オベデ・エドム – 二つのものが一つになる礼拝
目次
はじめに:シリーズの流れ
第1部ではダビデの幕屋の革命的な特徴を、第2部ではアサフとヘマンを、第3部ではダビデの復活信仰を、第4部では復活信仰の6つの源泉を、第5部ではアサフの復活信仰を、第6部ではヘマンの復活信仰を学んできた。
第7部では、ダビデの幕屋に仕えた「もう一人の人物」に注目する。異邦人でありながら契約の箱の前で仕えたオベデ・エドムだ。
1. 導入:衝撃的な対比
2サムエル記6章には、私たちの常識を覆す出来事が記されている。
ダビデ王は契約の箱をエルサレムに運び上げようとした。その途中、牛がつまずき、箱が傾いた。
ウザの悲劇
ナコンの打ち場に来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押さえた。牛がそれを揺らしたからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその場で彼を打たれた。彼は不敬の罪のために、神の箱のかたわらで死んだ。(2サムエル6:6-7)
ウザはイスラエル人だった。彼は契約の箱を守ろうとした。しかし神に打たれて死んだ。
オベデ・エドムの祝福
恐れたダビデは、契約の箱をエルサレムに運ぶことをやめた。
ダビデは神の箱を自分のところ、ダビデの町に移すことを恐れ、それをガテ人オベデ・エドムの家に運んだ。(2サムエル6:10、私訳)
ガテはペリシテの町だ。つまりオベデ・エドムは異邦人だった。律法を知らなかったはずだ。ところが:
主の箱は三か月の間、ガテ人オベデ・エドムの家にあった。主は、オベデ・エドムと、彼の全家を祝福された。(2サムエル6:11)
なぜこのような違いが生じたのか?
| ウザ | オベデ・エドム | |
| 出身 | イスラエル人 | ガテ人(異邦人) |
| 律法の知識 | 知っていたはず | 知らなかったはず |
| 行動 | 箱を守ろうとした | 箱を家に迎えた |
| 結果 | 死 | 祝福 |
ここに「律法と恵み」「行いと信仰」という、聖書全体を貫くテーマが隠されている。
そして新宿シャローム教会の富田慎悟牧師が指摘されたように、オベデ・エドムの存在は驚くべき事実を示している。「ダビデの幕屋では、異邦人とイスラエル人が共に礼拝していた。これは新約時代の予表だ!」
2. オベデ・エドムとは誰か
名前の意味
オベデ・エドムはヘブライ語で עֹבֵד אֱדוֹם(オベド・エドム)と書く。
עֹבֵד(オベド)= 仕える者、しもべ
אֱדוֹם(エドム)= エドム
つまり「エドムのしもべ」という意味だ。エドムはエサウの子孫の地であり、イスラエルから見れば異邦の地である。
聖書の記述
聖書を読むと、オベデ・エドムについて興味深い記述がある。
2サムエル6:10-11では「ガテ人オベデ・エドム」と呼ばれている。
ダビデは神の箱を自分のところ、ダビデの町に移すことを恐れ、それをガテ人オベデ・エドムの家に運んだ。(2サムエル6:10)
一方、1歴代誌15:18, 24では、オベデ・エドムはレビ人の門衛として記録されている。
彼らとともに次席の彼らの同族、ゼカリヤ、ベン、ヤアジエル、シェミラモテ、エヒエル、ウニ、エリアブ、ベナヤ、マアセヤ、マティテヤ、エリフェレフ、ミクネヤ、オベデ・エドム、エイエルは門衛であった。(1歴代誌15:18)
三つの解釈
この「ガテ人」と「レビ人」の関係について、聖書学者の間では主に三つの解釈がある。
解釈1:異邦人からレビ人へ
ガテ人オベデ・エドムとレビ人オベデ・エドムは同一人物である。彼はペリシテの町ガテ出身の異邦人だったが、契約の箱を預かった経験を経て、後にレビ人として礼拝共同体に受け入れられた。新宿シャローム教会の富田慎悟牧師はこの解釈を支持し、「ダビデの幕屋では異邦人とイスラエル人が共に礼拝していた。これは新約時代の予表だ」と指摘されている。
解釈2:別人説
「オベデ・エドム」という名前の人物が複数いた。2サムエル6章のガテ人オベデ・エドムと、1歴代誌のレビ人オベデ・エドムは別人である。
解釈3:レビ人の町ガテ出身
「ガテ人」は異邦人を意味するのではなく、「ガト・リンモン」というレビ人の町(ヨシュア21:24-25)の出身を意味する。つまりオベデ・エドムは最初からレビ人だった。
読者への招き
どの解釈が正しいかは、聖書本文だけでは確定できない。読者自身がベレア人のように聖書を調べ、判断していただきたい(使徒17:11)。
ただし、いずれの解釈を取るにしても、次の事実は変わらない。オベデ・エドムは契約の箱を家に迎え入れ、神から豊かに祝福された。そして後にダビデの幕屋で門衛として仕え、その子孫も祝福され続けた。
3. オベデ・エドムの物語
オベデ・エドムの人生は、三つの段階で祝福が深まっていった。
段階1:契約の箱を預かる(2サムエル6:10-12)
ウザの事件の後、ダビデは契約の箱をエルサレムに運ぶことを恐れた。そこで箱はオベデ・エドムの家に置かれることになった。
