聖書の名言集:悪魔と12部族の「宝石」から受ける啓示

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いろんな色の宝石 聖書研究

聖書の名言集 悪魔と12部族に与えられた宝石の違いから受ける啓示

旧約聖書は、日本人の私達にとって文化の違いから理解しずらい部分がありますが、

同じ人間です。

一つひとつその意味を追っていくと、少しづつ目からうろこが取れるように、

神様の愛が表されていることが分かってとても恵まれます。

今回は宝石からたどって見ていきます。

イスラエルの大祭司は、神様の前に立って礼拝し、民の為にとりなしの祈る役目があります。

大祭司自身は、神と人との間に入ってとりなしの祈りをする、真の大祭司イエス・キリストを象徴しています。

大祭司の服装には、胸当てがありました。胸当ては神様によって美しくデザインされ、

イスラエルの子たちである12部族の名前を刻んだ宝石をはめ込みました。

宝石は神様を表す金細工の中にしっかりはめ込まれていました。

大祭司の胸当ての宝石で表されるように、イスラエルの子たちである12部族は神様の目からは宝石のように尊いものです。信仰から落ちないように12部族を表す宝石の周りは金の神様に守られているという比喩的表現もあります。

大祭司が、神様の前にとりなしをするときは必ず胸当てをしました。12部族を大切に、しっかり胸に抱いて祈る事を表しています。

神様が一つひとつをモーセに教えられ、巧みな細工人によって大祭司の装束の一つひとつが作られました。

意味が分からずに読んでいる時は??という感じで、読み飛ばしていたのですが。

愛のあふれる神様の思いが、深く表されていたのです。

人の役目

創世記のはじめ、神様によって創造された時から人は「耕し」「守る」役目を与えられています。

主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

創世記2章15節

「耕すことは礼拝する事」、「守ることはとりなしの祈り」をそれぞれ象徴しています。

神を信じる人々は万人が祭司という観点から

今からお話しする宝石がちりばめられている祭司の装束は、私達が人々の為にとりなし祈る時の姿勢、心構えを表しています。

宝石

悪魔(サタン)は、自分の意志で罪に落ちて堕落してしまいましたが、創造された時は、愛すべき存在として神様から一人で9個の宝石を与えられていました。

人はサタンのように一人で9個の宝石を負うのではなく12部族すべてがそれぞれ一つずつの宝石を与えられています。それぞれの宝石が集まって力を合わせて一つの胸当てになります。祭司の胸当ては愛のとりなしの祈りを表します。

人は神に守られ繋がり、祭司の胸当てのように兄弟を大切に胸に抱き愛し合って、とりなし祈りあうことで神の召しを全うするようになる美しさがあるのだと教えられます。

また、教会の兄弟姉妹、また将来兄弟姉妹に加わる一人一人が宝石のように美しく輝く高価で尊い存在だということを表しています。

それですので、祭司の胸当ては神様に守られながら、兄弟姉妹のために愛を持ってとりなし祈っていく姿勢を表現し、この姿勢で祈ることを神様が望んでおられるのだと教えてくださっているのです。

人知では知り尽くせない神様の深い愛のみ心にもっと触れたいという思いで聖書の名言集から、サタンの9個の宝石と、各12部族に一つづつ与えられた合わせて12の宝石を整理してみました。

これは、私が神様から直接受け取った啓示ならすごくカッコいいのですが、そうではなく、実は神学校の先生に教わった沢山のヒントから受け取った啓示です。とても恵まれたので、分かち合いたいと思います。

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↑ ここと合わせて読んでいただければ嬉しいです。

前置きが長くなりましたが、まず名言集である聖書のみ言葉をチェックします。今回は対比する為に宝石の名前が分かりやすく原語に一番近いとされる新改訳聖書2017年版を使用します。

聖書の名言集 悪魔と12部族の宝石:み言葉から

天の十字架




夫のために飾られた新しいエルサレムなる花嫁

都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった

2017年版(黙示録21:19-20)

