— 父と子の物語から十字架へ —
目次
はじめに
今日の通読箇所は、創世記30章、第二サムエル14-15章、マタイ27章です。一見バラバラに見えるこれらの箇所に、一つの共通テーマが浮かび上がってきます。それは「父と子の関係」です。
ヤコブとラバン(義理の父子)の駆け引き、ダビデとアブシャロムの壊れた関係、そして十字架上のイエス。これらを通して、神が私たちの「顔」をどのように見てくださるのかを学んでいきましょう。
1. 創世記30章:ヤコブとラバンの駆け引き
ラバンの「まじない」— 混合的な信仰への警告
ラバンはヤコブに興味深いことを言います。
「私はあなたのおかげで、主が私を祝福してくださったことを、まじないで知っている」(創世記30:27)
ここで「まじない」と訳されているヘブライ語は נִחַשְׁתִּי(ニハシュティ)です。これは占い・予兆を読み取る行為を指します。語根は נָחָשׁ(ナハシュ)で「蛇」とも関連があり、古代近東では蛇は占いと結びついていました。
ラバンは「主の祝福」を認めながらも、それを異教的な方法で確認していました。彼の信仰は混合的(シンクレティズム)だったのです。後に彼の家にテラフィム(家庭の偶像)があったことも(31:19)、この背景を裏付けています。
これは今日の私たちへの警告でもあります。神の恵みを受けながら、それを自分の利益のために「管理」しようとしていないでしょうか?
ヤコブの繁殖方法 — 迷信か、神の主権か
ヤコブは皮をはいだ枝を水飲み場に置き、羊に見せることで毛色を操作しようとしました。科学的に言えば、これは古代の民間信仰であり、現代の遺伝学では支持されません。毛色は遺伝子によって決まるもので、親が何を見ていたかは関係ないのです。
では、なぜこの方法が「うまくいった」のでしょうか?
答えは創世記31章にあります。後にヤコブ自身がこう語っています。
「神があなたがたの父の家畜を取り上げて、私にお与えになったのです」(創世記31:9)
夢の中で御使いが言った:「目を上げて見よ。群れと交わっている雄やぎはみな、しま毛、ぶち毛、まだら毛である」(創世記31:12)
つまり、枝の方法自体に効果があったのではなく、神がヤコブを祝福されたから増えたのです。神は、ヤコブの不完全な方法を通してでも、約束を果たされました。
2. 第二サムエル14-15章:壊れた父子関係
アブシャロムの7年間の苦悩
アブシャロムの悲劇を時系列で追うと、その苦悩の深さが見えてきます。
妹タマルがアムノンに辱められる → ダビデは怒ったが、何もしなかった
アブシャロムが復讐でアムノンを殺す → 3年間の亡命生活
ヨアブの策略で帰国 → しかし2年間、父の顔を見られない
やっと会えた → しかしその後、謀反へ
合計7年間、アブシャロムは父の愛を確認できませんでした。
「顔を見る」(פָּנִים / パニーム)の意味
14:24でダビデはこう言います。
「あれは自分の家に引きこもっていなければならない。私の顔を見ることはならぬ」
「顔を見る」というのは、ヘブライ語で פָּנִים(パニーム)を使う表現です。これは単に視覚的に見るだけでなく、関係の回復、受容、赦しを意味します。神がモーセに「顔と顔を合わせて」語られたように、顔を見ることは親密さの象徴なのです。
ダビデがアブシャロムの顔を見ないと言ったことは、「お前を赦さない」「お前を受け入れない」というメッセージとして伝わったはずです。
14:33で最終的に和解し、「王はアブシャロムに口づけした」とありますが、それは5年遅かったのです。アブシャロムの心にはすでに苦い根が張っていました。
もしダビデが最初から息子を抱きしめていたら… これは親として、また人間関係において深く考えさせられます。赦しを遅らせることの代償は大きいのです。
3. マタイ27章:十字架での孤独
小さい者を叩く人間の罪
マタイ27:27-30を読むと、ローマ兵たちがイエスにしたことが記されています。
「彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた」(27:30)
この箇所を読んで、ふと怖くなりました。
人は、自分より小さい者、怖くない者、受け入れてくれる者に当たり散らすことがあります。親子であっても、友人であっても、師弟関係であっても、力関係があって、「小さい者」を叩いてしまう。
主イエスは本当は偉大な方なのに、小さくなられた。そして人間は勘違いし、何も知らずに主イエスの頭すら叩いたのです。
私自身への適用
私も同じことをしているかもしれない、と気づかされました。
ものに当たったり、いつも優しく受け入れてくれる家族に当たったり…。これは、モーセが岩を二度叩いたことに匹敵する罪なのではないかと思わされました。
モーセが叩いた岩はキリストの型でした(Ⅰコリント10:4)。岩を二度叩くことは、主の聖なることを民の前で現さなかった罪とされました。同じように、私の前で小さい者のように穏やかにしてくれている人に当たることは、主を打ち付けているのと同じではないでしょうか。