主の箱は三か月の間、ガテ人オベデ・エドムの家にあった。主は、オベデ・エドムと、彼の全家を祝福された。(2サムエル6:11)
三か月間、契約の箱と共に過ごす。これはオベデ・エドムにとって人生を変える経験だったに違いない。神の臨在が彼の家にあり、目に見える形で祝福が注がれた。
この知らせはダビデ王にも届いた。
「主がオベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを、神の箱のゆえに祝福された」とダビデ王に告げられた。(2サムエル6:12)
段階2:ダビデの幕屋で仕える(1歴代誌16:38)
契約の箱がエルサレムに運ばれた後、オベデ・エドムの人生は次の段階に進んだ。
また、オベデ・エドムとその兄弟六十八人、エドトンの子オベデ・エドムとホサを門衛とした。(1歴代誌16:38)
オベデ・エドムは門衛として、ダビデの幕屋で契約の箱の前に仕える者となった。かつて三か月間だけ箱を預かった彼が、今や毎日その御前で仕えることになったのだ。
段階3:子孫への継続的祝福(1歴代誌26:4-8)
オベデ・エドムへの祝福は、彼一代で終わらなかった。
オベデ・エドムの子は、長子シェマヤ、次にヨザバデ、三男ヨアフ、四男サカル、五男ネタンエル、六男アミエル、七男イッサカル、八男ペウレタイ。神が彼を祝福されたからである。(1歴代誌26:4-5)
八人の息子が与えられた。そして息子たちにも、さらに子が与えられた。
オベデ・エドムの息子と孫は六十二人で、彼らはみな、その奉仕に有能な力ある勇士であった。(1歴代誌26:8)
ここで注目したいのは、「神が彼を祝福されたからである」(כִּי בֵרְכוֹ אֱלֹהִים キー・ベラコー・エロヒーム)という表現だ。
בֵרְכוֹ(ベラコー)は動詞 בָּרַךְ(バーラフ、祝福する)の完了形に三人称男性単数の接尾辞がついた形である。ヘブライ語の完了形は、単に「過去に祝福した」という一回限りの出来事ではなく、「祝福が確立され、継続している状態」を表すことができる。
つまり神はオベデ・エドムを祝福し、その祝福は一時的なものではなく、子孫に至るまで継続する祝福となった。これは創世記の「生めよ、増えよ、地を満たせ」(創世記1:28)という創造の祝福を彷彿とさせる。
4.「二つのものが一つに」の神学
ダビデの幕屋での礼拝
ダビデの幕屋で、誰が契約の箱の前で仕えていたのか。1歴代誌16章を見ると、驚くべき光景が浮かび上がる。
ダビデは、主の箱の前で絶えず仕えさせるために、レビ人の中からアサフとその兄弟たちを任命した。(1歴代誌16:37、私訳)
また、オベデ・エドムとその兄弟六十八人を任命した。(1歴代誌16:38、私訳)
アサフはレビ人であり、イスラエル人だった。一方、オベデ・エドムは「ガテ人」と呼ばれた人物だった(解釈によっては異邦人出身)。
この二人が、共に契約の箱の前で仕えていた。
もし異邦人説を取るならば、これは当時としては革命的なことだった。モーセの幕屋では、異邦人が聖所に近づくことは許されなかった。しかしダビデの幕屋では、イスラエル人と異邦人(または異邦人的背景を持つ者)が共に神を礼拝していたのだ。
エペソ2:14-16の予表
使徒パウロは、キリストにある和解をこう記した。
実に、キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁である敵意を、ご自分の肉において打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。それは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現するためであり、また二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためです。十字架によってキリストは敵意を滅ぼされました。(エペソ2:14-16)
「二つのものを一つにし」——これはユダヤ人と異邦人のことだ。キリストは隔ての壁を打ち壊し、二つを一つにされた。
驚くべきことに、この「二つのものが一つになる」という現実が、ダビデの幕屋においてすでに予表されていたのだ。
三つのレベルで見る
この「二つのものが一つになる」礼拝は、三つのレベルで理解できる。
レベル1:歴史的成就(BC 1003年頃)
ダビデの時代、エルサレムにて。アサフ(イスラエル人)とオベデ・エドム(ガテ人)が共に契約の箱の前で仕えた。これは来るべき時代の予表だった。
レベル2:神学的成就(AD 30年〜現在)
キリストの十字架と復活以降、教会において。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが、キリストにあって一つとされた。ダビデの幕屋で予表されていたことが、成就した。
レベル3:終末的完成(永遠)
新天新地において。あらゆる国民、部族、民族、国語の者たちが、御座の前で共に礼拝する。
