聖書の名言集 証 分かち合い 貧富両者に必要な詩篇49篇の知恵

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ピンクのバラ 聖書 証 分かち合い 

聖書の名言集から 証 分かち合い すべての者が聞くべき知恵の言葉 詩篇49篇

愛の花束

人は非日常が起こると、ようやく忙しく優劣をつける世の波に我が身を丸投げしていたことを悟り

何のために死に向かって生きているのだろうかと客観的に自分の人生を思います。

そして、これはどんな境遇の中にあっても、命あるうちに悟らなければならないことなのです。

名言集の聖書から、詩篇49篇にある知恵は,老いも若きも、健やかなる時も病める時も

富める時も貧しい時にも地上で生きるあらゆる境遇の人々が聞くべき必要な知恵だと叫んでいます。

詩編そのものを味わってください。口語訳聖書です。

 

 

 

聖書の名言集 証 分かち合い :詩篇49篇

 

聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌

49:1もろもろの民よ、これを聞け、
すべて世に住む者よ、耳を傾けよ。
49:2低きも高きも、富めるも貧しきも、共に耳を傾けよ。
49:3わが口は知恵を語り、わが心は知識を思う。
49:4わたしは耳をたとえに傾け、
琴を鳴らして、わたしのなぞを解き明かそう。
49:5わたしをしえたげる者の不義が
わたしを取り囲む悩みの日に、
どうして恐れなければならないのか。
49:6彼らはおのが富をたのみ、
そのたからの多いのを誇る人々である。
49:7まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価を神に払うことはできない。
49:8 49:9とこしえに生きながらえて、墓を見ないために
そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、
それを満足に払うことができないからである。
49:10まことに賢い人も死に、
愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、
その富を他人に残すことは人の見るところである。
49:11たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、
墓こそ彼らのとこしえのすまい、
世々彼らのすみかである。
49:12人は栄華のうちに長くとどまることはできない、
滅びうせる獣にひとしい。
49:13これぞ自分をたのむ愚かな者どもの成りゆき、
自分の分け前を喜ぶ者どもの果である。〔セラ
49:14彼らは陰府に定められた羊のように
死が彼らを牧するであろう。
彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、
陰府が彼らのすまいとなるであろう。
49:15しかし神はわたしを受けられるゆえ、
わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ
49:16人が富を得るときも、
その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、
その栄えも彼に従って下って行くことは
ないからである。
49:18たとい彼が生きながらえる間、自分を幸福と思っても、
またみずから幸な時に、人々から称賛されても、
49:19彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。
彼らは絶えて光を見ることがない。
49:20人は栄華のうちに長くとどまることはできない。
滅びうせる獣にひとしい。
(詩篇49篇)