1000年王国と言われても、初めて聞く方はなにそれ?という感じになると思うのですが、

だいたいのな流れ、終末に関しても、いつか分かりやすい言葉で書いていきたいと思っています。

今はそういう王国がいつか来ると聖書は言っているのだということだけ覚えていてくださいね。

1000年王国後の新しい天と地の都の城壁の土台です。聖なる都、新しいエルサレムとも言われ

夫の為に飾られた花嫁とも言われています。これは花嫁なる教会を表しています。

上記のみ言葉は、その都の台座に飾られている宝石のことが記されています。

サタンの宝石

 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石に取り囲まれていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、縞めのう、碧玉、サファイア、トルコ石、エメラルド。あなたのタンバリンと笛は金で作られ、これらはあなたが創造された日に整えられた。

2017年版(エゼキエル28:13) 上記のみ言葉は、悪魔(サタン)一人に与えられた宝石9個です

12部族の宝石(人間の宝石)

また、意匠を凝らして、エポデの細工と同じように、金色、青、 紫、 緋色の撚り糸、 それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、胸当てを作った。
正方形で二重にしてその胸当てを作った。 長さは一ゼレト、 幅一ゼレトで、 二重であった。
その中に四列の宝石をはめ込んだ。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。
第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。
第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。
第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれた。
これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個であった。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表した。

(出エジプト39:8-14)

2017年版

エポデはチュニックのような装束の中の一つで、その上に胸当てを付けます

胸当てにはめ込まれたの宝石と刻まれている12部族の名前をどう当てはめるかについては、いろんな説があるようなのですが、ここでは行進順と受け止めて各12部族に当てはめ、その意味をたどっていきます。

行進順とは、

出エジプトの時、大勢の民を引き連れてカナンの地を目指す彼らを、主が昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中に臨在され導かれました。そして主がとどまったところに宿営しました。

神が宿営の配置、出発の行進の順番を決めそれをモーセに告げ、モーセは告げられたとおりに民に指示をして、再び出発の時には主の臨在が雲の柱となって導かれる時、この順番で行進しました。その行進順のことです。

二つの肩当てが、それぞれエポデの両端に付けられ、エポデは一つに結ばれる。
エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにする。
二つの縞めのうを取り、その上にイスラエルの息子たちの名を刻む。
六つの名を一つの石に、残りの六つの名をもう一つの石に、生まれた順に刻む。
印章を彫る宝石細工を施して、イスラエルの息子たちの名をその二つの石に彫り、それぞれを金縁の細工の中にはめ込む。
その二つの石をエポデの肩当てに付け、イスラエルの息子たちが覚えられるための石とする。アロンは【主】の前で、彼らの名が覚えられるように両肩に載せる。

2017年版(出エジプト28:7-12)

祭司の装束の、肩の宝石に12部族の名を刻まれたことが書かれている箇所です。

上記のみ言葉にははっきり誕生順と記されていますね。

聖書の名言集 悪魔と12部族の宝石を表にまとめる

いろんな色の宝石

黙示録21:19-20 胸当て(部族の宿営・行進の順)出エジプト39:8-14 サタンの宝石エゼキエル28:13 肩の縞めのうに生まれた順に刻まれた
イスラエルの子達の名と意味。出エジプト28:7-12
第一 碧玉 第一列 ユダ ルビー(赤めのう) ルビー(赤めのう) ルベン 息子を見よ
第二 サファイヤ イッサカル トパーズ トパーズ シメオン 聞く
第三 めのう ゼブルン エメラルド エメラルド レビ 結合した
第四 緑玉 第二列 ルベン トルコ玉 トルコ玉 ユダ 賛美
第五 縞めのう シメオン サファイヤ サファイヤ ダン 裁き
第六 赤めのう ガド ダイヤモンド ダイヤモンド ナフタリ 格闘
第七 かんらん石 第三列 エフライム ヒヤシンス石(オパール) ガド
第八 緑柱石 マナセ めのう アシェル 恵まれている
第九 黄玉石 ベニヤミン 紫水晶 イッサカル 報酬
第十 ひすい 第四列 ダン 緑柱石(藍玉) 緑柱石(藍玉) ゼブルン 住む
第十一 青玉 アシェル 縞めのう 縞めのう ヨセフ 実り豊かな
第十二 紫水晶 ナフタリ 碧玉 碧玉 ベニヤミン 私の右の手

