2025年12月29日の通読  認識の転換――赦しと悔い改め、そして希望の預言

通読

創世記45章16-28節/第二列王記21-22章/マルコ13章1-23節

今日の通読箇所は、創世記のヨセフ物語の和解場面から、列王記の最も暗い時代と最も輝かしい改革、そしてマルコ福音書の終末預言まで、豊かな広がりを持っています。一見バラバラに見えるこれらの箇所を貫く一つの糸は「認識の転換」です。

第一部 創世記45章――ヨセフの赦しとパロの信頼

想像を超えたパロの歓迎

45章16節で「パロもその家臣たちも喜んだ」とあります。ヘブル語では「וַיִּיטַב בְּעֵינֵי פַרְעֹה」(ヴァイィタヴ・ベエイネイ・パルオー)。この動詞「יטב」(ヤータヴ)は「良い」「好ましい」という意味で、心からの喜びを表しています。

これは単なる政治的計算ではありません。パロはヨセフを通して、主イエスにそっくりな人格を見ていたのです。自分を売った兄弟たちを完全に赦す赦しの人格、兄弟たちのためにパロの前に立つ執り成しの姿勢、「エジプト全土の最良の物はあなたがたのもの」(45:20)という惜しみない恵み。パロは、この異邦人の王が、ヨセフを通して神の恵みの器として用いられている様を目撃していたのです。

「途中で言い争わないでください」の深み

45章24節のヨセフの言葉「途中で言い争わないでください」。ヘブル語では「אַל־תִּרְגְּזוּ בַּדָּרֶךְ」(アル・ティルゲズー・バダレフ)。この動詞「רָגַז」(ラーガズ)は単なる「争う」以上の意味を持ちます。「震える」「動揺する」「激しく興奮する」というニュアンスがあるのです。

ヨセフは兄弟たちの心理をよく理解していました。長い帰り道で何が起こりうるか。「お前がヨセフを穴に投げ込んだんだ」「いや、お前が売ろうと言い出したんだ」「ルベン、あの時なぜもっと強く止めなかったんだ」。22年間の罪悪感、互いへの不信、責任の押し付け合い…。ヨセフはそれをすべて見通していました。

これは、赦しを受けた後の私たちへの教えでもあります。神に赦された者が、なお過去の罪について互いを責め合うなら、それは赦しを本当には受け取っていないということ。前を向いて歩むことが求められています。

ヤコブの「心の麻痺」と回復

45章26節で、ヤコブがヨセフ生存の知らせを聞いた時「ぼんやりしていた」。ヘブル語では「וַיָּפָג לִבּוֹ」(ヴァヤーファグ・リッボー)。この動詞「פּוּג」(プーグ)は「麻痺する」「感覚がなくなる」という意味です。直訳すると「彼の心が麻痺した」。

これは老人の鈍さではありません。22年間、ヨセフの死を受け入れるために、ヤコブは自分の心の一部を凍らせていたのです。その凍った部分が、突然の知らせで溶け始めた時の混乱。信じたいけど信じられない。希望を持つことへの恐れ。

そして27節、「車を見た」時に初めて「元気づいた」。ヘブル語では「וַתְּחִי רוּחַ」(ヴァテヒー・ルーアッハ)。直訳は「彼の霊が生き返った」。言葉ではなく、証拠を見て信じた。これはトマスを思い出させます。そしてイエスは、見ないで信じる者の幸いを語られましたが、見て信じることを否定はされませんでした。

第二部 列王記21-22章――最悪の時代から最良の改革へ

王の母の名前が記録される意味

21章1節で、マナセの母ヘフツィ・バハの名前がしっかり記録されています。ユダ王国の王については、母の名前がほぼすべて記録されているのは、単なる形式ではありません。

ダビデ契約との関連で王位継承の正統性を確認する意味、王母「גְּבִירָה」(ゲヴィーラー)が宮廷で大きな影響力を持った制度的理由、そして特にマアカやアタルヤのように母や祖母の偶像礼拝が王に影響を与えた例が多いことから、霊的影響力の記録という意味があります。

マナセの母ヘフツィ・バハ「חֶפְצִי־בָהּ」(ヘフツィー・バーハ)の名前は「彼女の中に私の喜びがある」という美しい意味で、イザヤ62章4節にも出てきます。しかし皮肉なことに、この美しい名を持つ母から、最悪の王が生まれました。

