はじめに ― 三つの箇所をつなぐ糸
今日の通読箇所は、創世記41章37-57節、第二列王記7-8章、マルコ9章30-50節です。一見すると時代も状況も異なるこれらの箇所ですが、読み進めていくうちに一つの共通テーマが浮かび上がってきました。
それは「隠されていたものが明らかになる」ということです。
ヨセフの内に隠されていた神の計画、アラム軍の陣営に隠されていた真実、そして弟子たちの心に隠されていた高ぶり。神はそれぞれの「隠された季節」を通して、ご自身の御心を成し遂げていかれます。
目次
1. ツァフェナテ・パネアハ ― 「隠されたものを解き明かす者」
エジプト名に込められた意味
創世記41章45節で、パロはヨセフに「ツァフェナテ・パネアハ」(צָפְנַת פַּעְנֵחַ)というエジプト名を与えました。この名前の解釈については、学者の間でも議論がありますが、主に二つの方向から理解されています。
エジプト語起源の解釈:
- 「生ける者の養い手」
- 「神が語り、彼は生きる」
- 「世界の救い主」
ヘブル語的な解釈:
- צָפְנַת(ツァフェナテ)は צָפַן(ツァファン)「隠す、蓄える」に関連
- פַּעְנֵחַ(パネアハ)は「解き明かす」の意味
つまり「隠されたものを解き明かす者」という意味になります。
この名前は、ヨセフがパロの夢を解き明かしたことを指すだけでなく、ヨセフ自身の人生をも象徴しているように思えます。
13年間の「隠された季節」
ヨセフが兄たちに売られたのは17歳の時(創世記37:2)、そしてパロの前に立ち宰相となったのは30歳でした(41:46)。この間、実に13年間という長い歳月が流れています。
この13年間、ヨセフは奴隷として、そして囚人として過ごしました。神から与えられた夢があり、夢を解き明かす賜物がありながら、それを発揮する機会は限られていました。人間的に見れば「無駄な時間」「忘れられた期間」に思えたかもしれません。
しかし神の視点からは、この期間こそがヨセフを整え、エジプト全土を治める器として形成する隠された訓練の季節でした。
パロが見たもの
興味深いのは、パロがヨセフを信頼した根拠です。
そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」(41:38)
まだ飢饉は実際に起こっていませんでした。ヨセフの能力が証明されたわけでもありません。パロは夢の解き明かしを聞いただけで、ヨセフに全権を委ねる決断をしたのです。
パロは、ヨセフの言葉や態度を通して、彼の内に宿る神の臨在を感じ取ったのでしょう。13年間の隠された季節の中で培われた品性と霊性が、この瞬間に輝き出たのです。
2. マナセとエフライム ― 赦しから実りへの道
二人の息子の名に込められた証
ヨセフには豊作の七年の間に二人の息子が生まれました。その名前には、ヨセフの霊的な旅路が刻まれています。
マナセ(מְנַשֶּׁה メナシェ)
「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせたからである。」(41:51)
動詞 נָשָׁה(ナシャー)は「忘れる」という意味です。ヨセフはここで、自分が受けた苦しみと、兄たちへの恨みを神に委ね、手放したことを告白しています。
エフライム(אֶפְרַיִם エフライム)
「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされたからである。」(41:52)
動詞 פָּרָה(パラー)は「実を結ぶ」という意味です。
順序の重要性
ここで見逃してはならないのは、名づけの順序です。
- マナセ(忘れる・赦す) が先
- エフライム(実り) が後
赦しが先にあり、その後に実りが来る。この順序は偶然ではありません。
ヨセフは兄たちへの恨みや苦々しい思いを握りしめたままでは、神からの祝福を十分に受け取ることができなかったでしょう。過去を手放し、神に委ねた時、初めて彼は「苦しみの地」においてさえ実を結ぶ者となれたのです。
これは私たちの霊的生活においても重要な原則です。握りしめているものを手放す時、次の季節への扉が開くのです。
3. アラムの陣営 ― 恐れの幻影が崩れる時
絶望的な状況の中で
第二列王記7章の舞台は、アラム軍に包囲され、飢饉に苦しむサマリヤの町です。状況は絶望的でした。ろばの頭が銀80シェケル、鳩の糞が銀5シェケルで売られるほどの飢饉(6:25)。母親たちが自分の子を食べるという悲惨な状況にまで追い込まれていました(6:28-29)。
