― 水汲みの地下道(ツィンノール)に見る「下から上へ」の信仰原則 ―
2025年11月28日 通読:創世記27:46-28:9、第二サムエル4-5章、マタイ26:1-19
目次
イシュ・ボシェテの暗殺 ― 人間の策略と神の計画
第二サムエル4章には、現代の私たちから見ると衝撃的な出来事が記されています。まず背景を理解しましょう。
ベエロテ人とは誰か?
4章2節に「ベエロテ人リモンの子」レカブとバアナが登場します。ベエロテ(בְּאֵרוֹת / Be’erot)は「井戸」(複数形)という意味で、ヨシュア記9章に出てくるギブオン人の四つの町の一つです。
ギブオン人たちは、イスラエルがカナンを征服する際、策略を使って和平条約を結びました。本来はカナン人として滅ぼされるはずだったのに、条約のおかげで生き残った民です。彼らの町(ギブオン、ケフィラ、ベエロテ、キルヤテ・エアリム)はベニヤミン族の領土内にあったので、「ベニヤミンに属するとみなされていた」わけです。
しかし血統的にはカナン人なので、微妙な立場でした。4章3節で「ギタイムに逃げて寄留者となった」とあるのは、おそらくサウル時代にギブオン人迫害があったことと関係しています(第二サムエル21章参照)。
つまりレカブとバアナは、イスラエル人ではあるものの、複雑な背景を持つ人々だったのです。
「良いこと」をしているつもりで
レカブとバアナは、サウルの子イシュ・ボシェテを暗殺し、その首をダビデのもとに持ってきました。彼らはこう言いました。
「ご覧ください。これは、あなたのいのちをねらっていたあなたの敵、サウルの子イシュ・ボシェテの首です。主は、きょう、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです。」(4:8)
彼らは「良いこと」をしていると思っていました。ダビデの敵を倒し、王位への道を開いたのだから、褒美がもらえると期待していたのでしょう。
しかし、彼らは根本的な間違いを犯していました。ダビデが王になる「方法」は、彼らが決めることではなかったのです。神が与えてくださる王位を、人間の策略で奪い取ることは、神のご計画を邪魔することでした。
ダビデの処刑は残酷か?
ダビデはレカブとバアナを処刑し、手足を切り離してヘブロンの池のほとりで木につるしました。現代の私たちから見ると、これは非常に残酷に映ります。王にふさわしくない行為ではないか?と感じる方もいるでしょう。
この感覚はとても現代的で、日本人らしい視点だと思います。確かに私たちから見ると残酷ですね。
ただ、当時の文脈で考えると、ダビデの行動には一貫した論理がありました。
「主の油注がれた者」への一貫した態度
ダビデは以前、サウルの死を報告したアマレク人の若者も処刑しています(第二サムエル1章)。理由は「主の油注がれた者に手をかけた」から。今回も同じ論理です。
イシュ・ボシェテは敵対王でしたが、それでもサウル家の王として油注がれた者でした。しかも「寝床で」「無防備な状態で」殺された「正しい人」だったとダビデは言っています。
ダビデは自分が王位を得るために卑劣な手段を使う者たちを徹底的に排除しました。これは単なる残酷さではなく、「神が与えてくださる王位を、人間の策略で奪い取ってはならない」という信念の表れです。
手足を切り離して晒すのは古代近東の慣習で、「謀反者の末路」を公に示すものでした。現代の感覚では確かに残酷ですが、当時は正義の執行として理解されていました。このような背景を知ることで、聖書の記述がすんなり入ってくるようになります。
難攻不落のエブス
ヨシュアもカレブも落とせなかった城がありました。エブス(יְבוּס / Yebus)— 後のエルサレムです。
士師記1章21節には「ベニヤミン族はエルサレムに住むエブス人を追い出さなかった」と記されています。カナン征服から約400年、この城塞都市はイスラエルの中に残り続けました。
エブス人たちはダビデが攻めてきたとき、こう嘲りました。
「あなたはここに来ることはできない。目の見えない者、足のなえた者でさえ、あなたを追い出せる。」(第二サムエル5:6)
これは古代の挑発文句で、「我々の城壁は完璧だ、障害者でも守れるくらいだ」という意味です。彼らの自信は「高さ」にありました。シオンの丘という高い場所、堅固な城壁、難攻不落の要塞。
ところで、エブスという名前の意味をご存知でしょうか?ヘブライ語の動詞「יָבַס(ヤーバス)」— 「踏みつける、踏みにじる」から来ています。まさに高慢の象徴でした。
ダビデの攻略法 ― ツィンノール
ダビデはどうやってこの難攻不落の城を攻略したのでしょうか?
