目次
マタイ13章による霊的成熟への7つの段階
ヘブル語の聖書学習プロセスとの統合
はじめに – 忘れないための備忘録として
マタイ13章は神の国の民として成熟していく重要な段階を示している。イエス様は「種をまく人が種まきに出かけた」(マタイ13:3)から始まる7つのたとえ話を通して、御言葉がどのように私たちの中に実を結ぶかを教えられた。
「その時、正しい者たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:43)
この7つの段階は、ユダヤ人が聖書を学ぶ伝統的な7つのヘブル語プロセスと驚くべき一致を見せている。
この記事を書く動機について: 御言葉の七つのヘブル語については、以前から気になっていたのですが、その発音や意味を新宿シャローム教会の慎悟先生のお兄さんである俊先生や、牧師の真島先生にもLineメールで確認して教えていただきました。お三方とも以前レーマ聖書学院でご教授いただいた先生方です。
それでも、人間というのは悲しい生き物で(神様ごめんなさい、神様が「トーブ、非常に良い」と言って創造された人間を「悲しい生き物」なんて言って。でも、神様のどんな些細なことでも忘れてしまうことは、私にとっては正直悲しい思いがします)、どんなに大切なことでも、時が経つと忘れてしまいます。
そこで、いつでも見返すことができるよう、文明の力を使用して、自分のための備忘録として、また他の人にも共有するためにも、私のブログに整理しておきたいと思いました。
御言葉に取り組む理由
なぜ御言葉に取り組む必要があるのか。それは「持っているものはさらに与えられて豊かになり、持たないものは持っているものまで取り上げられてしまう」(マタイ13:12)からである。御言葉を持つ者にはさらに豊かな神の啓示が与えられるが、御言葉を持たない者は、与えられている確信や情熱さえもなくなってしまう。
群衆のための3つの段階(家の外で語られた教え)
1. 御言葉の朗読 – קָרָא(カラー)「声をかける・宣言する」
良い麦と毒麦のたとえ(マタイ13:24-26)
「良いタネを蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良いたねとは御国の子供たち」(マタイ13:37-38)
ヘブル語の深い意味:
- קָרָא(カラー) は単なる読書ではなく、「声を出して呼びかける、宣言する」という意味
- 申命記31:11「律法を彼らの前で朗読し(קָרָא)…」
- 御言葉を声に出して読むことは、神の言葉を宣言し、招く行為
霊的適用: 神の国の子どもとしてのアイデンティティを確立するため、まず御言葉を声に出して朗読する。赤ちゃんが愛を受けて自分が愛されるものであることを知るように、私たちも主の愛を宣言し、恵みを声に出して告白する必要がある。ペテロは言う:「生まれたばかりの乳飲み子のように純粋な御言葉の乳を慕い求めなさい」(1ペテロ2:2)
2. 御言葉の黙想と告白 – הָגָה(ハガー)「口ずさむ・黙想する」
からし種のたとえ(マタイ13:31-32)
「天の御国はからし種のようなものです。どんな種より小さいのですが、成長するとどの野菜よりも大きくなります」(マタイ13:31-32)
ヘブル語の深い意味:
- הָגָה(ハガー) は口の中で小声で反復する動作を表す
- 詩篇1:2「昼も夜もその律法を口ずさむ(הָגָה)」
- 感情や想像力を伴った味わい深い黙想
霊的適用: 御言葉を繰り返し口ずさみ、約束として告白する。詩篇1篇のように「昼も夜もその教えを口ずさむ」ことで、御言葉が私たちの約束となり、内側で生きて働くようになる。小さなからし種のような御言葉が、やがて空の鳥が巣を作るほどの大きな木となる。
3. 御言葉の暗唱 – שָׁמַר(シャマル)「守る・心に留める」
パン種のたとえ(マタイ13:33)
「天の御国はパン種のようなものです。女がパン種をとって3つの枡の粉の中に入れると、全体が膨らんできます」(マタイ13:33)
ヘブル語の深い意味:
- שָׁמַר(シャマル) は見張る、守る、心に留める
- ヨシュア1:8「この律法の書をあなたの口から離してはならない。昼も夜もそれを口ずさんで、そこに書かれていることをことごとく守り行わなければならない」
- 御言葉を心の宝物として大切に保管する
霊的適用: 御言葉を暗唱し、いつもそれがあるようにする。パン種のように御言葉が私たちの思い、心、人生全体を支配し、広がっていく。実際に問題や病気に直面した時、内側から御言葉が出てきて、不安ではなく信仰の言葉が私たちを支配する。
弟子たちのための4つの段階(家の中で語られた教え)
「それからイエスは群衆と別れて家に入られた」(マタイ13:36)
4. 御言葉の研究 – דָּרַשׁ(ダラッシュ)「探し求める・調べる」
畑に隠された宝のたとえ(マタイ13:44)
「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ13:44)
