目次
創世記23章、第一サムエル記8-9章、マタイ23章から
はじめに
「今日はあまり深い啓示がなかった…こんな日もあるのかも」
通読を終えて、正直にそう感じる日がありました。でも、振り返ってみると、この「啓示がない」と感じた日にこそ、大切なことが教えられていたのだと気づかされました。
それは、心の方向性についてです。
三つの「見えない取引」
今日の箇所には、三つの「取引」が描かれています。表面的には異なる出来事ですが、そこには共通するテーマが流れています。
第一の取引:アブラハムとエフロン(創世記23章)
サラが死に、アブラハムは埋葬地を求めます。ヒッタイト人エフロンとの交渉シーンで、ヘブル語の「נָתַתִּי」(ナタッティ、「差し上げます」)という言葉が何度も繰り返されます。
「あの畑地をあなたに差し上げます」 「洞穴も差し上げます」
しかし最終的に、アブラハムは「銀四百シェケル」という当時としてはかなりの高額を支払います。エフロンは公の場で「差し上げます」と言いながら、実際には高値を要求していたのです。
それでもアブラハムは文句を言わず、正当な所有権を得ることを優先しました。彼は「גֵּר וְתוֹשָׁב」(ゲール・ヴェトシャーヴ、「寄留者」)として、約束の地で最初の法的所有権を得たのです。これは目先の損得ではなく、信仰の方向性の問題でした。
第二の取引:イスラエルの民と神(第一サムエル記8章)
イスラエルの民は「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」と求めます。
神様の応答は衝撃的です。
「彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから」
神様は、ご自身が拒絶されることを知りながらも、「彼らの声を聞き入れよ」と言われます。サムエルは詳細に「王の権利」—圧政の実態—を説明しますが、民は聞きません。
「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です」
第三の取引:パリサイ人と改宗者(マタイ23章)
イエス様は、パリサイ人たちの宣教の熱心さについて語られます。
「一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にする」
ギリシャ語の「διπλότερον」(ディプロテロン、「二倍」)という言葉が強烈です。改宗者は、元のパリサイ人の倍の熱心さで間違った方向に進みます。なぜなら、彼らは「προσήλυτον」(プロセリュトン、「改宗者」)として、神様ご自身ではなく、パリサイ人のシステムに改宗させられていたからです。
見える形と心の方向性のズレ
これら三つの取引に共通するのは、見える形と見えない心の方向性のズレです。
- エフロン:「差し上げます」と言いながら、実は高値で売りつける
- イスラエル:「神様に仕えます」と言いながら、実は神様の統治を拒絶する
- パリサイ人:「神様に仕える者を増やす」と言いながら、実は神様から遠ざける
しかしアブラハムは違いました。彼は高額を払わされても、約束の地における最初の正当な足場を得ることを選びました。これは信仰の方向性の問題だったのです。
興味深いことに、アブラハムが購入したこの土地は「マムレに面するマクペラ」、すなわちヘブロンです。後にダビデが最初に王となる場所です。族長たちの墓所がある場所が、後の王国の出発点となりました。
サウルの登場—方向性の予兆
第一サムエル記9章のサウルの登場シーンも、実は皮肉に満ちています。
「雌ろばを探して」予見者のところに来た男が、「王になる」と告げられます。しもべが持っていたのは「四分の一シェケルの銀」—アブラハムがサラの墓地に払った四百シェケルの千六百分の一です。
「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか」
謙遜に見えるサウルの言葉。しかし後に彼は、その謙遜さを失い、神様より人の目を気にする王になっていきます。
サムエルは「もも肉」(ヘブル語:שׁוֹק、ショーク)をサウルに与えます。これは祭司の取り分として神聖な部分です。しかしこの「取り分けられた肉」を受け取る男は、後に「取り分けられた王としての聖別」を軽んじることになります。
クリスチャンとしての適用:熱心さと方向性
マタイ23章でイエス様が警告されたのは、熱心さそのものではありません。むしろ問題は、方向性でした。
「海と陸を巡り歩く」ほどの情熱。でも方向が間違っていたら、熱心さは毒になります。
「人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」
私たちもブログを書き、聖書を分かち合い、「海と陸を巡り歩く」ように情報を発信します。でもその時、問いかけられるのは:
人々を何に改宗させようとしているのか?