胸当てを行進順で見てみると、サタンに足りないのはこれらの三つの宝石です。

①エフライムヒヤシンス石:オパール))②ナマセ(めのう)③ベニヤミン(紫水晶)

このように仮定する理由は

ギリシャ語で書かれている黙示録と、ヘブライ語で書かれている旧約聖書のエゼキエル書とでは、年代も違うし、原語も違うので、正確に比べることは困難です。

しかし旧約聖書だけで見ますと、

出エジプト39:8-14の大祭司のエポデに出てくる12の宝石と、

エゼキエル28:13に出てくるサタンが持っていた9個の宝石は

同じヘブライ語なので、一致します。

出エジプトにある胸当ての宝石に関して、どの宝石がどの部族を表すかについては、前にも記しましたが意見が分かれるそうです。

①誕生の順番 or ②出発の後進の順番

ここでは、胸当ては行進の順で、両肩の宝石は部族の誕生順として、

行進順で胸当ての宝石を12部族の名前に当てはめて見てみると、

サタンに足りない宝石の特徴に、ラケルの子、孫が上がってきます。

ラケルはイスラエル(元の名をヤコブ)の最愛の妻です。

ベニヤミン【私の右の手】(紫水晶)=キリストの王権の象徴 ラケルの子

ナマセ【忘れる】(めのう)=帰る、回復、 住む、(水を)汲む 主権的力など ヨセフの子でラケルの孫

エフライム【実り豊かな】(ヒヤシンス石:オパール)=謎 支配者、という意味ではないかと言われています。ヨセフの子でラケルの孫

(これからも、神のみ旨を求める聖書学者たちの聖なる探求によって、神様から人類に聖書の奥義が啓示されていくことを願っています。)

以上がサタンに足りない三つの宝石となります。




神のおられる北の端なる大王の都に、人間を住まわせる為に、

人間をキリストの花嫁とする為に神は最愛の者として、人間をつくられました。

ところが、サタンはこのポジションが欲しかったのです。

このポジションを人間に取られたので、人間を妬み憎んでいます。

白雪姫に出てくる魔女のように、サタンは、自分が一番だと認めてほしかったのです。

サタンに足りない三つの宝石は何を掲示しているのでしょうか?

私は、謙遜 と正直さ 主イエスの十字架、贖いだと思います。

行進順に宝石を当てはめ、かつ 宝石を持つ部族の名前から見ますと

【私の右の手】 【忘れる】 【実り豊かな】の三つがサタンに足りないことが分かります。

贖いとは、償う、買い戻すという意味で、罪の奴隷になっていた私たちを主イエスが代わりに買い戻してくださったということです。

正直に罪を告白し、主イエスが、私の罪の身代わりに字架にかかって死んでくださり、よみに下って死とよみに勝ち復活され、私の罪は主イエスによって全て聖められたことを信じるなら、罪の赦しを受けます。

そのことを部族名の意味に照らし合わせると、神の右の座につかれたキリストに守られた私達を見る神の目はすでに赦した罪を神様は忘れてくださる方ですから、もはや赦された罪を神は思い出さず、私たちの罪を身代わりに背負ってくださった主イエスの十字架の故に私たちを実り豊かな者として祝福してくださるのだと、私は受け取りました。

ここにも、神様の愛、十字架が表されていたのです。

サタンにはない、「忘れる」 「実り豊かな」 に込められたもう一つの意味

ナマセ【忘れる】(めのう

エフライム【実り豊かな】(ヒヤシンス石:オパール

この二つの宝石の意味を説明する為に、創世記のヨセフの物語にさかのぼります。ヤコブの子ヨセフは兄たちに裏切られ、エジプトに奴隷として売られました。しかしエジプトで、神はヨセフを祝福し、使えている主人の下で祝福され神様からの力を発し来ます。が、またしても主人の妻の陰謀で、姦通未遂の疑いをかけられ牢に入れられます。

