目次
🔍 神の眼差し——人が見るところと、神が見るところ
2025年12月1日の通読箇所:創世記29:15-35、第二サムエル10-11章、マタイ26:47-75
はじめに——三つの箇所をつなぐもの
今日の通読は、創世記、サムエル記、マタイの福音書と、一見バラバラな箇所でした。しかし読み進めるうちに、これらが一つのテーマでつながっていることに気づかされました。
それは「見る」と「見られる」ということ。
人が何を見るのか。神が何をご覧になっているのか。そして、私たちが神に見られているとはどういうことなのか。
三つの箇所を通して、神の眼差しの深さを味わいたいと思います。
📖 第一部:レア——人に愛されなかった女性(創世記29章)
「レアの目は弱々しかった」
創世記29章17節には、こう記されています。
「レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。」
ヘブライ語で「弱々しい」と訳された言葉は רַךְ(ラク)で、「柔らかい」「繊細な」という意味もあります。必ずしも否定的な言葉ではないのですが、続く「ラケルは姿も顔だちも美しかった」との対比で、レアが外見で劣っていたことが暗示されています。
ヤコブはラケルを愛し、彼女のために7年間働きました。その7年間が「ほんの数日のように思われた」(29:20)ほどの愛でした。しかし結婚の夜、ラバンの策略でレアがヤコブのもとに送られます。
朝になって気づいたヤコブの怒り、そしてレアの立場を想像すると胸が痛みます。愛されていないことを知りながら、夫のそばにいなければならない——それがレアの人生でした。
神の眼差し——「主はレアがきらわれているのをご覧になった」
しかし聖書は、驚くべきことを記しています。
「【主】はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。」(29:31)
人に愛されなかったレアを、神は見ておられました。そして、彼女の胎を開かれたのです。
四人の息子の名前に見る、レアの霊的成長
レアが産んだ四人の息子の名前を順番に見ると、彼女の心の変化が見えてきます。
ルベン(רְאוּבֵן):「見よ、息子を」
「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するだろう」(29:32)
シメオン(שִׁמְעוֹן):「聞く」
「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった」(29:33)
レビ(לֵוִי):「結びつく」
「今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから」(29:34)
ここまで、レアの視線はずっとヤコブに向いています。子供を産めば愛されるかもしれない——その切ない期待が込められています。
しかし、四人目で変化が起きます。
ユダ(יְהוּדָה):「主をほめたたえる」
「今度は主をほめたたえよう」(29:35)
夫の愛を求める言葉が消え、純粋な神への賛美だけが残りました。レアはここで、人からの承認を求めることから解放されたのではないでしょうか。
神の逆転——嫌われた女性からメシアと祭司が
そして驚くべきことに、この「ユダ」からダビデ王が、そしてメシアであるイエス・キリストが生まれます。また「レビ」からは祭司の系図が始まります。
人に愛されなかった女性から、王と祭司の系図が始まる——これが神の逆転です。
レアは外見で劣り、夫に愛されませんでした。しかし神は、その嫌われている者の苦しみをご存じで、王と祭司の子孫を残してくださいました。そう思うと、胸が熱くなります。
人の評価と神の評価は違う。神は人の外見ではなく、心をご覧になる方なのです。
⚔️ 第二部:ダビデ——勝利と堕落(第二サムエル10-11章)
周辺諸国を従属させた輝かしい勝利(10章)
第二サムエル10章は、ダビデ王国が最大の勢力を誇った時代の戦いを記しています。
事の発端は、アモン人の王ハヌンがダビデの弔問使者を辱めたことでした。ひげを半分剃り、衣を切って尻が見えるようにして送り返すという、古代中東では最大級の侮辱です。
危機を感じたアモン人は、北方のアラム諸国から傭兵を雇います。
- ベテ・レホブとツォバのアラム:歩兵2万
- マアカ王:兵士1千
- トブ:兵士1万2千
計3万3千以上の大軍が、イスラエルに向かって来たのです。
戦いの地理と流れ
この戦いを理解するには、地理的な位置関係を把握することが助けになります。
下のリンクから位置関係を確かめることができます
👇
⚔️ 第二サムエル10章:ダビデのアモン・アラム戦争
1. 発端
2. 二方面作戦
3. 再結集
4. 決戦 地中海 ユーフラテス川 ヨルダン川 死海 ガリラヤ イスラエル ギルアデ アラム地域
