ヨナタンとダビデの友情―主の友となる道

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真の友とは何でしょうか?困難な時にそばにいてくれる人?秘密を共有できる人?楽しい時間を一緒に過ごせる人?

聖書は、それ以上の友情を私たちに示しています。第一サムエル記23章16-18節に記録されているヨナタンとダビデの最後の出会いは、真の友情とは何かを教えてくれる、聖書の中でも最も美しい場面の一つです。

荒野での再会

ダビデは逃亡生活の中にいました。サウル王に命を狙われ、ケイラの町からも追い出され、ジフの荒野をさまよっていました。孤独で、恐れに満ちた日々。

そんな時、一人の友が訪れます。

「サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。』」(第一サムエル23:16-17)

この訪問がどれほど危険だったか、想像してみてください。

ヨナタンはサウル王の息子です。王位継承者です。父が追っている逃亡者のもとに行くことは、父への反逆と見なされかねません。自分の命も危険にさらすことになります。

それでも、ヨナタンは来ました。友のために

「神の御名によって力づけた」

注目すべきは、この短い記述の中にある言葉です:

「神の御名によってダビデを力づけた」

ヨナタンは単に励ましの言葉をかけただけではありません。彼は神の御名によってダビデを力づけました。

これは何を意味するでしょうか?

ヨナタンの友情は、人間的な感情や利害関係を超えた、神を中心とした友情でした。

彼は言います:「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。」

どうしてヨナタンは、そんなことが言えたのでしょうか?サウルは3000人の精鋭を率いてダビデを追っています。人間的には、ダビデの状況は絶望的です。

しかし、ヨナタンは神の約束を信じていたのです。神がダビデを選ばれたこと、ダビデが王になることを。そして、その信仰をもって友を励ましました。

真の友情とは、相手を神の約束の中に立たせることです。

自分の立場を手放す愛

さらに驚くべきは、ヨナタンの次の言葉です:

「あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。」

ヨナタンは王子です。通常なら、父サウルの後を継いで王になるはずでした。それが当然の権利であり、期待でした。

しかし、ヨナタンは自分の王位継承権を、喜んで手放したのです。

これは口先だけではありませんでした。以前、ヨナタンはダビデに自分の王子の衣と武具を与えています(第一サムエル18:4)。それは象徴的な行為でした。「私の立場をあなたに譲る」という意思表示です。

世の中の多くの友情は、利害関係が一致している時だけ続きます。

  • 同じ学校にいる間だけ
  • 同じ会社で働いている間だけ
  • お互いに利益がある間だけ

しかし、ヨナタンの友情は違いました。彼は自分が失うものがあっても、友を支え続けました。

なぜなら、彼の友情は神の選びに基づいていたからです。

知っていて、それでも

もう一つ、深く心を打つ点があります。

ヨナタンは言います:「私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです」(23:17)

サウルは知っていました。ダビデが次の王になることを。だから、サウルは必死にダビデを殺そうとしていたのです。

そして、ヨナタンもまた知っていました。父が何をしようとしているか、そして自分がその板挟みになっていることを。

それでも、ヨナタンは正しいことを選びました。父への忠誠ではなく、神への忠誠を。そして、その神の選びに従って、友を支えることを。

これは容易な選択ではありませんでした。ヨナタンは父を愛していました。しかし、彼はより大きな愛に従ったのです。

ヨナタンは知らなかった

しかし、ヨナタンが知らなかったことが一つあります。

彼は「私はあなたの次に立つ者となるでしょう」と言いました。彼は、ダビデが王になった後、自分が副王のような立場になることを想定していたのでしょう。

しかし、神のご計画は違いました。

ヨナタンは数年後、父サウルと共にギルボア山の戦いで戦死します(第一サムエル31章)。彼はダビデの王国を見ることなく、この世を去りました。

「私はあなたの次に立つ者となる」――この言葉は、ヨナタンが意図した以上の意味を持つことになりました。

ヨナタンは、地上の王国ではなく、信仰の証人として、永遠にダビデの次に立つ者となりました。真の友情の模範として。神の選びに従う者の模範として。

そして、ダビデはヨナタンを決して忘れませんでした。彼はヨナタンの息子メフィボシェテを探し出し、王の食卓で食事をするという栄誉を与えました(第二サムエル9章)。

「主の前で契約を結んだ」

この荒野での出会いは、こう結ばれます:

