賢い乙女の様でありたいと、誰もが願っていると思います。しかし賢い乙女の油は何を示すのか、ともしびは何を示すのか?
そしてどうして賢い乙女は油を分けてあげなかったのか?賢いのに冷たい気がします。
これも意味があっての事でした。
★「携挙と再臨の違い マタイ24章から見る終末論的イベント」の記事は下記の方に引っ越ししました。このリンクから入り目次からインタラクティブから見る携挙と再臨でご覧いただけます。
目次
真夜中に輝く光:十人の娘のたとえが教える「油」の意味
創世記27:1-17、第一サムエル31章、第二サムエル1章、マタイ25:1-13
はじめに
私たちは時々、自分の信仰生活が「十分」なのか不安になることがあります。周りにもっと熱心な信仰者がいると、自分は足りないのではないかと感じてしまう。でも今日の聖書箇所、特にマタイ25章の「十人の娘のたとえ」は、私たちに全く違う視点を与えてくれます。
ダビデの哀歌が教えるもの:敵をも尊ぶ心
第二サムエル1章で、ダビデはサウル王とヨナタンの死を聞いて、美しい哀歌を作ります。この哀歌で印象的なのは、ダビデがサウルとヨナタンを同じ言葉で評価していることです:
しかし、私たちが物語を通して見てきたサウルとヨナタンは、まったく異なる人物でした。サウルは嫉妬深く、不従順で、霊的に退廃していきました。一方ヨナタンは誠実で、神に対しても忠実でした。
それなのに、ダビデは両者を「愛される、りっぱな人」と呼びました。これはダビデの霊的成熟の現れです:
- サウルの良い部分を覚えることを選んだ – 初期のサウルは確かに勇敢な戦士で、イスラエルを守った王でした
- 個人的な傷を超えて、公的な役割を尊重した – 自分を殺そうとした人でさえ、神に立てられた王として敬いました
- 死者の名誉を守ることを選んだ – 悪口ではなく、記憶されるべき良い面を強調しました
アマレク人の若者の悲劇
一方、第二サムエル1:1-16には、対照的な人物が登場します。アマレク人の若者は、サウルを殺したと嘘をつき、功績を得ようとしました。しかし、ダビデは「主に油注がれた者に手を下すことを恐れなかったのか」と言って、彼を処刑します。
この若者の悲劇は、神の価値観を知らなかったことです。世俗的な基準では「王を殺した報告」は褒美を得られると思ったでしょう。しかし、神の国では全く違う基準が働いていたのです。
これは私たちへの警告でもあります。世の中で「賢い」とされることが、神の目には愚かかもしれません。逆に、世の中で「損」に見えることが、神の目には知恵かもしれないのです。
マタイ25章:十人の娘のたとえ
この文脈で、マタイ25章の「十人の娘のたとえ」を読むと、新しい意味が見えてきます。
油とともしびは何を表すのか
油(ヘブライ語:שֶׁמֶן shemen シェメン、ギリシャ語:ἔλαιον elaion エライオン)は、聖書全体で聖霊の象徴として使われています。祭司や王への油注ぎ(出エジプト30:22-33)、詩篇23:5の「油を注がれる」などがその例です。
ともしび(ギリシャ語:λαμπάς lampas ランパス)は、信仰の証し、または神の言葉を表しています。詩篇119:105に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」とあります。
- 油 = 聖霊との継続的な交わり(祈り、み言葉、従順を通して)
- ともしび = 信仰の証し
- 予備の油を持つ = 日々聖霊に満たされ続けること
「油は分けられない」という真理
このたとえで最も衝撃的なのは、賢い娘たちの応答です:
表面的には冷たく聞こえますが、これは深い神学的真理を含んでいます。信仰は代理できないのです。
- 親の信仰
- 配偶者の信仰
- 牧師の信仰
- 友人の信仰
どれも、あなた自身の主との出会いの代わりにはなりません。それぞれが自分自身で油を買い、自分自身のともしびを整える必要があります。
重要な区別:教会と個人の関係
ここから、励まされる真理が見えてきます:
どんなに素晴らしい霊的な教会、教理的にしっかりしている教会に所属していても、個人的に主と交わっていなければ意味がない。
逆に言えば:
現段階で、教理的にしっかりしていなくても、単純な信仰でも、個人的に主と交わっていれば、「エル・ロイ」(見ておられる神)が見ておられる。
これは、多くのクリスチャンにとって解放的なメッセージです。私たちは:
- 完璧な教会を見つける必要はありません
- 誰かの信仰に頼る必要はありません
- 自分の信仰が「十分」かどうか、他人と比較する必要はありません
必要なのは、日々、個人的に主と交わり続けることなのです。
「夜中になって」という希望
マタイ25:6で、花婿は「夜中」に来ました。最も暗く、最も予想外の時です。
でも、ここには深い希望があります:
真夜中でも、油があればともしびは輝くのです。周りが暗ければ暗いほど、小さな光でも目立ちます。
今の時代は、霊的な「真夜中」かもしれません。しかし、だからこそ油を持っている者のともしびが、より明るく輝く時代なのです。
大きな伝道集会や、有名な説教者だけが光ではありません。日々、個人的に主と交わり、家族のために祈り、教会を愛し続ける一人一人が、真夜中を照らす光なのです。
実践的な適用:油を保つとは
では、具体的に「油を保つ」とはどういうことでしょうか。それは多面的な聖霊との交わりです:
聖霊との交わりの実践
- 感謝の祈り – 賛美と感謝は、神の臨在への門です
- 執り成しの祈り – 他者のために立つ、祭司的な役割
- 主との交わりの親密な祈り – これこそが「油」の核心
- 異言の祈り – 御霊ご自身がとりなしてくださる(ローマ8:26)
- み言葉を読み、黙想する – 神の声を聞く時間
- 従順 – 聞いた言葉を行動に移す
これらは一つの活動ではなく、聖霊との多面的な交わりです。
結論:あなたの小さな光が必要
もしあなたが今、自分の信仰が「十分」でないと感じているなら、このメッセージを受け取ってください:
神が求めておられるのは、完璧さではなく、継続的な交わりです。
- 教会が完璧でなくても、そこにいる兄弟姉妹を愛し続けることができます
- 自分の信仰が弱く見えても、日々主と交わり続けることができます
- 周りが暗く見えても、あなたの小さな光は確かに輝いています
賢い娘たちが「足りません」と言ったのは、本当にそうなのです。霊的な準備は蓄積に時間がかかります。急場しのぎでは間に合いません。
だからこそ「目を覚ましていなさい」(マタイ25:13)という命令が続くのです。
今日から、今この瞬間から、油を保ち続けましょう。花婿が来る時まで。あなたの小さなともしびが、この真夜中に確かに輝いていますように。


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