― 呪いを祝福に変える神 ―
【2025年12月2日の通読箇所】
創世記30:1-24 / 第二サムエル12-13章 / マタイ27:1-26
目次
はじめに
今日の通読箇所は、正直に言うと「もやもや」が多い日でした。
創世記では姉妹の嫉妬と争い。第二サムエルではダビデの罪とその結果として起こる家庭内の悲劇。マタイでは群衆が「その血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と叫ぶ。
人間の罪深さ、その結果としての苦しみ、そして神の摂理が複雑に絡み合う箇所です。
しかし、読み終えて見えてきたのは、「呪いを祝福に変える神」というテーマでした。
1. 創世記30章 ― 嫉妬と争いの中から生まれた祝福
レアとラケルの「子産み競争」
創世記30章を読むと、正直、息苦しくなります。
ラケルの叫び:「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます」(30:1)
ヤコブの怒り:「私が神に代わることができようか」(30:2)
そして始まる、女奴隷を通した代理出産、恋なすびの取引、夫を「買い取る」やりとり…
これが「信仰の父祖」の家庭かと思うと、なんとも複雑な気持ちになります。
子どもたちの名前に刻まれた母の叫び
しかし、子どもたちの名前を見ると、母たちの心の叫びが聞こえてきます。
- ダン(דָּן) ― 「神は私をかばってくださった」
- ナフタリ(נַפְתָּלִי) ― 「姉と死に物狂いの争いをして勝った」
- ガド(גָּד) ― 「幸運が来た」
- アシェル(אָשֵׁר) ― 「女たちは私を幸せ者と呼ぶ」
- イッサカル(יִשָּׂשכָר) ― 「神は私に報酬を下さった」
- ゼブルン(זְבוּלֻן) ― 「今度こそ夫は私を尊ぶだろう」
- ヨセフ(יוֹסֵף) ― 「神は私の汚名を取り去り、もう一人の子を加えてくださるように」
嫉妬、競争心、劣等感…そんな「呪われた」ような状況から、イスラエル12部族が誕生したのです。
神は人間の混乱の中にあっても、ご自身の計画を進めておられます。
▶ 12部族の詳細(名前・宝石・旗印・ヤコブの祝福)は別記事で詳しく解説しています
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2. 第二サムエル12-13章 ― 罪の連鎖と恵みの連鎖
【もやもや①】「主に対して罪を犯した」―ウリヤには?
ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」(12:13)
この箇所を読んで、正直もやもやしました。
「ウリヤに対しては申し訳ないと思わないのか?バテシェバにはどうなのか?」
実は、これは聖書の深い理解に基づいています。
すべての罪は、究極的には神への罪なのです。詩篇51篇(ダビデがこの事件の後に書いた悔い改めの詩)にこうあります:
「私はあなたに、ただあなたの前に罪を犯し、あなたの目に悪を行いました」(詩篇51:4)
ダビデはウリヤを軽視したのではありません。むしろ、自分の罪の根源が「神への反逆」であることを認識していたのです。人を傷つける罪は、その人の創造主である神をも傷つけるのです。
【もやもや②】バテシェバはなぜすんなり妻に?
「ヨセフのように逃げたら、ダビデや国家を救えたかもしれない」
確かにそうかもしれません。しかし、いくつかの点を考える必要があります:
- 王の権力 ― 当時の王は絶対的な権力を持っていました。「断る」ことが現実的に可能だったかどうか。
- 聖書の沈黙 ― 聖書はバテシェバの内面をほとんど描いていません。これは彼女を裁くためではなく、焦点がダビデの罪にあるからです。
- 神の摂理 ― この罪深い状況からソロモンが生まれ、メシアの系図につながります。これは神が罪を認めたということではなく、人間の罪をも用いて救いの計画を進められるということです。
私たちにはウリヤの無念さ、バテシェバの複雑な思い、すべてを理解することはできません。しかし神はすべてを見ておられ、最終的な正義を行われる方です。
【もやもや③】ソロモンとエディデヤ
「預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた」(12:25)
「ソロモンという名前はどこで変更になったのか?」
実は、名前は変更されていません。両方の名前が併存していたのです。
- ソロモン(שְׁלֹמֹה シェロモー) ― ダビデが付けた名前。「平和」を意味するシャロームから。
- エディデヤ(יְדִידְיָהּ イェディードヤー) ― 神がナタンを通して与えた名前。「主に愛された者」という意味。
最初の子は神の裁きによって死にましたが、次に生まれた子には「主に愛された者」という名が与えられました。これは神の赦しと回復の宣言です。
【もやもや④】甘いパンとは?