「こうして、ふたりは【主】の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。」(第一サムエル23:18)

これが、二人の最後の出会いでした。

「主の前で」――この言葉が鍵です。

ヨナタンとダビデの友情は、二人の間だけのものではありませんでした。それは神を証人とする契約でした。

だからこそ、この友情は死を超えて続きました。ダビデはヨナタンの死を嘆いて、美しい哀歌を歌いました:

「あなたの愛は、私にとって、女の愛にもまさって、すばらしかった。」(第二サムエル1:26)

主の友となる道

ここまで、ヨナタンとダビデの友情を見てきました。しかし、この物語は私たちに何を語りかけているでしょうか?

聖書は、私たちが神の友となることを教えています。

アブラハム:主の友

旧約聖書で「主の友」と呼ばれた人物がいます。アブラハムです。

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた。彼は神の友と呼ばれた。」(ヤコブ2:23)

アブラハムがどのようにして「神の友」となったのか、考えてみてください。

  • 神が「あなたの国を出て行け」と言われた時、従った(創世記12:1)
  • 神が「あなたの子イサクをささげよ」と言われた時、従った(創世記22:2)
  • 神がソドムを滅ぼそうとされた時、大胆に神と対話した(創世記18:22-33)

アブラハムの信仰の特徴は、神を信頼し、神に従い、神と親密に対話したことです。

これが「主の友」です。

イエスの言葉:「わたしはあなたがたを友と呼びました」

新約聖書で、イエスは弟子たちに驚くべきことを言われました。

「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:14-15)

イエスは私たちをと呼んでくださいました。

しもべではなく、友。

これは何を意味するでしょうか?

  • 親密さ:神は私たちをご自身の計画に招き入れてくださる
  • 信頼:神は私たちを信頼し、使命を託してくださる
  • 双方向の関係:神は私たちの声に耳を傾けてくださる

しかし、イエスはこうも言われました:「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら」

友情には条件があります。それは従順です。

ヨナタンの友情が教えること

ヨナタンとダビデの友情は、私たちが神の友となる道を示しています。

  1. 神の選びに従う:ヨナタンは自分の利益ではなく、神の選びに従った
  2. 犠牲を払う:ヨナタンは自分の王位継承権を手放した
  3. 困難な時に真実を尽くす:ヨナタンはダビデが逃亡者の時に訪れた
  4. 神の約束を信じる:ヨナタンは神の御名によって友を励ました
  5. 主の前で:二人の友情は神を証人とするものだった

これらはすべて、私たちが神の友となるために必要な要素でもあります。

あなたは誰の友ですか?

問いかけたいのです。

あなたは誰の友ですか?

もちろん、私たちには人間の友人がいます。それは大切です。

しかし、神の友となっているでしょうか?

ヨナタンのように:

  • 神の選びに従っているか?
  • 自分の利益を手放す覚悟はあるか?
  • 神の約束を信じているか?
  • すべてを「主の前で」行っているか?

良い時だけでなく、辛い時も

ヨナタンがダビデのもとを訪れたのは、ダビデが最も困難な時でした。

逃亡者として。追われる身として。未来が見えない中で。

それでも、ヨナタンは来ました。

真の友情は、良い時だけでなく、辛い時にこそ試されます。

私たちの神との関係も同じです。

  • 祝福されている時だけ神を求めるのか?
  • 困難な時にも神を信じ続けるのか?
  • 神が沈黙しているように見える時も、従い続けるのか?