マナセが「先祖たちとともに眠った」謎

マナセはあれほどの悪を行ったのに、なぜ「先祖たちとともに眠る」ことができたのでしょうか。実は、歴代誌第二33章には、列王記にはない重要な情報があります。

「彼が苦しみの中にあったとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだった。そして、祈ると、主は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(歴代誌第二33:12-13)

つまり、マナセは晩年に悔い改めたのです。これは驚くべき恵みの物語です。最悪の罪人でさえ、悔い改めれば赦される。神の忍耐は人間の理解を超えている。しかし、彼が蒔いた種の刈り取りは避けられませんでした(21:10-15の預言は成就しました)。

父子三代の物語に見える希望と悲劇

ヒゼキヤ(良い王)→ マナセ(最悪の王)→ アモン(悪い王)→ ヨシヤ(最良の王の一人)。なぜ良い王の子が最悪の王になり、悪い王の孫が最良の王になるのでしょうか。

マナセは、ヒゼキヤの改革への反動だったのかもしれません。父の敬虔さへの反発、あるいは父の影で育った劣等感。ヒゼキヤが病から癒された時、マナセはまだ生まれていなかったか幼児でした(ヒゼキヤの寿命が15年延びた時、マナセ誕生は3年後)。つまりマナセは、神の奇跡を直接見ていない世代なのです。

一方ヨシヤは、8歳で王になりました。父アモンは2年で暗殺されました。おそらく彼は、宮廷の混乱と暴力の中で、何か確かなものを求めていたのでしょう。そして律法の書が発見された時、彼は即座に応答しました。ここに希望があります。環境は人を決定しない。最悪の父からでも、神を求める子が生まれうる。逆に、最良の父からでも、神に背く子が生まれうるのです。

家来がアモンを裁き、民衆がその者たちを裁いた

21章23-24節の連鎖は、興味深い権力構造を示しています。アモンの家来たちが王を殺害(謀反)し、民衆が謀反者たちを処刑してヨシヤを王にしました。

なぜ民衆は謀反者を打ち殺したのでしょうか。ダビデ王朝への忠誠、クーデターの連鎖を防ぎたいという政治的安定への願い、そして神の摂理。結果的に8歳のヨシヤが王となり、大改革につながりました。神はこの混乱の中でも、ご自身の計画を進めておられたのです。

女預言者フルダの選び

22章14節で、ヨシヤが神のみこころを求めた時、使いが遣わされたのは女預言者フルダでした。この時代、エレミヤもゼパニヤも活動していたはずです。なのに、なぜフルダなのでしょうか。

フルダがエルサレムの「第二区」に住んでいてアクセスしやすかったこと、彼女の夫が「装束係」(宮廷の衣装管理者)で宮廷との繋がりがあったこと、そして何より神がまさにこの女性を通して語ることを選ばれたこと。王の使者たちが男性であるにもかかわらず、彼女のもとに行ったことを聖書は記録しています。神は、ご自身が選んだ器を通して語られる。性別や社会的地位ではなく、神との関係が重要なのです。

そしてフルダのメッセージは厳しいものでした。「わざわいをもたらす」という裁きの宣告。しかし同時に、ヨシヤ個人への慰めも。「あなたは安らかに自分の墓に集められる」。実際、ヨシヤはメギドの戦いで戦死しましたが、エルサレムの陥落を見ずに済みました。その意味では、神の約束は守られたと言えます。

第三部 マルコ13章――終末預言の多層的理解

「荒らす憎むべきもの」の二重成就

13章14節の「荒らす憎むべきもの」には、二重成就(あるいは多重成就)があります。

第一の成就は、アンティオコス・エピファネス(紀元前167年)。ダニエル11章31節で預言され、神殿にゼウスの祭壇を設置し、豚を犠牲として捧げました。第二の成就は、ローマによるエルサレム陥落(紀元70年)。マルコ13章の直接的な文脈で、ローマ軍の軍旗(偶像)が神殿に持ち込まれ、実際にクリスチャンたちはこの警告に従ってペラに逃げました。最終的成就は、終末の反キリスト。ダニエル9章27節、第二テサロニケ2章3-4節、黙示録13章に記され、反キリストが神殿に座し、大患難時代の後半3年半が始まります。

「日数を少なくしてくださった」の解釈

13章20節の「主がその日数を少なくしてくださった」という言葉は難解です。終末の大患難が「3年半」と預言されているなら、それを「少なくする」ことはできないように思えます。

