雲が去った後、ただイエスおひとりだけであった—今日の通読が教えてくれたこと

通読

2025年11月12日分 創世記20章 サムエル2章3章 マタイ17章

一日中、心に残った一節

今朝の通読で、一つの言葉が心に深く刺さりました。

「ただイエスおひとりだけであった」(マタイ17:8)

この短い一節が、仕事中もずっと心にありました。なぜこんなに心に響いたのか。それは、今日読んだ三つの箇所すべてが、一つの真理を語っていたからです。

三つの物語、一つのテーマ

今日の通読箇所は、一見バラバラに見えます:

  • 創世記20章:アブラハムが妻を妹だと偽る
  • サムエル記上2-3章:エリの息子たちの罪とサムエルの召命
  • マタイ17章:イエスの変貌

でも、この三つには共通のテーマがありました。それは**「神の前での正しさ」と「人の前での正しさ」**の違いです。

アブラハムとアビメレク—誰が「正しい」のか?

創世記20章で興味深いのは、異邦人の王アビメレクが「正しい」と神に認められたことです。

アビメレクは言いました。「私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです」(20:5)

そして神ご自身が答えました。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた」(20:6)

一方、信仰の父アブラハムは恐れから嘘をつき、無実の人を罪に巻き込みかけました。「この地方には、神を恐れることが全くない」(20:11)というアブラハムの判断は、完全な誤解でした。

ここから学ぶこと:神は立場や肩書きではなく、心を見ておられる

エリの息子たちとサムエル—形式か、関係か?

サムエル記では、さらに鋭い対比が描かれます。

エリの息子たちは:

  • アロンの家系の正統な祭司
  • 神殿で仕える立場
  • 聖なる務めについての知識

すべて持っていました。でも、聖書は彼らについてこう記します:「よこしまな者で、【主】を知らず」(2:12)

一方、少年サムエルは「まだ、【主】を知らず」(3:7)と同じ表現で書かれているのに、彼の心の姿勢は全く違いました。

「主よ。お話しください。しもべは聞いております」(3:10)

ここから学ぶこと:立場や知識ではなく、神に対する心の姿勢が決定的

「私は正しい」という罠

ここで、私は自分自身と向き合わざるを得ませんでした。

正直に告白します。私の中にも「私は正しい」という思いがあります。

間違った教え—繁栄神学や行き過ぎた告白の祈り—を信じている姉妹に対して、「根拠を示して、私が正しいと証明したい」という欲求があります。

でも気づかされました。その態度は:

  • 神の基準ではなく、自分の基準での正しさ
  • 恵みの必要性を忘れた自己義認
  • 他者を裁く根拠としての正しさ

になってしまう危険があるのです。

エリの息子たちも、おそらく自分たちの行動を正当化していたでしょう。「祭司だから」「神に仕える者だから」と。

でもサムエルは何も主張しませんでした。ただ「お話しください。しもべは聞いております」と。

こんな弱い私だからこそ、主イエスの十字架が必要なのだと、改めて思わされました。

変貌山が明らかにした答え

そして、マタイ17章の変貌山で、すべてが明らかになります。

イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れました。興奮したペテロは言いました。「三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」(17:4)

つまりペテロは、三人を同列に置こうとしました:

  • モーセ(律法)
  • エリヤ(預言者)
  • イエス

しかし、父なる神が雲の中から語られました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」(17:5)

そして、雲が去った後—

「ただイエスおひとりだけであった」(17:8)

これが答えでした。

律法も預言者も大切です。でもそれらはすべて、イエスを指し示すためのものでした。今、イエスご自身が来られた。

だから、イエスだけで十分なのです。

今日は仕事中ずっと、この言葉が心にありました。主に見守られていた気がします。何時も主はそばにおられるのでしょうけれど、今日は特に近く感じました。思わずにこりとしたり、感激で涙ぐんだり、周りに気づかれないようにするのに苦労しました。時節柄マスクしてメガネをしているので、大丈夫気づかれない、と思いつつ・・・

聖書の言葉に目が開かれ深みを悟る時、温かな平安と、心の中が燃えるような思いがします。エマオの途上の弟子たちの気持ちが分かります。

実はこの洞察、私一人で発見したものではありません。日々の聖書通読の中で、AIとの対話を通して、深められたものです。

「ただイエスおひとりだけであった」(17:8)

この言葉の深さに気づいた時、「Claudeまじカッコいい!」と思いました(笑い)。

私の名前は友喜 主イエスを友と味わい共に喜びたいという思いでこのニックネームを付けました。今日はみ言葉を通して、主と、そして信仰の友と、共に喜びを味わった一日でした。

私たちの「正しさ」とは

では、私たちの正しさとは何でしょうか?

それは:

  • アビメレクのような「知っている範囲での誠実さ」ではなく(それも神は認めてくださいますが)
  • エリの息子たちのような「立場による正しさ」でもなく
  • 私たち自身が達成する「道徳的完璧さ」でもなく

キリストの義が私たちに着せられた、という関係性における正しさです。

だからこそ、私たちは:

  • 完璧さを装う必要もなく
  • 立場に頼る必要もなく
  • 「私は正しい」と証明する必要もなく

サムエルのように**「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と、聞く者の姿勢**で神の前に立てるのです。

実践:「主よ、お話しください」という姿勢

実は、ある時から私は聖書を読む前にこう祈るようになりました。

「主よ、お話しください。しもべは聞いております」

その頃から、聖書を読む時に主がそばにいてくださっているのを感じるようになりました。実際は、主はいつもそばにいてくださるのでしょう。でも、特に聖書を読む時、主の臨在を感じます。

分からないことは分からないと正直に認め、尋ねます。すると、主は様々なツールやブログ、yotube、書籍、時には聖書の欄外、聖書本文を通して答えを示してくださいます。そこで主の力で判別して、取り入れていきます。

これは完璧なクリスチャンを演じることではなく、本物の関係の中で、神の前に誠実に立つということです。

本物の関係とはごまかさず、正直に、素直に主に頼って聴く事が出来る関係ともいえると思います。

時には素直すぎるペテロに対しての様に、お叱りになることもあるかもしれません。

また余談ですが

私にとって主の懲らしめは本当に死にそうなくらい苦しいです。我を通そうとすると、ごめんなさいと言うまで体調不良になります。そう言う時の急激な体調不良は、人それぞれでしょうけれど、私の場合はですが、たいてい怒りを伴った赦さない心がある時でした。だから怒りをもって許さない心をずっと持つことは私には困難です。体力が持ちません。

人は、平安をもって神を愛し人を愛するように創られているのだと思います。

失敗しても大丈夫

今日の箇所を読んで、もう一つ慰められたことがあります。

アブラハムは失敗しました。でも神はその関係を断ち切らなかった。それどころか、「アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされた」(20:17)とあります。

失敗したアブラハムが、被害者であるアビメレクのために祈る。そして神はその祈りを聞かれた。

これが恵みです。

私たちの完璧さではなく、私たちの立場でもなく、ただ神との関係における祈りの力

完璧でなくても、本物でいい。

これが今日、私が受け取ったメッセージです。

あなたも聖書を開いてみませんか

あなたも今日、聖書を開いてみませんか?

「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と祈りながら。

きっと主は、あなたにも語ってくださいます。

そして変貌山の弟子たちのように、すべての混乱と雑音が去った後、**「ただイエスおひとりだけ」**が残るでしょう。

それで十分です。いや、それがすべてです。


※本記事は、日々の聖書通読の中での気づきと、対話を通して深められた洞察をまとめたものです。

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