2026年1月27日の聖書通読 解放される前に記念日が定められた—過越の血が予告した十字架—成功と献身の狭間で問われる、私たちの本気度—

聖書通読

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:トーラー(出エジプト12:1-15)

解放される前に定められた記念日

出エジプト12章は、イスラエルの歴史において最も重要な出来事の一つ、過越の制定を記録しています。ここで注目すべきは、神がまだエジプトからの解放が実現する前に、その解放を「記念する日」を定められたという事実です。

「この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない」(12:14)

神は救いの実現よりも先に、その記念日を制定されました。これは神の救いの確実性を示しています。人間の側から見れば、まだエジプトの奴隷状態にあり、解放は未来の出来事です。しかし神の視点からは、すでに成就したも同然なのです。

傷のない小羊という基準

過越の小羊には厳格な条件がありました。「あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない」(12:5)。この「傷のない」(タミーム)というヘブライ語は、「完全な」「欠けのない」を意味します。

なぜ神はこれほど厳格な基準を求められたのでしょうか。それは、この小羊が後に来る完全な贖い主の予型(タイプ)だったからです。ペテロは後にこう書いています。「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(Ⅰペテロ1:19)。

各家庭はこの小羊を月の十日から十四日まで「よく見守る」ように命じられました。四日間、その小羊に本当に傷がないかを確認する期間です。これはイエスが十字架につけられる前の週、エルサレムで人々の前に立たれた期間と重なります。祭司長、パリサイ人、サドカイ人、律法学者たち、あらゆる人々がイエスを試み、非難しようとしましたが、誰も訴える理由を見つけられませんでした。ピラトでさえ「この人に何の罪も見出せない」と三度宣言したのです。

血を門柱に塗る—公の信仰告白

「その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない」(12:7)

この行為は単なる儀式ではありません。これは公の信仰告白でした。血を家の外側、通りに面した門柱と鴨居に塗るということは、エジプト人の目にも触れるということです。「私たちはイスラエルの神を信じる」という宣言を、誰の目にも見える形で表すことでした。

この夜、エジプト全土で長子が打たれる時、イスラエル人の家だけが守られるのは、彼らが「良い人」だったからではありません。血が塗られていたからです。「わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す」(12:13)。

血が見えるところに塗る。内側に隠すのではなく、外側に表す。これは私たちの信仰の姿勢を問うています。自分の心の中だけで信じるのではなく、それを表明する勇気が求められているのです。

急いで食べる姿勢

「あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる」(12:11)

この姿勢は印象的です。ゆっくり座って味わうのではなく、いつでも出発できる態勢で食べるのです。

腰の帯を締めるとは、長い衣の裾をたくし上げて動きやすくすることです。足に履き物をはくのは、旅の準備です。手に杖を持つのは、すぐに歩き始められるためです。

解放は突然やってきます。その時に備えておかなければなりません。神が「出よ」と言われる時、すぐに応答できる姿勢。これが求められているのです。

新約聖書でイエスは繰り返し「目を覚ましていなさい」「備えていなさい」と教えられました。それはこの過越の姿勢と同じです。神の時が来た時、すぐに応答できる心の準備ができているか。日々の生活の中で、私たちはその姿勢を保っているでしょうか。

新しい暦の始まり

「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」(12:2)

神はイスラエルに新しい暦を与えられました。それまでの暦ではなく、救いの出来事から始まる新しい暦です。

これは単なる日付の変更ではありません。時間の意味が変わったのです。全ての時間が、この救いの出来事を基準として測られるようになりました。過越以前と過越以後。救われる前と救われた後。

私たちクリスチャンにとっても、キリストとの出会いは「新しい暦」の始まりです。古い生き方は過ぎ去り、全てが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)。私たちの人生の時間は、キリストの十字架と復活によって意味づけられているのです。

第二部:旧約(第二歴代誌26-27章)

ウジヤ—栄光から転落への道

ウジヤは十六歳で王となり、五十二年間エルサレムで王として治めました。父アマツヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った王でした。「神を認めることを教えたゼカリヤが生きていた間、彼は神を求めた。また彼が主を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた」(26:5)

