―神殿の仕様書から荒野の勝利まで、書かれた言葉の力―
2026年1月14日 出エジプト記4:1-17/第一歴代誌28-29章/ルカ4:1-30
目次
はじめに―三箇所を貫く一つの流れ
今日の通読箇所は、出エジプト記、歴代誌、ルカの福音書と、時代も文脈も大きく異なります。しかし、これらを並べて読むとき、驚くべき一貫したテーマが浮かび上がってきます。
神は弱い器を選び、その器に「書かれた言葉」を与えて働かれる―これが今日の三箇所を貫くメッセージです。
モーセは「口が重く、舌が重い」と訴えました。ダビデは「私は何者でしょう」と告白しました。イエスは故郷ナザレで拒絶されました。しかし神は、そのような弱さの中にこそご自身を現されるのです。
出エジプト記4章―モーセの弱さと神の応答
五つの言い訳と神の忍耐
出エジプト記3章から4章にかけて、モーセは神の召しに対して五つの言い訳を重ねます。
「私は何者でしょう」(3:11)、「あなたの名は何ですか」(3:13)、「彼らは私を信じないでしょう」(4:1)、「私は口が重く、舌が重いのです」(4:10)、そして最後に「どうかほかの人を遣わしてください」(4:13)。
神はこれらの言い訳の一つ一つに丁寧に応答されました。ご自身の名を啓示し、三つのしるしを与え、アロンという助け手まで備えられました。これは神の忍耐深い愛の表れです。
三つのしるしの意味
神がモーセに与えた三つのしるしには、段階的な構造があります。
| しるし | 内容 | 象徴的意味 |
| ①杖→蛇→杖 | 変容と支配 | 神の権威がエジプト(蛇=ファラオの象徴)に勝る |
| ②手のツァラアト | 汚れと回復 | 神は汚れを清め、回復させる力を持つ |
| ③水→血 | ナイルの裁き | エジプトの命の源への審判の予告 |
これらの三つのしるしは、後に起こる十の災いの「予告編」とも言えます。神はモーセの弱さにもかかわらず、いや、その弱さを通して、ご自身の力を現そうとされたのです。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の深い意味
出エジプト4:5で神は、ご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗られます。主イエスも、この名を引用して復活を論証されました(マタイ22:32)。この神の自己啓示には、驚くべき深い意味が隠されています。
なぜ「アブラム」ではなく「アブラハム」なのか
神は創世記17章で、アブラム(高められた父)の名をアブラハム(多くの国民の父)に変えられました。重要なのは、アブラハムはその生涯で「多くの国民の父」を完全には見ていないということです。それでも神は、約束がすでに成就した名で彼を呼び続けられます。神は人の現状ではなく、ご自身の約束によって人を定義されるのです。
なぜ「イスラエル」ではなく「ヤコブ」なのか
ここが最も重要な点です。ヤコブ(יַעֲקֹב、ヤアコヴ)は「かかとをつかむ者」「取って代わる者」という意味で、欺き、恐れ、逃亡、葛藤の人生を象徴します。一方、イスラエル(יִשְׂרָאֵל)は「神と戦って勝った者」という栄光の名です。
にもかかわらず、神は「イスラエルの神」ではなく「ヤコブの神」と名乗られます。これは極めて意図的です。神は、栄光の結果よりも信仰の格闘のプロセスにご自身を結びつける方なのです。
この名乗り方は、そのまま私たちへの福音です。神は「完成されたあなた」「立派な信仰者のあなた」の神ではなく、迷い、格闘し、まだ途上にある「ヤコブ」であるあなたの神であると宣言されているのです。
歴代誌28-29章―ダビデの告白と神殿の仕様書
「主の手による書き物」
歴代誌28:19でダビデは驚くべきことを語ります。「これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある」(בִּכְתָב מִיַּד־יְהוָה、ビフタヴ・ミヤド・アドナイ)。
神殿の仕様書は、ダビデの創作ではありませんでした。それは神ご自身の手から与えられた「書き物」でした。モーセがシナイ山で幕屋の「型」(タブニート)を示されたように(出エジプト25:40)、ダビデも神殿の設計を啓示として受けたのです。
ここに「書かれた言葉」の重要性が示されています。神は口伝ではなく、書き記すことを選ばれました。それは後の世代に正確に残り、いつでも立ち返ることができるためです。
「私は何者でしょう」―ダビデの謙遜
歴代誌29:14でダビデは告白します。「まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」
全イスラエルの王が、民の前で「私は何者か」と問う。これはモーセの「私は何者でしょう」(出エジプト3:11)と響き合います。偉大な指導者ほど、自分の無力さを知っているのです。
