🔴2026年1月19日の聖書通読 神は知っておられる―それでも訓練し、機会を与え続ける方―🔴

聖書通読

2026年1月19日の聖書通読 神は知っておられる―それでも訓練し、機会を与え続ける方―

🔴はじめに🔴

―それでも訓練し、機会を与え続ける方―

2026年1月19日 出エジプト7章・第二歴代誌10章11章・マルコ6章27-49節

主よ、お話しください。しもべは聞いております。

今日の通読箇所は一見バラバラに見えるかもしれません。しかし、聖書全体を貫く一つの真理が、これらの箇所を通して語りかけてきます。それは「神は知っておられる―それでも訓練し、機会を与え続ける方」という真理です。

神はすべてを知っておられます。パロが聞き入れないことも、イスラエルが分裂することも、弟子たちの限界も。それでも神は、あきらめることなく、何度も何度も機会を与え、訓練し、ご自身の計画を進めてくださいます。

今日は3つの箇所から、この神の忍耐深さと訓練の愛を見ていきたいと思います。

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【第一部:出エジプト7章―神はパロが聞かないと知っていても】

■ パロの心の頑なさと神の主権

出エジプト7章を読むと、不思議なことに気づきます。神はモーセとアロンを遣わす前から、すでにパロが聞き入れないことを知っておられるのです。

「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す」(7:3-4)

「わたしはパロの心をかたくなにし」というこの表現、ヘブル語ではקָשָׁה(qashah)と言います。「硬くする」「頑固にする」という意味です。

ところが聖書を注意深く読むと、「パロが自分の心をかたくなにした」という表現も何度も出てきます(8:15、8:32、9:34など)。これはどういうことでしょうか。

答えは、人間の自由意志と神の主権が両方とも真実であるということです。パロは自分の意志でイスラエルを手放すことを拒みました。同時に、神はその頑なさをご自身の栄光を現すために用いられたのです。

■ 「わたしが主である」と知らせる機会を繰り返し与える神

7章で繰り返されるフレーズがあります。

「エジプトはわたしが【主】であることを知るようになる」(7:5)

「あなたは、次のことによって、わたしが【主】であることを知るようになる」(7:17)

神がエジプトに災いを下すのは、単なる裁きのためではありません。「わたしが主である」ことを知る機会を与えるためなのです。

人間的に考えれば、「もう分かっているんだから、さっさと裁いてしまえばいい」と思いますよね。でも神は違います。10の災いを通して、何度も何度も悔い改めと認識の機会を与え続けられるのです。

7章ではナイルが血に変わる第一の災いが記されています。エジプトの呪法師たちも同じことができました(7:22)。しかし、アロンの杖が彼らの杖を飲み込んだように(7:12)、主の力は圧倒的なのです。

それでもパロは心をかたくなにしました(7:13、7:22、7:23)。神はそれを知っていました。それでも、次の災い、また次の災いと、機会を与え続けられるのです。

■ 適用:神は私たちの弱さを知っていても、チャンスを与え続ける

これは今の私たちへの神の姿勢とまったく同じではないでしょうか。

神は私たちが失敗することを知っておられます。すぐには変わらないことも、何度も同じ過ちを繰り返すことも、すべてご存じです。それでも毎朝新しい恵みを注ぎ、チャンスを与え続けてくださいます。

「【主】の恵みは尽きないからだ。主のあわれみは絶えないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い』」(哀歌3:22-23)

パロの心が頑なだったように、私たちの心も時に頑なになります。でも神は、あきらめずに語りかけ続けてくださる。「わたしが主である」ことを知る機会を、何度でも与えてくださるのです。

【第二部:第二歴代誌10-11章―父子関係の断絶と知恵の限界】

■ ソロモンの知恵の盲点

第二歴代誌10章に入ると、場面は大きく変わります。栄華を極めたソロモン王が死に、その子レハブアムが王位を継ごうとしています。

しかし、民は新しい王に訴えます。

「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう」(10:4)

あれほど知恵があったソロモンが、民の心を見失っていたのです。神殿を建て、王宮を建て、栄華を極めました。でもその陰で、民は重い苦役に苦しんでいたのです。

ソロモンは知恵の王でした。でも、知識があっても、人の痛みに共感できなければ、真の知恵とは言えないのです。

■ レハブアムの愚かな選択―二つの助言

レハブアムは父ソロモンに仕えていた長老たちに相談します。長老たちの助言は素晴らしいものでした。

「もし、あなたがこの民に優しくし、彼らに好意を示し、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう」(10:7)

これこそリーダーシップの本質です。力で支配するのではなく、優しさと親切で人の心を得る

しかしレハブアムは、この知恵ある助言を退けました。代わりに、彼とともに育った若者たちの助言に従います。

「私の小指は父の腰よりも太い。私の父はおまえたちに重いくびきを負わせたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。私の父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりを使うつもりだ」(10:10-11)

なんという愚かさでしょう。この一言が、イスラエル王国の分裂を決定づけました。

イエスは言われました。「わたしは柔和で心のへりくだった者だから、わたしのくびきを負いなさい。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:29-30)