何年か後に疑いが晴れ、神がヨセフに与えられている能力をパロに認められ、エジプトの総理大臣に任命されます。

ヨセフには子供が生まれます、名をマナセ(忘れる)です。もう一人生まれます名をエフライム(実り豊かな)です。今までの仕打ち、理不尽なことへの思いを捨て去り、忘れ、神にだけ感謝をささげたヨセフ。忘れ捨て去った時に、豊かな実りを与えられます。

私もこのことを覚えたいと思います。人から容姿や能力の低くさをからかわれたり、不当な扱いをされて軽んじられたりした時の心の傷、これをヨセフのように神にあって忘れ捨て去った時、実り豊かな祝福がやってっ来るのだと。

サタンの霊性では自分も悪を行っているのに相手に悪を行われたら相手の悪を忘れることができないので、真実の実りがないのだということです。これは私の中にもあるのではないかと思います。「愛は人のした悪を思わず・・・」と聖書にります。サタンには愛がありません。・・・愛することが足りない私も油断するとサタンの霊性になってしまっているのではないかと思います。・・・気が付いたらその都度、悔い改めて主の十字架を仰ぎ主の憐れみを求めるのみです。

口では・・・そうは言っても、なかなか許せないことがあります。そういう時は、自分の力で頑張ろうとせずに、まず許せない自分を自覚して、神に正直に祈ります。これが大切だと気が付きました。「私には許す力がありません、助けてください。私は貧しい心の持ち主です。とてもつらいです。私を殺してください、早くあなたの元に行きたいです。耐えられません。」とこんな過激な祈りをすることがありました。

詩編の作者ダビデもエリアも同じようなところを通った苦しみの足跡が聖書に記されています。彼らは神に向かって正直な祈りをしています。

私事ですが、具体的にリアルな生活でのことです。病気が続き仕事を辞めることになりました。しかし長い間の闘病生活の末、回復して仕事を探しに職安に行く時、年齢からも能力からもブランクもあり不安な状態でした。・・・しかし、自分の弱さを認め神を求めて祈ると神様が現れてくださいました。

主はご自身を現わして「安心しなさい、足りないものはみな、私に任せて。ただ広場では夜を過ごさないでください。」と精神的に主の覆いのある主の家に招き入れてくださいました。

就職してからも初めは分からない事だらけで周りに迷惑ばかりかけて辛い日が続きました。そんな不安な朝の出勤時に主は現れてくださり「私は一日中あなたとともにいる」と小さな御声で語ってくださいました。

神様が現れてくださると、聖霊様によって正確に主イエスの十字架の意味を知ることができます。不思議です。そのころ五旬節に力を得た初代教会の使徒たちがしていたあの祈りが残されていてそれが「詩編の祈り」だと紹介されました。私は就職する前、就職後も初めは毎日できる限り詩編を朗読することの多い「詩編の祈り」をしていました。

ことばにならない思いが、詩編を朗読することによって言葉となり素直に祈ることができました。そのうち忘れる力、許す力、耐える力を与えてくださいました。この時、「キリストへの懲らしめのゆえに私たちは平安を得」という聖書の言葉の深い意味を体験的に知ることができました。

39回先の尖った鞭でうたれ肉が裂け血がほとばしり苦しまれる主イエスの映像が見え、「主よ憐れんでください、私のための身代わりの懲らしめをごめんなさい、ありがとうございます。イエス様」と・・・何とも言えない涙があふれて、平安が与えられました。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。 マタイ5章3節

父なる創造主なる神様は、サタンが悪を行いこの世を混とんとした世界にしてしまっても、ご自身は悪に染まらずポジション(位置)を保ち、地の表を覆われておられました。このように、主は良きお方です。

私は理不尽な目にあった時、相手に仕返しをしたくなります。仕返しの仕方によっては自分も悪になり下がってしまいます。悪に染まらずポジション(位置)を保つ困難さを覚えます。悪と融合せずポジションを保つ神の崇高なご性質を思うと私たちの神様は素晴らしいお方なのだと知りました。こんな主を誇らしく思い、神の子供とされた恵みを感謝せずにおれません。

