熱心さだけでは足りない―ダビデの失敗とイエスの権威から
導入
今日の通読箇所は、創世記49章13-22節、第一歴代誌12-13章、マルコ1章1-23節である。一見すると、ヤコブの臨終の祝福、ダビデのもとに集まる人々、イエスの宣教開始という全く異なる場面が並んでいるように見える。
しかし、これらの箇所を貫く一つの主題がある。それは「神の選びと人間の応答」だ。神が選び、定め、導かれる。人間はそれにどう応答するのか。熱心さは大切だが、それだけでは足りない。神の方法で、神の時に歩むことの重要性を、今日の箇所は教えている。
第一部:ヤコブの叫び(創世記49:18)
ヤコブは死の床で12人の息子たちに祝福を語っている。各部族の将来を預言的に語る中で、ダンについてこう言った。
「ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。」(49:17)
蛇のイメージは不吉だ。創世記3章でエバを誘惑したのは蛇だった。実際、ダン族は後に偶像礼拝に陥り(士師記18章)、黙示録7章の14万4千人のリストからはダン族だけが省かれている。
興味深いのは、このダンへの預言の直後にヤコブが突然こう叫ぶことだ。
「主よ。私はあなたの救いを待ち望む。」(49:18)
ヘブライ語では「לִישׁוּעָתְךָ קִוִּיתִי יהוה」(リシュアーテハー キッヴィーティ アドナイ)。ここで「救い」と訳されている語は「イェシュアー」(יְשׁוּעָה)であり、これはイエス(יֵשׁוּעַ、ヘブライ語でイェシュア)の名の語源そのものである。
なぜヤコブはこの言葉を発したのか。彼は霊的な目で、自分の子孫の中にさえ背信と堕落があることを見たのではないだろうか。そして人間的な希望ではなく、神からの救い―やがて来られるメシアによる救い―を待ち望む告白をしたのだ。
これは、私たちが自分自身や他者に失望する時、どこに目を向けるべきかを教えている。人間の力や熱心さではなく、神の救いを待ち望むこと。これが信仰者の姿勢である。
第二部:集合と散乱(歴代誌12-13章)
歴代誌12章には、ダビデのもとに人々が集まってくる様子が詳細に記録されている。
「日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営となった。」(12:22)
注目すべきは、この集合が「主のことばのとおり」(12:23)であったことだ。神がダビデを王とすると定められ、その神の計画に従って人々が動いた。ダビデ自身は受け身であった。神が時を定め、神が人の心を動かされた。
その結果、12章は喜びの祝宴で終わる。「イスラエルに喜びがあったからである」(12:40)。
ところが13章では、同じダビデが主導して行動を起こす。
「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」(13:3)
動機は素晴らしい。契約の箱を大切にしたい、神を礼拝したいという熱心さがあった。「すべての民がそのことを正しいと見た」(13:4)。全員が賛成した。
しかし問題は方法だった。彼らは「神の箱を新しい車に載せた」(13:7)。これはペリシテ人が箱を送り返した時と同じ方法である(サムエル記上6章)。律法では、契約の箱はレビ人のケハテ族が肩に担いで運ぶと定められていた(民数記4:15、7:9)。
結果は悲劇だった。牛がつまずいた時、ウザが手を伸ばして箱を押さえ、神の怒りによって打たれた(13:9-10)。
ダビデは激し、恐れた。「私はどうして、私のところに神の箱をお運びできましょうか」(13:12)。箱はガテ人オベデ・エドムの家に置かれることになった。
ここに深い教訓がある。良い動機と熱心さは、神の方法に代わることができない。
ダビデは後に正しい方法で箱を運び直し、成功する(歴代誌15章)。そこで彼はこう言っている。「私たちの神、主は、私たちを打たれた。私たちが定められた方法どおりにしなかったからである」(15:13、新共同訳参照)。
「ペレツ・ウザ」という地名が付けられた(13:11)。「ペレツ」(פֶּרֶץ)は「破れ、突破」という意味である。神の怒りが突き破った場所として記憶された。
興味深いのは、この後オベデ・エドムの家が祝福されたことだ(13:14)。ウザが打たれた直後に契約の箱を受け入れることは勇気がいったはずだ。しかし彼は恐れではなく信仰で神に近づき、祝福を受けた。
第三部:権威の源泉(マルコ1章)
マルコの福音書は、イエスの宣教がどのように始まったかを記録している。その順序に注目したい。
1. バプテスマのヨハネの登場と「主の道を用意せよ」という宣言(1:2-8)
2. イエスがヨルダン川でバプテスマを受ける(1:9)
3. 天が裂け、御霊が鳩のように下る(1:10)
4. 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という父の声(1:11)
5. 御霊がイエスを荒野に追いやり、40日間サタンの誘惑を受ける(1:12-13)
6. ガリラヤで福音を宣べ伝え始める(1:14-15)
7. 弟子たちを召す(1:16-20)
8. 会堂で「権威ある者のように」教える(1:21-22)
イエスの権威は突然現れたのではない。父からの承認、御霊の臨在、そして試みを通過した後に現れた。
特に12-13節の「御霊はイエスを荒野に追いやられた」という表現は強烈だ。原語のギリシャ語「エクバッロー」(ἐκβάλλω)は「追い出す、投げ出す」という強い意味を持つ。御霊の注ぎの直後に、イエスは試みの場へと押し出された。
バプテスマのヨハネは言った。「私は衰え、あの方がますます栄えなければならない」(ヨハネ3:30、直接の引用ではないがヨハネの本質を表す言葉)。これは自分が王にならず、メシアを指し示す者としての謙遜である。
イエスが「権威ある者のように」教えられたのは、イエスが神の子であり、父なる神の権威を持っておられたからだ。しかしその権威の現れは、バプテスマ、御霊の降臨、父の承認、荒野での試みという過程を経た後であった。
私たちもまた、キリストと結ばれ(バプテスマ)、御霊を受け、試練を通して成熟し、そして奉仕へと導かれる。この順序を無視して権威だけを求めることはできない。
結論:三箇所を貫く問い
今日の三箇所は、一つの問いを私たちに投げかけている。
「私は神の方法で、神の時に、神の働きに参加しているか」
ヤコブは死の床で、人間的な計画ではなく神の救いを待ち望んだ。ダビデのもとに集まった人々は、神の時が来て初めて動いた。イエスは御霊に追いやられて荒野に行き、御霊の導きの中で宣教を始められた。
熱心さは大切だ。神を愛し、神の働きに参加したいという願いは尊い。しかしダビデの失敗は、良い動機でも方法を間違えると悲劇になることを示している。
私たちの奉仕も、「新しい車」(人間的な効率や方法)ではなく、「レビ人が担ぐ」(神が定めた方法)でなされる必要がある。そして失敗しても、ダビデのようにそこから学び、正しい方法でやり直すことができる。
試みを通してぼろが出ることもある。しかしそれは終わりではない。十字架を見上げ、立ち上がり、再び歩み出す。その繰り返しの中で、私たちは少しずつキリストに似た者とされていく。
「主よ。私はあなたの救いを待ち望む。」
この叫びを自分のものとしながら、今日も神の方法で、神の時に歩んでいこう。



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