マタイの福音書 出会い 【英語有】マタイの福音書5章
若い頃、洋菓子店で働いていましたが、実家に戻らなくてはならなくなって退職しました。
退職しても上司と交流を持つことが出来、返信はなくてもいいですからと言って
このマタイの福音書を少しずつ手書きで書いて郵送していました。
しばらくすると、凄腕のパティシエである上司が奥様とお子さんも連れて私の家まで訪ねてくださって、
「お手紙ありがとう、とても高尚な物語ですね。娘さんは作家になる素質がありますよ。」
と言って私と私の両親に伝えてくださいました。
「実は聖書のマタイの福音書を写していたのですよ。」と伝えると、
「これが聖書ですか、ものすごく気高い教えですね、そうだったのですね。」
とご夫婦で感動されていました。
マタイの福音書は、神の国のことを伝えているのですが、
神の国の価値観は、この世のものとは違う、気高い品性があります。
私も素朴に、神の国の価値観のすばらしさ、イエス様の高い品性に出会い感動した一人です。
目次
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ5章 山上の垂訓とは
マタイの福音書5章には「山上の垂訓」と呼ばれている有名な教えが出てきます。
山上とは険しい山というより小高い丘、緑の牧場のような所だと私は想像します。
緑の草の上に腰を下ろしてイエス様が、この世の常識を超えた神の国の価値観を伝えられます。
この時代は、先生が座って弟子に教えていたそうです。
詩編23篇はこの時のことを表していると言われています。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。(詩編23:2)He maketh me to lie down green pastures: he leadeth me beside the still waters.
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。(詩編23:3)He restoreth my soul: he leadeth me in the paths of righteousness for his name’s sake.
弟子たちは特別に主の教えを求めている者たちなので、主イエスのみもとに少しでも近くよく聞こえる場所に近づいて、熱心に聞いています。
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
(マタイ5:1)
And seeing the multitudes, he went up into a mountain: and when he was set, his disciples came unto him:
そこで、「旧約聖書の律法で語る義とはどういうことか」そして「神の国の価値観」「神の国の住民の品性」などをメシア(救世主)であられる主イエスご自身によって解釈されます。
「山上の垂訓」は、おもに信じ従っている人向けに現在でいえばクリスチャン向けに語られています。
この主イエスの教え(山上の垂訓)をきっちり守り行えば、救われるのだと言われているのではありません、この教えは旧約聖書の律法よりさらに水準が高く、内面的な思いや動機にまで及びます。
素晴らしいと感動しますが、完全に守り行うことは人の力では不可能です。このことを黙示録でこう表現しています。
わたしは御使の手からその小さな巻物を受け取って食べてしまった。すると、わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。(黙示録10:10)
And I took the little book out of the angel’s hand, and ate it up; and it was in my mouth sweet as honey: and as soon as I had eaten it, my belly was bitter.
聖書の言葉は名言の塊です。
口には甘く腹には苦い (素晴らしい教えだと思い感動するけれど、よくかみ砕いて理解し実行するには難しい教え)
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。(マタイ5:2)
And he opened his mouth, and taught them, saying,
主イエスが私の身代わりに十字架で死んで罪を赦してくださったことを信じた人は、信じた時に神の国とその義を得ていますが、まだ救いの達成はしていません。
クリスチャンは成長の過程にあります。神様を信じると内におられる聖霊様によって、罪に敏感になって、罪を犯すとその都度、悔い改めに導かれ主に助けられ成長していきます。
神の基準は、自分の努力で頑張ると出来ない自分を裁き、出来てない人を裁き、それぞれの正義のぶつかり合いになってしまい、到底到達できない基準になります。
(聖書の名言 努力 バランス) でお話ししましたので具体的にはこちらをご覧ください。
↓
(聖書の名言 努力 バランス3)
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ ①貧しい者は幸いです
ノア 祈りvol.4「心の貧しいものは幸いです」 という曲です。
イエス様の周りに集まった人たちは、自分の内面的な貧しさ、足りなさを自覚して、
自分の正しさ、自分の義によってではなく、神の義により頼んでいました。
このように神を信じ神の義により頼む人々を見て、主イエスは、「幸いな人よ」と言われました。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。(マタイ5:3)
Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.
