聖書の名言 出会い【英語有】マタイ6 偽善とは原語で俳優

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可愛い熊さん マタイの福音書

聖書の名言 出会い 【英語有】マタイの福音書6章

6章では、偽善、思い煩い、金銭欲などについて書かれています。

そして、有名な「主の祈り」があります。

 

ここでは、偽善について、見ていきたいと思います。

聖書の名言 出会い【英語有】マタイ6:偽善について

愛の花束

自分の善い行いを人に褒められたい為にするなら、偽善であり報いを受けられません。

6:1自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。(マタイ6:1)

Take heed that ye do not your alms before men, to be seen of them: otherwise ye have no reward of your Father which is in heaven.

 u`pokrith,j u`pokritai.    n-nm-p 名)主男複 偽善者、俳優

ギリシャ語では偽善者とは俳優という単語です。

人に見られることを望んで演じている行為です。

愛されている

宗教的になると、偽善である俳優になる罠にかかりやすいです。

祈り、礼拝の賛美(ワーシップ)、それぞれの奉仕は、人に向かってするのではなく、神に聞いていただくことなので、人に教え聞かせる祈り、いかにも霊的に見せる賛美、これは偽善です。

宗教的に俳優になってしまうことは、集会で前に出る奉仕者が陥りやすい罠です。

 

(ゴスペルのように良き訪れを証しする賛美は、福音の証を曲に乗せて宣べ伝える為

人に聞いてもらうことが動機になりますが、偽善ではありません。)

聖書を朗読すること、これすなわち祈りだと神学校の先生から学び感動しました。

否定的な言葉を口から発するより、み言葉が口から溢れた方が心は平安で満たされます。

たとえば祈りの時、聖句を覚えてなかったら聖書を開いて朗読してもいいと私は思います。

「主の祈り」は覚えるまでは誰もが朗読でした。

聖句をしっかり覚えてなくても、なんとなく心の中に残っているその聖句を引用して

心一杯主に向かって祈りたい思いがあるなら、

感動した聖句を思い出しながらのたどたどしい祈りでも、

聖書を手に取り朗読しての祈りでも、偽善ではないと思います。

そこで「カッコつけて立派な祈りをしなくていいのですよ」と皮肉って茶々を入れると、

その方はかえって祈れなくなります。

「祈ってますよ」と祈りが必要な人に声掛けすることも、偽善ではないと思います。

使徒パウロ達の書簡も所々に「あなた方の為に祈っています」と記してあります。

教会の姉妹の「祈ってますよ」の一言が、どんなに心強いことか、

「祈ってますよ」の声掛けは、私も相手の為に祈りたいと思える愛の連鎖が生まれます。

一週間ぶりに聖日礼拝の日にお会いした兄弟姉妹同士が、心一つになって共に祈りあうことは、人から見られていても、その動機が褒められるためではなく主に向かっているなら主が喜ばれる事です。

 

 

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また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

                          (マタイ18:19-20)

Again I say unto you, That if two of you shall agree on earth as touching any thing that they shall ask, it shall be done for them of my Father which is in heaven.
For where two or three are gathered together in my name, there am I in the midst of them.

カッコつけているわけではなく、心一杯を祈りで表現するとそのような祈りになるからです。

偽善かどうかは、神様に向かって行っているか、人に向かって褒められる為に演じているかだと思います。

病んでいる人の為の癒しの祈りは、人から見られていても、たとえ人から偽善と言われようが、主からの報いが欲しくて祈っているわけでもなく、ただ、苦しんでいる友の痛みを自分の痛みとして、信仰をもって主に癒しをお願いしていることなので、偽善だとは思いません。

偽善と、真実の微妙なところは、

裁き

 

本人と神様との間で吟味して自分の心を見張る必要があると思います。

また、もしも人からは偽善に映ったとしても、本人が神様に向かって真実ならば、偽善ではないし、人が何と言おうと神様は喜んでおられます。

神様は外見ではなく心を見られる方であることを心から感謝します。

神様はすべてご存じです。暗い中に隠れていること、心の中で企てられていることを正確にすべてを知っているわけではない私たちは、良いことも悪いことも先走って勝手に判断することは、裁きにつながって人を傷つけることになるのだろうと思います。

 4:3わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。 4:4わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。 4:5だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。(第一コリント4:5)

