はじめに
目次
―パロの頑なさ、アサの転落、そして良い地の心―
2026年1月22日 出エジプト記9章1-12節、第二歴代誌16-17章、ルカの福音書8章1-18節
今日の通読箇所は、一見するとまったく異なる三つの物語のように見えます。エジプトで頑なになるパロ、晩年に転落するユダの王アサ、そして良い地に蒔かれる種のたとえ。しかし、これらすべてに共通する深いテーマがあります。それは「心の状態が人生を決める」という真理です。
1. パロの心―頑なさの選択
神の警告と自由意志
出エジプト記9章1-7節で、神はモーセを通してパロに警告を与えます。「わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ」。しかし、パロは拒否し続けます。ここで注目すべきは、7節と12節の違いです。
7節:「パロの心は強情で、民を行かせなかった」
12節:「しかし、【主】はパロの心をかたくなにされ」
ヘブライ語から見る心の変化
ヘブライ語原文を見ると、この違いがより鮮明になります。
7節:パロの心はカーベード(כָּבֵד = 重い、鈍い)← これはパロ自身の選択です。
12節:主がハーザク(חָזַק = 強くする、固める)← これは神の行為です。
つまり、パロが自分で心を頑なにし続けた結果、神がその選択を「確定させた」のです。神は人の自由意志を尊重されるお方です。パロには悔い改める機会が何度も与えられました。しかし、パロは自ら拒否し続けました。そして神は「それがあなたの最終決定なのだな」と、その選択を固められたのです。
これは深刻な警告です。私たちも心を頑なにし続けると、いつか「引き返せない点」に達するかもしれません。神はパロの創造主です。だから彼の心を完全に見通しておられます。そして同じ神は、私たち一人ひとりの心も完全に知っておられるのです。
2. アサ王の悲劇―完全な心からの転落
輝かしい始まり
アサ王は、ユダの歴史の中でも際立って素晴らしい王でした。彼は偶像を取り除き、自分の母(王母ゲビラ)が作ったアシェラ像さえも打ち砕きました(第一列王記15:13)。彼の心は「【主】に対して全く一つ」でした。
第二歴代誌14章では、エチオピアの100万の大軍と戦い、主に拠り頼んで勝利しました。これこそが「完全な心」の力でした。
転落の始まり
しかし、16章で悲劇が起こります。アサは治世36年目、イスラエルの王バシャの脅威に直面し、主ではなくアラムの王に助けを求めました。
予見者ハナニが彼のもとに来て言いました:
「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、【主】に拠り頼みませんでした。【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(16:7-9)
これは聖書全体でも最も美しい神の性質の表現の一つです。神はレバーブ・シャーレーム(לֵבָב שָׁלֵם = 完全な心)を持つ人を探しておられます。
暴力へのエスカレーション
アサの反応は衝撃的でした:
「すると、アサはこの予見者に対して怒りを発し、彼に足かせをかけた。このことで、彼に対し激しい怒りをいだいたからである。アサはこのとき、民のうちのある者を踏みにじった。」(16:10)
「踏みにじった」というヘブライ語はラーツァツ(רָצַץ)で、「砕く、押しつぶす、圧迫する」という強烈な言葉です。これは単なる不当な扱いではなく、暴力的で残酷な圧迫を意味します。
注目すべきは暴力のエスカレーションです:
① ハナニに怒る(感情)
② ハナニに足かせをかける(個人への暴力)
③ 民のうちのある者を踏みにじる(集団への暴力)
暴力は常に広がります。一人に対する不正義は、決してそこで止まりません。
神の裁きの皮肉
アサはハナニに「足かせ」をかけました。そして皮肉にも、彼自身が「両足」の病で倒れます(16:12)。
さらに悲しいことに、「その病の中でさえ、彼は【主】を求めることをしないで、逆に医者を求めた」とあります。ヘブライ語の「ガム」(גַּם)は「~さえも」という意味です。
聖書は医者を求めること自体を批判していません。問題は:
• 医者「だけ」を求めた
• 神を「全く」求めなかった
これは実用主義の極致です。「神は理念として良いが、実際的な助けは人間の技術から」という態度。現代の私たちにも、心当たりがありませんか?