ポジティブは前向きという意味のイメージがあるのですが、ポジションから来ていると礼拝メッセージで聞いたことがあります。どんな悪にも染まらず負けず悪から距離を置いてポジション(位置を保つ)神様。それこそ真にポジティブなんだと。

これを聞いた時、私は喜びで神様を賛美しました。クリスチャンはこんな素晴らしい神様の子供とされているのだと。この私もこんな素晴らしい神様に愛する子と言われているのです。あなたもです。

1:1はじめに神は天と地とを創造された。 1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。創世記1章1-2

「おおっていた」は原語で、ポジションを保っていたという状態だと聞いたことがあります。

(hoveringヘリコプターが空中で停止した飛行状態にあること。空中停止。

このようにホバリングしてポジションを保っておられました。

始めの創造の世界は素晴らしかったのに、サタンが無茶苦茶にされたのですが、神は相手の悪に染まらず、ご自分の聖さを保っておられたのだと、礼拝で聴きました。

ご自分の造られた麗しい地が形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあるような悲惨な状況にされても、神は、怒りに任せたり空しい闇に融合せず、聖なるご性質を保っておられたのです。

何気なくあっさりと書かれている創世記の初めの箇所は、神様のご性質など・・・いろんな深い意味が含まれているのだなと知りました。

聖書の名言集 ペテロ第一の手紙2章

理不尽な目にあったとき、その場は大人の対応をしても、後々心に傷が残り「あの時あんなことされたんだ」と思い出すことがあります。どうしても思い出してつらい日、人の悪を思い許せない自分の貧しい心を自覚した時、聖書の名言集が支えてくれます。

先に召されて、私の周りに雲のように取り巻いている信仰の先輩方たちも同じように苦しみそれでも主に力づけられながら前に進み勝利者となられたのだと大使徒ペテロが語ってくれます。

長いのですが、つらい日には特に、ペテロ第2章をゆっくりとお読みになってください。キリストとともに自我が砕かれ、キリストとともに自己中心に死んだ者だけが味わいう事の出来る力強い復活の力を味わうことができます。

2:1だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、 2:2今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。 2:3あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。 2:4主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。 2:5この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 2:6聖書にこう書いてある、

「見よ、わたしはシオンに、
選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
それにより頼む者は、
決して、失望に終ることがない」。

2:7この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、 2:8また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。 2:9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。 2:10あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。

2:11愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。 2:12異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。
2:13あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、 2:14あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。 2:15善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。 2:16自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。 2:17すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
2:18僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。 2:19もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。 2:20悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。 2:21あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 2:22キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 2:23ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 2:24さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 2:25あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

聖書の名言集 神よりも他のものを頼ることが偶像礼拝

お花

 ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって罠となった。

2017年版(士師記8:27)

神様は、聖書のいたるところにみ心を現わされ、啓示を与えてくださっています。

エポデのことを学ぶと、とても恵まれ、神様の愛を感じられます。

エポデは神様が教えられた祭司の服の仕様でした。

しかし、

エポデを掲げて置いて、安心しきってしまうと危険です。

エポデにより頼んでしまうとギデオンとその家の失敗のように、その心の隙間から偶像礼拝が入り姦淫となります。私たちが礼拝し、より頼むお方はあくまでも主ご自身です。

もちろん礼拝に出席すること、献金する事、主と共に聖く生きることは大切ですが、

礼拝に出席しているから、献金しているから、ちょっとばかり外見では正しそうに見えるから、

そんなものにより頼み私は大丈夫だという高慢な思いでこれらを掲げること、

心から神様を愛するのではなく、宗教的儀式になってしまい、

人に見せるための俳優である偽善的行為になり、

それが偶像になり危険なのだと私は受け取りました。

コメント

  1. Hidemi より:

    職場で少し辛い目にあっていましたが、それとは別に宝石について調べていた所、こちらのサイトを見つけて思わぬ慰めと力をこの記事から頂きました。主なる神を賛美します。本当に素晴らしい記事を、ありがとうございます。

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