はじめに
2025年最後の通読で、私たちはイエス様の受難週に入ります。マルコ14章1-26節には、過越の祭りが二日後に迫る中で起きた出来事が記されています。殺意を抱く宗教指導者たち、高価な香油を注いだ女性、裏切りを決意したユダ、そして最後の晩餐という聖餐の制定。この箇所には、私たちの信仰の核心が凝縮されています。
ナルドの香油 ― 「無駄」の神学
300デナリの愛
ベタニヤで、ひとりの女性がイエス様の頭に純粋で非常に高価なナルド油を注ぎました。その価値は300デナリ以上。1デナリは労働者の1日分の賃金です。つまり300デナリは約1年分の年収に相当します。彼女は壺を割り、すべてを一瞬で注ぎ出しました。
弟子たちは憤慨しました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」(14:4-5)。
「りっぱなこと」カロン
しかしイエス様の評価は全く異なりました。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」(14:6)。
「りっぱなこと」と訳されたギリシャ語は kalon ergon(カロン・エルゴン)。「美しい行い」「高貴な業」という意味を含みます。弟子たちが「無駄」と呼んだものを、イエス様は「美しい」と呼ばれたのです。
「自分にできることをした」
イエス様は続けて言われました。「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(14:8)。
この女性は、弟子たちよりも深くイエス様の使命を理解していたのかもしれません。十字架が近いことを感じ取り、「自分にできること」を主に捧げたのです。
私たちも神様への献身を「無駄」と計算してしまうことがないでしょうか。
「この時間を祈りに使うより、もっと生産的なことができるのに」
「この献金を自分のために使えば、もっと便利になるのに」
「この奉仕をしなければ、もっと休めるのに」
しかし神様への愛から生まれる行為は、決して無駄ではありません。主の目に「美しい(カロン)」のです。
福音が宣べ伝えられる所
「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(14:9)
イエス様はこの時点で、福音が世界中に宣べ伝えられることを見通しておられました。そして今、日本でこの箇所を読み、ブログで伝えようとしていること ― これもまたこの預言の成就なのです。
ユダの裏切り
ナルドの香油の直後、イスカリオテ・ユダはイエス様を売ろうとして祭司長たちのところへ出向きました(14:10-11)。
なぜこの順番なのでしょうか。ヨハネ12:4-6によると、「なぜ、この香油を売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言ったのはユダでした。300デナリの香油が「無駄」にされたことが、ユダの裏切りへの最後の引き金になった可能性があります。
最後の晩餐 ― 新しい契約の制定
過越の食事の準備
「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日」(14:12)、弟子たちは過越の食事の準備をしました。イエス様は「水がめを運んでいる男」という目印を与え、すべてが言われた通りに進みました。神の計画は細部まで整えられていたのです。
裏切りの予告
夕方、十二弟子と共に食事をしている時、イエス様は言われました。「あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります」(14:18)。
弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわる言いだしました。ここで心を打たれるのは、誰も「ユダだろう」と指さなかったことです。そして自分自身を疑った。この謙遜さは私たちも見習うべきです。
「生まれなかったほうがよかった」
「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(14:21)
これは非常に厳しい言葉です。しかし、これは呪いというより、深い悲しみと警告だと理解できます。イエス様はユダを愛しておられました。最後の晩餐でも、ユダに悔い改めの機会を与えようとされていたように読めます。
「生まれなかったほうがよかった」は、ユダの行為の重大さを示すと同時に、神の子を裏切ることの恐ろしさを弟子たちと後の読者に伝えています。
聖餐の制定
そして、最も重要な場面が来ます。
「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」(14:22-24)
過越の子羊の血がエジプトで門柱に塗られ、死の使いが「過ぎ越した」ように、イエス様の血は私たちを永遠の死から救い出します。これが「新しい契約」の始まりでした。
「終わり」ではなく「中断」
「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(14:25)
これは「最後の晩餐」ですが、終わりではなく中断です。いつか、神の国で、イエス様と共に食卓を囲む日が来る。その日を待ち望みながら、私たちは聖餐を守るのです。
私たちが聖餐を受ける時、2000年前の「あの夜」と、やがて来る「神の国の祝宴」の両方につながっています。過去と未来を結ぶ、聖なる「今」なのです。
過越と最後の晩餐の対比
過越の食事と最後の晩餐は、型と成就の関係にあります。
