永遠のベストセラー、名言集である聖書には、何気なく書かれているところにも大切なメッセージが隠れています。
「解釈は一つ、適用は無限」と言われる通り、
聖書のいたるところから生活や人生に適応出来るメッセージを受け取ることが出来ます。
事を隠すのは神の誉であり、
事を窮めるのは王の誉である。
(箴言25:2)
教会時代である現代では、主イエスの十字架の贖いを通して、神を知りイエス様を信じる私たち一人ひとりが神の宮とされ、王であり祭司として召されています。私たちは王の務めである神の豊かな宝を聖書から見つけ出していきたいと思います。
今回は律法学者とイエス様の会話から「従う者の覚悟」に関するメッセージを受け取ります。
目次
①聖書の名言集 イエス様から「メッセージ」を受け取る:従う覚悟
8:19するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。 8:20イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
(マタイ8:19-20)
律法学者はイエス様の教えを聞いて感動したのだと思います。だからどこまでも従っていきたいと本人は思っていたのですが、(彼がどんな困難にも耐えて日々十字架を負って従う覚悟がない)とイエス様は見抜きました。
それで、「私に従うということは枕するところもない放浪の生活になるけれど耐えられるのか」と試みられました。
枕する所とは頭を置くところです。頭を置いて、よりかかって安息を得る所です。
先日の礼拝のメッセージにもあったのですが、とても大切だと思うので紹介します。
ギリシャ語で、kli,naj 枕する(よりかからせる)と表されます。
信じる者達の一番の安息は主のみ心を行うことです。
同じ枕するが使われているところで次の個所があります
②聖書の名言集 イエス様から「メッセージ」を受け取る:イエス様の安息
すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
(ヨハネ19:30)
口語訳の「首をたれて」が新改訳で「頭をたれて」」となり
ここに、ギリシャ語の同じkli,naj 枕する(よりかからせる) という文字が使われています。
ここはキリスト自らが父なる神のみ心を全うして、平安を得られたことを示された個所です。
自分たちに適応すると神様のみ言葉を聞いてみ言葉を行うことが、み心を行うことです。
一生懸命頑張ってきたけれど、み心ではなかったと思える時は悲しくなります。
これが主のみ心だと確信を得て、み心を行えた時は、平安で満たされます。
それですので
その結果病気になろうとも、傍目から不幸に見えようとも、本人は不幸ではありません。
誰が何と言おうと、本人は人知をはるかに超えた不思議な平安で満たされています。
誰でもこんな経験があると思うのですが、私もこの経験があります。
介護職を希望し、祈り、
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
(マタイ25:40)
このマタイのみ言葉が与えられ、神様の為に何かしたいと思っていた私はこのみ言葉をしっかり握って介護職を希望していました。
預言の賜物を持った先生が教会に来られ、「あなたは介護職をするでしょう、そこで徳をつみなさい」と祈りの中で言われたのを聞きました。
やっぱりこの職業が神様のみ心の道だと確信して進みました。人の命に関わる仕事なので辛いことも沢山ありました。が・・毎日が楽しかったです。命について、人生とは、生きるとは、等、真摯に向き合って学べました。
でも、もともと弱かった足腰が悪くなり、職場に迷惑をかけることになったので、退職しました。
しかし、10年間働けたことを後悔していません。とてもいい経験を積めたことを逆に感謝しています。今までの歩みは、すべて無駄ではないと感謝できます。主のみ心の道を進むということはこういうことなのだと思います。ただ主の恵みなのだと感謝できることなのだと思います。
③聖書の名言集 礼拝メッセージから受け取る
今週の礼拝メッセージで、牧師先生も、み言葉と祈りと環境によって、ご自身が今に至っていることを証されました。
(今からする証しは、牧師先生本人に了解を得てお話しすることです。)
何度もお聞きしたメッセージだったので、なぜ今この時期に?とその場では先生の語られていることに、全面的にアーメン、ハレルヤと言えない私でした。
他の姉妹が礼拝後、「先生、祈ってみ心を求め従った証しを感謝します。」と言われていたのですが、(何この姉妹、天然なこと言っているのだろう? 先生は体調悪くしたのに!)・・・とその時はそう思いました。
と言いますのも、牧師職と、幼稚園園長の掛持ちを勧められた時の話です。
先生はすでに体調を悪くされていて、これ以上の多忙は無理だと本人も考えて一旦、断られていたからです。いったん断られたことで教会側は幼稚園とは無関係になったことを完全に了解しました。
しかし、その後すぐに先生は前言撤回して、幼稚園の園長を引き受けると言われました。これには教会側も混乱しました。
急遽前任の園長が退職されて、後任が決まらず、周りから牧師先生に何とかお願いしたいという風向きで、先生は断り切れないような雰囲気でした。
一度は断られたのですが、その後も、影でも面と向かってもお願いしたいという声は先生に届いていたと想像します。
そして、園長職につかれてからも、「体が辛い、忙しい、辞めたい」という先生の言葉を聞いていたからです。
無理に掛持ちさせられて可哀そうに、早く辞めていただき、少しでも楽になってほしいと私は思っていました。
そんな中で、牧師先生は神様からのみ言葉と賛美をいただいて、園長職を受け、続けることが神様のみ心だと知り決心されたのだと礼拝のメッセージでお話しになりました。
先生がその時、神様からいただいたみ言葉と賛美です。
エステル記4章14節
あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。
マタイ21章3節
主がお入り用なのです
賛美 「すべてに感謝しよう」
私はその日まで、押し付けられたのだと勝手に思っていましたが、誰に言われたからでもなく、神様のみ言葉だから従ったのだと改めて確認しました。礼拝のメッセージ再び本当にそうなのですね?と確認したところ、やはり礼拝のメッセージそのままが正直な先生の心で、神様の言葉に従ったのだということでした。