この「神の事を教えたゼカリヤ」について、これは預言者ゼカリヤではなく、ウジヤに神の道を教えた教師的存在でした。預言者イザヤは26:22で登場しており、ウジヤの治世を記録していますから、当時の預言者はイザヤです。しかしこのゼカリヤは、若き王ウジヤの信仰の導き手でした。

ウジヤの治世は輝かしいものでした。ペリシテ人と戦って勝利し、城壁を打ち壊し、新しい町々を建てました。アンモン人は貢ぎ物を納め、彼の名声はエジプトの境にまで届きました。軍事的にも優れた王で、三十万を超える軍勢を持ち、巧みに考案された兵器を作りました。

「こうして、彼の名声は遠くにまで広まった。彼が驚くべき助けを得て、強くなったからである」(26:15)

この「驚くべき助け」について考えてみましょう。文脈を見ると、優秀な書記エイエル、つかさマアセヤ、隊長ハナンヤ、そして二千六百人の勇士たちが登場します。確かに有能な部下たちに恵まれていました。しかし26:5を思い出してください。「彼が主を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた」とあります。

これらの優秀な部下たちも、実は神がウジヤに与えられた祝福の一部だったのではないでしょうか。神を求める者に、神は必要な人材を与えてくださる。ウジヤの成功は、人間の能力だけでなく、神の恵みによるものでした。

高慢という罠

「しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた」(26:16)

この一節は、人間の心の恐ろしい傾向を示しています。「強くなると」心が高ぶる。成功が罪の原因になるのです。

弱い時、困難な時、私たちは神を求めます。しかし強くなり、成功し、物事がうまくいき始めると、神への依存が薄れていきます。「自分の力で成し遂げた」という思いが芽生えてくる。ウジヤはまさにこの罠に陥りました。

彼の高慢は具体的な行動となって現れました。「香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った」(26:16)。これは祭司の務めであり、王がすることではありませんでした。神は祭司の務めと王の務めを明確に分けられていました。

祭司アザルヤと八十人の勇敢な祭司たちが彼を止めようとしました。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです」(26:18)

しかしウジヤは激しく怒りました。自分は王である。これほどの業績を上げた。神に用いられてきた。だから祭司の務めをしても問題ないはずだ、と考えたのでしょうか。

その瞬間、彼の額にツァラアト(重い皮膚病)が現れました。「主が彼を打たれたからである」(26:20)。

ツァラアトという裁き

ツァラアトは、レビ記で詳しく規定されている皮膚病で、儀式的に汚れたものとされました。ツァラアトに冒された者は、共同体から隔離されなければなりませんでした。

ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、隔離された家に住みました。「彼が主の宮から断たれたからである」(26:21)。彼が強引に入ろうとした主の宮から、今度は完全に断たれてしまったのです。

これは単なる病気の問題ではありません。王としての機能も失われました。息子ヨタムが王宮を管理し、民衆をさばくようになりました。そしてウジヤが死んだ時、人々は彼を王たちの墓地の野に葬りました。正式な王の墓ではなく、その周辺の野に。「彼がツァラアトに冒された者だと言われていたからである」(26:23)。

輝かしい治世も、最後の高慢によって色あせてしまいました。イザヤ書6章の冒頭、「ウジヤ王が死んだ年」という言葉から始まるイザヤの召命の場面。あの偉大だったウジヤ王の終わりは、預言者イザヤにとっても印象深い出来事だったのでしょう。

ヨタム—父の過ちから学ぶ

ヨタムは二十五歳で王となり、十六年間エルサレムで王でした。「彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。ただし、主の神殿に入ることはしなかった」(27:2)

この「ただし」が重要です。ヨタムは父の良い点を継承しましたが、父の過ちは繰り返しませんでした。父がなぜツァラアトに打たれたのか、その理由をよく理解していたのです。

父ウジヤが築いた土台の上に、ヨタムはさらに建設を続けました。主の宮の上の門を建て、オフェルの城壁の上に多くのものを建て、山地に町々を建て、森林地帯には城塞とやぐらを築きました。アンモン人との戦いにも勝利し、彼らから貢ぎ物を受けました。

「ヨタムは勢力を増し加えた。彼が、自分の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである」(27:6)

