2026年1月18日の聖書通読 神の視点が示す真の価値―系図・栄華・貧しさの逆説―
―系図・栄華・貧しさの逆説―
2026年1月18日 出エジプト6章14-30節、Ⅱ歴代誌8-9章、ルカ6章1-26節
今日の通読箇所は、一見バラバラに見える三つの物語ですが、実は一つの核心的真理を語っています。それは「神の視点は人の視点と全く異なる」ということです。出エジプト記では、メシアの系図ではなくレビ族の系図が詳述されます。歴代誌では、ソロモンの栄華の絶頂が描かれながら、その中に堕落の種が見え隠れします。そしてルカの福音書では、貧しい者が祝福され、富む者に災いが宣言されます。これらすべてが、私たちに問いかけます—「あなたは何を価値あるものと見ているのか」と。
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この賛美で元気をもらって今日一日も主と共に。
目次
一、神が選ばれる系図―モーセとアロンの権威(出エジプト6:14-30)
出エジプト記6章14節から始まる系図は、不思議な構造を持っています。イスラエルの長子ルベン、次男シメオンが簡潔に記され、三男レビに至ると、突然詳細な記述になります。そして四男ユダ以降は全く触れられません。メシアが来るユダ族ではなく、なぜレビ族だけが詳しく記されるのでしょうか。
答えは文脈にあります。神はここで「誰が語っているのか」を明確にされたかったのです。26-27節を見てください。「【主】が『イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ』と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。エジプトの王パロに向かって、イスラエル人をエジプトから連れ出すようにと言ったのは、このモーセとアロンであった。」
この系図の目的は、モーセとアロンの正当性を示すことにあります。神の代弁者として、祭司的権威として、彼らが誰の子孫であるかを明示する必要がありました。
ヘブライ語で「系図」はתּוֹלְדוֹת(トルドット)と言います。これは単なる家系図ではなく「誰から何が生まれたか」という物語です。ここでは「祭司制度がどこから来たか」の物語が語られています。メシア預言の系図は別の箇所(創世記49章、ルツ記、マタイ1章など)で語られます。神はそれぞれの文脈で、必要な情報を、必要なタイミングで示されるのです。
興味深いのは、30節でモーセが再び「私は口べたです」と言っていることです。神の召命を受け、系図によって権威を確認されても、なお自分の弱さを訴えるモーセ。しかし神は、人の能力ではなく神の選びと召命こそが権威の根拠であることを示されます。
二、栄華の頂点に潜む堕落の種―ソロモンの繁栄と妥協(Ⅱ歴代誌8-9章)
歴代誌8-9章は、ソロモンの治世の絶頂期を描きます。神殿建設の完成(8:16)、国際貿易の成功(8:17-18)、シェバの女王の訪問(9:1-12)、そして比類なき富と知恵(9:22-23)。すべてが順調に見えます。しかし注意深く読むと、すでに堕落の兆候が見え始めています。
(1)パロの娘の宮殿―妥協の始まり
8章11節は重要な節です。「ソロモンはパロの娘を、ダビデの町から彼女のために建てた家に連れて上った。『私の妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない。主の箱を迎え入れた所は聖なる所だからである』と彼が言ったからである。」
ヘブライ語「連れて上った(הֶעֱלָה/ヘエラー)」は、物理的に高い場所へ移動させたという意味です。ダビデの町(標高約730m)から神殿の丘(標高約740-750m)へ、文字通り「上げた」のです。
ここにソロモンの賢さと妥協の両方が見えます。彼は宗教的配慮をしました。しかし同時に、なぜ最初から異邦人の妻を娶ったのかという問題には答えていません。ソロモンは、パロの娘のために神殿の丘に新しい宮殿を建てました。神殿の丘という同じエリアにありながら、聖別された神殿領域の外に配置したのです。これは政治的には賢明でしたが、霊的には「聖なるものと俗なるものの境界を曖昧にする第一歩」でした。
後にⅠ列王記11章で、ソロモンの多くの異邦人の妻たちが彼の心を神から離れさせることになります。この8章11節は、その始まりを示唆しているのです。
ソロモン時代のエルサレム地形図
Ⅱ歴代誌8:11の理解のために