一つの解釈は、紀元70年のエルサレム陥落が主な対象というものです。ヨセフスによると、包囲は約5ヶ月で終わりました。もっと長引いていたら、ユダヤ人は完全に絶滅していた可能性があります。神が「日数を少なくした」のは、選びの民(メシアニック・ジュー)のためでした。

もう一つの見方は、「預言的圧縮」(Prophetic Telescoping=プロフェティック・テレスコーピング)です。イエスの終末預言は紀元70年と終末の両方を重ね合わせて語っています。13章14-18節は主に紀元70年(逃げる時間がある)、19-20節は紀元70年の要素と終末の要素が混在、21-23節は主に終末時代を指しています。この「預言的圧縮」は旧約預言にもよく見られます。例えば、イザヤ61章1-2節でメシアの初臨と再臨が一つの文章に圧縮されています。

「産みの苦しみ」のイメージ

13章8節で「これらのことは、産みの苦しみの初めです」とあります。ギリシャ語では「ἀρχὴ ὠδίνων」(アルケー・オーディノーン)。「産みの苦しみ」というイメージは、旧約聖書から来ています(イザヤ13:8、エレミヤ4:31など)。

産みの苦しみは、激しい痛みですが、目的がある苦しみであり、終わりがある苦しみであり、新しい命の誕生につながります。終末の苦難は、無意味な混乱ではありません。新しい世界、神の国の完全な到来への産道なのです。

そして「初め」を意味する「ἀρχή」(アルケー)という言葉。産みの苦しみは、最初は間隔を置いて来るが、終わりに近づくにつれて頻繁に、激しくなります。イエスはこのイメージを用いて、終末のしるしは徐々に増していくことを示唆されています。

「話すのはあなたがたではなく、聖霊です」

13章11節の約束は、慰めに満ちています。「何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」

これは迫害の文脈で語られていますが、より広い適用もあります。私たちが神のために証しをする時、完璧な言葉を準備する必要はありません。聖霊が語ってくださるのです。もちろん、準備や学びを怠っていいという意味ではありません。しかし、最終的に人の心を動かすのは、私たちの雄弁さではなく、聖霊の働きです。

結び――三箇所をつなぐ「認識の転換」

今日の三箇所を通して見える一つの糸は「認識の転換」です。

創世記45章では、兄弟たちとヤコブは、ヨセフについての認識を完全に変えなければなりませんでした。「死んだ」→「生きている」、「被害者」→「支配者」、「私たちが捨てた弟」→「私たちを救う者」。

列王記21-22章では、ヨシヤは律法の書を聞いた時、自分たちの状態についての認識を変えました。「私たちは大丈夫」→「私たちは主の怒りの下にある」。その認識の転換が、衣を裂く悔い改めにつながりました。

マルコ13章では、弟子たちは神殿を見て「何とすばらしい建物でしょう」と言いました。イエスは彼らの認識を転換させました。「石がくずされずに残ることは決してありません」。目に見えるものへの信頼から、見えない神の国への信頼へ。

私たちも日々、認識の転換を求められています。この世の価値観から神の国の価値観へ。目に見えるものから見えないものへ。自分の義から神の義へ。

神の忍耐を当然のことと思わず、しかしどんな罪人でも悔い改めれば赦される希望を持ち、終末の時代に備えつつも、恐れではなく信仰によって歩む。それが、今日の御言葉から受け取るメッセージです。

祈り

天の父なる神様。今日の御言葉を感謝します。ヨセフを通して示された赦しの深さ、マナセの悔い改めに示された恵みの広さ、ヨシヤの応答に示された信仰の真実さを、私たちにも与えてください。終わりの時代に生きる私たちが、恐れではなく希望をもって、あなたの国の到来を待ち望むことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

認識の転換 ― 三箇所をつなぐテーマ

🔄 認識の転換

三箇所の通読をつなぐ共通テーマ

📜
創世記45章
ヨセフと兄弟たちの再会
👨‍👩‍👧‍👦 兄弟たち 👴 ヤコブ
以前の認識
ヨセフは死んだ
私たちが捨てた弟
新しい認識
ヨセフは生きている
私たちを救う者
👑
第二列王記21-22章
マナセからヨシヤへ
😈 マナセ 👦 ヨシヤ
以前の認識
私たちは大丈夫
王だから何でも許される
新しい認識
主の怒りの下にある
悔い改めが必要
マルコ13章
神殿と終末預言
👥 弟子たち
以前の認識
何とすばらしい建物
目に見えるものへの信頼
新しい認識
石は崩される
見えない神の国への信頼

✨ 私たちに求められる認識の転換

この世の価値観 → 神の国の価値観
目に見えるもの → 見えないもの
自分の義 → 神の義

💭 あなたにとっての認識の転換は?

