沈黙の中で働かれる神——創世記31章・第二サムエル16-17章・マタイ27章

通読

はじめに——ナツメヤシの根のように

ナツメヤシの木をご存じだろうか。中東の乾燥地帯に育つこの木は、その根を地下6〜9メートルもの深さまで伸ばすという。灼熱の太陽、乾いた大地。地上からは何も見えない。しかし地下深くでは、根が黙々と水脈を求めて伸び続けている。

私たちの信仰生活も、これに似ているのではないだろうか。神が沈黙しているように見える時、何も起きていないように感じる時——実はその時こそ、私たちの霊的な根は最も深く伸びているのかもしれない。

今日の通読箇所(創世記31章、第二サムエル16-17章、マタイ27章45-66節)には、「沈黙の中で働かれる神」という共通のテーマが流れている。

「天地が揺れ動いても、あなたの言葉は変わらない」——この賛美の歌詞が、今日の箇所と深く響き合う。


創世記31章:20年間、神は見ておられた

ヤコブは叔父ラバンのもとで20年間働いた。最初の7年はラケルのため、次の7年は騙されてレアと結婚させられた後のラケルのため、そして最後の6年は家畜のため。

その間、ラバンはヤコブの報酬を何度も変えた(31:7)。搾取され、騙され、不当な扱いを受け続けた20年間。神は何をしておられたのか? 沈黙しておられるように見えた。

しかし神はヤコブに夢の中で語られた。

「目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。」(創世記31:12)

「わたしが見た」——この一言に、どれほどの慰めがあるだろうか。神は沈黙しておられたのではない。すべてを見ておられた。そして最善の時に、ヤコブを守り、導き、ラバンが害を加えることさえ許されなかった(31:7)。

さらに神はラバンにも夢で現れ、「ヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と警告された(31:24)。追いかけてきたラバンの手からも、神はヤコブを守られたのである。


第二サムエル16-17章:嵐の中で神に信頼した王

ダビデの人生で最も暗い時期の一つが、息子アブシャロムの反乱である。自分の息子に王位を奪われ、エルサレムから逃げなければならなかった。

その逃亡の途中、シムイという男がダビデを罵り、石を投げつけた。

「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。」(16:7)

部下のアビシャイは「あの首をはねさせてください」と進言した。しかしダビデの応答は驚くべきものだった。

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(16:11-12)

これは諦めではない。神の主権への深い信頼である。神がこれを許しておられるなら、そこに意味がある。神は私の心を見ておられる——ダビデはそう信じた。

一方、アブシャロムの側では、アヒトフェルという知恵者が助言を与えていた。彼の助言は「神のことばを伺って得ることばのようであった」(16:23)とまで言われるほど優れていた。

アヒトフェルは「今夜すぐにダビデを追撃し、王だけを殺せ」と進言した(17:1-3)。軍事的には完璧な作戦だった。

しかし神は、ダビデの友フシャイを用いて、この計略を打ち砕かれた。フシャイは「まず全軍を集めてから攻撃すべきだ」と反対の助言をし、アブシャロムはそちらを採用した。

「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。」(17:14)

人間の目には、アヒトフェルの知恵が勝つように見えた。しかし神は、見えないところで歴史を動かしておられた。


マタイ27章45-66節:最も暗い時に響いた神の宣言

午後3時、イエスは大声で叫んで息を引き取られた。その瞬間、驚くべきことが起こった。

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(27:51)

神殿の幕は、至聖所を隔てる厚い幕である。そこには神の臨在があり、年に一度、大祭司だけが入ることを許された。この幕が「上から下まで」裂けた——これは人間の側からではなく、神の側からの行為を示している。

キリストの死によって、神と人との間の隔ての壁が取り除かれた。もはや大祭司を通さなくても、すべての人が神に直接近づくことができる。

「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」(ヘブル10:19)

地が揺れ動き、岩が裂けた——これは単なる自然現象ではない。神の子の死が、全被造物に影響を与えたことを示している。古い秩序が砕かれ、新しい契約の時代が始まった瞬間である。

この出来事を見た百人隊長は言った。「この方はまことに神の子であった」(27:54)。

十字架の上で、イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた(27:46)。神に見捨てられたという叫び。しかしその瞬間にこそ、神は幕を裂き、地を震わせ、墓を開いて——この死は終わりではなく、勝利の始まりであると宣言しておられたのである。


結び——沈黙の向こう側にある神の計画

今日の三箇所に共通するのは、神が沈黙しているように見える時にこそ、最も深く働いておられるということである。

  • ヤコブの20年間、神は見ておられた
  • ダビデの逃亡の中、神は計画を進めておられた
  • イエスの十字架の暗闇の中、神は救いを完成しておられた

神の沈黙は、無関心ではない。信頼への招きである。

ラバンへの介入が早すぎたら、ヤコブは12人の息子を得ていなかった。ダビデがすぐに勝利していたら、詩篇の深い祈りは生まれなかった。イエスがすぐに十字架から降りていたら、私たちの救いはなかった。

ナツメヤシの根が、見えない地下で6〜9メートルも深く伸びるように、私たちの信仰も、神が沈黙しているように見える時期に、最も深く根を張っているのかもしれない。

「天地が揺れ動いても、あなたの言葉は変わらない」——今日も、この変わらない御言葉に根を下ろして歩んでいきたい。

参考図解

コメント

タイトルとURLをコピーしました