⭐ エルサレム A ラバ (アモン首都) T トブ (1万2千) M マアカ (1千) B ベテ・レホブ Z ツォバ (歩兵2万) H ヘラム (決戦地) ダマスコ ヘルモン山
傭兵招集 ヨアブ軍 アラム連合軍 逃走 川向こうから援軍 集結地点
ダビデ全軍出陣 ⚔ 決戦! → アラム諸王服属 → アモン孤立
凡例 イスラエル(ダビデ軍) アモン・敵国 アラム諸国(傭兵)
1. 発端と雇兵(10:1-6)
アモン王ハヌンがダビデの弔問使者を辱め、北方のアラム諸国を傭兵として雇いました。ベテ・レホブ、ツォバ、マアカ、トブから計3万3千以上の大軍がアモンに集結します。
2. ヨアブの二方面作戦(10:7-14)
ヨアブは前後を敵に挟まれる危機的状況で、軍を二分。自らはアラム連合軍に、弟アブシャイはアモン軍に対峙しました。アラムが逃走し、アモンも城内に撤退。ヨアブはエルサレムに帰還します。
3. アラムの再結集(10:15-16)
敗北したアラムはユーフラテス川の向こうからも援軍を招集し、ヘラムに集結。将軍ショバクが指揮を執りました。
4. ダビデの決戦と勝利(10:17-19)
ダビデ自ら全イスラエルを率いて出陣。アラムを完全に打ち破り、将軍ショバクを討ち取りました。結果、アラム諸王がイスラエルに服属し、アモンを見捨てました。
🛡️ ヨアブの戦略と信仰(10:11-12)
「もし、アラムが私より強ければ、おまえが私を救ってくれ。もし、アモン人がおまえより強かったら、私がおまえを救いに行こう。強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。【主】はみこころにかなうことをされる。」
🤝 相互援助の約束
兄弟アブシャイとの信頼関係。どちらかが苦しめば、もう一方が助ける。
💪 全力を尽くす決意
民のため、神の町々のために。自分のためではなく、より大きな目的のために戦う。
🙏 神への委ね
「主はみこころにかなうことをされる」——結果は神に委ね、最善を尽くす信仰。
しかし、その直後に……(11章)
10章の輝かしい勝利の直後、11章では信じられない出来事が起こります。
「年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」(11:1)
王が出陣すべきときに、ダビデは宮殿にとどまっていました。そして——
「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。」(11:2)
「見た」ダビデ——外見に惑わされた堕落
ここで思い出すのは、かつてダビデが王として選ばれたときの神の言葉です。
「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)
外見で判断されずに選ばれた人が、今度は外見に惑わされて罪を犯している——なんという皮肉でしょうか。
ダビデはバテ・シェバと姦通し、彼女が妊娠すると、その夫ウリヤを戦場の最前線に送って殺させます。忠実な部下を、自分の罪を隠すために殺したのです。
神の眼差し——「主のみこころをそこなった」
ダビデはすべてを隠し通したつもりでした。ヨアブにも口裏を合わせさせ、バテ・シェバを正式に妻として迎え入れました。
しかし、11章の最後の一文が、すべてを照らし出します。
「しかし、ダビデの行ったことは【主】のみこころをそこなった。」(11:27)
誰にも見られていないと思った場所で、神は見ておられました。ヨアブをごまかせても、人々をごまかせても、主の目は見抜いておられたのです。
10章でヨアブが言った「主はみこころにかなうことをされる」という言葉が、11章では「主のみこころをそこなった」という形で裏返しになっています。勝利の直後の油断——霊的な危機は、最も順調なときに訪れるのかもしれません。
ここで一つのゴスペルの賛美が思い出されました。
「栄光 栄光 イエスにあれ、栄光 栄光 イエスにあれ、御座にいます子羊よ、ほむべきお方、あなたは統べ治める 永遠に正義を持って」
王であろうが、弱い者であろうが、悪いことは悪い。神は真の正義をもって判断される方。御心にかなった愛する王であっても、悪を行ってごまかすことは主のみこころを損なうのです。
✝️ 第三部:ペテロ——弱さを隠せない(マタイ26章)
「遠くからイエスのあとをつけながら」
マタイ26章では、イエスの逮捕と裁判が記されています。
ゲッセマネでイエスが捕らえられたとき、「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」(26:56)と記されています。しかしペテロは、完全には逃げませんでした。
「しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。」(26:58)
近づきたいけど、近づけない。その中途半端な距離感が、三度の否認につながったように思います。
12軍団とは?
