聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5 律法の本質②

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十字架は愛 マタイの福音書
マタイの福音書 出会い 【英語有】マタイの福音書5章
私の投稿を読んでくださっている方には、キリストの教えとの出会いではなく
キリストとの個人的な出会いを体験していただきたいと願っています。
 律法の本質パート2へ進みます。
今回も、律法の中に神様の愛を発見することが出来ます。

聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5 離婚について

また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
 It hath been said, Whosoever shall put away his wife, let him give her a writing of divorcement:
(マタイ5:31)
    ↓  現在は簡単に離婚しますが不倫以外の離婚は神の目には姦淫と映っています。
 5:32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
                             
 But I say unto you, That whosoever shall put away his wife, saving for the cause of fornication, causeth her to commit adultery: and whosoever shall marry her that is divorced committeth adultery.
(マタイ5:32)
旧約聖書の時代は、離婚した後から、夫が元妻に対する権利を主張する気まぐれから妻を守る為の律法だったそうです。しかし、このことが離婚状を渡せば、律法に触れず離婚できるとされてしまいました。
ヒレル派では妻の作った食事が気に入らないという理由だけで、離婚できるという教えがまかり通っていました。この時代の女性は離婚後、貧困で路頭に迷う生活を強いられていました。婦人は他の男性を頼るしか生きていけなかったので、離婚したら妻に姦淫を犯させることになると主は教えられました。
私は主イエスの教えられる離婚問題についても愛を感じます。
新約聖書では、結婚はキリストが夫、 教会が妻として例えられているのですが、キリストは簡単には妻である教会を「見捨てない」と言われていると受け取って、私は感謝しています。
優秀な妻ではないですが、命を懸けて愛してくださった主イエスについていきたいです。
14:18わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
 I will not leave you comfortless: I will come to you.
(ヨハネの福音書14:18)
 13:5金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。
Let your conversation be without covetousness; and be content with such things as ye have: for he hath said, I will never leave thee, nor forsake thee.

(ヘブル人への手紙13:5)

 

聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5 誓ったことは果たす

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また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
 Again, ye have heard that it hath been said by them of old time, Thou shalt not forswear thyself, but shalt perform unto the Lord thine oaths:
(マタイ5:33)
↓ 約束事も誓いであり、会議などの決め事もそこで決まれば皆が了解済みの約束事です。
      その意見に反対なら、裏で反対すると陰口となり、
      会議の場で正々堂々と反対表明をする必要があると思います。
      仕事場でもし、幹部達だけで間違ったことを決めてしまって、
      命令として実施されてしまった場合、また政府の間違った法令が通って通達され、
      施行されてしまった場合クリスチャンは批判するのではなく
      リーダーの為に全力で取りなすことが出来ると思います。
   祈る事はクリスチャンのすばらしさ、教会の力です。
 5:34しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。 5:35また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 5:36また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。 5:37あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
(マタイ5:34-37)
簡単に誓ってはならないことを思います。また人が自分に誓ってくれても相手は自分の髪の毛の一本すら白くも黒くもできない、力ない人間なのだということを覚え、誓いが破られても、感情的に難しいこともありますが、赦す必要があると思います。・・・自分も力ない人間なのだから。

聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5 報復でなく賠償

5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
(マタイ5:38)
  「目には目を歯には歯を」と書かれていますが、

誤解しないでください。決して旧約聖書は報復を良しとはしていません。

確かに旧約聖書にこう記してあります。
あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。
 And thine eye shall not pity; but life shall go for life, eye for eye, tooth for tooth, hand for hand, foot for foot.
(申命記19:21)
21:22もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。 21:23しかし、ほかの害がある時は、命には命、 21:24目には目、歯には歯、手には手、足には足、 21:25焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない
(出エジプト記21:22-25)
上記のように償いなさいと書いてあります。
旧約聖書の律法は、報復の連鎖で被害以上に被害を被らせることを防ぐ為のものです。
報復ではなく賠償の律法です。
ハムラビ法典について正直言いますと、
ある時まで私は報復の法典という風に誤解していたのですが、
ハムラビ法典も賠償の法典です。
玉川大学のホームページより

