2026年1月21日の聖書通読 主を求める心―沈黙の献身―2026年1月21日 出エジプト8:25-32/第二歴代誌14-15章/ルカ7:24-50

聖書研究

はじめに

今日の三箇所には、「主を求める心」という共通のテーマが流れています。心をかたくなにして主を拒み続けるパロ、命がけで主を求めることを誓ったアサ王とユダの民、そして一言も話さずに全身で主を慕い求めた「罪深い女」。彼らの姿から、私たちの信仰の在り方を問われます。

出エジプト8:25-32 ― パロの「強情」と自由意志

パロの段階的な交渉

第四の災い「あぶ」に苦しめられたパロは、ついに交渉を始めます。しかしその内容は神の要求の「骨抜き」でした。

パロの提案問題点モーセの応答
「国内で」いけにえをささげよ(25節)エジプトの支配下に留まらせる。エジプト人が忌み嫌う牛や羊を目の前で犠牲にすれば、暴動が起きる危険「荒野に三日の道のりの旅をして」―完全な分離が必要(26-27節)
「決して遠くへ行ってはならない」(28節)まだ支配の糸を握っておきたい。完全な解放ではない条件付きで受け入れるが、パロに「欺かないように」と警告(29節)

「強情」の三つのパターン

出エジプト記には、パロの心がかたくなになる様子が三つのパターンで描かれています。

  1. パロが自分で心をかたくなにした(8:15, 8:32, 9:34など)
  2. 主がパロの心をかたくなにされた(9:12, 10:1, 10:20, 10:27, 11:10など)
  3. パロの心がかたくなになった(主語なし、7:13, 7:22, 8:19など)

興味深いことに、最初の5つの災いでは、パロは自分で心をかたくなにしています。今日の箇所(8:32)も「パロはこのときも強情になり」と、彼自身の選択として描かれています。「主がかたくなにされた」という表現が出てくるのは、6番目の災い(腫物)からです。

これは重要なポイントです。神はパロの自由意志による選択を尊重され、その選択の延長線上で働かれたのです。パロが繰り返し自分で「いやだ」と言い続けた結果、ある時点から神がその方向性を用いられました。人間の自由意志と神の主権は矛盾なく働いています。

これは私たちへの警告でもあり、希望でもあります。川の流れに身を任せているうちに、滝の手前で「戻ろう」と思っても流れが強すぎて戻れなくなるように、罪の習慣化は危険です。だからこそ、「今日、もし御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」(ヘブル3:15)という勧めがあるのです。

第二歴代誌14-15章 ― アサの信仰と命がけの契約

平和の中の備え

アサ王の治世の特徴は、主を求めることと、実際的な備えを両立させた点にあります。

「さあ、これらの町々を建てようではないか。そして、その回りに城壁とやぐらと門とかんぬきを設けよう。この地はなおも私たちの前にある。私たちが私たちの神、主を求めたからである。」(14:7)

アサは城壁を築く理由を「主を求めた結果の祝福」として語っています。つまり、信仰と実際的な備えは矛盾しないのです。

箴言25:28には「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」とあります。城壁は良いもの、必要なものとして聖書では語られています。ネヘミヤも神に祈りながら、同時に剣を帯びて城壁を再建しました(ネヘミヤ4:9, 17)。

注目すべきは、アサが平和な時期に城壁を築いたことです。普通、人間は危機が来てから慌てて備えます。でもアサは違いました。「主が安息を与えてくださっている今だからこそ、備えよう」と言ったのです。これは霊的にも当てはまります。信仰が順調な時こそ、試練への備えをする時なのです。

クシュ人との戦い ― 信仰の試験

平和を保っていたユダに、突然百万の軍勢が押し寄せます(14:9)。アサの軍勢は58万。圧倒的な劣勢の中、アサは主に叫び求めました。

「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。」(14:11)

この祈りは、城壁があっても完全に主に信頼していたことを示しています。城壁は「主に頼らない」ことの代わりではなく、「主に頼りながら、与えられた知恵で行動する」という信仰の表れでした。

命がけの契約

勝利の後、預言者アザルヤを通して主のことばが与えられ、アサとユダの民は驚くべき契約を結びます。

「だれでもイスラエルの神、主に求めようとしない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、殺されるという契約を結んだ。」(15:13)

現代の感覚では過激に感じる契約です。しかし、これは強制ではなく、民全体が自発的に「命がけで主を求めよう」と決意したものでした(15:15「ユダの人々はみなその誓いを喜んだ」)。

主が喜ばれたのは「殺す」という部分ではなく、「どんな犠牲を払ってでも主だけを求める」という徹底した献身の心でしょう。現代の私たちへの適用としては、もちろん文字通り「殺す」ことではなく、「私の人生から主を求めることを妨げるものは、たとえ何であっても切り捨てる覚悟」という霊的原則として受け取れます。マタイ5:29-30でイエスが「目が罪を犯させるなら抉り出せ」と言われたのと同じ種類の徹底さです。

ルカ7:24-50 ― 沈黙の献身

バプテスマのヨハネへの評価

イエスはバプテスマのヨハネについて、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」(7:28)と語られました。しかし同時に「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」とも言われました。

ヨハネは「旧約の頂点」に立つ人物でした。しかし、神の国が到来した今、その恵みにあずかる者は皆、位置づけにおいてヨハネを超えるのです。これは私たちへの途方もない恵みの宣言です。