そのような中で、預言者エリシャは驚くべき言葉を告げます。
「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。」(7:1)
侍従の不信仰
これに対して、王の侍従は答えました。
「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」(7:2)
彼は自分の理性と常識というフィルターを通して、神の言葉を判断しました。「あり得ない」と。
エリシャの応答は厳しいものでした。
「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」
不信仰の目は、祝福の実が熟するのを見ることはできても、それを味わうことはできない ― これは現代の私たちへの警告でもあります。
四人のツァラアトの人々
ここで物語は意外な展開を見せます。救いをもたらしたのは、王でも将軍でも祭司でもなく、町の門の外にいた四人のツァラアトの人々でした。
彼らは社会の最底辺にいました。町の中にも入れず、門の外で死を待つだけの存在。しかし彼らは互いに言いました。
「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか…さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」(7:3-4)
「どうせ死ぬなら」という、ある意味で最も失うものがない状態で、彼らは一歩を踏み出しました。
恐れの幻影
彼らがアラムの陣営に着いた時、そこには誰もいませんでした。
主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは…立って逃げ…陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった。(7:6-7)
実際には何も来ていなかった。神が「音」を聞かせただけでした。大軍勢は幻影だったのです。
これは逆に言えば、サマリヤを包囲していたアラムの脅威も、神の前では「幻影」に過ぎなかったということです。私たちを取り囲む問題、恐れ、不可能に見える状況 ― それらは確かに現実ですが、神が一つ音を響かせれば崩れ去るものなのです。
「良い知らせの日」
四人のツァラアトの人々は、略奪を楽しんだ後、互いに言いました。
「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。」(7:9)
ここで「良い知らせ」と訳されているヘブル語は יוֹם בְּשֹׂרָה(ヨーム・ベソラー)です。בְּשׂוֹרָה(ベソラー)は、新約聖書でギリシャ語の εὐαγγέλιον(ユーアンゲリオン)、すなわち「福音」と訳される言葉の語源となっています。
社会の最底辺にいた人々が、福音の最初の受取人であり、伝達者となった。これは、後にイエス様が「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」(ルカ6:20)と言われたことを先取りしているようです。
4. ハザエルとエリシャの涙 ― 自己認識の危うさ
神の人の涙
第二列王記8章では、場面がダマスコに移ります。アラムの王ベン・ハダデの家臣ハザエルが、病気の王の使いとしてエリシャを訪ねてきました。
エリシャはハザエルに「王は必ず直る」と告げつつも、「主は彼が必ず死ぬことも示された」と語ります。そして次の瞬間、
神の人は、彼が恥じるほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出した。(8:11)
エリシャは何を見ていたのでしょうか。彼は、目の前にいるハザエルという人間の「可能性」 ― 良い方向にも悪い方向にも開かれている、その分岐点に立つ一人の人間を見ていました。
そしてエリシャは、ハザエルが将来イスラエルに対して行う残虐な行為を告げます。要塞に火を放ち、若者を剣で殺し、幼子を八つ裂きにし、妊婦を切り裂くと。
自己認識の欠如
ハザエルの応答は驚くべきものでした。
「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう。」(8:13)
これは謙遜の言葉ではありません。自分の内にある暗い可能性を見ることを拒否している言葉です。「私にはそんなことはできない」「私はそんな人間ではない」と。
しかし翌日、ハザエルは濡れた毛布で王の顔を覆い、窒息死させました。そして自らが王となったのです。