それですので、一般的に心が貧しい人とは、寛容な心でない人のことを言いますが、主イエスはそのことを言っているのではありません。
自分の方が正しいとして、自分の正義感を盾にしている間は気づけません。
プライドが自分の本当の姿を知るために邪魔をしていることがあります。
自分の愛のなさを発見し、利己的な思いを取り除けたいと思っているにもかかわらず分かっていながら、いきなり来る問題に対して今回も主イエスに習うような言動を行うことが出来なかった。
隣人の思いを大切にするより、自分のプライドや保身を大切にしてしまう。相手に譲ったり我慢をすると、ものすごく損をした気持ちになる。
そんな時、相手に舐められたような思いにさえなって悔しい思いを引きずります。
そんな貧しい罪人だと自覚することがしばしばです。これは私自身のことを言っています。
しかし、主イエスは自分の正しさ、義によってではなく、
神の義により頼む人は幸いですと言われています。
神の義は今の時代は主イエスの十字架に表されています。
神の国は今の時代では、自分の貧しさに気が付いて落胆しそうな時、主イエスの十字架の愛を思い出し、その力により頼む人のものです。愛の神で支配され、神の力ある臨在で満たされた国はその人たちのものだと主イエスは言われています。
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ ②悲しんでいる人は幸い
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。(マタイ5:4)Blessed are they that mourn: for they shall be comforted.
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ ③柔和な人は幸い
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。(マタイ5:5)Blessed are the meek: for they shall inherit the earth.
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ ④義に飢え乾いている人は幸い
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。(マタイ5:6)Blessed are they which do hunger and thirst after righteousness: for they shall be filled.
ノアが発表してきた新しい賛美は、私たちを通して与えられただけで、すべての賛美は神様からクリスチャン全員に与えられた共有財産だと考えています。そのために、多くの人々が、もっと自由に賛美を使うことかできるように、1992年からSGM(Sharing Gospel Music)という、誰もが賛美を自由に使用、コピーできるシステムを提唱し始めました。現在、ノアのCDには、すべてSGMマークがついています。
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聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ ⑤哀れみ深い人は幸い
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。(マタイ5:7)
Blessed are the merciful: for they shall obtain mercy.
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ ⑥心の清い人は幸い
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。(マタイ5:8)Blessed are the pure in heart: for they shall see God.
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ ⑦平和をつくる人は幸い
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。(マタイ5:9)Blessed are the peacemakers: for they shall be called the children of God.
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ ⑧義の為に迫害されるものは幸い
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。(マタイ5:10)Blessed are they which are persecuted for righteousness’ sake: for theirs is the kingdom of heaven.
主イエスに、真剣に従う時に迫害はつきものです。日本では、八百万の神と言われ、鰯の頭も信心からといって、なんでも拝んでいますが、聖書を読んでから、偶像は礼拝してはいけないと知り、拝まなくなりました。それからです、親しい家族からの反対が起きたのは。
日本では現在、迫害はありませんが、秀吉の時代や家康の時代、第二次世界大戦のあった時代には激しい迫害がありました。
その時代に日本でも多くの殉教者を出しました。
海外では、現在も信じられないような強い迫害が起こっています。
それでも不思議に人々は主イエスを信じ受け入れ、かえってどんどん救われていると聞きます。
キリスト教は、いつの時代も逆境の時に強いのですね。
それは、自分の力ではどうにもならないと思い知ってようやく、
神の力により頼むようになるからなのだろうと思います。
まだまだ神の義に真剣により頼んでいない私がいるのだと思います。
海外の方の話を聞くと、悔い改めに導かれます。
主イエスの「山上の垂訓」は7章まで続きます。
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