2025年11月29日の通読:創世記28章10-22節、第二サムエル記6-7章、マタイ26章20-29節
今日の通読箇所には、「神の家」と「神の契約」という二つのテーマが美しく織り合わされています。
ヤコブが石を枕に眠った荒野が「ベテル(神の家)」となり、ダビデが神のために家を建てようとしたとき、神は逆に「わたしがあなたのために家を建てる」と約束されました。そして最後の晩餐で、イエスは「わたしの契約の血」と宣言されます。
人間の計画と神の計画の逆転、人の失敗を超えて働く神の恵み——今日の通読から、その豊かなメッセージを味わっていきましょう。
目次
1. ベテル——荒野が神の家となる(創世記28章)
ヤコブの状況
ヤコブは逃亡者でした。兄エサウの長子の権利と父の祝福を欺きによって奪い取り、兄の怒りから逃れるためにハランへ向かっていました。
ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。(創世記28:10-11)
石を枕にして眠る——それは逃亡者の惨めな野宿でした。しかし、その夜に神は驚くべき啓示を与えられます。
天のはしご
そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。(創世記28:12)
天と地をつなぐはしご。神の使いたちがその上を行き来している。これは単なる夢ではなく、霊的な真理を示す啓示でした。この「はしご」が何を意味するのかは、後ほど「天の門」の箇所で詳しく見ていきます。
アブラハム契約の継承
そして主はヤコブに語られます。
わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。(創世記28:13-14)
これはアブラハムに与えられた約束(創世記12:1-3)が、イサクを経て、今ヤコブに継承される瞬間です。
注目すべきは、ヤコブは何も良いことをしていないということです。むしろ欺きによって祝福を「奪った」張本人です。しかし神は、人間の失敗を超えて、ご自身の約束を成就されます。
これが「無条件の契約」の本質です。人間の側の行いではなく、神の側の誠実さによって契約は保たれます。
ベテル(בֵּית־אֵל)の意味
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」…そして、その場所の名をベテルと呼んだ。(創世記28:17, 19)
**ベテル(בֵּית־אֵל)**は、בַּיִת(バイト=家) と אֵל(エル=神) を組み合わせた言葉で、「神の家」という意味です。
なぜ「天の門」とも呼んだのか
ヤコブはこの場所を「神の家」だけでなく「天の門(שַׁעַר הַשָּׁמַיִם/シャアル・ハシャマイム)」とも呼びました。その理由は明確です。
- 天のはしごを見た場所 — 天と地がつながる入口を目撃した
- 神の使いが上り下りしていた — 天への通路が開かれていた
- 主ご自身がかたわらに立っておられた — 天からの啓示を受けた場所
「神の家」は神が住まわれる場所、「天の門」は天と地をつなぐ入口。両方の意味がこの場所にはありました。
そして、これはヨハネ1:51でイエスがナタナエルに語られた言葉と繋がります。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(ヨハネ1:51)
イエスは「はしご」ではなく「人の子の上を」と言われました。つまり、**キリストご自身が真の「天の門」**なのです。ヤコブが夢で見たはしごは、神と人との間の唯一の仲介者であるキリストを指し示していました。
人間にとっての荒野が、神の臨在によって神の家となる——これは私たちの人生にも当てはまります。
2. 契約の箱をエルサレムへ(第二サムエル記6章)
アビナダブの家から
時代は約600年後、ダビデ王の時代に移ります。
ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。…彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。(Ⅱサムエル6:2-3)
契約の箱は、サウルの時代からずっとキルヤテ・エアリムのアビナダブの家に置かれていました。ペリシテ人に奪われ、災いのゆえに返還されてから約20年以上が経っていました。
ダビデはこの契約の箱をエルサレムに運び上げ、神の臨在を都の中心に迎えようとしました。
ウザの死——人の力で神を支えようとする愚かさ
しかし、途中で悲劇が起こります。
こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押さえた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、【主】の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。(Ⅱサムエル6:6-7)
ウザ(עֻזָּא) という名前は、語根 עזז(アザズ) から来ており、「力」という意味があります。
皮肉なことに、「人の力」を意味する名を持つ者が、人の力で神の箱を支えようとして打たれました。
この出来事は厳しく感じますが、深い霊的真理を教えています。
神の箱は、神ご自身の臨在の象徴です。神は人間の力で「支える」必要がない。たとえ落ちそうに見えても、神ご自身が態勢を立て直される方です。
私たちは時に「神のために」何かをしようと焦ります。教会が危機に見えるとき、人間的な方法で「支えよう」とすることがあります。しかし神は、私たちの助けがなくてもご自身の計画を遂行される方です。
私たちに求められているのは、人間的な力ではなく、神に伺い、神の方法に従うことです。実際、後にダビデは律法を調べ、契約の箱はレビ人が肩に担いで運ぶべきだったことを知ります(Ⅰ歴代誌15:13)。