「この時代の甘いパンってどんなパンなんだろう?」
ヘブライ語では「לְבִבוֹת」(レヴィヴォート)です。
これは「心」を意味するレーヴ(לֵב)から来ており、「心型のケーキ」または「心を慰めるパン」という意味があります。蜂蜜やデーツ(ナツメヤシ)で甘みをつけた、病人のための栄養食・慰めの食事でした。
アムノンはこの「慰めの食べ物」を口実に、タマルを呼び寄せました。本来癒しと慰めのためのものが、悪用されたのです。
【もやもや⑤】恋が憎しみに変わった理由
「アムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった」(13:15)
「主がそうさせたのか?」
いいえ、これは神がそうさせたのではありません。これは肉欲と真の愛の違いを示しています。
アムノンが抱いていたのは「恋」ではなく「肉欲」でした。肉欲は満たされると空虚さと自己嫌悪を生みます。そして、その嫌悪を相手に向けるのです。
真の愛は相手を尊重し、犠牲を払います。肉欲は相手を利用し、使い捨てにします。
【もやもや⑥】ダビデの父親としての失敗
「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った」(13:21)
「怒っただけでは親としての務めになってなくて、本人に叱り、対応しなければならなかったのでは?」
その通りです。ダビデは「激しく怒った」だけで、何もしませんでした。なぜか?
自分の罪が彼を縛っていたのです。
ダビデ自身がバテシェバとの姦淫を犯していました。息子の性的な罪を裁く道徳的権威を、彼は失っていたのです。
罪は私たちから権威を奪います。正しいことを言う力、正しいことをする力を奪うのです。
もしダビデがアムノンを適切に裁いていたら、アブシャロムは私刑に走らず、後の謀反も起きなかったかもしれません。親の罪は、世代を超えて影響を与えるのです。
3. マタイ27章 ― 呪いの叫びがきよめの血に
【もやもや⑦】「その血は私たちの上に」
「すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」(27:25)
これは恐ろしい呪いの言葉です。「無実の人の血の責任を、自分たちと子孫が負う」という宣言です。
そして歴史的に見れば、この言葉は成就しました。AD70年のエルサレム陥落、その後の離散と迫害…
しかし、福音はここで終わりません。
わずか50日後のペンテコステの日、ペテロはこう宣言しました:
「あなたがたが十字架につけて殺したこのイエスを、神は、主またキリストとされました」(使徒2:36)
そして、その日、三千人が救われました(使徒2:41)。
「血を私たちに」と叫んだその同じ群衆の中から、その血によってきよめられる者たちが起こされたのです。呪いの叫びが、祝福の源となったのです。
バラバの釈放 ― 私たちの姿
「バラバ」はヘブライ語で「בַּר־אַבָּא」(バル・アッバー)、「父の息子」という意味です。
罪人である「父の息子」が釈放され、義なる神の御子が処刑される。これが恵みの本質です。
私たちはみな「バラバ」です。本来裁かれるべき罪人が、キリストの身代わりによって赦される。これが福音です。
4. 三か所を貫くテーマ ― 呪いを祝福に変える神
今日の三つの箇所に共通するのは、「人間の罪と混乱の中で、神がご自身の計画を進められる」というテーマです。
- 創世記30章 ― 姉妹の嫉妬と争いから12部族が誕生
- 第二サムエル12-13章 ― ダビデの罪からソロモンが誕生し、メシアの系図へ
- マタイ27章 ― 群衆の呪いの叫びが、きよめの血となった
ヨセフの言葉が響きます:
「あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとされました」(創世記50:20)
おわりに ― あなたの「呪い」も祝福に
あなたの人生にも「呪い」のように感じる出来事があるかもしれません。
- 過去の罪の結果として今も苦しんでいること
- 他者から受けた傷
- 理不尽な状況
- 世代を超えて続く問題
しかし、神はそれらをも用いて、祝福を生み出すことができるお方です。
神の赦しは「なかったことにする」ではありません。「それでもあなたを愛し、あなたと共に歩む」という宣言です。
罪の結果は残るかもしれません。しかし、神の恵みはそれを超えて働きます。
「呪いを祝福に変えてくださる神に、感謝します。」
今日の祈り
天の父なる神様、今日の御言葉を感謝します。人間の罪と混乱の中でも、あなたはご自身の計画を進めておられることを覚えます。私の人生にある「呪い」のように思える出来事も、あなたの御手の中で祝福に変えてくださることを信じます。イエス・キリストの十字架の血潮によって、すべての罪が赦され、呪いが祝福に変えられることを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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