父ウジヤも強くなりました。しかしその時、心が高ぶりました。ヨタムも強くなりました。しかしヨタムは「自分の道を主の前に確かなものとした」のです。強さを自分の誇りとするのではなく、神の前に正しく歩むことを選んだ。ここに二人の決定的な違いがあります。

ヨタムは父の栄光からも、父の失敗からも学びました。親の成功を見て傲慢になるのでもなく、親の失敗を見て神から離れるのでもなく、両方から知恵を得たのです。これは私たちにとっても重要な教訓です。

第三部:新約(ルカ9:49-62)

寛容さと厳しさ—二つの対照的な場面

ルカ9章の後半は、イエスの二つの異なる側面を見せています。まず弟子ヨハネの報告から始まります。

「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです」(9:49)

ヨハネは正しいことをしていると思っていたでしょう。イエスの弟子として、イエスの権威を守ろうとしていました。しかしイエスの応答は意外なものでした。

「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です」(9:50)

イエスは驚くほど寛容でした。「私たちについて来ない」からといって、その人の働きを止める必要はない。イエスの名によって悪霊を追い出しているなら、その人はイエスを信じているのです。完全に同じ形で従っていなくても、反対していないなら味方なのです。

この寛容さは、現代の教会にも必要なメッセージです。教派が違う、礼拝のスタイルが違う、神学的強調点が違う、だからといってすぐに「異端だ」「間違っている」と断罪する必要はありません。キリストの名によって働いているなら、その人たちも神の国のために用いられているのです。

雷の子たちの誤解

ところが次の場面では、イエスは同じヨハネを叱責されます。

「天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」(9:51)

この「御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」という表現は印象的です。イエスは十字架が待っていることを知っておられました。それでも、決然と進まれた。この勇気に、私たちは心を打たれます。

使いがサマリア人の村に入り、イエスのために備えをしました。しかしサマリア人はイエスを受け入れませんでした。「イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので」(9:53)。サマリア人とユダヤ人の間には深い対立がありました。エルサレムに向かうユダヤ人を歓迎することはできなかったのです。

その時、ヤコブとヨハネが言いました。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(9:54)

「滑稽ですね」本当にその通りです。彼らは天から火を下す力など持っていません。それなのに「私たちが天から火を下して」と言うのです。まるでエリヤのようなことを自分たちができると思っているようです。

しかし私は、彼らの発言の背後にある動機も考えてみたいのです。彼らは冗談で言ったのでしょうか。それとも本気だったのでしょうか。おそらく、主イエスへの愛ゆえの怒りがあったのではないでしょうか。「私たちの主を拒むとは何事か」という思いです。

だからこそイエスは叱られました。「イエスは振り向いて二人を叱られた」(9:55)。正しい動機であっても、間違った方法は正されるべきです。イエスは復讐を求めておられません。裁きを求めておられません。救いを求めておられるのです。

ヨハネとヤコブは「雷の子」と呼ばれていました(マルコ3:17)。激しい性格だったのでしょう。しかしこの激しさは、後に福音のために用いられていきます。ヤコブは最初の殉教者の一人となり、ヨハネは愛の使徒として教会を導きました。イエスは彼らの性格を否定されたのではなく、その方向性を正されたのです。

三人の志願者—神の国の緊急性

「彼らが道を進んで行くと」(9:57)。この「道」はエルサレムへの道です。十字架への道です。その道を進む中で、三人の人がイエスに近づいてきました。

第一の人は言いました。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」(9:57)。

これは素晴らしい決意のように聞こえます。しかしイエスの応答は厳しいものでした。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(9:58)。

イエスに従うとはどういうことか。それは安定や快適さを保証されることではありません。イエスご自身が「枕するところもない」生活をされていました。あなたは本当にそれを理解しているのか、とイエスは問われたのです。

第二の人に、イエスは「わたしに従って来なさい」と言われました。しかしその人は答えました。「まず行って、父を葬ることをお許しください」(9:59)。

これは正当な要求のように思えます。親を葬ることは子の義務です。十戒にも「あなたの父と母を敬え」とあります。しかしイエスの応答は衝撃的です。

「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(9:60)