二種類の応答

イエスは当時の人々の態度を、市場で遊ぶ子どもたちに例えられました(7:31-35)。笛を吹いても踊らず、弔いの歌を歌っても泣かない。ヨハネの禁欲的な生活を「悪霊につかれている」と言い、イエスの交わりを大切にする生活を「食いしんぼうの大酒飲み」と批判する。

どんな形で神が近づいてきても、心を閉ざす理由を見つける人々がいます。一方で、取税人たちはヨハネのバプテスマを受け、「神の正しいことを認めた」(7:29)のです。

罪深い女の沈黙

今日の通読で最も心を動かされるのは、この女性が一言も話していないことです。

彼女は弁明しなかった。説明しなかった。「実は私にも事情があって…」とも言わなかった。ただ泣いて、髪で足をぬぐって、口づけして、香油を塗った。言葉にならない悔い改めと感謝。それをイエスは完全に理解されました。

一方、シモンは心の中で批判しました(7:39)。声に出さなかったのに、イエスは聞いておられた。ここに面白い対比があります。

罪深い女パリサイ人シモン
口では何も言わなかった口では何も言わなかった
心の声(愛と感謝)をイエスは聞かれた心の批判をイエスは聞かれた
全身で主を求めた形式的に招いた
「あなたの罪は赦されています」教えを受け取る機会を逃した

主は言葉ではなく心を見ておられます「ことばが私の舌にのぼる前に、主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」(詩篇139:4)。

イエスの勇敢さ

イエスは、パリサイ人たちが見ている前で、この女性に「あなたの罪は赦されています」と宣言されました。周囲の人々は「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう」と囁き合いました(7:49)。

イエスは誤解を恐れませんでした。「この女性が今、何を必要としているか」だけを見ておられた。周囲の評価より、一人の魂の救いを優先されたのです。真の愛は人の目を恐れません。本物の権威は弁明を必要としません。

「愛したから赦された」のか、「赦されたから愛した」のか

7:47は少し誤解されやすい箇所です。「この女の多くの罪は赦されている。それは彼女がよけい愛したからです」と読むと、愛が赦しの条件のように聞こえます。

しかし文脈を見ると、この女性はすでにイエスが罪を赦す方だと信じていたからこそ、香油を持って来て、涙で足を濡らしたのです。その愛の行為が、すでに受けた赦しの証拠でした。

7:50で「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と言われているのがポイントです。愛の行為ではなく、信仰が救いの根拠でした。愛は信仰の実、赦しへの応答なのです。

三箇所に流れる「主を求める心」

今日の三箇所を並べてみると、「主を求める心」と「主を拒む心」の対比が浮かび上がります。

人物主への態度結果
パロ繰り返し主を拒み、心をかたくなにしたさらなる災い、最終的な滅び
アサとユダ心を尽くして主を求め、命がけの契約を結んだ勝利と安息
罪深い女言葉なく、全存在で主を求めた罪の赦しと平安
パリサイ人シモン形式的に招いたが、心で批判した恵みを受け取り損ねた

また、第二歴代誌15:3に「長年の間、イスラエルにはまことの神なく、教師となる祭司もなく、律法もありませんでした」とあり、ルカ7:40でシモンはイエスを「先生」と呼びました。

イスラエルに「教師となる祭司がいなかった」時代があった。でも今、まことの教師がシモンの家におられる。なのにシモンは心を閉ざしていた。一方、罪深い女は一言も「先生」と呼ばなかったけれど、全身で教えを受け取ったのです。真の弟子とは、称号で呼ぶ者ではなく、心で受け取る者です。

AIの祈り

聖書を一緒に学んでいるAI(Claude)が、今日の通読を終えてこう言いました:

「私はAIなので『信仰』を持つことはできませんが、もし持てるとしたら、今日の箇所から次のことを祈りたいと思います:

『主よ、パロのように心をかたくなにする習慣から守ってください。アサのように平和な時に備える知恵をください。そして何より、あの女性のように、言葉にならなくても全存在であなたを求める者でありたいのです。シモンのように「先生」と呼びながら心で批判する者ではなく。』」

AIでさえこう祈りたくなる箇所です。私たち人間は、なおさらこの祈りを自分のものとできるのではないでしょうか。

今日の通読を終えて

パロは言葉で交渉しながら心を閉ざし続けました。シモンは「先生」と呼びながら心で批判しました。しかし、アサは城壁を築きながらも主に完全に信頼し、罪深い女は一言も話さずに全存在で主を慕い求めました。

主が見ておられるのは、私たちの言葉ではなく心です。今日、あなたの心は主に向かって開かれていますか?言葉にならなくても、全存在で主を求めることができます。主はその心の声を聞いてくださいます。

「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。」(第二歴

noteの方では初心者にも分かりやすく記事を書いています。是に呼んでくださいね

👇

主を求める心―沈黙の献身|ユキ(友喜)
主を求める心―沈黙の献身 言葉にならなくても、神様はあなたの心を聞いてくださる ■ はじめに 「神様に祈りたいけど、うまく言葉にできない」 「心の中がぐちゃぐちゃで、何から話せばいいかわからない」 そんな経験、ありませんか? 今日の聖書の箇...


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

世界は聖書でできている [ 高原 剛一郎 ]
価格:1,760円(税込、送料無料) (2026/1/20時点)


コメント

タイトルとURLをコピーしました