ヘブル語の深い意味:
- דָּרַשׁ(ダラッシュ) は熱心に探し出そうとする姿勢
- エズラ7:10「エズラは主の律法を求め(דָּרַשׁ)、これを行い…」
- ユダヤ的聖書解釈(ミドラーシュ)もこの語から派生
- 聖書の奥義を追い求める探究心
霊的適用: 御言葉の中に隠された宝を見出すため、原文を調べ、祈りを持って御言葉を探る。ここで重要なのは聖霊の導きである。文字だけにとらわれるなら「文字は殺す」(2コリント3:6)からである。御言葉を探れば探るほど葛藤が起こる。それは御言葉が「口には甘く、腹には苦い」(黙示録10:10)からである。
5. 御言葉の分かち合い – לָמַד(ラマド)「学ぶ・教える」
真珠のたとえ(マタイ13:45-46)
「また、天の御国は良い真珠を探している商人のようなものです。素晴らしい価値の真珠を一つ見つけた者は、行って、持ち物全部売り払ってそれを買ってしまいます」(マタイ13:45-46)
ヘブル語の深い意味:
- לָמַד(ラマド) は杖や棒を使って訓練する様子から来た語
- 申命記5:1「それを学び(לָמַד)…守り行え」
- 学ぶ者が教える者にもなる循環プロセス
- 単なる知識習得ではなく訓練(ディシプリン)
霊的適用: 御言葉を持って分かち合い、互いに教え合う。真珠は貝の苦しみから生まれるように、御言葉の葛藤と涙の祈りから真珠のような御言葉が生まれる。初代教会では一人ひとりが御言葉の教師であり、給食係のステファノでさえ「律法学者、パリサイ人が歯ぎしりして言い返すことができない」ほどのメッセージを語った。
6. 御言葉を教える – שָׁפַט(シャパット)「裁く・判断する・導く」
地引網のたとえ(マタイ13:47-48)
「また、天の御国は海に下ろしてあらゆる種類の魚を集める地引網のようなものです」(マタイ13:47-48)
ヘブル語の深い意味:
- שָׁפַט(シャパット) は裁く、判断する、導くという意味
- 教える者が正しい判断力を持って教えること
- 士師記の「さばきつかさ」もこの語から
- 真理と偽りを見分ける力
霊的適用: 御言葉を教える者となり、地引網のように人の魂を捉える漁師となる。パウロがテモテに言ったように「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりとしなさい」(2テモテ4:2)。真理と偽りを見分ける力を持ち、人々を主のもとに導く。
7. 御言葉と一体になる – עָשָׂה(アサ)「行う・実行する」
蔵のたとえ(マタイ13:52)
「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の蔵から新しいものでも古いものでも取り出す一家の主人のようなものです」(マタイ13:52)
ヘブル語の深い意味:
- עָשָׂה(アサ) は具体的な行動・実践を意味
- ヨシュア1:8「すべてそこに書かれていることを行う(עָשָׂה)」
- 最終的な目的は実行
- ヤコブ1:22「御言葉を行う人になりなさい。聞くだけの者であってはいけません」
霊的適用: 最終的に私たちは神の国の学者となる。古いものからも新しいものからも取り出して、人々に提供することができる。これは御言葉を実行する人、さらに言うなら御言葉が結び付けられた人、さらに言うなら御言葉と一体になった人になることを意味する。私たちを見るとき、主の御言葉が見える。私が口を開くとき、主の御言葉があらわされる。
聖アントニウスの証し: 4世紀の聖アントニウスは、荒野で礼拝する礼拝者たちの集まりにいた。聖アントニウスが主の御前にひざまずき礼拝するその姿を見るだけで、人々が言葉を語らずとも礼拝の中に入っていった。なぜなら、聖アントニウスが日々イエス様と歩んでいるその歩みが人々に証されたからである。
ある時、迫害のある地域に聖アントニウスが出て行った。その所では多くのクリスチャンたちが迫害され、殉教していた。そこに聖アントニウスが行くと、なんと迫害している敵が教会に集まってきた。そして聖アントニウスの教えを彼らが求めてやってきた。アントニウスは自分を迫害する者のところに大胆に御言葉を語った。そこに悔い改めの雨が降った。
そして人々は聖アントニウスを見て言った:「まさにこの街に来たのは聖アントニウスではなく、この街に来たのはイエス様ご自身がこの街に来られた。礼拝で語っていたのはまさしく聖アントニウスが語っていたのではなく、イエス様ご自身があの場所で語っておられた」。そのように人々はイエス様を彼の姿を通して見たのである。
最終的な目標: 私たちが歩くとき、そこに主ご自身の姿があらわされる。パウロはこれをキリストの香りと呼んでいる。私が行くところにイエス様の栄光が表され、イエス様の姿が表され、イエス様ご自身があらわされる。それが私たちの地上での重要なクリスチャン生活の目標である。
