「水」が象徴する聖書の真理:御言葉と聖霊の不可分な関係
はじめに
聖書を読んでいると、「水」という象徴が頻繁に登場します。生ける水、洗いの水、命の水…。これらは何を意味しているのでしょうか?
今日、エペソ5:26の「みことばにより、水の洗いをもって」という表現を深く黙想する中で、聖書における水の象徴の統合的理解に導かれました。それは、聖霊と御言葉、そして主イエスご自身が、一つの真理として啓示されているという発見です。
エペソ5:26が示す「水」の意味
エペソ5:25-26 「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたのと同じように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり」
この箇所で、パウロは「みことばにより(ῥήματι / レーマティ)」と「水の洗い(λουτροῦ τοῦ ὕδατος / ルートルー トゥー ヒュダトス)」を並行して語っています。
ここで重要なのは、水とみことばが別々のものではないということです。むしろ、みことばそのものが洗いの水として機能するのです。
詩篇119:9の証言
詩篇119:9 「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」
ヘブル語で「きよく保つ(זָכָה / ザーカー)」という動詞には、洗う、清めるという概念が含まれています。つまり、御言葉は霊的な洗いの水として機能するのです。
聖霊は「生ける水の源」
一方で、聖書は聖霊を「生ける水」として啓示しています。
ヨハネ7:37-39 「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」
ここでヨハネは明確に、生ける水 = 聖霊と解説しています。
ヨハネ4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
聖霊は尽きることのない水の源泉なのです。
主イエスは「生ける御言葉」そのもの
そして、この二つの真理は、主イエス・キリストという一つの人格において統合されています。
ヨハネ1:1, 14 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
主イエスはロゴス(λόγος)= 御言葉そのものです。
ヨハネ6:63 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
ここで主イエスは、ご自身の語られる言葉が霊であると宣言されています。御言葉と御霊は分離できないのです。
統合的理解:三つの真理は一つ
このように、聖書は次のことを啓示しています:
- 聖霊は生ける水の源泉 – 尽きることのない命の源
- 御言葉は源泉から流れ出る水 – 私たちを洗い清める真理
- 主イエスは生ける御言葉そのもの – 真理を体現された方
これらは三位一体の神の働きの異なる側面であり、決して分離することはできません。
主イエスのバプテスマに見る統合
マタイ3:16-17 「イエスは、バプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
この場面で:
- **御子イエス(御言葉の受肉)**が水から上がられる
- **聖霊(水の源泉)**が鳩のように降って来られる
- 父なる神が天から声を発せられる
水・御言葉・聖霊が一つの場面に現れています。
実践的意味:「御聖霊様だけ」という誤り
この理解は、現代の教会における重要な誤りを正します。
時々、「御言葉は必要ない、御聖霊様だけでいい」という主張を耳にします。しかし、これは聖書的ではありません。なぜなら:
- 聖霊は御言葉から独立して働かれない – 聖霊は御言葉を通して、御言葉を照らし、御言葉を適用される
- 主観主義に陥る危険 – 何でも「聖霊の導き」と主張できてしまう
- 異端の温床となる – 歴史的に、御言葉から離れた「霊的体験」は常に異端を生み出してきた
2コリント3:6の正しい理解
「文字は殺し、御霊は生かす」という御言葉を、「聖書は必要ない」という意味に取る人がいます。しかし、パウロが対比しているのは:
- 旧約の律法の文字(石に刻まれたもの)
- 新約の御霊の働き(心に書き込まれるもの)
これは「聖書 vs 聖霊」ではなく、**「外的な規則 vs 内的な変革」**の対比です。
健全なバランス:御言葉と御霊の協働
ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
聖霊の働きは:
- すべてのことを教える – 御言葉の意味を啓示する
- 主イエスの言葉を思い起こさせる – 記された御言葉に立ち返らせる
つまり、聖霊は常に御言葉と協働して働かれるのです。
私たちの目標:御言葉を生きる
主イエスは単に御言葉を語られただけでなく、御言葉を生きられた方です。
ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
主イエスは真理を教えられただけでなく、真理そのものであられました。
私たちの目標も同じです:
2コリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
これは:
- 御言葉を読む(鏡を見る)
- 聖霊によって変えられる(水で洗われる)
- キリストに似た者となる(御言葉を生きる)
というプロセスです。
結論:教会形成の基本原理
エペソ5:26に戻りましょう:
「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする」
これは教会形成の基本原理です:
- 説教によって御言葉を語る
- 聖霊によって心に適用される
- 聖化のプロセスが進む
御言葉を軽視する教会形成は不可能です。同時に、聖霊の働きなしに御言葉は死んだ知識に過ぎません。
聖霊は水の源泉、そして源泉から流れる水そのものが御言葉。その両方を体現しておられるのが、生ける御言葉なる主イエス・キリストなのです。
聖書の意味する水について聖書初心者の為に書いたnote記事もぜひ読んでください。


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