ヨブは言いました:

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

これが「主の友」の姿勢です。

一瞬の決断ではなく、一生の歩み

ここまで読んで、あなたはこう思うかもしれません。

「主の友になりたい。でも、そんな大それたこと、自分にできるだろうか?」

正直に言いましょう。簡単なことではありません。

ヨナタンを見てください:

  • 王位継承権を手放した
  • 父と友の板挟みになった
  • 命の危険を冒して荒野に行った
  • そして、最終的には命を失った

アブラハムを見てください:

  • 故郷を捨てた
  • 約束を25年待った
  • 最愛の息子をささげようとした

イエスの弟子たちを見てください:

  • すべてを捨てて従った
  • 多くが殉教した

「主の友」は、軽い言葉ではありません。

でも、だからといって諦める必要はないのです。

なぜなら、主の友となるのは、一瞬の決断ではなく、一生の歩みだからです。

ヨナタンだって、最初からあの友情を持っていたわけではありません。ダビデと出会い、神の選びを知り、葛藤し、選択し、そして成長していったのです。

アブラハムも、最初から完璧な信仰者ではありませんでした。何度も失敗しました。エジプトでサラを妹と偽ったり、ハガルとの問題を起こしたり。それでも、神は彼を「わたしの友」と呼ばれました。

あなたが今日、聖書を読み、祈り、主イエスを知りたいと願い、主イエスと喜びを分かち合いたいと願っている――それが、主の友への第一歩なのです。

主の友は完璧な人ではない

もう一つ、忘れてはならないことがあります。

主の友は完璧な人ではありません。

  • ペテロは三度イエスを否定したけれど、イエスの友でした
  • ダビデは罪を犯したけれど、「わたしの心にかなう者」でした
  • アブラハムは失敗したけれど、「神の友」でした

主の友とは、完璧な人ではなく、主を愛し、主に従い続けようとする人です。

失敗しても、また立ち上がる。 迷っても、主に立ち返る。 弱くても、主に頼る。

それが「主の友」です。

主が求めておられるのは、完璧な業績ではありません。真実な心です。

「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」(第一サムエル16:7)

ヨナタンも完璧ではありませんでした。彼は最後まで父サウルのもとにとどまり、父と共に戦場に行き、そこで命を落としました。それは「正しい」選択だったでしょうか?わかりません。

しかし、神は彼の心を見ておられました。神の選びに従おうとする心、友を愛する心、真実を尽くそうとする心を。

だからこそ、ヨナタンは永遠に「主の友」の模範として聖書に記録されているのです。

あなたも今日から、一歩ずつ、主の友として歩み始めることができます。

完璧を目指さなくていい。 ただ、主を愛し続けてください。 失敗しても、主に立ち返り続けてください。

それが、主の友となる道です。

結論:主の友となる招き

ヨナタンとダビデの友情は、単なる美しい物語ではありません。

それは私たちへの招きです。

神は私たちを友と呼んでくださっています。アブラハムがそうであったように。イエスの弟子たちがそうであったように。

そして、その友情には代価があります。

  • 自分の計画を手放すこと
  • 神の選びに従うこと
  • 困難な時も真実を尽くすこと
  • すべてを「主の前で」行うこと

しかし、その代価は、得られるものに比べれば小さいのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

イエスは私たちのために、ご自身のいのちを捨ててくださいました。

ヨナタンは自分の王位を捨てて、友に仕えました。

私たちは何を手放すでしょうか?主の友となるために。

ヨナタンとダビデは「主の前で契約を結んだ」後、それぞれの道を歩みました。ダビデは荒野へ、ヨナタンは家へ。

しかし、その契約は永遠に続きました。

あなたも今日、主の前で、神との友情の契約を新たにしませんか?

良い時も、辛い時も。祝福の時も、試練の時も。

「主よ、あなたの友となりたいのです」と。

そう祈る時、ヨナタンのように、イエスの弟子たちのように、アブラハムのように、あなたは主の友と呼ばれる者となるのです。


関連聖句

  • ヤコブ2:23(アブラハム:神の友)
  • ヨハネ15:13-15(イエス:あなたがたは私の友)
  • 箴言17:17(友はどんなときにも愛する)
  • 箴言18:24(真の友)
  • 第二サムエル1:26(ダビデのヨナタンへの哀歌)
  • 第一サムエル16:7(人はうわべを見るが、主は心を見る)
  • ヨブ1:21(主は与え、主は取られる)

さらに深く学ぶために

  • ヨナタンとダビデの最初の出会い:第一サムエル18章
  • ヨナタンがダビデを守る:第一サムエル19-20章
  • ヨナタンの死:第一サムエル31章
  • ダビデとメフィボシェテ:第二サムエル9章

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