聖書の名言集から「努力」「委ねる」バランスNo1では、
医療、防災、勉学 仕事についての努力を取り上げました。
今回は、信仰に対する努力について、普段から微妙なバランスがあると感じられていたので、
信仰と行いについて今まで学んだことを元に
聖書ではどう言っているのか、祈りつつ調べてみました。
その中で、私が受け取ったことをあなたに分かち合います。
№.1の投稿と同じく、これは私が与えられた答えであり、
これが絶対だ、すべての人、すべての状況に当てはまる、とは考えていません。
聖書の著者であられる聖霊様が、詳訳聖書では「善い性質」「高尚」
新改訳では「素直」と記述して褒める人たちの行動である、
「自分自身で聖書を確かめること」をしたベレヤの人々のように、
聖書を確かめ、祈り、み言葉を受け取るときの参考にしていただければ幸いです。
クリスチャンではないあなたには、こういう考え方をする人がいるのだと
知っていただければ幸いです。
目次
- 1 イエス様を信じ救われたから、後は努力しなくていいの?ありのままでいい?ただ信じれば、何をしてもいい?聖書の名言はどう言っているの?
- 2 愛する努力とはどんなことか、今想像するだけでもたくさんありますが、
- 3 イエス様の戒めは、互いに愛し合うことです。
- 4 信じる者は、主イエスの業を行い 主イエスが行う業よりさらに大きな業を行うようになると聖書に約束されています。
- 5 「人にはできないことも神にはできるのです」と言って希望を与えてくださっています。
- 6 だからあなたも頑張りなさい努力しなさいとパウロも励ましています。
- 7 パウロは救いの達成に努めなさいと言っています。
- 8 主は愛する者に眠りをくださる 時には無理せず休みましょう
イエス様を信じ救われたから、後は努力しなくていいの?ありのままでいい?ただ信じれば、何をしてもいい?聖書の名言はどう言っているの?
ただ信じれば何をしてもいいの?という問いに対して、
信じているのに、行いが伴わないことを聖書でこう語っています。
ヤコブの手紙2章26節
霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
【KJV】
Jam
2:26 For as the body without the spirit is dead, so faith without works is dead also.
心にみ言葉が突き刺さります。
信じているのに、隣人を自分のように愛する行いが出来てないではないか?と
行いのない信仰は死んだものだ、すなわち信仰がなくなっていると言っていると思います。
愛する努力とはどんなことか、今想像するだけでもたくさんありますが、
一つ身近なことで、思い浮かんだことを紹介します。
(上記の絵は、赤ちゃんトカゲを守るお母さんトカゲです。息子が小学生の時に制作しました。親バカなのですが、色彩が綺麗で、ストーリー性があり、優しさが伝わる絵だなと思っています。本人に了解を得て載せました。)
マタイの福音書7章12節
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。
これが律法であり預言者である。
【KJV】
Mat
7:12 Therefore all things whatsoever ye would that men should do to you, do ye even so to them: for this is the law and the prophets.