なぜアサは変わったのか
若い時のアサは、エチオピアの大軍と戦いました。年老いたアサは、小さなイスラエル王国が怖くなりました。
パラドックス:
• 神への信頼が弱まると → 恐れが増す
• 恐れが増すと → 人間的手段に頼る
• 人間的手段に頼ると → もっと不安になる
• もっと不安になると → 批判者を黙らせたくなる
• 批判者を黙らせると → もっと孤立する
これは悪循環です。
しかし、アサの性格そのものは変わっていません。彼は常に行動的で、決断力があり、妥協しない人でした。若い時、この性質が神のために用いられました。年老いた時、この性質が自己保身のために用いられました。
つまり、性格そのものは変わっていない。方向が変わっただけ。
アサ王の人生の軌跡:完全な心から転落まで
• 母ゲビラのアシェラ像を打ち砕く
• 心は「主に対して全く一つ」
• 「主よ、あなたに拠り頼みます」と祈る
• 神が大勝利を与えられる
• 全国的宗教改革を実施
• 民と共に主と契約を結ぶ
• 主ではなくアラム王に助けを求める
• 神殿と王宮の財宝を送る
• 怒ってハナニに足かせをかける
• 民を「ラーツァツ」(踏みにじる)
• 病の中でも主を求めず
• 医者だけに頼る
• しかし人々は彼の前半生を覚えている
• 非常にたくさんの香をたいて丁重に葬る
アサ王の人生から学ぶ教訓
アサは常に「行動的で、決断力があり、妥協しない人」だった。
若い時:この性質が神のために用いられた
年老いた時:この性質が自己保身のために用いられた
神への信頼低下 → 恐れの増大 → 人間的手段への依存 → さらなる不安 → 批判者の弾圧 → 孤立 → もっと不安…
「以前、素晴らしい信仰があった」は、今日の免罪符にはならない。
毎日、心の方向を確認する必要がある。
アサの後半生は失敗だったが、前半生の功績は消えていない。
神は人を「全体として」評価される。これは希望であり、同時に責任でもある。
3. ヨシャパテの希望―父の失敗から学ぶ
アサの子ヨシャパテは、父の失敗を繰り返しませんでした。17章6節に注目してください:
「彼の心は【主】の道にいよいよ励み、彼はさらに、高き所とアシェラ像をユダから取り除いた。」
高き所とは何か
高き所(バーモート、בָּמוֹת)とは、元々は「高い場所」「隆起した場所」を意味する地形語です。イスラエル初期には、ヤハウェ礼拝にも用いられていました(例:第一サムエル記9:12-14でサムエルがバーモートで礼拝)。
しかし、申命記の中央集権化神学(申命記12章)以降、特にヨシヤ王の改革時代に、エルサレム神殿以外での礼拝は問題視されるようになりました。さらに、バーモートがカナンの異教礼拝と混同されるリスクもあったため、預言者たちはこれを強く批判するようになったのです。
なぜ問題なのか:
① 神が定めた場所(幕屋→神殿)以外での礼拝
② 異教的要素の混入リスク
③ 「自分の好きな方法で神を礼拝したい」という高慢
ソロモンでさえ高き所で献げ物をしていました(第一列王記3:3-4)。神殿建設前だったので、ある程度許容されていたようですが、ヨシャパテの時代には、(特に歴代誌の神学的視点において)高き所はもはや改革の対象となっていたのです。
注:第一列王記22:43では「高き所は取り除かれなかった」とあり、歴代誌の記述とは異なります。これは矛盾ではなく、歴代誌記者が理想的な神政政治の姿を神学的に強調したものと理解できます。
心が高められた王
17章6節「彼の心は【主】の道にいよいよ励み」のヘブライ語はガーバハ(גָּבַהּ)で「高くなる、高められる」という意味です。
つまり「彼の心が主の道において高められた」のです。だから文字通りの「高き所(バーモート)」を取り除けたのです!
深い真理:真に心が主によって高められた人は、偽りの高き所を必要としない。
心の悪循環と好循環:アサとヨシャパテの対比
年を取って自分の力に自信がなくなる
過去の勝利を忘れる
小さな脅威(バシャ)が巨大に見える
以前は100万の敵に勝ったのに…
アラムの王に助けを求める
神殿の財宝を送る
人間的解決は一時的
根本的平安は得られない
預言者ハナニを投獄
真理を聞きたくない
民を踏みにじる
助言者を失う
病気でも神を求めず
医者だけに頼る
父の失敗から学ぶ
主だけに拠り頼む決心
主の道にいよいよ励む
継続的な成長
バーモートを取り除く
妥協しない改革
つかさたちを遣わす
民に律法を教える
周辺国が恐れる
戦いをしかける者なし
贈り物が来る
富と誉れが与えられる
祝福が信仰を強める
もっと主に近づく
🔄 悪循環を断ち切り、好循環に入る3つのステップ
「神への信頼が弱まっている」
と正直に認める
「主よ、あなたに帰ります」
と祈る
「従える力を与えてください」
と主に願う
重要:悪循環から好循環への転換は、いつでも可能です!