少し脱線しますが、26章53節でイエスが言われた「12軍団」について触れておきます。
「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」
これはローマ軍の単位を使った表現です。1軍団(レギオン)は約6,000人の兵士ですから、12軍団は約72,000人。しかもイエスは「それ以上」とおっしゃっている。
圧倒的な力を持ちながら、あえてそれを使わない選択をされた。これがイエスの愛と従順の深さです。
三度の否認
話を戻しましょう。ペテロは三度、イエスを知らないと言いました。
1回目:「何を言っているのか、私にはわからない」(26:70)
2回目:「そんな人は知らない」と誓って(26:72)
3回目:「そんな人は知らない」とのろいをかけて誓い(26:74)
回を重ねるごとに、否認は激しくなっていきます。
主の眼差し——振り向いて見つめられた
するとすぐに、鶏が鳴きました。そしてペテロは、イエスの言葉を思い出します。
「『鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」(26:75)
ルカの福音書の並行箇所には、心を打つ一文があります。
「主は振り向いてペテロを見つめられた。」(ルカ22:61)
逮捕され、殴られ、唾をかけられている最中に、イエスはペテロを見つめられたのです。責める目ではなく、おそらく「わたしはあなたを知っている」という眼差しだったのではないでしょうか。
ペテロが「激しく泣いた」のは、その視線を受けたからだと思います。
この失敗があったから
この失敗があったからこそ、福音が力強い愛をもって伝えられることになったと感じています。自分の本当の姿、弱さを知っている人は、他者の弱さに共感でき、愛をもって赦すことができるのです。
後にペテロは、教会の柱として立てられます。そして彼の手紙には、苦しみの中にある人々への深い励ましが満ちています。それは、自分自身が弱さを通して主の恵みを経験したからこそ書けた言葉でしょう。
✨ 結論——神の眼差しの三つの側面
今日の三箇所を通して、神の眼差しの三つの側面を見ました。
1. レアに対して——苦しむ者への「慰め」の眼差し
「主はレアがきらわれているのをご覧になった」(創世記29:31)
人に愛されない苦しみの中で、神は見ておられました。そして、その苦しみを通して祝福を与えられました。
2. ダビデに対して——罪を犯す者への「光」の眼差し
「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」(Ⅱサムエル11:27)
誰にも見られていないと思った場所で、神は見ておられました。隠された罪を照らし出す、聖なる光です。
3. ペテロに対して——弱さを隠す者への「回復への招き」の眼差し
「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)
自分を守ろうとして失敗したペテロを、イエスは責める目ではなく、回復への招きの目で見つめられました。
同じ「見られている」でも
同じ「見られている」でも、私たちがどこに立っているかで、その意味は変わります。
- 苦しみの中にいるなら、神の眼差しは慰めです。
- 罪の中にいるなら、神の眼差しは光であり、悔い改めへの招きです。
- 弱さの中にいるなら、神の眼差しは回復への希望です。
どの場合も、神は私たちを見捨てる目ではなく、愛をもって見つめておられます。
「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)
今日も、この神の眼差しの中を歩んでいきたいと思います。
📖 今日の通読箇所
- 創世記29:15-35
- 第二サムエル10:1-11:27
- マタイ26:47-75



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