主イエスは人のしてほしいと思うことをしなさいと言われましたが、
私なら、どういう風に愛されたいか、何をしてほしいのか、
それは、私の話をじっくり聴いてほしいと思います。
そして共感しあいたいと。
それですので、相手の立場になって話をしっかり聞くことも私は愛することだと思います。
相手の身になってじっくり聞かず、中途半端に聞いて結局、
相手の言われたことと正反対のことをしていたら、
話を聞いているとはいえず、愛しているとは言えないな・・・と私は思うのです。
子育て時代に、忙しい時でもお構いなく話しかけてくれる子供の話を上の空で聞いて、
よく聞いていないから、子どもから頼まれたことの正反対の行動をしていたことがありました。
これでは、子どもは、「もうお母さんには話さない。」と思っても仕方ないかなと思うのですが、
「人間だから間違うよ、忙しいから仕方ないよ」と言ってくれたり、
私が忙しそうな時は、「今はお母さん忙しそうだから静かにしよう」
と兄弟二人で小声で話しているのが聞こえました。
子どもは健気で、いじらしいです。
忙しそうにしている私を気遣って、そっとしておいてくれて、
時間が出来て話を聞いてあげると、とても喜んで可愛い笑顔を見せてくれるのです。
そして、できるだけ長ーく話を聞いてほしそうに、話を引き延ばします。
保育園にお迎えに行くと、たとえ時間が遅れていても、
毎回、喜んで私の胸に飛び乗って、抱っこされに来ます。
子どもにとって、母親は、ある時期までは恋人のような存在なのだと
子育ての本で読んだことがあります。
何とか育ってくれましたが、本当に申し訳ないと思いました。
話をきちんと聞くという愛の行為が、自分の子供にさえできてないことがあるのに、
他の方にできているかと言えば、疑わしいものがあります。
他の個所では
ヨハネの福音書3章36節
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
King James Version
Joh
3:36 He that believeth on the Son hath everlasting life: and he that believeth not the Son shall not see life; but the wrath of God abideth on him.
御子(イエス様)を信じる者=永遠の命を持つ
☟
御子(イエス様)に従わない者=命に預かることがない
↓
このみ言葉は、信じる者=聞き従う者である と示しています。
イエス様を信じる者は、イエス様の戒めに聞きき従う者です。
イエス様の戒めは、互いに愛し合うことです。
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ヨハネの福音書13章34節
13:34わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
King James Version
Joh
13:34 A new commandment I give unto you, That ye love one another; as I have loved you, that ye also love one another.
13:35 By this shall all men know that ye are my disciples, if ye have love one to another.
主イエスを信じていると言うことは=主の戒めを守り互いに愛し合っている
ということになります。
ところが愛し合うこと、それが難しいのです。
マタイの福音書7章12節
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。
これが律法であり預言者である。
【KJV】
Mat
7:12 Therefore all things whatsoever ye would that men should do to you, do ye even so to them: for this is the law and the prophets.
互いに愛し合うと言うことが律法と預言者だと言っています
律法はみ言葉を象徴します。預言者は祈りを象徴します。
み言葉は真を象徴し、祈りは霊を象徴します
それですので、互いに愛し合うことは、霊と真をもって礼拝することになります。
なにも教会で賛美礼拝をしている時だけが、礼拝ではないということです。
人が望むことを行う愛の行為はこれすなわち、霊と真をもって礼拝することだということです。
霊と真をもって礼拝することができる主イエスを信じている者には、永遠の命もありますが、
信じる者は、主イエスの業を行い 主イエスが行う業よりさらに大きな業を行うようになると聖書に約束されています。
ヨハネの福音書14章12節から15節
14:12よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
14:13わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
14:14何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
14:15もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
King James Version
Joh
14:12 Verily, verily, I say unto you, He that believeth on me, the works that I do shall he do also; and greater works than these shall he do; because I go unto my Father.
14:13 And whatsoever ye shall ask in my name, that will I do, that the Father may be glorified in the Son.
14:14 If ye shall ask any thing in my name, I will do it.
14:15 If ye love me, keep my commandments.