オベデ・エドムの祝福——異邦人への希望
ウザの死に恐れたダビデは、契約の箱をエルサレムに運ぶことをあきらめ、近くにいたオベデ・エドムの家に回しました。
ダビデは【主】の箱を彼のところ、ダビデの町に移したくなかったので、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。こうして、【主】の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。【主】はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。(Ⅱサムエル6:10-11)
「ガテ人」とは、ペリシテの町ガテの出身者、つまり異邦人です。
驚くべきことに、神の箱は異邦人の家に3ヶ月間とどまり、その間、主は彼と全家を祝福されました。
これは美しい予型です。神の臨在は、民族の壁を超えて祝福をもたらす。 後のアモス9:11-12の預言、そして使徒15章での異邦人伝道の根拠となる真理が、ここにすでに示されています。
ダビデの喜びの礼拝
オベデ・エドムの家が祝福されたことを聞いたダビデは、再び契約の箱をエルサレムに運び上げる決心をします。今度は正しい方法で——レビ人が担いで。
【主】の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。ダビデは、【主】の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。(Ⅱサムエル6:13-14)
エポデ(אֵפוֹד) は祭司が着る服です。ダビデは王でありながら、祭司の服を着て、神の前で「力の限り踊った」のです。
王としての威厳よりも、神の前での「しもべ」としての喜びを選んだダビデ。これが真の礼拝者の姿です。
ミカルの軽蔑——二つの礼拝の態度
しかし、すべての人がダビデの礼拝を理解したわけではありませんでした。
サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が【主】の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。(Ⅱサムエル6:16)
ミカル…言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」(Ⅱサムエル6:20)
ミカルにとって、ダビデの姿は「王らしくない」「恥ずかしい」ものに見えました。しかしダビデは答えます。
ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで【主】の民イスラエルの君主に任じられた【主】の前なのだ。私はその【主】の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」(Ⅱサムエル6:21-22)
ここに礼拝における二つの態度が象徴されています。
ダビデ型: 人の目より神の目を気にする。自分が卑しく見えても構わない。
ミカル型: 体裁、形式、「ふさわしさ」を気にする。礼拝を外から見ている。
ミカルには「死ぬまで子どもがなかった」(6:23)と記されています。外側から礼拝を批評する者には、霊的な実りがないことを暗示しているのかもしれません。
私たちも賛美や礼拝の場で、時に「批評する側」になっていないでしょうか。ダビデのように、人の評価ではなく神の御前での真実な礼拝を選び取る者でありたいと思います。
3. ダビデ契約——神が家を建てる逆転(第二サムエル記7章)
ダビデの願い
契約の箱がエルサレムに安置され、周囲の敵からも守られて平和な時が訪れました。そのとき、ダビデは一つの願いを持ちます。
王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」(Ⅱサムエル7:2)
自分は立派な宮殿に住んでいるのに、神の箱はまだ天幕の中にある。神のためにふさわしい神殿を建てたい——これはダビデの純粋な願いでした。
神の驚くべき答え
しかし、その夜、神は預言者ナタンを通して驚くべき答えを与えられます。
【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』(Ⅱサムエル7:11)
ダビデが神のために家(神殿)を建てようとしたのに、神は逆にダビデのために「家」(王朝)を建てると約束されました。
人間の計画と神の計画の逆転がここにあります。 私たちは神のために何かをしようとしますが、神はいつも先に、私たちのために働いておられる。私たちの奉仕は、神の恵みへの応答であって、恵みを得るための条件ではないのです。
ダビデ契約の内容
あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。…あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(Ⅱサムエル7:12-16)
この約束には三つの要素があります。
- 家(王朝) — ダビデの家は永遠に続く
- 王国 — 王国は永遠に確立される
- 王座 — 王座はとこしえに堅く立つ
「とこしえまでも」という言葉が繰り返されています。これは明らかにソロモンの時代だけでなく、もっと遠い将来——メシアの王国、千年王国、そして永遠——を見据えた約束です。
塩の契約
Ⅱ歴代誌13:5では、このダビデ契約について「塩の契約」という表現が使われています。
イスラエルの神、【主】が、イスラエルの王位をとこしえにダビデに与え、ダビデとその子孫に塩の契約をもって与えられたことを、あなたがたは知っているべきではないか。
「塩の契約」とは、無条件・永遠・破棄不可能な契約を意味します。塩は腐敗を防ぎ、永続性を象徴するからです。
アブラハム契約には「塩の契約」という表現は使われていませんが、創世記15章で神だけが契約の儀式を通過されたことから、同じ性質——無条件・永遠・破棄不可能——を持っています。