先生のお体の調子は相変わらず、あまりよくないのですが、午前中は幼稚園の仕事、午後からは牧会の仕事 聖日には、他の教会の牧師先生にも応援していただく日を入れて、礼拝のメッセージをされています。
礼拝のメッセージの声も、やっと出している感覚が伝わり、歩く姿勢も普通ではありません。それでもご本人の中には、不思議な平安があるのだと知りました。
ご本人も奥様も後任が決まるまでは教会の仕事もして、いずれ幼稚園の仕事一本にしたいとの希望なので、健康が支えられ、早く牧師先生の後任が与えられることを祈っています。
それですので、周りが、「体調のことを思うと、掛持ちを後悔しておられるのではないか」とか「無理やり押し付けられたからだ」とか考えて、先生を不幸だと思うのは、神様のみ言葉を信じ従っている先生に対して失礼なことを言っていたのだと知りました。
エジプトでヨセフが、兄弟たちに騙されてエジプトに奴隷として売られたことを、あなたたちのせいではなく、神のみ心がなったのだと言ったように、先生もこのことを証されました。
それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。
(創世記45:8)
進路、職業を選ぶとき、神様に素直に祈り、神にみ心を求め、み言葉を与えられ、み言葉を通して神のみ心を知り、環境が図らずも成立していくなら、それは神様からの進めというゴーサインだと思えます。
神様からのゴーサインが出たならもう、怖いものなしです。永遠の時を思うと、今、病気になったり、体調が悪くなったり、経済が落ち込んでいても、これも神様の後の祝福の為のプロセスと考えられます。
辞めるにしても、続けるにしても、進むにしても止まるにしても、なにも無理をする必要はないですが、他人がどう思おうと、それぞれに神様のみ心の道、平安の道を歩めばいいのだと思います。
その結果、辛さを他人のせいにはせず、喜びも他人の栄誉にせず、まして自分ではなく、神様に訴え、栄光は神にお返しすればいいのですから。
そして、どんなに祈って決断し、御心に従ったことでも、辛い時は辛いと神様に訴えればいいのだと思います。ダビデ王もそのようにして、神様の前に素直に心の声を打ち明けていました。
心に思うことを、そのまま語ることが出来、誤解せずに、しっかり聴いてくださる方がおられるということは何と感謝な事でしょう。
④聖書の名言集 メッセージを受け取る:黙示録から
「枕するところ」から、派生して、ここは重要なので分かち合います。
私達信じる者は王であり祭司として召されていますが。。。その時に、王として治めるのは、
実際に従った者です。
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
(黙示録20:4)
枕するのは頭です。自分の頭を取って、キリストを頭にしたものがその時には王であり祭司として、おさめます。
なんてグロい このサイト怖! (*_*; と思うでしょうか。
もちろん殉教された魂も指していますが。
ここは、日々、十字架を負って、自分の自己中心を十字架につけ、日々自分に死んで、自分を頭とせず、キリストの教え、み言葉を自分の頭として、み心を求めて行い、生きた者。自分の思いより、神様のみ言葉の教えを選び、従いとおした者ということが出来ます。
ヘブル語に近くなっている、2017年版では「イエスのあかしと神の言葉のゆえに首をはねられた人たちの魂」「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」とあります。
自分の考えや感情ではなく、イエス様のあかし(十字架)と神のみ言葉に(従うゆえに)、自己中心な思いよりも、イエスの思いを大切に、イエスに従った者です。
イエスのあかしをし、神の言葉を伝える人を証人と言えます。
証人とは殉教者という意味もあります。
それですので、証人となるということは、日々自己中心の自分の首をはね、殉教していくことです。
22:37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 22:39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 22:40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
(マタイ22:37-40)
王であり祭司として召された者ではなく、イエス様の戒めを信じ熱心に求め行った者た者が
その時、王であり祭司となり治めます。
⑤聖書の名言集 「メッセージ」:第一の復活にあずかる者は第二の死はない。
20:5(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。 20:6この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
(黙示録20:5-6)
首をはねられて自分に死んだ魂と、獣の刻印を押されなかった人たち以外は、第二の死でどうなるかわからないということですよね。
それならば、うとうと眠ったように、人を裁いたり、批判するだけの人生ではここに来れません。
批判して、自分が有利に立ち、人を従えさせて、あるいは、人に批判されて、従えさせられたことに、気分的に勝った負けた、傷ついたと言っている場合ではありません。
もう今から、主イエスの十字架を仰ぐより他、私には道は残っていないと思います。
なぜなら、自己中心の自分に死ぬことは、本当に至難の業だからです。
「律法学者は、枕する所がない放浪の生活をするほどの覚悟がなかったんだな」と・・
他人事のように言っている場合ではないのだと思います。
み言葉の剣を他人ではなく、自分に刺し通して、聖霊様に自分の心を判別する力をいただいて、
「悔い改めるべきは私です。」と告白し日々主の証人として殉教していくことが出来ますように。
日々、主イエスの十字架を見上げて生きていくことが出来ますように、切に祈ります。
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