「もう手遅れだ」→「いつでもやり直せる」
「自分には価値がない」→「神様に愛されている」
「過去の失敗が自分を縛っている」→「赦されて自由にされている」

ユダ王国 父子四代の系図

👑 ユダ王国 父子四代の系図

良い王の子が最悪の王に、悪い王の孫が最良の王に ― 環境は人を決定しない

👑
ヒゼキヤ
חִזְקִיָּהוּ(主は私の力)
✓ 良い王
📅 在位29年 🎂 25歳で即位
宗教改革を行い、過越の祭りを復活。病から癒され寿命が15年延長された。アッシリアの包囲からエルサレムを守った。
👩 母:アビヤ(ゼカリヤの娘)
😈
マナセ
מְנַשֶּׁה(忘れさせる者)
✗ 最悪の王
📅 在位55年(最長) 🎂 12歳で即位
父の改革をすべて覆す。偶像礼拝、占い、霊媒、子どもを火に通す儀式。主の宮にアシェラ像を安置。
⚡ 晩年に悔い改め(歴代誌第二33章)
👩 母:ヘフツィ・バハ(「彼女の中に私の喜びがある」)
※美しい名だが、最悪の王を生んだ皮肉
💀
アモン
אָמוֹן(熟練した者)
✗ 悪い王
📅 在位2年 🎂 22歳で即位 ⚔️ 暗殺された
父マナセの悪行を継続。しかしマナセのような悔い改めはなかった。家来に謀反を起こされ宮殿で殺害。民衆が謀反者を処刑。
👩 母:メシュレメテ(ヨテバ出身ハルツの娘)
ヨシヤ
יֹאשִׁיָּהוּ(主が癒される)
★ 最良の王の一人
📅 在位31年 🎂 8歳で即位
「主の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」(22:2)。律法の書を発見し、大改革を断行。
👩 母:エディダ(ボツカテ出身アダヤの娘)
🌱 希望のパターン 最悪の環境からでも
神を求める者は起こされる
⚠️ 警告のパターン 良い親の信仰は
自動的には継承されない

💡 マナセはなぜ最悪の王になったのか?

ヒゼキヤが病から癒され寿命が15年延長された時、マナセはまだ生まれていなかったか幼児でした(マナセは12歳で即位し、ヒゼキヤは29年在位)。

つまりマナセは、神の奇跡を直接見ていない世代だったのです。父の敬虔さへの反発、あるいは偉大な父の影で育った劣等感が、彼を真逆の道へと導いたのかもしれません。

しかし希望があります。歴代誌によれば、マナセは晩年に悔い改めました。どんな罪人でも、神に立ち返ることができるのです。

認識の転換 ― 三箇所をつなぐテーマ

🔄 認識の転換

三箇所の通読をつなぐ共通テーマ

📜
創世記45章
ヨセフと兄弟たちの再会
👨‍👩‍👧‍👦 兄弟たち 👴 ヤコブ
以前の認識
ヨセフは死んだ
私たちが捨てた弟
新しい認識
ヨセフは生きている
私たちを救う者
👑
第二列王記21-22章
マナセからヨシヤへ
😈 マナセ 👦 ヨシヤ
以前の認識
私たちは大丈夫
王だから何でも許される
新しい認識
主の怒りの下にある
悔い改めが必要
マルコ13章
神殿と終末預言
👥 弟子たち
以前の認識
何とすばらしい建物
目に見えるものへの信頼
新しい認識
石は崩される
見えない神の国への信頼

✨ 私たちに求められる認識の転換

この世の価値観 → 神の国の価値観
目に見えるもの → 見えないもの
自分の義 → 神の義

💭 あなたにとっての認識の転換は?

「もう手遅れだ」→「いつでもやり直せる」
「自分には価値がない」→「神様に愛されている」
「過去の失敗が自分を縛っている」→「赦されて自由にされている」

noteの方では聖書初心者にも分かりやすく記事にしています。

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