〜出エジプト記1章・歴代誌上22-23章・ルカ2章からの黙想〜
2026年1月11日
今日の通読箇所は、出エジプト記1章15-22節、歴代誌上22-23章、ルカ2章39-52節です。一見すると関連のなさそうな三つの箇所ですが、読み進めるうちに「命を守る選択」「神の計画への備え」「心に納める信仰」という糸で結ばれていることに気づかされました。
目次
【出エジプト記1章】名もなき英雄たち
記録された名前、記録されなかった名前
出エジプト記1章15節に、二人の助産婦の名前が記されています。シフラ(שִׁפְרָה)は「美しい」、プア(פּוּעָה)は「輝く」という意味を持つ名前です。
興味深いことに、この箇所でファラオの名前は記されていません。「エジプト王」「ファラオ」とだけ呼ばれています。古代エジプトの最高権力者の名は匿名のまま、しかし二人の助産婦の名前は明確に残されている。これは聖書の価値観を象徴しています。
歴史は権力者を記憶すると私たちは思いがちです。しかし聖書は、神を畏れて正しいことを行った「小さな人々」の名を記録するのです。権力者は匿名、弱者は実名——これが神の国の価値基準です。
「生かしておいた」——能動的な抵抗
1章17節「男の子も生かしておいた」。ヘブライ語では「וַתְּחַיֶּיןָ」(ヴァテハイェナー)という能動的な動詞が使われています。これは単に「殺さなかった」という消極的な表現ではありません。
積極的に生かしたのです。
王の命令に背くことは、彼女たちにとって命がけの決断でした。しかし「神を畏れていた」(17節)彼女たちは、人間の王よりも天の王に従うことを選びました。
その結果、神は彼女たちに恵みを与え(20節)、子宝を授けられました(21節)。ファラオが生命を奪おうとした時、神を畏れる者たちには生命が与えられた。この対比は、後にモーセの誕生と救出へとつながり、出エジプトという救済史の大転換点を生み出していきます。
一人の命を生かすという選択が、歴史を変える。これは今の私たちにも語りかけています。
【歴代誌上22-23章】安らぎの人への備え
ソロモン——「安らぎの人」
22章9節で、神はダビデに告げられます。「見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である」。
「ソロモン」(שְׁלֹמֹה / シェロモー)という名前は、「שָׁלוֹם」(シャローム=平和、安らぎ)から派生しています。「平和の人」「安らぎの人」という意味が込められた名前です。
戦士であったダビデには神殿建設が許されませんでした。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した」(22:8)。代わりに「安らぎの人」であるソロモンに神殿建設が託されました。この対比には深い意味があります。
神殿は神が民の中に住まわれる場所です。神の臨在は平和(シャローム)と共にあります。血を流す戦いの中で建てられるのではなく、平和の中で建てられるのがふさわしい。だから「安らぎの人」ソロモンに託されました。
また、ダビデは「種を蒔く世代」、ソロモンは「刈り取る世代」とも言えます。ダビデが戦って勝ち取った平和の中で、ソロモンは神殿を建てることができました。神の計画は一世代では完成しないのです。
さらに深い意味として、この二人はキリストの二つの側面を予表しています。ダビデは戦い、血を流した「苦難のキリスト」(初臨・十字架)を、ソロモンは平和の王として治める「栄光のキリスト」(再臨・御国の完成)を指し示しています。
そして私たちへの適用があります。ダビデは神殿を建てたかったはずです。しかし神は「あなたには許されない」と言われました。ダビデは反発しませんでした。代わりに、自分にできることを全力でしました——次の世代のための準備です。「自分がしたいこと」と「神が自分に許されること」は違うことがある。でも、自分にできることを忠実にすれば、神の計画は次の世代を通して成就するのです。
ダビデとソロモンの対比
——神殿建設が託された深い意味
- 戦士・多くの血を流した
- 敵を打ち破り王国を築いた
- 神殿を建てることは許されず
- 次の世代のために準備した
- 平和の王・知恵に満ちた
- 父が勝ち取った平和を享受
- 神殿建設を託された
- 主の宮を完成させた
🕊️ 神殿は平和の場所
神殿は神が民の中に住まわれる場所。神の臨在は平和(シャローム)と共にある。血を流す戦いの中ではなく、平和の中で建てられるのがふさわしい。
🌱 世代を超えた協力
ダビデは「種を蒔く世代」、ソロモンは「刈り取る世代」。戦いの果実を享受するのは次の世代。神の計画は一世代では完成しない。
✝️ キリストの予型
ダビデは「苦難のキリスト」(十字架)、ソロモンは「栄光のキリスト」(再臨)を予表。キリストの働きは十字架と復活・再臨で完成する。
🙏 限界を受け入れる信仰