ダビデの祈り
この驚くべき約束を受けたダビデは、主の前に座して祈ります。
神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。(Ⅱサムエル7:18-19)
「はるか先のことまで」——ダビデは、この約束がソロモンの時代を超えた、はるか遠い将来まで及ぶことを感じ取っていたようです。
ダビデは預言者でもありました(使徒2:30)。詩篇110篇ではメシアについて語り、詩篇16篇では復活を預言しています。どこまで明確に理解していたかはわかりませんが、「自分の子孫から来る永遠の王」という確信はあったのでしょう。
今、どうぞあなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてください。神、主よ。あなたが、約束されました。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家はとこしえに祝福されるのです。(Ⅱサムエル7:29)
4. 契約の血——すべての成就(マタイ26章)
最後の晩餐
時代はさらに約1000年後、イエスと弟子たちの最後の晩餐に移ります。
さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」(マタイ26:20-21)
ユダの裏切り
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。(マタイ26:25)
興味深いことに、他の弟子たちは「主よ(κύριε、キュリエ)」と呼んでいるのに対し、ユダだけが「先生(ῥαββί、ラビ)」と呼んでいます。同じ食卓にいながら、心の距離は全く違っていました。
ユダはすでに銀30枚で裏切りを決めていました。銀30枚は奴隷の値段であり(出エジプト21:32)、ゼカリヤ11:12-13の預言の成就でもあります。
しかしイエスは、ユダがいることを知りながら、聖餐を制定されました。裏切り者さえも食卓から追い出さなかった——これもまた恵みの深さを示しています。
最初の聖餐
また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:26-28)
これが最初の聖餐式です。過越の食事を、イエスは新しい意味で再解釈されました。
過越のパンは本来「苦難のパン」「急いで出エジプトしたパン」でしたが、イエスは「わたしのからだ」と宣言されました。そして杯を「わたしの契約の血」と呼ばれました。
契約の連続性
出エジプト24章で、モーセは「契約の血」を民に振りかけました。
モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト24:8)
しかしそれは動物の血でした。イエスはご自身の血によって、新しい契約を結ばれたのです。
今日の通読で見てきた契約の流れを振り返りましょう。
- 創世記28章:アブラハム契約がヤコブに継承される
- Ⅱサムエル7章:ダビデ契約が与えられる
- マタイ26章:イエスが「わたしの契約の血」と宣言される
マタイ1:1は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と始まります。すべての契約がキリストにおいて一つになるのです。
神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。(Ⅱコリント1:20)
5. 私たちへの適用
神が先に働かれる
ヤコブは逃亡者でした。ダビデも後に罪を犯します。しかし神の契約は、人間の失敗によって無効になりませんでした。
神の約束は、人間の行いではなく、神の誠実さによって保たれます。 これが福音の希望です。私たちも失敗します。しかし神の約束は変わりません。
人の力ではなく神の方法で
ウザは「良かれと思って」神の箱を支えようとしました。しかし神は「良い意図」よりも「神への畏れと従順」を求められます。
私たちも時に、人間的な熱心さで神の働きを「助けよう」とします。しかし神はご自身で働かれる方です。私たちに求められているのは、神に伺い、神の方法に従うことです。
真実な礼拝
ダビデは人の目より神の目を気にしました。ミカルに軽蔑されても、「私はこれより、もっと卑しめられよう」と言いました。
私たちも礼拝において、人の評価ではなく神の御前での真実さを選び取る者でありたいと思います。批評する側ではなく、共に喜び踊る側に立ちたいのです。
契約の血による確信
イエスは「わたしの契約の血」と宣言されました。この血によって、アブラハム契約もダビデ契約も、すべて「はい」となりました。
私たちは今、この契約の中に入れられています。アブラハムの子孫、ダビデの王国の民、そしてキリストの血による新しい契約の当事者です。
まとめ
今日の通読は、「神の家」と「神の契約」というテーマで貫かれていました。
- ヤコブの枕石が「ベテル(神の家)」となった
- ダビデが神のために家を建てようとしたとき、神が逆にダビデのために「家」を建てると約束された
- そしてイエスが「わたしの契約の血」によって、すべてを成就された
荒野が聖所となり、人間の計画が神の計画に逆転され、すべての約束がキリストにおいて「はい」となる——これが聖書の壮大な物語です。
私たちもこの物語の中に招かれています。失敗者であっても、神の恵みによって契約の民とされているのです。
関連図解:
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。この記事が、聖書を読む助けとなれば幸いです。
聖書をあまり読んだことのない方にもわかりやすくnoteで紹介しています。




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