人間の自己認識はいかに当てにならないか。「私にはそんなことはできない」と言いながら、翌日にはそれをしている。これはハザエルだけの話ではありません。ペテロも「あなたを知らないとは決して言いません」と言いながら、数時間後には三度否定しました。
だからこそ、私たちは自分自身を過信せず、常に神の御前にへりくだり、聖霊の導きを求め続ける必要があるのです。
5. 誰が一番偉いか ― 神の国の逆転した価値観
弟子たちの心に隠されていたもの
マルコ9章では、イエス様が弟子たちに受難予告をされた直後の出来事が記されています。
イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。(9:33-34)
イエス様が十字架と復活について語っておられた、まさにその時に、弟子たちは自分たちの序列争いをしていたのです。彼らの心に隠されていた高ぶりと野心が、ここで明らかになりました。
幼子を抱きしめるイエス様
イエス様は直接的に叱責する代わりに、一人の幼子を連れてきました。
それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。(9:36)
ここで「腕に抱き寄せて」と訳されているギリシャ語は ἐναγκαλισάμενος(エナンカリサメノス)です。これはマルコだけが記録している細部で、イエス様が幼子を優しく抱きしめた様子を伝えています。
当時の社会で、幼子は社会的にほとんど価値のない存在と見なされていました。労働力にもならず、発言権もない。まさにツァラアトの人々のように「数に入らない」存在でした。
しかしイエス様は言われました。
「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」(9:37)
神の国の数え方は、この世の数え方と全く違うのです。
6. 塩と火 ― 契約の民として整えられる
難解な言葉の背景
マルコ9章の終わりには、一見難解な言葉が記されています。
すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(9:49-50)
この言葉を理解するためには、旧約聖書の背景を知る必要があります。
レビ記2章13節には、こう記されています。
あなたの穀物のささげ物にはどれにも塩で味をつけなければならない。あなたのささげ物から、あなたの神の契約の塩を絶やしてはならない。
塩は契約の永続性と忠実さを象徴していました。また、いけにえは火で焼かれ、塩がかけられました。
火と塩の象徴
火は複数の意味を持っています。
- 試練と苦難(Ⅰペテロ1:7「火で精錬される金」)
- 聖霊による清め
- 裁き(48節のゲヘナの火との関連)
塩もまた豊かな象徴性を持ちます。
- 防腐作用 ― 腐敗を止める
- 味付け ― 味わいを与える
- 聖別 ― 契約の印
イエス様の弟子たちは、ある意味で「生きたいけにえ」(ローマ12:1)です。火を通り、塩味をつけられる。つまり、苦難と試練を通して、契約の民として整えられていくのです。
塩味を保つということ
「塩味がなくなったら」というのは、この世に同化し、弟子としての独自性を失った状態を指します。見た目は弟子でも、実質的には神との契約関係が薄れている状態です。
そして「互いに和合して暮らしなさい」という命令は、34節で「誰が一番偉いか」と争っていた弟子たちへの直接的な答えです。
塩味を保つ者同士は、競争ではなく平和の中に生きる。なぜなら、自分が神への「生きたささげもの」であることを知っている者は、もはや自己主張や地位争いに意味を見出さないからです。
結論 ― 隠された季節を信頼して
今日の三つの箇所を通して、神は「隠された季節」の意味について語りかけてくださいました。
- ヨセフの13年間は、無駄ではなかった
- サマリヤの絶望的な夜も、神の計画の中にあった
- 弟子たちの未熟さも、成長への途上だった
私たちの人生にも「隠された季節」があります。何も起こっていないように見える時、待たされている時、試練の中にある時。しかし神は、その季節の中で私たちを形成し、次の段階へと備えてくださっています。
そして、ヨセフがマナセ(赦し)からエフライム(実り)へと進んだように、私たちも握りしめているものを手放す時、次の季節への扉が開かれます。
今日の御言葉を通して、あなた自身の「隠された季節」を信頼する信仰が与えられますように。神の時は必ず来ます。
今日の通読箇所:創世記41:37-57、第二列王記7-8章、マルコ9:30-50


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