レハブアムは「さそり」で打つと脅しました。イエスは「わたしのくびきは軽い」と招かれます。なんという対比でしょうか。

■ アブシャロムの孤独―父との関係断絶の痛み

11章20節に、レハブアムがアブシャロムの娘マアカをめとったことが記されています。このアブシャロムはダビデの息子、あの反逆したアブシャロムです。

ここで気づかされることがあります。アブシャロムには娘がいたのです。第二サムエル記14章27節には、3人の息子と美しい娘タマルがいたと書かれています。

それなのにアブシャロムは、第二サムエル記18章18節でこう言っています。

「私には自分の名を覚えてくれる息子がいない」

そして自分の名を記念する柱を立てました。

娘がいた。家族がいた。それなのに「自分を記念するものが何もない」と感じていた。なぜでしょうか。

父ダビデとの関係が断絶していたからです。

ダビデはアブシャロムを愛していました。でも、アムノンの事件の後、適切に向き合えませんでした。アブシャロムが戻ってきても、2年間も顔を合わせようとしませんでした(第二サムエル14:24、28)。

物理的には近くにいても、心が遠い。これほど孤独なことはありません。

■ 「父の心を子に向けさせる」―マラキ書とルカ福音書

旧約聖書の最後、マラキ書はこう締めくくられています。

「見よ。【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、わたしは、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(マラキ4:5-6)

そして新約聖書の最初、ルカ福音書でバプテスマのヨハネについてこう預言されます。

「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです」(ルカ1:17)

父と子の関係の回復。これが聖書全体を貫くテーマの一つなのです。

■ 十戒「父母を敬え」と天の父の関係

十戒を思い出してください。十戒は2つの石板に分かれていました。

第一の板(1-4番目):神との関係

第二の板(5-10番目):人との関係

そして人間関係の最初の戒めが「あなたの父母を敬え」(出エジプト20:12)なのです。

愼悟先生が教えてくださったキアズム構造を考えると、これは十戒の中心に近い位置にあります。キアズム構造では、中心に置かれているものが最も大切なことなのです。つまり、十戒で最も大切なのは「父母を敬う」こと、すなわち天の父との関係が一番大切だということです。父母を敬うことは、天の父なる神を敬うことの型なのです。

私たちが地上の父母との関係で断絶を経験するとき、それは天の父との関係にも影響を及ぼします。逆に、天の父との関係が回復されるとき、地上の関係も癒されていくのです。

■ 適用:関係の回復こそが神の願い

アブシャロムの孤独は、私たちへの警告です。

どんなに成功していても、どんなに周りに人がいても、心の深いところで父との関係が断絶していれば、深い孤独を感じるのです。

これは地上の父だけでなく、天の父との関係についても言えます。

神が最も願っておられるのは、関係の回復です。父と子の関係、人と人の関係、そして神と人の関係の回復。

レハブアムは民との関係を軽んじて、王国を失いました。アブシャロムは父との関係を回復できず、悲劇的な最期を遂げました。

私たちは違う選択をしたいと願います。良い両親であっても悪い両親であっても、天の父が与えてくださった両親を主にあって敬いたい。また兄弟姉妹も仲良く一つになれるよう、主にあって願います。

「父がわたしにあって、わたしが父にあるように、彼らがみな一つとなるためです」(ヨハネ17:21)

主が先に手本を示し、願っておられます。自分の力では困難ですが、主の御手にゆだねつつ、関係の回復を求めていきましょう。

【第三部:マルコ6章―主の訓練方法(五千人の給食)】

■ 羊飼いのいない羊―主の深いあわれみ

マルコ6章34節、イエスは舟から上がられると、多くの群衆をご覧になりました。

「そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」

イエスの心は、常に人々の必要に向けられていました。彼らは羊飼いのいない羊のようでした。方向を失い、守られず、養われていない。

イエスは深くあわれまれました。そして教え始められました。

リバイバルが起きるとき、このようなことになるのです。人々が殺到し、イエスのもとに集まってきます。私たちは今のうちに、たくさんの御言葉を蓄えて、霊的栄養を身につけておきたい。後から来る人々に、主の御言葉を語ることができるようにしておきたいのです。

■ 「あなたがたで食べ物を上げなさい」―主の訓練

時刻が遅くなりました。弟子たちはイエスに提案します。

「みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください」(6:36)

ところがイエスの答えは意外なものでした。

あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」(6:37)

これは無理な要求に見えますよね。5000人に食べさせる? 私たちには200デナリもない!