神は「今日」あなたが立ち返ることを待っておられます。
ヨシャパテの例:
父アサの転落を見て、同じ道を歩まないことを選んだ。
親の失敗は、子の成功の教科書になり得る。
過去の失敗(自分のでも他人のでも)から学び、今日から好循環を始めることができる。
三つの心の比較:パロ・アサ・ヨシャパテ
頑なな心
何度も拒否し続ける
選択を確定される
裁きと滅び
転落する心
(完全な心)
100万の敵に対して神に頼る
アラムの王に頼る
神ではなく人間的手段へ
民を「ラーツァツ」(踏みにじる)
病でも神を求めず
でも前半生の功績は残る
成長する心
反面教師として学ぶ
「ガーバハ」(いよいよ励む)
継続的成長
律法を教える
主だけに拠り頼む
平和と繁栄
共通の真理:心の状態が人生を決める
パロの警告:心を頑なにし続けると、神がその選択を確定される時が来る
アサの警告:過去の功績に頼れない。毎日、心の方向を確認する必要がある
ヨシャパテの希望:親の失敗から学べる。心は「いよいよ励む」ことができる
4. 良い地の心―御言葉を受け取る心
ルカ8章の種蒔きのたとえは、まさに今日のテーマを完璧に説明しています。
四つの土壌
① 道ばたの土:悪魔がみことばを持ち去る(12節)← パロの心に似ています
② 岩の上:根がなく、試練で離れる(13節)← 若い時のアサではなく、年老いたアサ
③ いばらの中:心づかい、富、快楽でふさがれる(14節)
④ 良い地:正しい良い心で、しっかり守り、よく耐えて実を結ぶ(15節)← ヨシャパテの心
良い地の三つの特徴
15節のギリシャ語を見ると、良い地の心には三つの特徴があります:
① カテコー(κατέχω)= しっかり守る(所有し続ける)← みことばを手放さない
② ヒュポモネー(ὑπομονή)= よく耐える(忍耐)← すぐに諦めない
③ カルポフォレオー(καρποφορέω)= 実を結ぶ← 時間をかけて成長する
聞き方に注意する
18節は重要です:「だから、聞き方に注意しなさい。」
ギリシャ語でブレペテ・ウーン・ポース・アクオエテ(Βλέπετε οὖν πῶς ἀκούετε)= 「それゆえ、どのように聞いているか、よく見なさい」
聞くことは受動的行為ではなく、能動的選択なのです。
種蒔きのたとえ:四つの土壌
種が土に入れない
空の鳥が食べてしまう
信じて救われることがないように
聞いても受け入れを拒否し続ける
根を深く張れない
しばらくは信じても、試練で身を引く
最初は良かったが、試練で神を離れた
養分を奪い合う
実が熟するまでにならない
忙しさと物質主義に押しつぶされる
種が根を張れる
それをしっかり守り
よく耐えて
実を結ぶ
主の道にいよいよ励んで成長し続けた
→ みことばを手放さない。一時的な感動で終わらない。
② ヒュポモネー(ὑπομονή) = よく耐える、忍耐
→ すぐに諦めない。困難の中でも信仰を保ち続ける。
③ カルポフォレオー(καρποφορέω) = 実を結ぶ
→ 時間をかけて成長する。目に見える結果が現れる。
イエスの警告:「聞き方に注意しなさい」(ルカ8:18)
ギリシャ語で「ブレペテ・ウーン・ポース・アクオエテ」(Βλέπετε οὖν πῶς ἀκούετε)
= 「それゆえ、どのように聞いているか、よく見なさい」
聞くことは受動的行為ではなく、能動的選択です。
同じ種(神のことば)を聞いても、
心の状態によって結果は180度変わります。
問いかけ:
• 今日、私はどのように聞いているだろうか?
• 私の心は、どの土壌に似ているだろうか?
• 良い地の心になるために、何が必要だろうか?
良いニュース:心は変えられます。
神に「良い地の心を与えてください」と祈ることができます。
5. 今日の通読からの適用―私たちの心はどこに?
三つの箇所に共通するテーマ:心の状態が結果を決める
① パロ:心を頑なにし続けた → 神がその選択を確定
② アサ:最初は完全な心 → 後に頑なになり神を拒絶
③ 種の土壌:心の状態で御言葉への応答が変わる
そして希望:ヨシャパテは父の失敗から学び、「心が主の道にいよいよ励んだ」。
警告と希望
警告:過去の功績に頼れば安心、というのは幻想です。アサは素晴らしい王でしたが、晩年に転落しました。私たちは毎日、心の方向を確認する必要があります。
希望:親の失敗から学べます。ヨシャパテの成功がそれを証明しています。そして、神は私たちの全体を評価されます。アサの後半生は失敗でしたが、前半生の功績は消えていません(16:14 – 人々は彼を丁重に葬りました)。
私たちへの問いかけ
• 今日、私は何を聞いているでしょうか?
• 本当に「聞いて」いるでしょうか?それとも聞こえてくる音を聞き流しているだけでしょうか?
• 私の強みは何でしょうか?その強みは、神から離れたら弱みに変わる可能性はないでしょうか?
• 私は「従おう」と自分の力で頑張っているでしょうか?それとも「従える力を主に願い求めて」いるでしょうか?
祈り
「主よ、お話しください。しもべは聞いております。
私の心を、パロのように頑なにではなく、
アサのように転落するのでもなく、
ヨシャパテのように、あなたの道にいよいよ励む心としてください。
良い地の心を与えてください。
みことばをしっかり守り、
よく耐えて、
実を結ぶ人生を歩ませてください。
従う力を、あなたに願い求めます。
イエスの御名によって。アーメン」
完璧でなくても、本物でいい。神が求めておられるのは、完璧さではなく、心がご自分と全く一つになっていることです。今日も、主と共に歩みましょう。

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