「自分がしたいこと」と「神が許されること」は違う。でも自分にできることを忠実にすれば、神の計画は次の世代を通して成就する。
キリストの二つの側面の予型
ダビデが示す姿
苦難のキリスト
戦い、血を流す
ソロモンが示す姿
栄光のキリスト
平和の王として治める
💡 私たちへの適用
ダビデは神殿を建てたかったはずです。
しかし神は「あなたには許されない」と言われました。
ダビデは反発せず、自分にできることを全力でしました。
「できること」を次の世代のために忠実に行う。
それが神の計画への参与です。
「とこしえに」の成就
22章10節には「わたしはその王座を堅く据え、とこしえにイスラエルを支配させる」とあります。しかし、地上のソロモン王国はこの約束を完全には成就しませんでした。王国は分裂し、やがて滅びました。
この約束は多層的な成就を持つと考えられます。まず、型としてのソロモンによる地上での部分的成就。次に、「ダビデの子」としてのメシア、イエス・キリストにおける成就(ルカ1:32-33「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」)。そして最終的には、千年王国と新天新地での完全な成就です。
「とこしえに」という言葉は、地上の王国よりも天のイスラエル、永遠の御国を指し示しているのです。
ダビデの準備——外側を整える
ダビデは息子ソロモンのために膨大な準備をしました。金十万キカル、銀百万キカル、青銅、鉄、木材、石材、職人、採石労働者、大工……。目に見える、物質的な準備です。
しかし22章13節でダビデは言います。「あなたは、主がイスラエルのために、モーセにお授けになった掟と法を行うよう心掛けるなら、そのとき成し遂げることができる」。
ダビデ自身も律法を完全には守れませんでした。この「守れば祝福される」という契約の構造は、結局は人間の限界を示し、恵みによる新しい契約(エレミヤ31:31-34)の必要性を浮き彫りにしていきます。
ダビデの神殿準備
「苦労して主の神殿のために準備した」
歴代誌上 22章14-16節
金(זָהָב)
銀(כֶּסֶף)
青銅(נְחֹשֶׁת)
鉄(בַּרְזֶל)
レバノン杉
石材
職人・労働者
📊 重量の換算(参考値)
| 単位 | 現代換算 | ダビデの準備量 | 推定重量 |
|---|---|---|---|
| 1キカル(タラント) | 約34kg | — | — |
| 金 10万キカル | — | 100,000キカル | 約3,400トン |
| 銀 100万キカル | — | 1,000,000キカル | 約34,000トン |
※ この数字は象徴的に大きく表現されている可能性があります。ダビデの「全力を尽くした」準備を強調する表現と考えられます。
📖 なぜダビデは神殿を建てられなかったのか
「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない」(22:8)
戦士であったダビデには神殿建設が許されませんでした。代わりに「安らぎの人」(שְׁלֹמֹה シェロモー=ソロモン)に託されました。
しかしダビデは、自分ができないからと諦めるのではなく、次の世代のために全力で準備したのです。
💡 二つの「準備」——外側と内側
今日の通読では、二つの「準備」が対照的に描かれています。
目に見える、物質的な準備
目に見えない、内面的な準備
どちらも神の計画への参与です。私たちにも、外側を整える働きと、み言葉を心に納める内側の備えの両方が求められています。
礼拝者が揃う王国 第一歴代誌23章5節
23章5節には、四千人が「主を賛美する者」となったと記されています。これは驚くべき数です。
信仰深い指導者のもとでは、礼拝が国の中心になります。ダビデは契約の箱をエルサレムに運び入れた時、自ら踊りながら賛美しました(2サムエル6章)。その王の姿勢が、国全体の礼拝文化を形作ったのです。
幕屋を担がなくてよい平和 第一歴代誌23章6節
23章26節でダビデは言います。「レビ人はもはや幕屋とその奉仕に用いるすべての祭具を担ぐ必要がない」。
荒野を40年間さまよい、幕屋を担いで移動し続けたレビ人たち。その子孫が「もう担がなくていい」と言われる日が来ました。これは単なる労働の軽減ではなく、神の民が「安息の地」に入ったことの象徴です。
ヘブル書4章で語られる「安息」が、ここに予型として現れています。千年王国、そして新天新地での完全な安息を待ち望みます。
レビ人の継続的な礼拝 第一歴代誌23章30節
23章30節には「毎朝主に感謝し、賛美し、夕べにも同様に行う」とあります。朝と夕、繰り返される賛美。これは「特別な時」だけでなく、日常の中での継続的な礼拝です。
私たちの信仰生活も同じではないでしょうか。特別な集会や体験だけでなく、毎朝、毎夕、主に心を向ける。その積み重ねが礼拝者としての人生を形作ります。
レビ人の三つの務め
歴代誌上 23章32節
主の神殿の奉仕