その後、私は見た。すると見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。(黙示録7:9)
ダビデの幕屋で始まった「二つのものが一つになる礼拝」は、永遠において完成する。
5. 使徒15章との関連
エルサレム会議の問題
使徒の働き15章には、初代教会における重大な議論が記されている。異邦人がキリストを信じた時、彼らは割礼を受けてユダヤ人のようになるべきか、という問題だった。
さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。(使徒15:1)
これは単なる儀式の問題ではなかった。福音の本質に関わる問題だった。異邦人は、恵みによってそのまま救われるのか。それとも律法を守ることが必要なのか。
ヤコブの証言
議論の末、主の兄弟ヤコブが立ち上がり、驚くべき聖書箇所を引用した。
「神が最初に、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民を取り出そうとされたかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しています。こう書かれているとおりです。
『この後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その廃墟を建て直して、それを元どおりにする。それは、残りの人々、すなわち、わたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』」(使徒15:14-18、アモス9:11-12の引用)
なぜヤコブは「ダビデの幕屋」を引用したのか。
ダビデの幕屋の意味
ヤコブの論点はこうだ。ダビデの幕屋はかつて、異邦人(オベデ・エドム)をも含む礼拝の場だった。そしてアモスは、その幕屋が回復される時、「すべての異邦人が主を求めるようになる」と預言した。
今、その預言が成就しつつある。異邦人がキリストを信じている。これはダビデの幕屋の回復なのだ。だから異邦人に割礼を要求する必要はない。彼らは恵みによって、そのまま神の民に加えられるのだ。
福音宣教への道
ヤコブの引用は、ダビデの幕屋の最終的な目的を示している。それは「すべての異邦人が主を求めるようになる」ことだ。
ダビデの幕屋は単なる礼拝の場ではなかった。それは神の壮大な救済計画の予表だった。イスラエル人と異邦人が共に礼拝する。その礼拝が回復される時、福音は全世界に広がっていく。
オベデ・エドムの物語は、この壮大な計画の一部だったのだ。
6. まとめ
オベデ・エドムの物語を振り返ろう。
彼は「ガテ人」と呼ばれた。異邦人、あるいは異邦人的背景を持つ者だった。律法的な資格で言えば、契約の箱に近づくことなど許されない立場だったかもしれない。
しかし神は、ウザではなくオベデ・エドムを祝福された。
イスラエル人ウザは、律法を知っていたはずだった。正しいことをしようとした。しかし打たれて死んだ。一方、オベデ・エドムは契約の箱を家に迎え入れ、三か月間の祝福を受けた。その後、門衛としてダビデの幕屋で仕え、八人の息子と六十二人の子孫に至るまで祝福され続けた。
ダビデの幕屋が指し示すもの
ダビデの幕屋には、新約時代を予表する四つの特徴があった。
第一に、垂れ幕がなかった。モーセの幕屋では、垂れ幕が至聖所を隔てていた。しかしダビデの幕屋では、人々が契約の箱の前で直接礼拝した。これはキリストの十字架で垂れ幕が裂けることの予表だった。
第二に、異邦人も共に礼拝した。アサフ(イスラエル人)とオベデ・エドム(ガテ人)が共に仕えた。これは教会においてユダヤ人と異邦人が一つとされることの予表だった。
第三に、絶えざる礼拝があった。ダビデは契約の箱の前で「絶えず」仕えさせるためにレビ人を任命した(1歴代誌16:37)。これは霊とまことによる礼拝の予表だった。
第四に、恵みによる近づきがあった。オベデ・エドムは律法的な資格ではなく、神の恵みによって祝福を受け、礼拝者となった。これは新約の恵みの予表だった。
私たちへの招き
オベデ・エドムの物語は、私たちへの招きでもある。
私たちもかつては「他国人であり、寄留者」だった(エペソ2:19)。神の民に属する資格などなかった。しかしキリストにあって、私たちは神の家族とされた。
ダビデの幕屋で始まった「二つのものが一つになる礼拝」は、今、世界中の教会で実現している。そしてやがて、あらゆる国民、部族、民族、国語の者たちが御座の前で共に礼拝する日が来る。
オベデ・エドムの物語は、神の壮大な計画の一部だった。そして私たちも、その計画の一部なのだ。
シリーズ案内
ダビデの幕屋シリーズの他の記事はこちらのカテゴリーページからご覧いただけます。
第8部では「霊とまことの礼拝」について、第9部では「福音宣教 – ダビデの幕屋の完成」について学びます。


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