私たちは単に食べて飲んで、祈って、日曜日教会に来て終わりではない。日々の生活で主と共に歩み、日々の生活で献身し、御言葉と一体にされていく。そしてここにいる人たちを見るとき、人々は「イエス様がいる。ああ、イエス様だ。この人の中にまさにイエス様が生きておられる」と見るようになる。
初代教会の時代には、世の学者たちが御言葉の学者となった者たちのもとに、知恵を求めて、導きを求めてやってきた。私たちが神の国の学者となるとき、人々が私たちの中にあるイエス・キリストを求めてやってくるようになる。
しかし、最終的な本当の目標は主イエスご自身である。
ヘブル語7段階の完全なプロセスと創世記の召しの統合
- קָרָא(カラー) — 声に出して宣言する – 御言葉の朗読
- הָגָה(ハガー) — 心と口で反復・黙想する – 御言葉の黙想
- שָׁמַר(シャマル) — 守る、心に留める – 御言葉の暗唱
- דָּרַשׁ(ダラッシュ) — 深く探究する – 御言葉の研究
- לָמַד(ラマド) — 訓練し、教える – 御言葉の分かち合い
- שָׁפַט(シャパット) — 判断し、導く – 御言葉を教える
- עָשָׂה(アサ) — 実行する – 御言葉と一体になる
+ עָבַד(アヴァド) — 働く・仕える・礼拝する(7つ全体を貫く基本姿勢)
創世記2:15との驚くべき発見 – 富田慎悟牧師の教えから
この整理の過程で、重要な発見がありました。ヘブル語の**שָׁמַר(シャマル)「守る・心に留める」**は、創世記2:15の「耕し、守る」の「守る」と全く同じ語であることに気づいたのです。
創世記2:15: 「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」
- 「耕させ」= עָבַד(アヴァド)
- 「守らせた」= שָׁמַר(シャマル)
富田慎悟牧師先生の教え: 新宿シャローム教会の富田慎悟牧師先生が礼拝でいつもおっしゃっている創世記2:15の解釈によると:
- עָבַד(アヴァド)- 耕す = 奉仕・祭司の仕事
- שָׁמַר(シャマル)- 守る = 見張り・とりなしの祈り・王の仕事
つまり「王であり祭司」を意味するとのことです。
この発見の意義は計り知れません:
御言葉を心に守る(שָׁמַר)ことは、人間の本来の召しの回復
- アダムがエデンの園を守ったように、私たちは心の園で御言葉を守る
- 外的な楽園は失われたが、内的な楽園(御言葉が住む心)は回復可能
- エゼキエル書の「見張り人」の使命とも連結(詳細は後述)
עָבַד(アヴァド)の包括的な役割: 興味深いことに、עָבַד(アヴァド)「働く・仕える・礼拝する」は7つの段階には直接含まれていませんが、これは7つの段階全体を貫く基本姿勢として理解できます。すべての御言葉の学びは、神への礼拝行為そのものなのです。
王であり祭司の召し: この召しは、すべてのクリスチャンに与えられたものです(1ペテロ2:9、黙示録1:6)。御言葉の7つの段階は、この王であり祭司としての召しを全うするための道筋なのです。
エゼキエル書の「見張り人」の使命 – שָׁמַר(シャマル)の深い意味
エゼキエル書の「見張り人」(צֹפֶה – ツォフェ)の概念は、**שָׁמַר(シャマル)**と深くつながる重要な真理です。
主要箇所
エゼキエル3:17-21 と エゼキエル33:1-9 に詳しく記されています。
エゼキエル3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞いて、わたしに代わって彼らに警告せよ。」
エゼキエル3:18-19 「わたしが悪者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたが彼に警告せず、悪者にその悪い道から離れて生きのびるよう語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のゆえに死ぬ。そして彼の血の責任をわたしはあなたに問う。しかし、あなたが悪者に警告したのに、彼がその悪から悔い改めず、その悪い道から離れないなら、彼は自分の咎のゆえに死ぬ。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」
エゼキエル33:6 「しかし、見張り人が剣の来るのを見ながら角笛を吹かず、民が警告を受けないため、剣が来て、彼らの中のひとりでも取り去られるなら、その者は自分の咎のために取り去られるが、その血の責任をわたしは見張り人に問う。」
エゼキエル33:8-9 「わたしが悪者に『悪者よ、あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたがその悪者に語りかけて、その道から離れるよう警告しないなら、その悪者は自分の咎のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。しかし、あなたがその悪者に、その道から離れるよう警告したのに、彼がその道から離れないなら、彼は自分の咎のゆえに死に、あなたは自分のいのちを救うことになる。」