ダビデはさらに続けます。「私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です」(29:15)。王でありながら「寄留者」と自覚する。これがダビデの霊性の深さです。
ルカ4章―荒野の勝利と「きょう、実現しました」
荒野(ミドバール)―神の言葉がある場所
イエスは聖霊に満たされた直後、御霊に導かれて「荒野」に行かれました。ヘブライ語で荒野はמִדְבָּר(ミドバール)。興味深いことに、この語根 דבר(ダバル)は「語る」「言葉」と同じです。
荒野は単なる不毛の地ではなく、「神の言葉がある場所」「神が語られる場所」という霊的意味を持ちます。イスラエルが荒野で律法を受けたように、イエスも荒野で御言葉によって悪魔に勝利されました。
三つの誘惑と「書いてある」
悪魔の三つの誘惑に対して、イエスは一貫して「書いてある」(γέγραπται、ゲグラプタイ)と応答されました。しかも、すべての引用は申命記からです。
| 誘惑 | 1ヨハネ2:16との対応 | イエスの応答(申命記から) |
| ①石をパンに | 肉の欲 | 「人はパンだけで生きるのではない」(申8:3) |
| ②世界の権力を与える | 暮らし向きの自慢 | 「主にだけ仕えなさい」(申6:13) |
| ③神殿から飛び降りろ | 目の欲 | 「主を試みてはならない」(申6:16) |
注目すべきは、これらの引用がすべて、イスラエルが荒野で失敗した場面に対応しているということです。イスラエルは飢えて不平を言い、金の子牛を拝み、マサで神を試みました。最初のアダムが園で失敗したことを、最後のアダムであるイエスが荒野で回復されたのです。
「きょう、聖書のこのみことばが実現しました」
ナザレの会堂でイエスはイザヤ書61章を朗読され、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と宣言されました(4:21)。
しかし、注意深く読むと、イエスはイザヤ61:2を途中で読むのを止められたことに気づきます。イザヤ61:2の全文は「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ」です。イエスは「主の恵みの年を告げ知らせるために」で止められました。
なぜでしょうか。初臨は恵みの時であり、裁きは再臨の時だからです。「書かれた言葉」を正確に理解することで、神の救済計画の段階が見えてきます。
三箇所のつながり―神は人を通して働くことを選ばれる
今日の三箇所を通して見えてくるのは、神は「効率」ではなく「関係」を選ばれる方だということです。
全能の神なら、モーセなしでイスラエルを救えました。ダビデなしで神殿を建てられました。御使いの軍団で悪魔を追い払えました。
しかし神は、弱いモーセを選び、血を流したダビデの設計を受け入れ、御子を荒野に導いて御言葉で戦わせました。
なぜでしょうか。神は独りで栄光を受けることを望まれないからです。神は私たちと共に働き、共に喜び、共に栄光を受けることを望んでおられるのです。
「三つのしるし」と「三つの誘惑」の対応
出エジプト4章の三つのしるしと、ルカ4章の三つの誘惑には、興味深い対応があります。モーセには「神の力を証明するために使え」と命じられ、イエスには「神の力を自分のために使え」と誘惑されました。
同じ「神の力」でも、誰のために、何のために使うかで、従順にも罪にもなります。これは私たちへの深い問いかけです。
私たちへの適用
第一に、神は弱さを退けられません。モーセの口の重さ、ダビデの血の罪、ナザレでのイエスへの拒絶。神はこれらの弱さの中で、いや弱さを通して働かれました。あなたの弱さは、神の働きを妨げるものではなく、むしろ神の力が完全に現れる場所です(2コリント12:9)。
第二に、「書かれた言葉」は私たちの武器です。イエスは荒野で悪魔に勝利するために、奇跡も天使も用いられませんでした。ただ「書いてある」と、申命記を引用されました。モーセの杖が蛇を打ち負かしたように、御言葉の剣が誘惑を打ち負かします(エペソ6:17)。
第三に、神は「ヤコブの神」として私たちと共におられます。完成された「イスラエル」ではなく、まだ格闘し、迷い、弱さの中にある「ヤコブ」の神として。そしてその関係は、死によっても断ち切られません。これが復活の希望です。
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今日も神は、弱い私たちを選び、御言葉を与え、共に歩んでくださいます。ダビデのように告白しましょう。「私は何者でしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」
主の恵みと平安がありますように。

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