ここでははっきり、主イエスは私を愛するなら私の戒めを守るべきであるとおっしゃっています。
それほど、互いに愛し合うようにと、愛する主イエスは私達に熱望されています。
今、これを書きながら、愛のない自分を申し訳なく思っています。
悔い改めて、兄弟姉妹をありのまま愛そうと思います。
主イエスが、ありのままの私を愛してくださったので、
私も兄弟姉妹を主イエスの愛をもって愛したいです。
聖霊様愛する力をください、と切に願い求めます。
自分の力では、主イエスのような真実な愛で人を愛せないことを自覚しているので、
これが努力なのだとは偉そうに言えない私です。
だから長年信仰生活をした人は口々に「努力しなくていい」と言う人がいるのです。
人間とは、自分の為にしているような努力しかできない者だと痛感しているので。
自分の力でと言うより、聖霊様の力で、神様と共に、隣人を愛していこうと言う意味で、
自分で隣人を愛する努力はやめて、自分の力で隣人を純粋に愛することは無理だということを、もういい加減に見極めて、
自分の力で頑張らないで、力まずにゆったりと構えて、神様の助けをいただこう。
だから自分の力で力んで努力しなくてもいいということを信仰の先輩方は言っているのです。
自分の口の言葉を制御出来て、愛の言葉だけを発音し、互いに愛し合えたら、
いつも霊と真をもって礼拝する生活ができていたら、
主イエスは、ものすごい祝福を用意してくださっていると聖書に書いてあることが
分かっていても・・・できない者です。
つい陰口、不満が口から出ます。その人のいない場で、その人の悪いところを人に訴えることは陰口ですから。これは愛の行為とは言えません。これはサタンの得意とする行為です。この時点で神の子ではなく、サタンの、悪魔の子に成り下がっているのです。
それですので、主イエスの赦しの十字架、罪の贖いの十字架がなければ、
生きていけない者だと、信仰生活を続けるほどに自覚する者です。
ある先生のメッセージで、
「信仰が増せば増すほど、聖書を読めば読むほど、
自分の貧しさを自覚して、
十字架無しで生きていけないことを自覚するのは
正常な聖書の読み方をしているのです。」
という風にお聞きして、心底、ホッとしました。 (#^^#)
それをお聞きしてから、自分の貧しさを自覚する時、
そういう時にこそ私は逆に感謝を選び取ることにしました。
自分の貧しさを知った時、十字架だけが私の誇りだと思えるからです。
ルカの福音書6章20節
そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
そして、主イエスは、難しい戒めを与えっぱなしではなく、
「人にはできないことも神にはできるのです」と言って希望を与えてくださっています。
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ルカの福音書18章25節
18:25富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
18:26これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、
18:27イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
King James Version
Luk
18:25 For it is easier for a camel to go through a needle’s eye, than for a rich man to enter into the kingdom of God.
18:26 And they that heard it said, Who then can be saved?
18:27 And he said, The things which are impossible with men are possible with God.
希望があるから、一歩ずつでも、踏み出そうと思えます。
初代教会の使徒達は、一歩ずつとは言わず、今行われているオリンピックの選手のように、
立派に走りぬいて、栄冠が待っているばかりだと言っています。
だからあなたも頑張りなさい努力しなさいとパウロも励ましています。
第二テモテへの手紙4章7節
4:7わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
King James Version
2Ti
4:7 I have fought a good fight, I have finished my course, I have kept the faith:
4:8 Henceforth there is laid up for me a crown of righteousness, which the Lord, the righteous judge, shall give me at that day: and not to me only, but unto all them also that love his appearing.
初代教会の彼らこそ、自分の無力さ、愛のなさ、足りなさ、勇気のなさを心底自覚し、
自分の貧しさを知り尽くしたので、だからこそ十字架の意味を真実に悟り、
主イエスの十字架と共に死んだので、主イエスの復活にあずかり、
雄々しく信仰の走るべき行程を走りつくしました。
その信仰の証人たちが、今私たちの目には見えなくても、
実際には、雲のように取り巻いて、励ましてくれていると聖書に書いてあります。
互いに愛し合いなさい、愛せなかったと気がついて悔い改めるなら今、
恵みの時に悔い改めなさい。イエス様を見上げなさい。イエス様は恥をいとわないで、
十字架にかかったために勝利をおさめ、今は神の右の座に着座されているからと言っています。
ヘブル人への手紙12章1節から9節
12:1こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
12:2信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
12:3あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
12:4あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
12:5また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6主は愛する者を訓練し、
受けいれるすべての子を、
むち打たれるのである」。12:7あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
12:8だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
12:9その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
【KJV】
Heb
[ 12 ]
12:1 Wherefore seeing we also are compassed about with so great a cloud of witnesses, let us lay aside every weight, and the sin which doth so easily beset us, and let us run with patience the race that is set before us,
12:2 Looking unto Jesus the author and finisher of our faith; who for the joy that was set before him endured the cross, despising the shame, and is set down at the right hand of the throne of God.