見張り人の具体的な使命
1. 警告する責任
- 神の言葉を聞いて、人々に警告を発する
- 悪者には「必ず死ぬ」と告げる(エゼキエル3:18-19、33:8-9)
- 正しい者が罪を犯すときは警告する(エゼキエル3:20-21、33:12-13)
※現代への適用における重要な注意: エゼキエルの時代の「悪者」への警告は、主に契約の民イスラエルに対する神の裁きの文脈でした。現代の福音宣教においては、「必ず死ぬ」という厳しい言葉をそのまま用いることは、かえって人々をキリストから遠ざけてしまう危険があります。特に日本では、恐怖による宗教的勧誘は「宗教的虐待」と受け取られ、福音への大きな躓きとなります。
私たちにできることは:
- 愛をもって祈ることが最も重要
- あからさまなコンプライアンス違反や罪については、愛をもって真理をはっきり伝える
- しかし、自分の力ではなく、主の霊によって宮が建て直されるよう祈り求める(ゼカリヤ4:6「万軍の主は仰せられる。権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」)
- 福音は恐怖ではなく、神の愛と恵みを中心として伝える
2. 血の責任
- 警告しなければ、その人の血の責任を問われる
- 警告したなら、聞かなくても見張り人は責任から免れる
3. 神の代弁者として
- 「わたしの口からことばを聞いて」
- 自分の言葉ではなく、神の言葉を語る
שָׁמַר(シャマル)との関連
**見張り人(צֹפֶה – ツォフェ)と守る(שָׁמַר – シャマル)**は密接に関連しています:
- צֹפֶה(ツォフェ) = 見張る、観察する、警戒する
- שָׁמַר(シャマル) = 守る、見張る、保持する
両方とも「注意深く見守る」概念を含んでいます。
現代への適用 – すべてのクリスチャンへの召し
1. 御言葉の見張り人として
- 神の言葉を心に蓄え(שָׁמַר)
- 真理と偽りを見分ける
- 愛と知恵をもって必要な時に語る
2. とりなしの祈り
- 霊的な危険を察知して祈る
- 教会と信者のために見張る
- まだ主を知らない家族や友人のために祈る
- 神の御心を求めて警告する
3. 牧者的心
- 愛をもって警告する
- 自分の言葉ではなく神の言葉で語る
- 血の責任を感じて忠実に仕える
- 恐怖ではなく愛によって福音を伝える
王であり祭司の召しとの統合
王の職務として:
- 民を守る見張り人の責任
- 正義と真理を宣言する権威
祭司の職務として:
- 神と人との間に立つ
- とりなしの祈りを捧げる
- 神の言葉を正確に伝える
「主よ、私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」(詩篇141:3)
エゼキエルの見張り人の使命は、私たち一人ひとりが御言葉をשָׁמַר(守り)、神の民として互いを愛し、警告し、守り合う責任を示しています。これこそが、創世記2:15の「耕し、守る」召しの完全な現れなのです。
伝授の回復
初代教会には教えることと伝授することの二つの柱があった。パウロは言う:「あなたがたがわたしから学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば平和の神があなたがたと共にいてくださいます」(フィリピ4:9)
現代の教会は福音を知る人を作るが、初代教会は福音に従う人々を作った。私たちは御言葉の人を立て上げ、キリストの道に従う者たちを育てていく使命がある。
結論
「聞く耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:9)
私たちは群衆にとどまらず、キリストの弟子として御言葉と一体になった人となることを目指す。それは単なる教会活動ではなく、日々の生活で主と共に歩み、私たちを通してイエス様ご自身の姿が表される生き方である。
ヘブル語の7つのプロセスが示すように、聖書の学びは単なる知識の習得ではなく、宣言から始まり実行に至る完全な変革のプロセスである。これこそが神の国の民として生きる真の霊的成熟への道である。
「主よ、あなたの御言葉は私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)
編集後記: この整理は、私自身の備忘録として、そして他の方々との分かち合いのために書かせていただきました。人間の限界で、どんなに大切な神様からの恵みも時と共に薄れがちですが、記録として残すことで、いつでも思い起こすことができます。
多くの方々がこのブログを通して祝福を受け、王であり祭司としての召しを新たにされることを確信しています。
すべての栄光を、私たちを王であり祭司として召してくださった主イエス・キリストにお捧げいたします。アーメン。
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