イエスはこう言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)
この御言葉が、十字架の場面とリンクしました。ローマ兵が主イエスの頭を叩いたように、私も「最も小さい者」を叩いていないだろうか。そして、その「最も小さい者」とは、主イエスご自身なのだと。
深く悔い改めさせられました。
立場が逆転したとき
そして同時に、こうも思いました。
もし自分がある人の前で反対の立場になり、「小さい者」として当たられる側になったとき、自分もかつてそうだったことを思い出し、「この人は今、困っているんだな」と受け止められたらいいなと思います。
怒りを返すのではなく、相手の痛みを想像する。それは、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです」と言われたイエスの姿に通じるものがあります。
十字架での完全な孤独
マタイ27:27-44で描かれるのは、完全な孤独です。
兵士たちにからかわれ、群衆にののしられ、祭司長たちにあざけられ、そして強盗たちにさえののしられている。誰も弁護する者がいない、完全な孤立。
十字架上のイエスは、まさに「最も小さい者」となられました。蔑まれ、見捨てられ、価値がないと見なされた方。
そしてこの十字架は、「御顔を見られない状態」を終わらせるためだったのです。
4. アロンの祝福 — 願望から成就した現実へ
民数記6:24-26のアロンの祝福では、「顔」(パニーム)が二度出てきます。
יָאֵר יְהוָה פָּנָיו אֵלֶיךָ
(ヤエル・アドナイ・パナーヴ・エレイハ)
「主がみ顔をもってあなたを照らし」
「照らす」(אוֹר / オール)は光の語根です。神の顔が向けられるとき、そこに光があるのです。
יִשָּׂא יְהוָה פָּנָיו אֵלֶיךָ
(イッサー・アドナイ・パナーヴ・エレイハ)
「主がみ顔をあなたに向け」
「向ける」(נָשָׂא / ナーサー)は「持ち上げる」という意味です。神が顔を持ち上げてこちらを見てくださるのです。
反対の状態:顔を隠す
反対に、神が顔を隠す(סָתַר / サータル)とき、それは裁き、断絶、見捨てられることを意味します。
ダビデの祈り
詩篇27:8-9でダビデはこう祈っています。
「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を、慕い求めよ』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。どうか、御顔を私に隠さないでください。」
興味深いことに、ダビデはアブシャロムには自分の顔を隠したのに、神には「顔を隠さないでください」と祈っていました。人間としての弱さと、神への渇望が同居している。それがダビデという人物の正直さだと思います。
十字架による成就
イエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとき、御子は父の顔が隠される経験をされました。
それは私たちが経験すべきだった断絶です。
その瞬間があったからこそ、今、私たちはアロンの祝福を自分のものとして受け取れるのです。
「主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように」
これはもはや願望ではなく、キリストにあって成就した現実です。
結び:主の御顔を慕い求める
今日の三つの箇所から、「関係の修復を遅らせてはいけない」ということを学びます。
ダビデとアブシャロムの悲劇は、早期の和解があれば避けられたかもしれません。私たちの人間関係でも、赦しを遅らせることで、苦い根が育ってしまうことがあります。
そして同時に、私たちがどれほど関係を壊しても、神は修復の道を開いてくださるということも学びます。
十字架は、神と人との間の「顔を見られない」状態を終わらせるためでした。
「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)
神は私たちの不完全さの中でも働かれます。しかし、それは不完全なままでいいということではなく、恵みによって成長させてくださるということです。
主の御顔を慕い求めます。
アーメン
—
今日の通読箇所:創世記30:25-43、第二サムエル14-15章、マタイ27:27-44
【図解で振り返る】
聖書を読んでみませんか?
今日ご紹介した話は、聖書の創世記30章、第二サムエル14-15章、マタイ27章に書かれています。
1000年の時を超えて繋がる物語 ― こんな発見が、聖書にはたくさんあります。
興味を持たれた方は、ぜひ聖書を手に取ってみてください。
▼ おすすめの聖書はこちら


コメント