מִשְׁמֶרֶת(ミシュメレト)= 務め、監督、守ること
- 幕屋の幕や覆いの管理
- 柱や台座の維持
- 祭具の保管と手入れ
- 神殿への運び入れ
- 聖なる物の清め(23:28)
- 供え物のパンの準備
- 穀物の献げ物の管理
- 量と大きさの責任(23:29)
- 祭司の儀式準備の補助
- 犠牲の動物の準備
- 祭壇周辺の整備
- 礼拝進行の補佐
📖 祭司とレビ人の関係
レビ人は祭司(アロンの子孫)ではないので、直接犠牲を捧げたり至聖所に入ることはできませんでした。しかし、祭司の働きを支える重要な役割を担っていました。
(アロンの子孫)
(補助・サポート)
💡 現代への適用
現代の教会で言えば、祭司は牧師、レビ人は執事や奉仕者のような存在です。目立たなくても、礼拝を支える奉仕は神の目に尊いものです。
また、23章30節には「毎朝主に感謝し、賛美し、夕べにも同様に行う」とあります。特別な時だけでなく、日常の中での継続的な礼拝こそが、礼拝者の人生を形作るのです。
【ルカ2章】心に納める信仰
幼子イエスの成長 ルカ2章40節
2章40節「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」。
たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた幼子イエス。マリアはシメオンの預言「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2:35)を聞いていました。いつか来る苦難を心に留めながらも、目の前で成長する我が子を見つめる日々。その幸せと、いつか来る痛みへの予感が交差していたのでしょう。
しかし十字架と復活を経て、マリアは「比べ物にならない本物の幸せ」を知ったはずです。使徒1:14では、弟子たちと共に祈っているマリアの姿があります。息子としてではなく、「主」として礼拝する者となった。その転換がどれほど深い恵みだったでしょうか。
今、私たちはこの恵みを共有できることを、畏敬の念をもって心から感謝します。言葉では表現しきれません。でも主が私たちの思いを分かってくださっているので、感謝します。
12歳のイエス——律法の著者が学ぶ姿
12歳は、ユダヤの男子が「律法の子」(バル・ミツバー)となる前年です。この年齢で律法を学び始め、成人として律法を守る責任を負う準備をします。
12歳といえば中学1、2年生。この年齢で律法学者と対等に話をされるとは、まさに天才です。
しかし「天才」という表現以上の意味があります。イエスは律法の著者であられた方です。その方が、人として律法を学ぶ姿を見せておられる。創造主が被造物の中で成長する——このケノーシス(自己を空しくすること)の神秘に、畏れを覚えます。
「聞いて、質問する」学びの姿勢 ルカ2章46節
46節で、イエスは律法学者たちの「真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられた」とあります。一方的に教えていたのではありません。聞いて、質問していたのです。
律法の著者であるお方が、人間の教師たちから「聞く」姿勢を見せている。これは単なる謙遜ではなく、真の学びの姿を示しておられるのだと思います。
私たちも聖書を読むとき、「自分はすでに知っている」という姿勢ではなく、「聞いて、質問する」姿勢が大切なのでしょう。イエスご自身がそうされたのですから。
「三日目」の発見——復活の予型 ルカ2章46節
「三日の後」(46節)という表現に、復活を思わずにはいられません。
イエスを失い、三日後に見つける。これは十字架と復活の予型ではないでしょうか。マリアは後に、本当の意味で息子を「失い」、そして三日目に復活の知らせを聞くことになります。
ルカはこの「三日」を偶然書いたのでしょうか。福音書記者は、幼少期のエピソードの中にすでに十字架と復活の影を織り込んでいるのです。
「見つからなかった」という恵み ルカ2章45節
45節「見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した」。
この「見つからなかった」という経験が、マリアとヨセフにとってどれほど恐ろしかったか。3日間です。当時の旅は危険でした。12歳の子どもが一人で大都市に残されている。
しかし、この「見つからない」経験があったからこそ、彼らは神殿でイエスを発見するという場面に導かれました。もしすぐに見つかっていたら、イエスが律法学者たちと語り合う姿を見ることはなかった。「わたしの父の家」という言葉を聞くこともなかった。
私たちの人生でも「見つからない」「分からない」という時期があります。しかし、その迷いの後に、神は思いがけない形でご自身を現してくださるのです。
「わたしの父の家」——福音書最初のイエスの言葉 ルカ2章49節
2章49節のイエスの言葉は、福音書に記録された最初のイエスの言葉です。そして最初の言葉が「わたしの父」。