「ハムラビ法典は復讐法である」という誤解ばかりが先行し、「悪名高きハムラビ法典の目には目を歯には歯を」とした形の引用が多いようですが、不思議なことに原典からの引用をほとんど目にすることがありません。そこで「復讐法」という誤解を解くためにもその鍵となる部分を引用してみましょう。まずは一番有名な部分です。(以下の引用文は松田明三郎訳によります。)

「人もし、自由人の眼を傷つけたる時には、彼自身の眼も傷つけられるべし」(第196条)
「人もし、自由人の骨を挫きたる時には、彼自身の骨も挫かるべし」(第197条)
「人もし、同階級の人の歯を挫きたる時には、彼自らの歯も挫かるべし」(第200条)

上記のいずれをみても、同害による応報の原則を語っているにすぎず、「やられたらやり返す、倍返し」というような復讐を奨励しているわけではありません。

それですので、ハムラビ法典も旧約聖書の律法も実は報復ではなく賠償の律法です。
そしてハムラビ法典の方が歴史年代的には古いとされています。
しかし、私は思うのです。旧約聖書に出てこられる
この世界の創造主なる神が存在されたのは、
ハムラビ法典より古いのですからハムラビ法典に創造主なる神の感化はあるだろうと。
なぜなら、聖書にはヘブライ人以外の人や他国の王達も
創造主なる神と対話していると見られる場面が、多々ありますから。
ハムラビ法典と聖書の律法で両者の違いは下記のことだと思います。
①ハムラビ法は、身分によって優遇されます。
②人間同士の罪に対することが記されています。
①旧約聖書の律法では身分に関係なく、
  いかなる人(王、富豪、平民、貧民、すべて)も賠償の対象です。
  自国民だけでなく、異邦人も適用されます。
②旧約聖書では、創造主なる神に対する罪も記されています。

悪に手向かってはならない

5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
 But I say unto you, That ye resist not evil: but whosoever shall smite thee on thy right cheek, turn to him the other also.
(マタイ5:39)
私には理解できませんでした。主イエスは賠償以上のことを言われています。
    右の頬を打つなら、左の頬も向けなさいと、
    こちらが、やられっぱなしでは相手は付け上がります。
    人が良くて我慢する人は、いくらでも我慢を強いられるのが
    世の常なのではないでしょうか。
    しかし 主イエスが言われているのです。
      天のみ国では、このことも主に従うことが出来る人、
      この品性に到達できた人は、天においても豊かな報いを受けるのだと思います。
   苦しみの向こうを見つめ、一歩踏み出し従いたいのですが、
   私にとってはどれもレベルの高い学科です。その都度、主の十字架を仰ぐのみです。
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当時のユダヤ人は目には目を歯には歯をの律法を曲解して、報復の口実にしていました。
主イエスは悪人に手向かわないという積極的態度で抵抗する教えをもって、報復を戒められました。
主イエスは、報復する心から私たちが解放されて平安を得てほしいと願っておられたのです。
しかし、
不正を放置してよいという意味ではありません。主イエスも不当に打たれた時には抗議されました。
イエスは答えられた、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」。
 Jesus answered him, If I have spoken evil, bear witness of the evil: but if well, why smitest thou me?
(ヨハネ18:23)
パウロとシラスも講義しています。
ところが、パウロは警吏らに言った、「彼らは、ローマ人であるわれわれを、裁判にかけもせずに、公衆の前でむち打ったあげく、獄に入れてしまった。しかるに今になって、ひそかに、われわれを出そうとするのか。それは、いけない。彼ら自身がここにきて、われわれを連れ出すべきである」。
 But Paul said unto them, They have beaten us openly uncondemned, being Romans, and have cast us into prison; and now do they thrust us out privily? nay verily; but let them come themselves and fetch us out.
(使徒の働き16:37)
主の愛の中にあって歩む人は、
暴言暴力に報復し争い、自分や人の魂を害したりするより、
歯向かわず自己の権利を主張せず、
むしろ耐え忍んで、受ける犠牲もためらわないものです。
このような人は心底尊敬に値し、男らしく、あるいは女らしく
強く頼れる人だと思います。

聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5章求める者には与えられる神の子なら

22:26もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。 22:27これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。
(出エジプト記22:26-27)
何枚か持っている下着を担保に取られる事はありましたが、夜の布団の代わりに使うかもしれない上着を取ることは律法で禁じられていました。それほど上着は大切なものだったようです。
主イエスはその上着をも与えなさいと言われています。
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
 And if any man will sue thee at the law, and take away thy coat, let him have thy cloak also.
(マタイ5:40)
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
 And whosoever shall compel thee to go a mile, go with him twain.
(マタイ5:41)
日々をやっと食いつないでいる人にとって荷物運びをさせられることはとても負担でした。
しかし、主イエスはさらに二マイル行きなさいと言われます。
自分ではなく、神が自分の頭、リーダーである人は、
求められる以上のことを進んでにする人に変えられていきます。
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
 Give to him that asketh thee, and from him that would borrow of thee turn not thou away.
(マタイ5:42)
ただ何でも与えてなさいというわけではなく、所有物の執着から解放されなさいという意味だと礼拝メッセージで聞いたことがあります。
主イエスは、後の個所でこう言われています。
7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 7:9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 7:10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 7:12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
(マタイ7:7)
求める者には与えられる天の神の子どもであるという自覚をもって、
父の品性を受け継ぎたいと思います。
少し励まされる個所があります。
神様はこの地上でも報いられる方だとヨブ記にあります。
29:7あの時には、わたしは町の門に出て行き、
わたしの座を広場に設けた。
29:8若い者はわたしを見てしりぞき、
老いた者は身をおこして立ち、
29:9君たる者も物言うことをやめて、
その口に手を当て、
(ヨブ記29:7-9)
ヨブは、町の門に出て広場に座るところを設けられ、権威がありました。
それは、ヨブが博識だったからでも、尊敬されるほど努力した業績があったからでもなく
これは助けを求める貧しい者を救い、
また、みなしごおよび助ける人のない者を
救ったからである。
(ヨブ記29:12)
貧しい人、困っている人に必要なものを届けて救ったからです。

聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5章 あなたの敵を愛せよ

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
 Ye have heard that it hath been said, Thou shalt love thy neighbour, and hate thine enemy.
(マタイ5:43)
これは、有名なみ言葉です。クリスチャンでない方もご存じの方がおられると思います。
旧約聖書に「隣人を愛し敵を憎め」とどこにも記していません。
「あなたの隣人を愛せよ」という律法を人々が逆用して残念ながらそれが、
常識になってしまっていたのでしょう。
現代でも、こんな常識があるかもしれません。常識よりも認識を大切にしたいと思います。
利発な子どもなら、「お父さんお母さん、おかしいことを言う」と疑問に思うかもしれません。
でも大人になると、流されてしまって、それが常識になってしまっているのかもしれません。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。                 
 But I say unto you, Love your enemies, bless them that curse you, do good to them that hate you, and pray for them which despitefully use you, and persecute you;
(マタイ5:44)
私は聖書を読んでいる中で、
主イエスの世の常識に惑わされず、本質を語る真実な人柄に恋をしました。
み言葉を実行することは依然として難しいのですが、主イエスの語る言葉に
ミントのようにスーとする、さわやかな風を感じます。
真理の言葉を聞くと懐かしい家に戻ってこれたというような感覚で、心が喜びます。
これが神の国の法律なのだと、感動します。
しかし、これは人の力では出来ません。悪い行いは、受け入れなくても、
その人のことは愛によって忍耐し、相手の利益となることをする。
それは、我慢ではなく、神の愛によって生まれ変わった人でなければ、
成し得ないことだと思います。
そして、かつて敵であった私を愛し私の罪の身代わりにキリストが、
ご自分の命を捨てて愛を示されました。これこそ律法の神髄、完全な愛の手本です。
 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
 That ye may be the children of your Father which is in heaven: for he maketh his sun to rise on the evil and on the good, and sendeth rain on the just and on the unjust.
(マタイ5:45)
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
 For if ye love them which love you, what reward have ye? do not even the publicans the same?
(マタイ5:46)
御霊によって、神の愛が注がれて初めてできることです。
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 
 And if ye salute your brethren only, what do ye more than others? do not even the publicans so?
(マタイ5:47)
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
 Be ye therefore perfect, even as your Father which is in heaven is perfect.