過越の子羊 → イエス・キリスト(世の罪を取り除く神の小羊)
門柱に塗られた血 → 契約の血(多くの人のために流される)
種を入れないパン → イエス様のからだ(裂かれたパン)
エジプトからの解放 → 罪と死からの解放
毎年の記念 → 主が来られるまで続く聖餐
旧約聖書は新約聖書の影であり、新約聖書において実体が現れました。過越の子羊は、真の「神の小羊」イエス・キリストを指し示す「型」(タイプ)だったのです。
今日の適用
1. 「自分にできること」を捧げる ― 全財産を持っていなくても、大きな奉仕ができなくても、「自分にできること」を主に捧げましょう。それは主の目に美しい。
2. 献身を「無駄」と計算しない ― 神様への愛から生まれる行為は、決して無駄ではありません。効率や損得で信仰を測らないようにしましょう。
3. 「まさか私ではないでしょう」の謙遜 ― 弟子たちは他人を指さず、自分自身を疑いました。私たちも、いつでも主から離れる可能性があることを覚えて、謙遜に歩みましょう。
4. 聖餐を「再会の約束」として受ける ― 聖餐は過去を振り返るだけでなく、「神の国で新しく飲む日」を待ち望む未来への希望です。
まとめ
マルコ14章1-26節は、受難週の始まりを告げる箇所です。ナルドの香油を注いだ女性の「無駄」と見える愛、ユダの裏切り、そして新しい契約の制定。
イエス様は「福音が宣べ伝えられる所」と言われました。2000年後の日本で、私たちがこの箇所を読んでいることも、その預言の成就です。「自分にできること」を主に捧げる ― それが2025年最後の日に学んだ大切な教訓です。
祈り
天の父なる神様。ナルドの香油を注いだ女性の愛を通して、「無駄」と見える献身の美しさを教えてくださりありがとうございます。私たちも「自分にできること」を主に捧げる者とならせてください。
最後の晩餐で制定された新しい契約に感謝します。イエス様の体と血によって、私たちは罪から解放されました。聖餐を受けるたびに、あの夜の出来事と、やがて来る神の国の祝宴を覚えさせてください。
2025年最後の日に、この大切な箇所を学べたことを感謝します。新しい年も、主の御言葉に養われて歩むことができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
🍷 過越の食事と最後の晩餐
― 旧約の型と新約の成就 ―
| 📜 過越の食事 (出エジプト記12章) |
要素 | ✝️ 最後の晩餐 (マルコ14章) |
|---|---|---|
|
傷のない一歳の雄の子羊 出エジプト12:5 |
🐑 子羊 |
イエス・キリスト 「世の罪を取り除く神の小羊」 ἀμνὸς τοῦ θεοῦ(アムノス・トゥー・セウー) ヨハネ1:29 |
|
子羊の血を門柱と鴨居に塗る 死の使いが「過ぎ越す」 出エジプト12:7, 13 |
🩸 血 |
「これはわたしの契約の血です。 多くの人のために流されるものです」 マルコ14:24 |
|
種を入れないパン(マッツァー) 急いで出発するため מַצָּה(マッツァー) 出エジプト12:8 |
🍞 パン |
「取りなさい。これはわたしのからだです」 裂かれたパン=十字架で裂かれる体 マルコ14:22 |
|
苦菜(マロール) エジプトでの苦しみを思い出す מָרוֹר(マロール) 出エジプト12:8 |
🌿 苦菜 |
キリストの受難の苦しみ ゲツセマネの苦悶 マルコ14:33-34 |
|
過越の四つの杯 (聖別・災い・贖い・賛美の杯) ラビ的伝承 |
🍷 杯 |
「彼らはみなその杯から飲んだ」 新しい契約の杯 マルコ14:23 |
|
エジプトの奴隷状態からの解放 約束の地への出発 出エジプト12:51 |
⛓️→🕊️ 解放 |
罪と死の奴隷状態からの解放 神の国への招き ローマ6:22 |
|
毎年ニサンの月14日に守る 「永遠のおきて」 出エジプト12:14 |
📅 記念 |
「わたしを覚えて、これを行いなさい」 主が来られるまで続く聖餐 Iコリント11:25-26 |
✨ 最後の晩餐の流れ(マルコ14:22-26)
この同じ流れが、今日の聖餐式でも守られている
🏺 ナルドの香油 ―「無駄」の神学(マルコ14:3-9)
💰 香油の価値
300デナリ ≒ 約1年分の年収
✨ 主イエスの評価
弟子たちが「無駄」と言ったものを
主は「りっぱなこと」と呼ばれた
💡 「福音が宣べ伝えられる所」― 今この瞬間、日本で友喜がこの箇所を読み、ブログで伝えようとしていること。これもまたこの預言の成就。
🌅 「終わり」ではなく「中断」
(Iコリント11:26)
再臨と完成
💎 この対比が教えてくれること
1. 型と成就
過越の子羊は、真の「神の小羊」イエス・キリストを指し示す「型」(タイプ)でした。旧約聖書は新約聖書の影であり、新約聖書において実体が現れました。
2. 血による救い
エジプトで門柱に塗られた血が死の使いから家族を守ったように、キリストの血は私たちを永遠の死から救い出します。
3. 神への献身は無駄ではない
この女性は「自分にできることをした」。私たちも大きなことではなく、「自分にできること」を主に捧げる時、それは主の目に美しい(カロン)。
4. 聖餐は「待ち望み」の食事
私たちが聖餐を守る時、2000年前の「あの夜」と、やがて来る「神の国の祝宴」の両方に繋がっています。それは終わりではなく、再会の約束です。


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