ヨセフがその場にいるのに「わたしの父の家」と言われた。マリアとヨセフには理解できませんでした(50節)。しかしマリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(51節)。
分からなくても、心に留めておく。そして後になって、聖霊によって理解が開かれる。これは信仰者の歩みそのものです。
18年間の沈黙——「両親に仕えてお暮らしになった」
51節後半「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」。
12歳で律法学者たちを驚かせたイエスが、その後18年間、ナザレの小さな家で大工として働き、両親に仕えて暮らされました。福音書はこの18年間についてほとんど何も記していません。沈黙の年月です。
しかし、この沈黙こそがケノーシスの深さを示しているのではないでしょうか。神の子が、名もない村で、目立たない仕事をし、普通の家族に仕えて生きる。この「普通さ」の中に、受肉の神秘があります。
私たちの「普通の日々」も、神の目には尊いのです。
イエスの成長と沈黙の18年間
律法の著者が人として学ばれた歩み
📖 福音書に記録された最初のイエスの言葉
✝️ 「三日目」——復活の予型
マリアとヨセフは「三日の後」にイエスを見つけました(46節)。
イエスを失い、三日後に見つける。これは十字架と復活の予型ではないでしょうか。マリアは後に、本当の意味で息子を「失い」、そして三日目に復活の知らせを聞くことになります。
ルカはこの「三日」を偶然書いたのでしょうか。福音書記者は、幼少期のエピソードの中にすでに十字架と復活の影を織り込んでいるのです。
📜 聖書が沈黙する期間
12歳から30歳まで、聖書はイエスの生涯について何も記していません。
この間、イエスはナザレの小さな家で大工として働き、両親に仕えて暮らされました。
「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」(ルカ 2:51)
🕊️ ケノーシス(自己を空しくすること)の神秘
12歳で律法学者たちを驚かせたイエスが、その後18年間、名もない村で目立たない仕事をし、普通の家族に仕えて生きる。
イエスは律法の著者であられた方です。その方が、人として律法を学ぶ姿を見せておられた。創造主が被造物の中で成長する——このケノーシスの神秘に畏れを覚えます。
この「普通さ」の中に、受肉の深い意味があります。私たちの「普通の日々」も、神の目には尊いのです。
💜 マリアの「心に納める」信仰
「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ 2:51)
マリアにはイエスの言葉の意味が分かりませんでした(50節)。しかし、反発せず、心に留めておいた。
分からなくても、心に納める。そして後になって、聖霊によって理解が開かれる。これは信仰者の歩みそのものです。
この静かな備えが、後に十字架の傍らに立つ強さになったのではないでしょうか。
🌱 今日の適用
神の子が18年間「普通の生活」を送られたという事実は、私たちに大きな慰めを与えます。
目立たない日々、繰り返しの生活、地味な労働——それらすべてが、神の目には尊いのです。
イエスご自身が「聞いて、質問する」姿勢で学ばれたように、私たちも謙遜に御言葉に耳を傾け、分からないことは心に納めて歩んでいきたいと願います。
二つの「準備」
今日の通読で、二つの「準備」が対照的に描かれています。
ダビデの準備(歴代誌22章):金、銀、青銅、鉄、木材、石材、職人……目に見える、物質的な準備。
マリアの準備(ルカ2章):「これらのことをすべて心に納めていた」——目に見えない、内面的な準備。
ダビデは息子のために外側を整えました。マリアは息子について内側に蓄えました。どちらも神の計画への参与です。
しかし、マリアの「心に納める」という静かな備えが、深く響きます。分からなくても、反発せず、心に留めておく。それが後に、十字架の傍らに立つ強さになったのではないでしょうか。
結び——命を生かし、心に納める
シフラとプアは、王の命令に背いてでも命を生かすことを選びました。ダビデは、次の世代のために外側の準備を整えました。マリアは、分からないことを心に納め、静かに備えました。
そして、神の御子イエスは、律法の著者でありながら人として学び、18年間の沈黙の中で両親に仕えて暮らされました。
私たちの日々の歩みも、神の目には尊いのです。目立たない奉仕も、分からない中での信頼も、すべて神の計画の一部として用いられます。
今日も、命を生かす選択をし、み言葉を心に納めて歩んでいきたいと願います。
noteの方では初心者の方にも分かりやすく解説しています。よろしかったら読んでくださいね 👇


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