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聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5 離婚について
また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。It hath been said, Whosoever shall put away his wife, let him give her a writing of divorcement:
5:32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。But I say unto you, That whosoever shall put away his wife, saving for the cause of fornication, causeth her to commit adultery: and whosoever shall marry her that is divorced committeth adultery.
14:18わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。I will not leave you comfortless: I will come to you.
13:5金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。Let your conversation be without covetousness; and be content with such things as ye have: for he hath said, I will never leave thee, nor forsake thee.
(ヘブル人への手紙13:5)
聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5 誓ったことは果たす
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また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。Again, ye have heard that it hath been said by them of old time, Thou shalt not forswear thyself, but shalt perform unto the Lord thine oaths:
5:34しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。 5:35また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 5:36また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。 5:37あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5 報復でなく賠償
5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
誤解しないでください。決して旧約聖書は報復を良しとはしていません。
あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。And thine eye shall not pity; but life shall go for life, eye for eye, tooth for tooth, hand for hand, foot for foot.
21:22もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。 21:23しかし、ほかの害がある時は、命には命、 21:24目には目、歯には歯、手には手、足には足、 21:25焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。
「ハムラビ法典は復讐法である」という誤解ばかりが先行し、「悪名高きハムラビ法典の目には目を歯には歯を」とした形の引用が多いようですが、不思議なことに原典からの引用をほとんど目にすることがありません。そこで「復讐法」という誤解を解くためにもその鍵となる部分を引用してみましょう。まずは一番有名な部分です。(以下の引用文は松田明三郎訳によります。)
「人もし、自由人の眼を傷つけたる時には、彼自身の眼も傷つけられるべし」(第196条)
「人もし、自由人の骨を挫きたる時には、彼自身の骨も挫かるべし」(第197条)
「人もし、同階級の人の歯を挫きたる時には、彼自らの歯も挫かるべし」(第200条)上記のいずれをみても、同害による応報の原則を語っているにすぎず、「やられたらやり返す、倍返し」というような復讐を奨励しているわけではありません。
悪に手向かってはならない
5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。But I say unto you, That ye resist not evil: but whosoever shall smite thee on thy right cheek, turn to him the other also.
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イエスは答えられた、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」。Jesus answered him, If I have spoken evil, bear witness of the evil: but if well, why smitest thou me?
ところが、パウロは警吏らに言った、「彼らは、ローマ人であるわれわれを、裁判にかけもせずに、公衆の前でむち打ったあげく、獄に入れてしまった。しかるに今になって、ひそかに、われわれを出そうとするのか。それは、いけない。彼ら自身がここにきて、われわれを連れ出すべきである」。But Paul said unto them, They have beaten us openly uncondemned, being Romans, and have cast us into prison; and now do they thrust us out privily? nay verily; but let them come themselves and fetch us out.
聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5章求める者には与えられる神の子なら
22:26もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。 22:27これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。And if any man will sue thee at the law, and take away thy coat, let him have thy cloak also.
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。And whosoever shall compel thee to go a mile, go with him twain.
求める者には与え、借りようとする者を断るな。Give to him that asketh thee, and from him that would borrow of thee turn not thou away.
7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 7:9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 7:10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 7:12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
29:7あの時には、わたしは町の門に出て行き、
わたしの座を広場に設けた。
29:8若い者はわたしを見てしりぞき、
老いた者は身をおこして立ち、
29:9君たる者も物言うことをやめて、
その口に手を当て、
これは助けを求める貧しい者を救い、
また、みなしごおよび助ける人のない者を
救ったからである。
聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5章 あなたの敵を愛せよ
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『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。Ye have heard that it hath been said, Thou shalt love thy neighbour, and hate thine enemy.
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。But I say unto you, Love your enemies, bless them that curse you, do good to them that hate you, and pray for them which despitefully use you, and persecute you;
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。That ye may be the children of your Father which is in heaven: for he maketh his sun to rise on the evil and on the good, and sendeth rain on the just and on the unjust.
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。For if ye love them which love you, what reward have ye? do not even the publicans the same?
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。And if ye salute your brethren only, what do ye more than others? do not even the publicans so?
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。Be ye therefore perfect, even as your Father which is in heaven is perfect.
(マタイ5:48)
時々日記を見返すと、恵まれるのですが
「あなたも完全な者となりなさいとは、知恵や力の完全さではなく、
愛の完全さを求められたのです。心清められ、この愛に反抗する罪の性質が取り除かれた時、
完全な愛がその人のうちに全うされるのである。」
という風に、ずいぶん昔の日記に書いてあります。(#^^#)
誰かから教えていただいて私なりに感動したから書いたと思われるのですが、
我ながら、??? 深い意味は分からずに記したのかもしれません。
今も・・・実行できてないところを見ますと、だまだ不完全です。
聖められる、その途上に私はいます。
4:17わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 4:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 4:19わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。 4:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。 4:21神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。
(第一ヨハネ4:17-21)
2019年4月10日 私は足の手術をして入院していました。
病室で、自分には完全な愛には・・・完全な信仰には程遠い・・・と思い、笑顔の下に、
「頑張らなきゃ」という思いと、弱い自分へのふがいなさで葛藤していました。
そんな時、登録していた新宿シャローム教会の久笑先生からのマナメールを受け取りました。
メールの抜粋です。
ものすごく、元気が出てきました。そういうことなんだ。今の自分を感謝しようと思いました。
肩の力が抜けて、つくり笑顔をしなくてもよくなりました。
神様は私たちに「完全であるように」と願っておられます。私たちはいつの間にか「自分の信仰の歩みは100点でないといけない」「主が願っておられる完全な姿でいなければならない」「完璧な親、完璧な子どもでいなければいけない」と、「完全でありなさい=100点でいなさい」ということだと思い違いをしてしまっていることがあります。そのような考えは、自分はこれができていない、あれもできていないと、100点でない自分をいつも責め、自分自身を罪に定めます。
神様が私たちに願う「完全であるように」とは、そういうことではありません。パウロは手紙でこのように書いています。
「…私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。」(第二コリント13:9b)
「完全な者になることを祈っています」は、直訳では「あなたがたの完成のために祈っています」となっています。すなわち、「完全でありなさい」と神様が言われることの意味は、「完成に向かって進みなさい」なのです。
10があるから20があり、20があるから30へと進んでいけるのです。10も完全であり、20も完全なのです。10が完全でなければどのようにして100に到達することができるでしょうか。今、10であること、20であることを嘆くのではなく、今自分に与えられたステージを主に感謝しましょう。そして、今置かれている場所において「キリストにある完全さ」を主から受け取りましょう。なぜなら、それが完成へと向かって行く歩みだからです。
完全であるというのは、自分がどの段階にあったとしてもキリストにあって満ち満ちている状態にあることです。
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2:9~10)
ヘブル語訳に近いと言われている詳訳聖書にも
マタイ5章の48節にはこう訳されています。
それだから、あなたたちはあなたたちの天のみ父が完全であられるように、完全にならなければならない(すなわち、徳と高潔のほんとうの高みに到達して、心と品性において完全に円熟した敬けんへと成長しなければならない)
(マタイ5:48)詳訳聖書
成長していきなさいということです。
今は成長の途上です。その途上である現在も主にあって感謝いたします。
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