聖書の名言集 証 分かち合い 詩編49篇を読んで思うこと。




富める者、強者が物事を牛耳って、たいてい弱者を虐げます。
しかし財産により頼んで、富を誇る者を恐れる必要はありません。
彼らは多くの富を誇って、自分の持っているもを頼みとします。
旧約聖書の時代、富んでいる親戚が没落した人を買い戻す権利がありました。
死傷者の為に損害賠償を支払う律法もありました。
しかし、
兄弟さえも死んで「よみ」へ行った家族の為に、神への賠償金を支払うことはできないのです。
地獄に行ってしまった人の命は、永遠に諦めるほかありません。
人の命の代価は、高価すぎて、どんな大富豪も支払うことは不可能です。
限りある命の前には人は力無く、はかないものです。
死の海
知恵のある人も、愚かな野獣のような人も、平等に死は来ます。
墓へ富を持っていくことはできず地上で蓄えた富は、人の手に譲られます。
その土地を自分名義で登記しても、死人の住まいは永遠に墓です。
人は繁栄にとどまれず、滅びていく野獣と同じということです。
それが、自分が持っているものを頼みとする者の結末です。
そう聖書は語っているのです。
行き場である陰府(地獄)では、自慢の肉体美も美貌も消えてしまいます。
人の目から知恵あるように思える言動も育ちの良さも、外見の清さも、残念ながら役に立ちません。
人には分からなくても、本当の姿は神の目に明らかだからです。
しかし、主を頼みとする者には、神が受けてくださるから、
陰府(地獄)の呪いの力から 贖われます。(買い戻されます)。
それが新約の今の時代は主イエスの十字架に表されています。
それだから、人が富んで栄えても恐れる必要はないし、自分の境遇を見て卑屈になることもなく
妬むほどうらやむ必要もないのです。
主は、御心ならば、この地上の生涯でも再び祝福にあずからせてくださいますから。
ダビデ王も、そうでした。
人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。
われらは火の中、水の中を通った。
しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。
(詩編66:12)
主のご計画に沿って、その時は敗北者のようにその時の勝利者に屈服させられたように思えても
火のような試練や大水の苦難を通らされても、神様は、試練や苦しみの中から私たちを引き出され
必ず、心身が解放される安息と祝福に満ちた地に導き出してくださいます。
私自身もダビデ王のような試練ではないにしても経験があります。
人は何度かこのようなところを通ると思うのですが、暗く長いトンネルを抜けた時に見た光景は
いくつもの問題が依然として目の前にあっても、
主と共に耐え抜いた経験の故に、品性を鍛錬され
前よりも動じない感謝を表すことが出来ます。
身近にいる年長者達にも、「これくらいのこと、あの時に比べたら」と
もっと苦しい患難を幾度も耐え抜いた年輪のような、落ち着いた強さを感じることがありあります。
青空に浮かぶ十字架
人が死ぬときは何一つ墓に持っていけません。
栄えも、美貌も、知恵も、知識も、人からの称賛も そして富も 土地も、知名度も
努力して得た大きな功績もこれらを頼りにするものすべては、永遠にある滅びへの道、陰府(地獄)のまえには何の力もありません。
弱肉強食で食われて死んでいく野獣と同じです。野獣と同じだと、聖書の知恵ある名言は語っています。今うまくいっていないからと言って、悲観することはありません。人の目に脅威に見える差でも、神の目からはドングリの背比べです。
すべてがうまくいかなくて卑下したくなる時、神はどのように見てくださっているかを知り、どんなに私たちが価値ある存在なのかを忘れないで生きていくべきです。自ら死を選んではなりません。それは神が愛す者のを殺すことですから。
順風万番で知らず知らずに高慢になり、世の優劣に踊らされて人生の目的の本質がずれたまま、ただ流されて時が過ぎてしまったら、死が訪れた日に逆に危険だと覚えるべきです。
渡す

自分が死んだ後の地上の始末よりも、むしろ真剣に、自分の死後を考え悟ることが本当の終活だと聖書は叫んでいると思うのです。このことを悟ることが、真実の知恵であり、この知恵を受け取る時に非日常すら神の恵みとして幸いな者だと思え、感謝な気持ちになります。

自分の義、正しさ、力、自分が幾分誇れそうな何かを盾にして生きていても、限りある命の前では人の無力です。そのことに背を向けて、平和だ、安心だと流されて過ごしてしまって現実に死が来てから悔いても時すでに遅しだからです。

詩篇は、尊い知恵の花束を手渡してくれています。

49:15しかし神はわたしを受けられるゆえ、
わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。
(詩編49:15)
私の魂を陰府の力から贖われる主を知っている。
その力ある神に受け入れられている確信がある。
そう心から言えることが平安で実のある終活です。
ノアの 「苦しんだ分わかるよ」です。聞いてください。

ノアが発表してきた新しい賛美は、私たちを通して与えられただけで、すべての賛美は神様からクリスチャン全員に与えられた共有財産だと考えています。そのために、多くの人々が、もっと自由に賛美を使うことかできるように、1992年からSGM(Sharing Gospel Music)という、誰もが賛美を自由に使用、コピーできるシステムを提唱し始めました。現在、ノアのCDには、すべてSGMマークがついています。

 

 

このSGM(Sharing Gospel Music)マークのついた製品は、キリスト教教化の目的において、媒体、形態を問わず、自由に使用、コピーすることが法律上許可されています。

 

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