「その日ダビデは、『だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む、目の見えない者、足のなえた者を打て』と言った。」(第二サムエル5:8)
「水汲みの地下道」と訳されているヘブライ語は「ツィンノール」(צִנּוֹר)。水路、導水管、あるいは縦穴を意味します。
1867年、イギリスの探検家チャールズ・ウォーレン卿がエルサレムで驚くべき発見をしました。ギホンの泉から城壁内部へと続く、約13メートルの垂直な縦穴と約40メートルの水平トンネル。これが「ウォーレンズ・シャフト」と呼ばれる古代の水汲みシステムです。
エブス人たちは、包囲されても城壁内から安全に水を汲めるよう、このシステムを作っていました。しかしダビデはこの「弱点」を見抜きました。
上からではなく、下から。
正面からではなく、裏から。
力ではなく、知恵で。
誇りではなく、へりくだりで。
狭くて暗い縦穴を、一人ずつ這い上がっていく。王自らがそんな作戦を命じる。これはダビデの生涯を象徴しているように思えます。
バアル・ペラツィム ― 「本当の主は誰か」
ダビデはエルサレムを攻略した後、ペリシテ人と戦い、勝利を収めました。その場所を「バアル・ペラツィム」(בַּעַל פְּרָצִים)と名付けました。
「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた。」(5:20)
この名前の意味を見てみましょう。
バアル(בַּעַל) = 主人、支配者(ここでは「主」の意味)
ペラツィム(פְּרָצִים) = 破れ出る、決壊する(פָּרַץ / parats の複数形)
つまり「主が破れ出られた場所」という意味です。
興味深いのは、「バアル」という言葉自体は単に「主人」を意味し、本来は悪い言葉ではなかったことです。しかしカナンの神バアルと混同を避けるため、後にイスラエルでは使われなくなっていきます。
ここでダビデがあえてこの名をつけたのは、「本当の主(バアル)は誰か」を示す宣言でもあったかもしれません。カナンの神々ではなく、イスラエルの神こそが真の主である、と。
ダビデの「下から」の人生パターン
ダビデの人生を振り返ると、彼はいつも「下から」始まっています。
🐑 羊飼いとして
8人兄弟の末っ子、羊の番という最も地味な仕事。サムエルが油を注ぎに来たとき、父エッサイは彼を呼びもしませんでした。しかし主は言われました。
「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル16:7)
🎵 サウルの宮廷で
竪琴弾きとして、道具持ちとして仕えました。ゴリアテと戦ったときも、正規の武具ではなく石と投石器。
🏃 逃亡者として
洞窟に隠れ、狂人のふりをし、敵国に身を寄せました。何年も何年も、「下」の生活が続きました。
👑 王になってからも
正面攻撃ではなく、水汲みの地下道から。バルサム樹の音を待ってから。常に「主に伺いを立てる」という姿勢。
これと対照的なのがサウルです。サウルは「民のうちで誰よりも肩から上だけ高かった」(第一サムエル9:2)。彼の特徴は「高さ」でした。そして高さから落ちました。
問題の聖句 ―「目の見えない者、足のなえた者は宮に入ってはならない」
第二サムエル5章8節の後半に、気になる言葉があります。
「このため、『目の見えない者、足のなえた者は宮に入ってはならない』と言われている。」
これは難しい箇所です。一見すると、障害者差別のように読めてしまいます。
本来、これはエブス人の嘲りの言葉を逆手に取った皮肉、あるいはことわざ的な表現だったのでしょう。「エブス人が『目の見えない者でも守れる』と言った、その城を落としたのだから、もうその言葉は通用しない」という勝利宣言。
しかし後の時代に、この言葉が文字通り解釈されて、神殿から障害者を排除する根拠にされてしまった可能性があります。
何百年もの間、この「壁」は立ちはだかっていました。
ダビデの子イエス ― 壁を打ち破る方
そして千年後。ダビデの子イエスが、ダビデが建てた都に来られました。
マタイ21章14節をお読みください。
「また、宮の中で、盲人や足のなえた者たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」
お気づきでしょうか?