- 私たちの解釈に?
- 私たちの神学体系に?
- 私たちの教会文化に?
それとも、生きておられるイエス様ご自身に?
サムエルは偉大な預言者でしたが、息子たちは「父の道に歩まず」(ヘブル語:וְלֹא־הָלְכוּ בָנָיו בִּדְרָכָו、ヴェロ・ハルフ・バーナーヴ・ビドゥラハーヴ)と記されています。でも孫の世代にヘマンが生まれます。信仰継承は必ずしも直線的ではなく、神様の計画は私たちの失敗を超えて働きます。
結び:完璧でなくても本物でいい
「今日は啓示がなかった」と感じる日もあります。
でも振り返ってみると、その日にこそ心の方向性を問われていたのかもしれません。
表面的に「すごい啓示!」と興奮するような箇所ではなかったけれど、静かに、しかし確実に、大切なことが教えられていました。
- 毎日が「すごい啓示!」だったら、それは啓示への中毒になる
- 毎回が「深い洞察!」だったら、それは洞察の偶像化になる
でも、淡々と「今日はこんな感じだった」と言える。そして、その中で心の方向性が正しく保たれていること。それが、本物の霊的成長なのではないでしょうか。
私たちの奉仕が、人々を私たちのシステムに改宗させるのではなく、生きておられるイエス様との出会いに導く場所であり続けますように。
完璧でなくても、本物でいい。
そう思える日々を、主に感謝します。
追記:マクペラ—天と地が折り重なる場所
(忘れたくないことなのでここに追記します)
この記事を書いた後、檜原シャローム教会の愼悟先生の早天礼拝メッセージから、さらに深い洞察を与えられました。
マクペラ(מַכְפֵּלָה、マフペーラー)という名前は、「二重」「折り重なった」という意味のヘブル語です。語根の「כָּפַל」(カーファル)は「二倍にする」「折り重ねる」という意味を持っています。
アブラハムがマクペラを購入した時、そこには二重の意味がありました:
物理的な二重性
- 地上の畑地と地下の洞穴
- 目に見える所有権と、目に見えない墓所
神学的な二重性—天と地が重なる場所
ヘブル人への手紙は、アブラハムの信仰についてこう記しています:
「信仰によって、アブラハムは…約束の地に他国人のようにして住み…彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」(ヘブル11:9-10)
「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」(ヘブル11:16)
アブラハムは高額の銀四百シェケルを払って、たった一つの墓地を購入しました。神様は「この地全体をあなたの子孫に与える」と約束されていたのに、妻を葬るために土地を買わなければならなかったのです。
なぜでしょうか?
それは、アブラハムが求めていたのは、地上の所有だけではなく、天の故郷への証しでもあったからです。
マクペラは、天と地が折り重なる場所となりました:
- 地上では:族長たちの遺体が眠る
- 天では:彼らの霊は神のもとにある
- 信仰では:復活の希望が宣言されている
アブラハムは自分を「גֵּר וְתוֹשָׁב」(ゲール・ヴェトシャーヴ、「寄留者であり滞在者」)と呼びました(創世記23:4)。これは単なる謙遜ではなく、神学的な宣言でした:
- 私はこの地上に永遠の住まいを持たない
- でも、神が約束された地に、信仰の足場を置く
- 天の故郷を望みながら、地上の責任を果たす
これこそが、本物の「二重生活」—マクペラ的な生き方です。
パリサイ人たちは地上的な宗教活動に熱心でしたが、心は天に向いていませんでした。
アブラハムは地上的な責任を果たし(墓地を購入し)、そして心は常に天に向いていました。
私たちの心の方向性も、このマクペラのように:
- 地上での責任を誠実に果たしながら
- 常に天の故郷を望み見る
そんな「折り重なった」生き方でありたいと願います。


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