エリヤと聖書最初の復活、そして湖上を歩く主―神は「不可能」を通して働かれる

通読

2025年12月16日通読箇所 後編 第一列王記17章/マルコ6章30-56節

今日の箇所、特に後編はとても励まされます。

その前にちょっとコーヒーブレイク この賛美を聞くと、主の愛の中で憩い肩の力を抜いて聖書を朗読できました。よろしかったらお聞きください。


はじめに

前編では、神の言葉が必ず成就することを見てきました。

後編では、「不可能」を通して働かれる神の御業に目を向けます。汚れた烏による養い、一握りの粉からの尽きない供給、聖書で最初に記録された死者の復活、そして5つのパンと2匹の魚から5000人以上を養う奇跡。

人間の目には「不可能」に見えるところで、神は最も力強く働かれます。


1. エリヤの登場(第一列王記17:1)

アハブ王の時代、イスラエルは霊的にどん底にありました。

オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行った。(16:30)

そのような暗黒の時代に、突然一人の預言者が現れます。

ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(17:1)

エリヤ(אֵלִיָּהוּ – エーリーヤーフー)の名前は「私の神は主(ヤハウェ)である」という意味です。バアル礼拝が蔓延する中、その名前自体が信仰告白でした。

彼の最初の言葉は「主は生きておられる(חַי־יְהוָה – ハイ・ヤハウェ)」。死んだ偶像バアルではなく、生きておられる主こそが真の神であることを宣言したのです。


2. 烏に養われるエリヤ(第一列王記17:2-7)

干ばつを宣言した後、主はエリヤにケリテ川のほとりに身を隠すよう命じられました。

「わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(17:4)

幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。(17:6)

なぜ「烏」なのか?

これは不思議な選択です。烏(עֹרֵב – オーレーブ)は律法では汚れた鳥に分類されています(レビ記11:15)。なぜ神は汚れた鳥を使ってエリヤを養ったのでしょうか?

これは神の主権の宣言だと思います。「わたしはどんな器でも用いることができる。汚れたものでさえ、わたしの目的のために用いる」と。

そして同時に、エリヤへの訓練でもあったのではないでしょうか。「あなたは誰から養われているか覚えていなさい。烏ではない。わたしだ」と。

後にエリヤは異邦人のやもめにも養われます。神は私たちの「きれいな信仰」の枠を壊される方です。


3. ツァレファテのやもめ(第一列王記17:8-16)

ケリテ川が枯れると、主はエリヤを異邦の地、シドンのツァレファテへと導きました。

「見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」(17:9)

しかし、そのやもめの状況は絶望的でした。

「私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」(17:12)

「死のうとしている」。彼女はこれが最後の食事だと思っていました。

「まず、私のために」

エリヤの言葉は、人間的には残酷に聞こえます。

「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。」(17:13)

しかし、これは信仰のテストでした。彼女が神の言葉を信じて従うなら、奇跡が起きる。

彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(17:15-16)

「一握りの粉」が尽きない供給源となりました。神は私たちの「これしかない」を、「尽きない祝福」に変えてくださる方です。


4. 聖書最初の死者の復活(第一列王記17:17-24)

粉と油の奇跡の後、さらに大きな試練がやって来ました。

これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。(17:17)

やもめは叫びました。

「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」(17:18)

エリヤの祈り

エリヤには公式も儀式もありませんでした。ただ神に必死に祈りました。

そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」(17:21)

主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。(17:22)

これは聖書に記録された最初の死者の復活です。

興味深いことに、旧約聖書では死者の復活が3回記録されています。

  1. エリヤ ― ツァレファテのやもめの息子(第一列王記17章)
  2. エリシャ ― シュネムの女の息子(第二列王記4章)
  3. エリシャの骨 ― 死人がエリシャの骨に触れて復活(第二列王記13章)

そして新約では、イエスが3人を復活させています(ヤイロの娘、ナインのやもめの息子、ラザロ)。

やもめの告白は感動的です。

「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」(17:24)


5. 5つのパンと2匹の魚の奇跡(マルコ6:30-44)