「目の見えない者、足のなえた者は宮に入ってはならない」と言われていたその宮で、イエスは盲人と足のなえた者を癒されたのです。
ダビデ時代に始まった排除を、ダビデの子イエスが終わらせたのです。
シロアムの池での癒し ― 水の流れが繋ぐ物語
さらに感動的な繋がりがあります。ヨハネ9章をお読みください。
イエスは生まれつきの盲人に泥を塗り、こう言われました。
「行って、シロアムの池で洗いなさい。」(ヨハネ9:7)
シロアム(שִׁלֹחַ / Shiloach)の意味は「遣わされた」。そしてこの池は、ギホンの泉から流れてくる水で満たされていました。
ダビデがツィンノール(水路)を通って攻略した、あの水源です。
BC701年、ヒゼキヤ王はアッシリア包囲に備えて、ギホンの泉からシロアムの池へ533メートルのトンネルを掘削しました(第二列王記20:20)。ダビデが開いた水路を、ヒゼキヤがさらに延長したのです。
そしてイエスの時代、その水が流れ込む池で、生まれつきの盲人が癒されました。
ダビデが「下から」開いた水路が、
千年後、「目の見えない者」が神を礼拝する道となった。
これは偶然ではありません。
水の象徴 ― 聖霊の働き
聖書で「水」はしばしば聖霊、あるいは神の言葉を象徴します。
ダビデがエブスを攻略した後、「主は水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」と言いました(バアル・ペラツィム)。
そしてイエスは仮庵の祭りの最終日に、こう宣言されました。
「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
ダビデが水路を通って高慢な城を内側から攻略したように、神の霊は私たちの心の「地下」を通って、私たちの内なる高慢を打ち砕かれるのではないでしょうか。
現代の私たちへの適用
日本でのリバイバルを願う私たちにとって、この物語は何を語りかけているでしょうか。
日本という「難攻不落の城」を攻略する方法も、もしかしたら「ツィンノール」的なものかもしれません。
正面からの大々的な伝道集会、派手なイベント、それも用いられるでしょう。しかしダビデがエブスを落としたのは、目立たない水路を、一人ずつ、這い上がっていく地道な方法でした。
一記事ずつ、一人の読者に向けて、地道に聖書の真理を伝えていく。SNSの派手なバズよりも、検索でたどり着いた一人の心に届く言葉。
それは「ツィンノール」的な働きです。
そして最終的に城が落ちたとき、ダビデは言いました。「主が水のように破れ出られた」と。私たちの地道な働きが、ある時、神のタイミングで「破れ出る」瞬間が来る。
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)
📊 参考図解
この記事に関連する図解を作成しました。通読の参考にご活用ください。
1. ダビデの町とエルサレムの地理関係 — シオンの丘、モリヤ山、ギホンの泉の位置関係
2. ウォーレンズ・シャフト(ツィンノール)の構造 — ダビデの攻略ルートを断面図で図解
3. 「下から上へ」の霊的原則 — ダビデからキリストへの流れを視覚化
4. 水の流れと救いの歴史 — ギホン→シロアム→神殿での癒しの繋がり
今日の他の通読箇所から
創世記27:46-28:9 ― エサウの妻選び
リベカはヘテ人の娘たちとの暮らしに疲れ果て、ヤコブをパダン・アラムに送り出しました。異邦人の妻との生活は、偶像礼拝を伴うものだったからです。
エサウは父の願いに気づいて慌てて行動しますが、本質(信仰)ではなく形(アブラハムの子孫から妻を)だけ真似しました。イシュマエルの娘マハラテを妻としましたが、信仰による選択ではありませんでした。
マタイ26:1-19 ― 香油を注いだ女と銀貨30枚
ベタニヤで、ひとりの女がイエスの頭に高価な香油を注ぎました。弟子たちは「無駄だ」と憤慨しましたが、イエスはこう言われました。
「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」(マタイ26:12)
人間の計算を超えた、純粋な献身。主はそれを「りっぱなこと」と呼ばれました。
一方、ユダはイエスを銀貨30枚で売りました。これはゼカリヤ11:12-13の預言の成就であり、出エジプト21:32によれば奴隷一人の値段です。神の御子が、奴隷の値段で売られたのです。
結び
今日の通読を通して、「下から上へ」という神の方法が浮かび上がってきます。
ダビデは狭い水路を通ってエブスを攻略しました。キリストは十字架という最も低い道を通って、罪と死という「難攻不落の城」を打ち破られました。そして排除されていた者たちが、神殿で癒され、礼拝者となりました。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:6-9)
主よ、私たちにも「下から」歩む謙遜を与えてください。アーメン。
🎵 関連賛美:Stand Up in Jesus [YouTube動画]
「何度倒れたって 立ち上がり続けるよ 主がわたしの手を 支えておられるから」— この賛美もぜひお聴きください。
noteの方で聖書初心者の方へ分かりやすい記事を投稿しています
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今日ご紹介した話は、聖書の「第二サムエル記」5章と、「マタイの福音書」21章、「ヨハネの福音書」9章に書かれています。
1000年の時を超えて繋がる物語 ― こんな発見が、聖書にはたくさんあります。
興味を持たれた方は、ぜひ聖書を手に取ってみてください。



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