12:3 For consider him that endured such contradiction of sinners against himself, lest ye be wearied and faint in your minds.
12:4 Ye have not yet resisted unto blood, striving against sin.
12:5 And ye have forgotten the exhortation which speaketh unto you as unto children, My son, despise not thou the chastening of the Lord, nor faint when thou art rebuked of him:
12:6 For whom the Lord loveth he chasteneth, and scourgeth every son whom he receiveth.
12:7 If ye endure chastening, God dealeth with you as with sons; for what son is he whom the father chasteneth not?
12:8 But if ye be without chastisement, whereof all are partakers, then are ye bastards, and not sons.
12:9 Furthermore we have had fathers of our flesh which corrected us, and we gave them reverence: shall we not much rather be in subjection unto the Father of spirits, and live?
信仰の大先輩、大使徒パウロは、猛烈に、頑張れ 頑張れ、努力しなさいと言っています。
パウロは救いの達成に努めなさいと言っています。
ピリピ人への手紙2章12節
2:12わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
2:13あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
King James Version
Phi
2:12 Wherefore, my beloved, as ye have always obeyed, not as in my presence only, but now much more in my absence, work out your own salvation with fear and trembling.
2:13 For it is God which worketh in you both to will and to do of his good pleasure.
パウロはここでも、
恐れおののいて、救いの達成に努めなさい。
努力しなさいと言っています。
無理無理、無理だろうな、だから一歩ずつでも、チマチマ・・ (._.)・・・と言うよりも
救いの達成に努めなさいの方が、なぜかスカッとします。(^_-)-☆
人間でも、頑張り切った人達がいる。
きっと主と共に歩むときに私にもできる。同じ人間なのだから
そう思えます。
主は愛する者に眠りをくださる 時には無理せず休みましょう
ここまで、盛り上がって、でもね・・・と言いたくないのですが、
いくら、初代教会のような御業が見たいとはいっても、
イエス様の次に偉大だと思えるような人たちであるパウロやペテロ達のように突っ走ると
我慢しきれなくなって、ということも想定してなのですが。
あえて、それでも疲れたら、主に信頼してゆっくり眠ればいいと思います。
主は愛する者には眠りを与えると聖書は言っています。
疲れたら、主に信頼して眠りましょう。
サタンとの、あるいは自分との戦いのさなかでも、たとえ戦場でも、時には、主に信頼していると、
人が自分の訴えたいことを理解せず、何か誤解して陰口をたたいていようが、
心配事を主にゆだね、思い煩わずに、眠れます。
これは主に信頼している者の特権です。
詩編127編1節から2節
127:1主が家を建てられるのでなければ、
建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、
守る者のさめているのはむなしい。
127:2あなたがたが早く起き、おそく休み、
辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。
主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。King James Version
127:1 Except the LORD build the house, they labour in vain that build it: except the LORD keep the city, the watchman waketh but in vain.
127:2 It is vain for you to rise up early, to sit up late, to eat the bread of sorrows: for so he giveth his beloved sleep.
主は、私達が眠っている間にも、日ごとの必要の糧を与えてくださいます。
食べ物も、着る者も、信仰的に必要な霊的な力もです。
私は、この記事を書いていて、主の助けがあることに感謝を覚えました。
これからも主と共に生きていきたいと言う思いでいっぱいになりました。
先日、棘のある音色で、嫌味を言い合った大切な人と仲直りができますように。
謝罪しようと思います。
互いに主にあって、心から愛し合うことが出来ますように、
主よ助け導いてください。
と主に祈ります。(#^^#)
ハレルヤ アーメン \(^o^)/
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