新約聖書に移りましょう。イエスの弟子たちが宣教から帰ってきた場面です。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。(6:31)

しかし群衆は彼らを追いかけてきました。

イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。(6:34)

「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」

弟子たちは現実的な提案をしました。「みんなを解散させて、各自で食べ物を買わせましょう」と。

しかしイエスは言われました。

「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」(6:37)

弟子たちは困惑しました。「私たちが二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」

イエスは尋ねられました。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」

答えは「五つのパンと二匹の魚」でした。

数字の象徴的意味

この奇跡に登場する数字には、象徴的な意味があると多くの解釈者は考えています。

  • 5つのパン ― モーセ五書(トーラー)を象徴する可能性。神の言葉としてのパン
  • 2匹の魚 ― 「証人は二人」という原則との関連を見る人もいる
  • 12のかご ― ほぼ確実にイスラエル12部族12弟子を象徴。イスラエル全体を養う方であることを示す
  • 5,000人の男性 ― 女性と子供を含めると15,000〜20,000人とも推測される

出エジプト記との関連

特に注目すべきは、群衆の座らせ方です。

そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。(6:40)

これは出エジプト記18:21、25でモーセが民を組織した方法と同じです!

「千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を…立てなさい」(出エジプト18:21)

イエスは新しいモーセとして、神の民を秩序正しく養っておられるのです。荒野でマナを与えた神が、今ここで5つのパンを増やして民を養っておられる。


6. 湖上を歩くイエス(マルコ6:45-52)

奇跡の後、イエスは弟子たちを舟に乗せ、ご自分は山で祈られました。

夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。(6:48)

なぜ「通り過ぎようと」されたのか?

この一文は不思議です。弟子たちが嵐の中で漕ぎあぐねているのを見て、イエスは近づいた。でも「そばを通り過ぎようとのおつもりであった」。

これは旧約聖書の神顕現(テオファニー)と関係があると考えられます。

出エジプト記33:19-22で、主がモーセの前を「通り過ぎる」(עָבַר – アーバル)場面があります。第一列王記19:11でも、主がエリヤの前を「通り過ぎる」。

イエスは単に助けに来たのではありません。ご自分が神であることを啓示しようとされたのです。

「わたしだ(エゴー・エイミ)」

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。(6:50)

「わたしだ」はギリシャ語で ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)。これは出エジプト記3:14で神がモーセに啓示された御名「わたしはある(אֶהְיֶה – エフイェ)」のギリシャ語訳と同じ表現です。

イエスは「私が来たから安心しなさい」と言っているだけではない。「わたしは『わたしはある』という方だ」と宣言しておられるのです。

弟子たちの心の堅さ

彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(6:51-52)

弟子たちは「幽霊だ!」と叫びました。彼らはまだ悟っていませんでした。「パンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていた」。

5000人を養った方が、嵐の上を歩ける方であることを、彼らはまだ繋げられなかったのです。


7. イエスの着物に触れた人々(マルコ6:53-56)

イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。(6:56)

「みな」という言葉に希望があります。選ばれた一部ではない。信仰を持って触れた「みな」が癒されました。

彼らは完璧な信仰を持っていたわけではありません。「せめて、着物の端にでも」という、ある意味で控えめな信仰です。しかしイエスはその信仰に応えてくださいました。


まとめ ― 神は「不可能」を通して働かれる

今日の後編で見てきたのは、神が「不可能」と思える状況の中で働かれる姿でした。

  1. 汚れた烏 ― 神はどんな器でも用いることができる
  2. 一握りの粉 ― 「これしかない」が尽きない祝福となる
  3. 死んだ子 ― 聖書最初の復活。神はいのちを取り戻される方
  4. 5つのパンと2匹の魚 ― 5000人以上を養い、12かごも余る
  5. 嵐の湖上 ― イエスは「わたしはある」という方

私たちの「これしかない」「もう終わりだ」という状況の中で、神はご自分の栄光を現されます。

ツァレファテのやもめも、「死のう」と思っていました。でもエリヤを通して神が介入されました。

「せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてください」と願った人々のように、信仰をもって主に触れるとき、主は応えてくださる方です。

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