この「死人たちに死人たちを葬らせなさい」という言葉は、霊的に死んでいる人々に、肉体的に死んだ人を葬らせなさい、という意味だと理解されています。あなたには、霊的に生きている者としての、もっと緊急の使命がある、とイエスは言われたのです。

第三の人も言いました。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください」(9:61)。

これは第二の人よりもさらに小さな要求です。父を葬るのではなく、ただ家族に別れを告げるだけ。しかしイエスの応答は変わりません。

「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(9:62)

イエスが教えられたこと

なぜイエスはこれほど厳しいのでしょうか。イエスは家族を愛することを禁じておられるのでしょうか。そうではありません。

9:51を思い出してください。「天に上げられる日が近づいて来たころ」とあります。時は限られているのです。イエスの地上での宣教は、あとわずかしか残されていません。十字架が近づいています。

神の国には緊急性があります。「まず」「ただ」という言葉で表される遅延、それがどんなに正当に見えても、神の国の前では優先順位が逆転するのです。

「この時代に生きていたら分からないことが聖書に書かれていることを読むことのできる時代だから、流れが分かっているからだと思います」

本当にその通りです。私たちは十字架と復活を知っています。だからイエスの言葉の重みが分かります。でも、その場にいた人たちには理解できなかったでしょう。なぜこの方はこんなに急いでおられるのか。なぜこんなに厳しいことを言われるのか。

しかし今、私たちにも同じ緊急性があります。主の再臨は近づいています。伝道の機会は限られています。「いつか」「そのうち」と言っている間に、機会は失われてしまうかもしれません。

イエスが求めておられるのは、中途半端な決意ではなく、全面的な献身です。それは「完璧な人間になれ」という要求ではありません。「神の国を第一とせよ」という優先順位の問題なのです。

第四部:全体の一貫性—血による救いと神の国への全面的応答

過越の小羊とキリストの十字架

今日の通読箇所全体を貫くテーマは、「神の救いの確実性」と「それに対する私たちの応答」です。

出エジプト12章で定められた過越は、まだ実現していない救いの記念日でした。神は「解放される前に記念日を定められた」のです。これは神の救いの確実性を示しています。人間の側から見れば未来の出来事ですが、神の視点からはすでに成就したも同然なのです。

そして「傷のない一歳の雄」という過越の小羊の条件は、後に来る完全な贖い主、イエス・キリストの予型でした。ペテロは「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によった」(Ⅰペテロ1:19)と書いています。パウロも「私たちの過越の小羊キリストは、すでに屠られた」(Ⅰコリント5:7)と宣言しました。

過越の夜、イスラエルの家々の門柱と鴨居に塗られた血が、滅ぼす者から彼らを守りました。「わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す」(出エジプト12:13)。この血こそが、彼らの救いの根拠でした。

同じように、私たちの救いの根拠は、十字架で流されたキリストの血です。私たちの行いの良さでも、信仰の強さでもありません。「血を見て」神は私たちを過ぎ越してくださる。キリストの完全な犠牲が、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださったのです。

「急ぐ」姿勢と「うしろを見る」危険

過越の食事は「急いで」食べるように命じられていました。腰の帯を締め、足に履き物をはき、手に杖を持って。いつでも出発できる姿勢です。

これは単なる歴史的な状況(エジプトからすぐに出発する必要があった)を反映しているだけではありません。これは霊的な姿勢を教えています。神が「出よ」と言われる時、すぐに応答できる備えができているか。

ルカ9章でイエスが教えられた「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(9:62)という言葉は、この「急ぐ」姿勢と深く関連しています。

鋤を使って畑を耕す時、まっすぐな畝を作るためには前を見続けなければなりません。うしろを振り返ったら、畝は曲がってしまいます。神の国に向かって進む時も同じです。過去を振り返り、世の事柄に心を奪われていたら、まっすぐ進むことはできません。

過越の民は「急いで」食べ、「うしろを振り返らず」エジプトを出ました。ロトの妻は後ろを振り返って塩の柱になりました(創世記19:26)。イエスは言われました。「ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ17:32)。