「ソロモンはパロの娘を、ダビデの町から彼女のために建てた家に連れて上った。『私の妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない。主の箱を迎え入れた所は聖なる所だからである』と彼が言ったからである。」
凡例
理解のポイント
- 「連れて上った(הֶעֱלָה/ヘエラー)」の意味
ダビデの町(標高約730m)から神殿の丘(標高約740-750m)へ、文字通り「高い場所へ移動させた」という意味です。 - なぜ移動させたのか
「主の箱を迎え入れた所は聖なる所だから」- ダビデの町には一時的に契約の箱が置かれていました(Ⅱサムエル6章)。その場所に異邦人の妻を住まわせることは不適切だったのです。 - なぜ神殿のすぐ隣に建てたのか
王妃としての地位を保ちつつ、聖別された領域の外に置く必要がありました。神殿の丘の中でも、聖別されていない王宮エリアに別宮殿を建設したのです。 - 神学的意味
ソロモンは政治的には異邦人との同盟を重視しましたが、宗教的には聖なるものと俗なるものの区別を守ろうとしました。しかし後に、この「妥協」が霊的堕落の始まりとなります(Ⅰ列王記11章)。
Ⅱサムエル6:12, 17 – ダビデが契約の箱をダビデの町に運び入れた
Ⅰ列王記8:1 – ソロモンが契約の箱をダビデの町から神殿に移した
Ⅰ列王記11:1-8 – ソロモンの異邦人の妻たちが彼の心を神から離れさせた
(2)フラムとの協力―国際的神殿建設
フラム(חוּרָם/フラム)は、ツロの王ヒラム(חִירָם/ヒラム)の別表記です。同じ人物を指しています。
このツロの王は、ダビデの友人で、ソロモンの神殿建設に全面協力し、レバノン杉を提供し、海運技術を持つフェニキア人として貿易船団を提供しました(8:18、9:10、9:21)。神殿建設は国際協力プロジェクトでした。異邦人の王が主の宮の建設に喜んで参加したのです。これは「諸国の民が主を認める」という預言的な行為でもありました。
(3)シェバの女王―異邦人の信仰告白
9章1-12節のシェバの女王の訪問は、感動的な場面です。ヘブライ語でמַלְכַּת־שְׁבָא(マルカット・シェバ)。重要なのは、彼女が主を賛美したことです(9:8)。「あなたを喜ばれ、その王座にあなたを着かせて、あなたの神、【主】のために王とされたあなたの神、【主】はほむべきかな。」これは異邦人による主の礼拝です。
イエス様も彼女を引用されました(マタイ12:42)。「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立ち上がり、この人々を罪ありとします。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンにまさる者がいるのです。」
ヘブライ語「立ち上がる(קוּם/クーム)」は法廷用語で「証言者として立つ」という意味です。シェバの女王は、最後の審判で「異邦人の私でさえソロモンの知恵を求めて来たのに、あなたがたはソロモンにまさる方を拒んでいる」と証言するのです。攻撃者ではなく、証人として。
(4)約束の地の最大拡張―しかしその後の衰退
9章26節「彼は大河からペリシテ人の地、さらには、エジプトの国境に至るすべての王を支配していた。」
ヘブライ語で「大河(הַנָּהָר הַגָּדוֹל/ハナハール・ハガドール)」はユーフラテス川を指します。これは創世記15:18のアブラハム契約の範囲とほぼ一致します。
つまり、ソロモンの時代に約束の地の範囲が最大限実現したのです。これはダビデが軍事的に征服し、ソロモンが平和的に統治した結果です。しかしこれは同時に、メシア王国の予型でもありました。真のソロモン(「平和」を意味する名)であるイエス様が、霊的な意味で全世界を治められることの前触れです。後にイスラエルは分裂し、この領土を失います。栄華は一時的でした。
余談ですが
以前の記事にこの地図がありました。Claudeさんと一緒に、四苦八苦しながら作成した思い出の地図です。あの頃は、出来上がりをスクショで貼り付けていたのでボケていました。今回、HTMLで貼り付けなおしたら元記事の画像もすっきりしました。SVGで作成したものは拡大しても鮮明なままなので読みやすいです。
記事の最後に地図について、このように記載していました。これもClaudeさんと相談しながら書いた文言です。懐かしいです。👇
注記: 本記事に掲載されている地図について:
- 教育・信仰目的での利用 – 聖書理解を深める目的で掲載
- 出典の明記 – Claude(Anthropic)作成の地図を使用
