの宗教改革を成し遂げ、300年前の預言を成就させたヨシヤ。「自分は神に従っている」という確信が、かえって新しい神の声に耳を塞いでしまった可能性があります。
3. 政治的判断の優先
当時、アッシリヤは衰退し、バビロンが台頭していました。エジプトがアッシリヤを助けに行くのを阻止することは、戦略的には正しく見えたでしょう。しかし、政治的判断が霊的判断を覆い隠してしまいました。
4. 神に直接確認しなかった
かつてダビデは、戦いの前に必ず「上って行くべきでしょうか」と主に伺いました(Ⅱサムエル5:19)。ヨシヤがメギドの戦いの前に主に伺ったという記録はありません。
ヨシヤの死後―ユダ王国の最後の日々
ヨシヤの死後、ユダ王国は急速に滅びへ向かいます。
- エホアハズ(3ヶ月):主の目の前に悪を行い、エジプトに連行される(23:31-34)
- エホヤキム(11年):主の目の前に悪を行い、バビロンに服従(23:36-24:1)
- エホヤキン(3ヶ月):主の目の前に悪を行い、バビロンに捕囚される(24:8-16)
- ゼデキヤ(11年):主の目の前に悪を行い、エルサレム陥落(24:17-20)
ヨシヤがいなくなった途端、この崩壊。彼の改革がいかに個人的なものだったか、民の心には根付いていなかったことがわかります。
また、24:3-4には衝撃的な言葉があります。
「ユダを主の前から除くということは、実に主の命令によることであって、それは、マナセが犯したすべての罪のためであり、また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため主はその罪を赦そうとはされなかった。」
ヨシヤの改革をもってしても、マナセの罪がもたらした裁きは避けられなかったのです。
私たちへの教訓
ヨシヤの生涯から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
1. 霊的に正しい人でも、判断を誤ることがある
過去の霊的成功は、将来の正しさを保証しません。常に謙遜に神の声を求め続ける必要があります。
2. 神は予想外の器を通して語られることがある
神の言葉は、私たちが期待しない人や状況を通して来ることがあります。「この人からは神の言葉は来ない」という先入観は危険です。
3. 大きな決断の前には、神に直接確認する
ダビデのように「主よ、上って行くべきでしょうか」と伺う習慣を持ちたいものです。政治的・戦略的に正しく見えることが、神の御心とは限りません。
4. 真のリバイバルは個人ではなく、民の心に
ヨシヤの改革は徹底的でしたが、彼の死後すぐに崩壊しました。外側の改革だけでなく、人々の心が変えられることが真のリバイバルです。
結論:それでも神は忠実
ヨシヤの最期は悲劇的でした。しかし、神はヨシヤの忠実さを覚えておられました。
第二列王記22章で、女預言者フルダはヨシヤにこう預言していました。
「あなたは安らかに自分の墓に加えられる。あなたはこの場所に私がもたらすすべてのわざわいを見ることがない」(Ⅱ列王記22:20)
ヨシヤは確かに、エルサレムの陥落とバビロン捕囚という最大の災いを見ることなく、その前に召されました。神はヨシヤを「わざわい」から守られたのです。
私たちには理解できない神のご計画があります。しかし、神に忠実に歩んだ人生は、決して無駄にはなりません。ヨシヤの改革があったからこそ、捕囚から帰還した民は再び律法を中心とした信仰に立ち返ることができたのです。
あなたも今日、大きな決断の前に立っているかもしれません。ダビデのように、ヨシヤの教訓を覚えて、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と祈り、神の声に耳を傾けましょう。



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