神の救いに応答する時、私たちに求められているのは、この「急ぐ」姿勢です。「いつか」ではなく「今」。「そのうち」ではなく「すぐに」。

成功という試練—ウジヤと弟子たちの教訓

第二歴代誌26章のウジヤの転落は、成功が最も危険な試練になりうることを教えています。「彼が強くなると、その心は高ぶり」(26:16)。

弱い時、困難な時、私たちは神にすがります。しかし強くなり、成功すると、神への依存が薄れていく。これは現代の私たちにも起こりうることです。

ルカ9章の弟子たちも、ある意味で「成功の試練」の中にいました。イエスから権威を与えられ、悪霊を追い出し、病を癒す力を経験していました。だからこそヨハネは「その人が私たちについて来なかった」と排他的になり、ヤコブとヨハネは「私たちが天から火を下して」と傲慢な発言をしたのです。

神から与えられた力や賜物、成功や祝福。これらは本来、神に栄光を帰すためのものです。しかしそれが「自分の力」「自分の功績」となった時、ウジヤのように転落します。

対照的に、ヨタムは「自分の道を主の前に確かなものとした」(27:6)のです。強くなっても、その力の源が神であることを忘れませんでした。

私たちも問われています。祝福を受けている時こそ、謙虚さを保てるか。成功している時こそ、神への依存を深められるか。

公の信仰告白と内面的献身

過越の血を門柱に塗る行為は、公の信仰告白でした。家の内側ではなく外側に、エジプト人の目にも触れる場所に塗る。これには勇気が必要でした。

ルカ9章でイエスは「わたしと、わたしのことばを恥じる者を、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いたちの栄光のうちに来るとき、そのものを恥じます」(9:26、今日の箇所の直前)と言われました。

信仰は内面だけのものではありません。それは表明されるべきものです。過越の血が外側に塗られたように、私たちの信仰も人々の前で表されるべきです。

しかし同時に、その信仰は真実なものでなければなりません。ウジヤは表面的には神を礼拝していましたが、心は高ぶっていました。形式は整っていても、内実が伴わない信仰は、神の前に立つことができません。

イエスが三人の志願者に求められたのは、全面的な献身でした。「どこでもついて行きます」という言葉だけではなく、実際に代価を払う覚悟。「まず」という条件付きの従順ではなく、神の国を第一とする生き方。

神の救いと人間の応答—恵みと責任

最後に、今日の箇所全体から見えてくる大切な真理があります。それは「神の救いは完全に神の恵みであり、同時に人間の応答を求める」ということです。

過越の救いは、完全に神の恵みでした。イスラエルの民が奴隷状態から自分たちを解放することはできませんでした。神が救い出してくださいました。しかし同時に、彼らは小羊を屠り、血を門柱に塗り、種なしパンと苦菜を食べ、急いで食べる姿勢を取らなければなりませんでした。

キリストの十字架も、完全に神の恵みです。私たちは自分の力で罪から救われることはできません。しかしこの救いに応答することが求められています。信仰をもって受け取り、悔い改め、従うこと。

ウジヤもヨタムも、最初は神の恵みによって祝福されました。しかしウジヤは高慢になり、ヨタムは謙遜を保ちました。同じ恵みを受けても、応答の仕方によって結果は異なります。

イエスに近づいた三人の志願者も、イエスから招きを受けたり、自ら志願したりしました。しかし求められたのは、その招きに対する全面的な応答でした。

今日を生きる私たちへ

「解放される前に記念日が定められた」というのは、驚くべき真理です。神の救いは、私たちが経験する前からすでに確実なのです。

しかし同時に、私たちは問われています。その救いに対して、どう応答するのか。「急いで食べる」姿勢で、いつでも神に従う準備ができているか。「うしろを見る」ことなく、神の国を第一として進んでいるか。

成功している時こそ、謙虚さを保てているか。祝福を受けている時こそ、神への感謝と依存を深めているか。

そして何より、「鋤に手をかけて」神の国の働きに従事しながら、まっすぐ前を向いて進んでいるか。

過越の血が語る救いの確実性を信じながら、その救いにふさわしい生き方を求めていく。これが、今日の通読箇所が私たちに示している、信仰者の歩みなのです。


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