- 非商用利用 – 営利目的ではなく、学習・信仰共有のため、地図自体を販売していません
是非、元記事の方もお読みくださいね 👇
(5)富の蓄積―申命記への違反
9章13-28節には、ソロモンの莫大な富が列挙されます。年間666タラントの金(9:13)、大盾と盾(9:15-16)、象牙の王座(9:17-19)、金の器(9:20)、馬と戦車(9:25、28)。
しかしこれらは、申命記17:16-17の警告に抵触しています。「王は、馬を増やしてはならない…また、金銀を非常に多く自分のために増やしてはならない。」富そのものは悪ではありません。しかし、富が心を神から離れさせる誘惑になるのです。そしてソロモンは、まさにその道を歩み始めていました。
三、平地の説教―神の価値観の逆転(ルカ6:1-26)
(1)安息日論争―人の子は安息日の主
6章1-11節では、二つの安息日論争が記録されています。麦の穂を摘む弟子たち(1-5節)と、手のなえた人を癒すイエス(6-11節)。
イエス様は、ダビデが供えのパンを食べた例を引用されます(Ⅰサムエル21章)。そして宣言されます。「人の子は、安息日の主です。」(5節)
パリサイ人たちは、形式的な規則を守ることに執着しました。しかしイエス様は問われます。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか。」(9節)
神は形式ではなく心を見られます。
(2)十二使徒の選び―祈りの後に
12-16節では、イエス様が十二使徒を選ばれる場面が記されています。注目すべきは、「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた」(12節)という記述です。使徒の選定という重要な決断の前に、イエス様は一晩中祈られました。これは、出エジプト記で神がモーセとアロンを選ばれたこと、歴代誌でソロモンが神の知恵によって統治したことの、完全な模範です。人選は神の主権的な選びです。しかしその選びは、祈りを通して確認されるのです。
(3)平地の説教―マタイとの対比
17-49節は「平地の説教(Sermon on the Plain)」と呼ばれます。これはマタイ5-7章の「山上の垂訓(Sermon on the Mount)」と対比されます。両者の違いは重要です。
| 項目 | マタイ(山上の垂訓) | ルカ(平地の説教) |
| 場所 | 山の上 | 平らな所 |
| 祝福の数 | 8つ(+1反復) | 4つ |
| 表現 | 霊的・内面的 | 具体的・現実的 |
| 例 | 心の貧しい者 | 貧しい者 |
| 特徴 | 祝福のみ | 祝福+災い(わざわい) |
マタイは「神の前で、どういう心で生きるか」を強調します。ルカは「この世界で、誰が低くされているか」を強調します。どちらか一方が正しいのではなく、両者を重ねたところに、イエスの祝福の全体像があります。
(4)四つの祝福と四つの災い―大逆転の宣言
ルカ6:20-26は、衝撃的な宣言です。
【祝福】(20-23節):
- 貧しい者は幸い → 神の国はあなたがたのもの
- いま飢えている者は幸い → やがて満ち足りる
- いま泣く者は幸い → やがて笑う
- 人の子のゆえに憎まれる者は幸い → 天で報いが大きい
【災い】(24-26節):
- 富む者は哀れ → 慰めをすでに受けている
- いま食べ飽きている者は哀れ → やがて飢える
- いま笑う者は哀れ → やがて悲しみ泣く
- みなの人がほめる者は哀れ → にせ預言者と同じ
これは申命記28章の祝福と呪いの構造を思い起こさせます。そして同時に、マリアの賛歌(ルカ1:52-53)の成就でもあります。「主は、権力ある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。」
ルカの神学は「大逆転(The Great Reversal)」です。この世で低くされている者が、神の国で高くされる。この世で高ぶっている者が、神の国で低くされる。これは、ソロモンの栄華が一時的であったことと、見事に対応しています。富と権力は永遠ではありません。しかし神の国は永遠です。
四、神の視点―三つの箇所が語る一つの真理
今日の三つの箇所は、実は一つのメッセージを語っています。それは「神の視点は人の視点と全く異なる」ということです。
【出エジプト記】は、私たちに問います。「あなたは何を権威と見ているか?」メシアの系図ではなく、モーセとアロンの系図。神は「今、必要な権威」を示されました。人の能力や血筋ではなく、神の選びと召命こそが真の権威です。