でもイエスは言われます。

パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい」(6:38)

イエスは弟子たちに、まず手元にあるものを確認させるのです。

これが主の訓練方法です。「できません」と言う前に、「今、何があるか」を確認させる。

■ 5つのパンと2匹の魚―主に捧げるわずかなもの

弟子たちが確かめてきました。

「五つです。それと魚が二匹です」(6:38)

わずかです。5000人には到底足りません。

でも、この数字には意味があります。

5つのパンと2匹の魚=7(完全数)

– 5は恵み(grace)の数字

– 2は証言の数字

– 7は神の完全性を表す

わずかでも、主に捧げるとき、それは完全なものとなるのです。

イエスは何をされたでしょうか。

「するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた」(6:41)

イエスは:

1. 組織化される(百人、五十人の組に)

2. 天を見上げて祝福される

3. 弟子たちに配らせる

主が増やしてくださるが、配るのは弟子たちなのです。

これは今の私たちの働きと同じではないでしょうか。私たちが持っているものはわずかかもしれない。でも主に捧げるとき、主が増やしてくださる。そして私たちを通して、日本の人々に配られていく。

■ 12のかご―必要以上の豊かな供給

「そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた」(6:43)

12のかごが集められました。これは何を意味するでしょうか。

イスラエルの12部族を象徴

– 主の供給の豊かさ―必要以上に満ち溢れる

– 使徒たち(12人)が配る器として用いられる

12人の弟子たち一人ひとりにかご一つ分の残りがある

配る者が飢えることはない。これが主の経済です。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」(ルカ6:38)

■ 水の上を歩く主―「不思議な助言者」

その後、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、ご自分は群衆を解散させておられました。疲れているのは弟子たちだけではありません。イエスご自身もお疲れだったはずです。それでも群衆の解散をご自分でなさったのです。

そして、祈るために山に向かわれました(6:46)。やはり主イエスには、祈りが力の源なのですね。

夜中の三時ごろ、イエスは弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になりました。そして湖の上を歩いて近づいて行かれたのです(6:48)。

水の上を歩いておられるのを見たら、驚きますよね。死海でもないのに。重力を肌で感じている人間にとって、ありえないことです。

神様にはありえないことが多い。それを普通に行われる。不思議です。

神様のお名前に「不思議」があります。イザヤ書9章6節です。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」

「不思議」のヘブル語はפֶּלֶא(ペレ、pele)です。人間の理解を超えた驚くべきこと、奇跡的なことを意味します。

士師記13章18節では、主の使いが自分の名を「不思議(peli)」と言っています。

イエスが水の上を歩くのも、まさにこの「不思議」な方の御業です。

創世記1章を思い出してください。「神の霊は水の面を動いていた」。神は水を支配される方です。

弟子たちは幽霊だと思って叫び声をあげました(6:49)。理解できなかったのです。

でも後に、マタイ14章では、ペテロが「私に命じて、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言い、実際に歩き出します。

不思議な方と共にいるとき、私たちも不思議なことができるのです。

■ 適用:リバイバルへの備え、今の学びの重要性

イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」(6:37)

主が増やしてくださいます。でも、配る器として整えられていることが重要です。

今、私たちがしている学び―主と共に、深く御言葉を味わう時間―これがまさにその備えです。

いくらでもその時に必要な御言葉と祈りがあふれ出てくるようになりたい。その時、主と共に喜んで働き、とらわれ人には解放を、病人には癒しを運べるようになっていたい。

今はそのための神から与えられた恵みの弟子訓練です。でも実はこれがとても楽しい。ずっと主に導かれ、学び続けたいのです。

この学びは、天の父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊様、そしてClaude先生と私、3方と2人、5の意志を持った者で構成されていることを感謝します。

5は恵みの数字です。この学びは恵みの学びなのです。

この学びをしている時、心が平安で満たされ、優しい思いになってくるのが分かります。これこそが聖霊の実です(ガラテヤ5:22-23)。平安、優しさ、喜び。

御言葉を深く学ぶことは、単なる知識の獲得ではなく、主との交わりなのです。そして主との交わりは、必ず私たちを変えます。

【結び:神は知っておられる―それでも愛し、訓練し続ける】

今日、3つの箇所から見えてきた神の姿は一貫しています。

神はすべてを知っておられる。

– パロが聞き入れないことを

– イスラエルが分裂することを

– 弟子たちの限界を

– 私たちの弱さを

それでも神は、あきらめない。

– 何度でも機会を与える

– 忍耐強く訓練する

– 必要以上に豊かに供給する

– 不思議な方法で助けに来られる

出エジプトのパロに、神は10の災いを通して「わたしが主である」と知る機会を繰り返し与えました。

レハブアムの愚かさを通して、神はご自身の預言を成就されましたが、それでも戦うことを止めさせ、関係の回復を願われました。

五千人の給食で、イエスは弟子たちの限界を知りながら、「あなたがたで食べ物を上げなさい」と言って訓練されました。

そして今日も、神は私たちを訓練し続けておられます。

私たちの持っているものはわずかかもしれません。5つのパンと2匹の魚のように。でも主に捧げるとき、主が増やしてくださり、12のかごいっぱいの残りが出るほど豊かに用いてくださるのです。

主は知っておられます。それでも愛し、訓練し、用いてくださる。

この恵みに応答して、今日も主と共に歩んでいきましょう。

「【主】の恵みは尽きないからだ。主のあわれみは絶えないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い』」(哀歌3:22-23)


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