彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
(黙示録19:13)
血染めの衣とは私たちの罪を許すために身代わりに十字架にかかられた時に流された主イエスの血潮です。十字架の愛を表しています。
世の終わりまでを示す黙示録でも当然私たちの主、十字架の主イエスがいてくださり、語ってくださいます。
そして、神の言なる方、十字架の主イエスは、創世記のはじめからおられました。詳しくは聖書とは?・・・の投稿にあります。 ↓
1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2この言は初めに神と共にあった。1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
初めてヨハネの福音書を読んだとき、不思議な文章で、なんだか深いことを語ってそうなのだけど、難しく思えました。
私もです、でも 聖書通読を続けているうちに
言 と命 そして光が イエス様のことだと知って、
目が開かれたように、聖書の名言が私に語ってきました。
深い内容で、噛みしめて反芻するほどに新しく味わえます。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
光があるところでは足元の危険から免れ、道に迷わない。
神は暗闇のある所で光あれと言葉を発したように、
希望を見いだせる光あれと、知恵を見いだせる光あれと
光であられる主と交わり、感化を受けて、
闇ではなく愚痴ではなく、希望の光を口から発していきたい。
僕はそう聖書から教えられました。
すべての人向けに書かれたヨハネの福音書だから、だれでも分かるはず、日曜学校の子どもさんにも理解できるように伝えたいと思って工夫するのですが、ここしばらくは難しいです。もしかすると、子どもさん達の方が、案外すんなり受け取っているかもしれません。
ヨハネは、未信者に主イエスを伝えるためにも、
また、信者を励ますためにも書かれているから、深いところで励まされます。
初めて聖書を読む人にも伝わるように僕たちの足りないところを知恵と啓示の聖霊様が補ってくださるよう祈りつつ紹介します。前回2節まで進んだので、3節から詳しく見ていきます。
前回はこちらです。↓
目次
①聖書の名言集 ヨハネの福音書 1章3節 英語有 イエス様は創造者
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すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
(ヨハネ1:3)
イエス様が宇宙の創造の時おられたことがここに書かれています。父なる神様と一緒に創造の働きをしておられました。他にイエス様が天の父なる神様と共に世を創造されたことを裏付ける聖書箇所を紹介します。
もろもろの天は主のみことばによって造られ、
天の万軍は主の口の息によって造られた。
(詩篇33:6)
主のみことばとはイエス様のことを言っています。
御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
(コロサイ1:15)
御子(みこ)とは神の御子でイエス様のことです。
万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
(コロサイ1:16)
二千年前に処女マリアからお生まれになった時、人間の姿となって地上に来てくださったたのですが、世界を創造する時にすでにおられたということです。
それですので、現在私たちがお祝いしているクリスマスよりずっと以前にイエス様はこの世界に存在されたということです。
すべて私たちの愛するイエス様によらないで造られたものは、一つもなかったのです。
私達もイエス様よって、愛である父なる神様のみ手によって造られました。
私達は偶然に出て来たわけではなく神様が愛のご計画を持って、とても良く造られました。
私達はこの神様によって造られた者です。とても尊い存在なのです。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
(創世記1:31)
はなはだ良かったと、別訳では「非常に良かった」と記してあります。僕もあなたもすべてのものは神様が感動するほど尊い存在として、とっても良く造られたのです。
私は神様によって愛を込めて造られたと知った時、「私なんて (._.) 」とか、思わなくてよくなりました。誰が何と言おうと、私は、そしてあなたは、神様に初めから愛される大切な存在として生まれたのですもの。
②聖書の名言集 ヨハネの福音書 1章4節 命
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
(ヨハネ1:4)
この命はギリシャ語で「ゾーエー」と発音する神様の命をさすことばです。
これからヨハネの福音書を読み進めていくと出てくる
「命のパン」「生ける命の水」などです。
命はキリストからの贈り物です。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
(ヨハネ10:10)
キリストご自身が命で、真の命はキリストの中に肉体的な形で表され、
キリストとの個人的な関係によって体験できることです。
イエス・キリストは地上に肉体を持って生まれて下さり、十字架で死なれ、葬られ、死人の中からよみがえって今は復活の体で天におられますが、祈りや聖書通読のなかで、個人的に交わりを持つことによって、聖霊様が助けてくださって体験できるということです。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
(ヨハネ16:6)
言葉といわれる方である、御子のうちに命があるので、
御子であるイエス様は、信じる者に永遠の命を与えることができます。
③聖書の名言集 ヨハネの福音書 そしてこの命は光です。
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ヨハネの福音書が書かれたのは起源85年~100年あたりだとすると、起源70年以降なのでエルサレムがローマ軍に支配され、ユダヤの人々のよりどころであったエルサレムの神殿が破壊された後にヨハネの福音書が書かれたということです。
その暗闇の時代に、弟子たちが伝えたキリストの光は、どんなにか人々の心を照らしたことでしょう。
立派で、崩れようがない神殿だったけれど、預言の通りに壊されてしまった神殿。
その神殿の石の上に石が残されないほど破壊されるとは、預言の成就の日まで誰が理解できたでしょう。
エルサレムはローマ軍により包囲され、火災があり、神殿の金が解けました。解けた金が石と石の間に流れ込んだため、ローマ軍は解けた金を一生懸命採取したので、石の上に石が残されないほど破壊されました。ローマ軍はそこまでしなくても彼らを支配することは可能です。イエス様の預言にあるように石が石の上に残らないほど破壊されるなんてことは当時の人々にとって、信ぴょう性に欠けたと思います。しかし、金を目当てなら人はそこまでします。かくして、主イエスの預言はこんなに細かいところまで成就されていきます。
↓
19:41いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、 19:42「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。 19:43いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、 19:44おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。
(ルカ19:41-44)
そして預言の通りに壊された神殿が、三日で建て直されもう決して壊されない希望の光である神殿が起こされました。
イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
(ヨハネ2:19)
↑
これは地上の建造物である神殿のことではなく、主イエスが、私達の罪の身代わりに十字架にかかり、私たちの罪の代価を完済され、死んで葬られ、三日目に死人のうちより、よみがえったこと、力ある主イエスの事、復活の体のことを話しています。
信じる者たちには、主イエスが来られる日に、この死とよみに打ち勝つ復活の体を与えられます。
↓ 死に打ち勝つ希望はここに詳しく書かれています。
「死」という人生最大の難問がここで解決されてます。
信じる者には希望があります。光があります。命があります。これはたとえ話ではなく、比喩でも、擬人法でも、おとぎ話でもなく、現実のことです。
信じる者には永遠の命が与えられる約束があるので、
現実に問題が解決されました。
ハレルヤ アーメン!!!
ヨハネの福音書は、難しく受け取るより、細かいですが一つ一つそのまま字義通り受け取ると、深い奥義が内にしみ込んできます。
1:4これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。1:5わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
④聖書の名言集 ヨハネの福音書 1章5節 光
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
(ヨハネ1:5)
ここで光や闇の中に輝いていると現在進行形で語られています。
光と闇は対等の力ではなく、光が圧倒的に勝利しています。
そして救いの光は過去の出来事ではなく、今もなお勝利して輝いています。
それは私たちではなく、キリストにこそ満ちています。
キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
(コロサイ2:9)
御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
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