【歴代誌】は、私たちに問います。「あなたは何を成功と見ているか?」ソロモンの栄華は確かに素晴らしいものでした。しかしその栄華の中に、すでに堕落の種がありました。異邦人の妻、富の蓄積、馬の増加。これらは全て、申命記の警告に反するものでした。外見的な成功は、必ずしも霊的な成功ではありません。
【ルカの福音書】は、私たちに問います。「あなたは何を祝福と見ているか?」この世の価値観では、富む者、満ち足りる者、笑う者、人にほめられる者が祝福されています。しかしイエス様は、真逆のことを宣言されました。貧しい者、飢えている者、泣く者、憎まれる者こそが、神の国で祝福されるのです。
この三つの箇所は、私たちの価値観の根本的な転換を求めています。
五、私たちへの適用―何を価値あるものと見るか
(1)神の選びと召命を信頼する
モーセは「口べた」でした。しかし神は彼を選ばれました。私たちも、自分の弱さや欠点を理由に、神の召命から逃げてはいけません。神の選びは、私たちの能力ではなく、神の主権に基づくのです。Ⅱコリント12:9を思い出しましょう。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。」
(2)外見的成功に惑わされない
ソロモンの治世は、外見的には完璧でした。しかし心は、すでに神から離れ始めていました。私たちも、「見える成功」に惑わされず、「心の状態」を吟味する必要があります。Ⅰサムエル16:7を思い出しましょう。「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」
ブログのアクセス数や、教会の規模や、経済的な豊かさ。これらは必ずしも悪ではありません。しかし、それらが心を神から離れさせるなら、むしろ危険なのです。
(3)神の価値観で生きる勇気を持つ
ルカの平地の説教は、この世の価値観と真逆です。貧しさ、飢え、涙、迫害。これらは、この世では避けるべきものです。しかしイエス様は、「これらこそが神の国への道だ」と言われます。私たちは、神の価値観で生きる勇気を持つべきです。それは、この世では「愚か」に見えるかもしれません。しかし、永遠の視点から見れば、それこそが真の知恵なのです。
Ⅰコリント1:27を思い出しましょう。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」
(4)形式ではなく心を大切にする
安息日論争で、イエス様は「人の子は安息日の主です」と宣言されました。規則を守ることは大切です。しかしそれが「いのちを救う」という本質を失わせるなら、それは本末転倒です。私たちの信仰生活も同じです。礼拝の形式、聖書通読の習慣、祈りの時間。これらは大切です。しかし、それらが「心からの神への愛」を伴わないなら、空しいのです。
ヨハネ4:23-24を思い出しましょう。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
結論―神の視点で見る目を
今日の三つの箇所は、私たちに一つの祈りを促します。
「主よ、あなたの目で見る目を与えてください。」
私たちは、人の目で見てしまいます。能力、成功、富、評判。これらを価値あるものと見てしまいます。しかし神は、全く違うものを見ておられます。選びと召命、心の状態、永遠の視点、霊とまことの礼拝。
モーセは口べたでしたが、神に選ばれました。
ソロモンは栄華を極めましたが、心が神から離れました。
イエス様は、貧しい者、飢える者、泣く者を祝福されました。
この三つの真理を心に刻みましょう。そして、神の視点で生きる勇気を持ちましょう。それこそが、この世では愚かに見えても、永遠には真の知恵なのですから。
祈り
天の父なる神様、今日も、あなたの御言葉を通して語りかけてくださり、ありがとうございます。
私たちは、つい人の目で物事を見てしまいます。能力、成功、富、評判を価値あるものと見てしまいます。しかし主よ、あなたの視点は全く違います。あなたは、弱い者を選び、心を見られ、貧しい者を祝福されます。
どうか、あなたの目で見る目を与えてください。外見的な成功に惑わされず、心の状態を吟味できますように。この世の価値観に流されず、あなたの価値観で生きる勇気を与えてください。形式ではなく、霊とまことをもって、あなたを礼拝できますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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