メッセージへの批判、賛美への批判、人の祈りへの批判、他人の奉仕への批判は、いくらでも出来ますし、もしかしてその批判は正論かもしれませんが、約束事を守らないこと以外のことで批判することがあるなら、批判に値する対象者以上の霊的な聖さと神様と同じ判断力を自分が持っていなければ批判する資格はないのではないかと思います。

それでもできるだけ批判を口から公に出すことは控えて、誰も見ていないところで、相手の為にとりなし祈る事が一番神様が喜ばれる事だとは思います。難しいですが。

人間なので、完璧ではないですから、どうしても必要な時は、しっかり祈ってから可能なら直接伝えるか、無理なら長老などの人を介して段階を踏んで、相手に分かるように伝える努力をするか、話し合いの場で伝える必要があると思います。

一時間のメッセージはできなくても、まず誰かに5分の福音の証をチャレンジすると、語ることの難しさを痛感します。

賛美も祈りも、奉仕も啓示も、すべてがそうなのですが、もっともっとと主を求めている人には、毎週の聖日礼拝だけでは物足りないものです。教会の礼拝は、たまに行く家族での外食のようなものです。

日々養われる健康的な食事は、日々の通読と主との直接の交わりの祈りです。

 

聖書を全て完璧に理解することは一生かかっても不可能です。

それですので、他の信徒や教職者が受けた啓示を分かち合っていただくことで目からうろこ状態が頻繁にありますから、積極的に取り入れたいと思っています。

現代は情報が溢れすぎて、逸脱したものもあるので、見わけの賜物、本質からずれない軸を持っている必要はありますが、ネットで、書籍で、膨大な情報があり、福音のメッセージも賛美も祈りも学ぶことが出来ます。

 

 

 

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証、分かち合い、賛美、礼拝、教会での交わりは新しい発見がありとても恵まれます。

また主イエスの十字架の恵みのすばらしさを共感しあえる信仰の友がいることは、この上ない幸せです。

日々の通読の時、ひどく感動することはなくて自覚がなくても、たとえその場は忘れても霊の中に蓄積されています。

そして、神様に礼拝し、感謝をささげつくすことは永遠に不可能です。

変な日本語になってしまいますが、永遠に主への感謝を捧げてもまだ足りません。

 

人前に出る奉仕の場合、偽善と、真実の行ったり来たり、反復幅跳び状態になっていることがないかを吟味する必要があります。祈る時も賛美する時も、奉仕に隠れて自己を示そうとする心がないか、一番に自分を見張りながら、ただ主の十字架を見上げて主の血潮に覆われて行うことが出来ますように、切に祈ります。

天についた時、「あの時の賛美、祈り、奉仕は自己顕示の為でしたね、ですから受け入れられていません。」と主イエスから言われるものが一つでもあったとしら、私はとても悲しいので、一つひとつの祈り、賛美、奉仕を大切に捧げていきたいです。

4:20わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
わたしの語ることに耳を傾けよ。
4:21それを、あなたの目から離さず、
あなたの心のうちに守れ。
4:22それは、これを得る者の命であり、
またその全身を健やかにするからである。
4:23油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。(箴言4:20-23)

施しをする時は

だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。(マタイ6:2)
 Therefore when thou doest thine alms, do not sound a trumpet before thee, as the hypocrites do in the synagogues and in the streets, that they may have glory of men. Verily I say unto you, They have their reward.
ラッパを吹きならすのは、貧しい人々を集めるための当時の風習です。貧しい人々を集めるという口実で、自分の行いを公表して自慢していました。
 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイ6:3-4)
 But when thou doest alms, let not thy left hand know what thy right hand doeth:
That thine alms may be in secret: and thy Father which seeth in secret himself shall reward thee openly.

ある教会の長老のお葬式の証をネットで見たのですが、

その方は、最大手の銀行の頭取だったそうです。

その方の遺産は、いたるところへ贈った献金の領収書の山だったと聞きました。

そんなに困った人を助けているとは家族も知らなかったようでした。

普段の教会生活は、困っている方に寄り添って、特別な感覚はなく、

普通の謙遜な紳士だったそうです。

天では、神様に喜ばれ、「友よ」と呼ばれ報いを受けられていることと思います。

 

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