(マタイ5:48)

時々日記を見返すと、恵まれるのですが

「あなたも完全な者となりなさいとは、知恵や力の完全さではなく、

愛の完全さを求められたのです。心清められ、この愛に反抗する罪の性質が取り除かれた時、

完全な愛がその人のうちに全うされるのである。」

という風に、ずいぶん昔の日記に書いてあります。(#^^#)

誰かから教えていただいて私なりに感動したから書いたと思われるのですが、

我ながら、??? 深い意味は分からずに記したのかもしれません。

今も・・・実行できてないところを見ますと、だまだ不完全です。

聖められる、その途上に私はいます。

4:17わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 4:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 4:19わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。 4:20神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。 4:21神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

(第一ヨハネ4:17-21)

 

2019年4月10日 私は足の手術をして入院していました。

病室で、自分には完全な愛には・・・完全な信仰には程遠い・・・と思い、笑顔の下に、

「頑張らなきゃ」という思いと、弱い自分へのふがいなさで葛藤していました。

そんな時、登録していた新宿シャローム教会の久笑先生からのマナメールを受け取りました。

メールの抜粋です。

ものすごく、元気が出てきました。そういうことなんだ。今の自分を感謝しようと思いました。

肩の力が抜けて、つくり笑顔をしなくてもよくなりました。

 

神様は私たちに「完全であるように」と願っておられます。私たちはいつの間にか「自分の信仰の歩みは100点でないといけない」「主が願っておられる完全な姿でいなければならない」「完璧な親、完璧な子どもでいなければいけない」と、「完全でありなさい=100点でいなさい」ということだと思い違いをしてしまっていることがあります。そのような考えは、自分はこれができていない、あれもできていないと、100点でない自分をいつも責め、自分自身を罪に定めます。

神様が私たちに願う「完全であるように」とは、そういうことではありません。パウロは手紙でこのように書いています。

「…私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。」(第二コリント13:9b)

「完全な者になることを祈っています」は、直訳では「あなたがたの完成のために祈っています」となっています。すなわち、「完全でありなさい」と神様が言われることの意味は、「完成に向かって進みなさい」なのです。

 

10があるから20があり、20があるから30へと進んでいけるのです。10も完全であり、20も完全なのです。10が完全でなければどのようにして100に到達することができるでしょうか。今、10であること、20であることを嘆くのではなく、今自分に与えられたステージを主に感謝しましょう。そして、今置かれている場所において「キリストにある完全さ」を主から受け取りましょう。なぜなら、それが完成へと向かって行く歩みだからです。

完全であるというのは、自分がどの段階にあったとしてもキリストにあって満ち満ちている状態にあることです。

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2:9~10)

 

 

ヘブル語訳に近いと言われている詳訳聖書にも

マタイ5章の48節にはこう訳されています。

それだから、あなたたちはあなたたちの天のみ父が完全であられるように、完全にならなければならない(すなわち、徳と高潔のほんとうの高みに到達して、心と品性において完全に円熟した敬けんへと成長しなければならない)

(マタイ5:48)詳訳聖書

成長していきなさいということです。

今は成長の途上です。その途上である現在も主にあって感謝いたします。

 

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