——恐れるな、わたしがともにいる——
通読箇所:民数記21章/イザヤ書41章・42章/コリント人への手紙第二 1章12-24節
蛇に噛まれた荒野の民が助かったのは、薬でも、戦いでもなく、ただ青銅の蛇を「仰ぎ見た」からでした。なぜ、目を上げるだけで人は生きるのでしょうか。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」——この言葉は、なぜ二千年を越えて、今も人の心を支えるのでしょうか。そして、福音を伝える者・教える者・仕える者は、人の信仰を導く「支配者」なのでしょうか、それとも別の何かなのでしょうか。今日の三つの箇所——荒野の記録、預言者の詩、使徒の手紙——には、時代も場所も超えて、二本の糸が、より合わさるように流れています。
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第一部:民数記21章——青銅の蛇、仰ぎ見れば生きる——
荒野の旅は、終盤に近づいてもなお、同じ場所をぐるぐると回っているように見える。21章は、エドムの地を迂回する遠回りから始まる。約束の地は目の前にあるのに、まっすぐ入れない。この「遠回り」こそが、民の忍耐を削り取っていく。
「民は、途中でがまんができなくなり」(4節)。そして再び、神とモーセに逆らう。「なぜ私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」(5節)。注目したいのは、この呟きの矛盾だ。「パンもない」と言いながら、同じ口で「このみじめな食物に飽き飽きした」と言う。彼らが「みじめな食物」と呼んでいるのは、天から降るマナ——神が毎朝、約束を破ることなく与え続けてきた恵みそのものである。恵みに慣れると、人はそれを「みじめなもの」と呼び始める。これは荒野の民だけの話ではない。
そこへ「燃える蛇」が送られる。この「燃える」という言葉、発音はサラフ。「燃える、焼く」という意味で、噛まれた傷が火のように熱を持つことを指すとも、その姿が燃えるようだったとも言われる。ここで興味深いのは、この語が、イザヤ6章で神の御座のまわりを飛んでいた「セラフィム」と同じ語根だということ。天では神を賛美して燃える存在が、荒野では裁きの使いとなる。同じ炎が、立つ場所によって意味を変える。
民は悔い改め、モーセに執り成しを求める。ここで神が示された救いの方法が、聖書全体でも屈指の不思議さを持っている。神は蛇を取り去らない。噛まれること自体は止まらない。代わりに、青銅で一匹の蛇を作らせ、旗ざおの上に掲げ、「噛まれた者が、それを仰ぎ見れば生きる」と言われた(8-9節)。
この「仰ぎ見る」、発音はナバト。ただ目を向ける、じっと注視する、という意味の言葉だ。薬を飲むのでもない。噛んだ蛇を退治するのでもない。自分の傷を見つめて嘆くのでもない。ただ、上に掲げられたものへ、目を上げる。それだけで、毒は命を奪う力を失う。行いではなく、まなざし。これが、神の定めた救いの形だった。
| ▼ 図解①——荒野の青銅の蛇と十字架の対応図(仰ぎ見れば生きる) |
薬もなく、蛇を退治する力もない。
千数百年後、イエスご自身が引かれる
↓
自分を救う力はない。
そして千数百年後、ニコデモという真面目な律法学者を前に、イエスご自身がこの場面を引かれる。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:14-15)。
ここに、福音の核心がそのまま映っている。十字架は、私たちの傷を消すためではなく、掲げられたお方を仰ぎ見させるために立てられた。毒は今も体を回るかもしれない。痛みは残るかもしれない。けれど、目を上げた者は生きる。日本語で福音を伝えようとするとき、これほど単純で、これほど深い絵はそうない。「あなたは何もできなくていい。ただ、上を見なさい」。
章の後半、空気が一変する。水を求めた民が、今度は呟きではなく歌を歌う。「わきいでよ。井戸」(17節)。同じ荒野、同じ渇き。けれど、神に向き直った民の口からは、不平ではなく賛美の歌があふれる。ここで注目したいのは、この井戸が、つかさたちや尊き者たちが「笏をもって、杖をもって」掘った井戸だと描かれること(18節)。神が水を約束された場所で、人もまた手を動かす。神の恵みと、人の働きが、一つの井戸で出会っている。
そしてイスラエルはついに前進する。エモリ人の王シホン、バシャンの王オグを打ち破り、ヨルダン川の東岸に初めて足場を得る(21-35節)。遠回りに見えた旅は、止まっていたのではなかった。仰ぎ見て生き、歌いながら掘り、そして前へ進む——この章は、荒野の民が「呟く民」から「仰ぎ見る民」へと変えられていく、その転換点に立っている。
第二部:イザヤ41-42章——恐れるな、わたしがともにいる——
イザヤ書は40章から、調子ががらりと変わる。それまでの裁きの宣告から、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」(40:1)という呼びかけへ。そして41章は、その慰めが具体的な言葉となって、読む者一人ひとりに差し出される章である。
章は、法廷の情景から始まる。「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ……われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう」(1節)。神が全世界を法廷に召喚し、「歴史を動かしているのは誰か」を問われる。その証拠として示されるのが、「東から起こされた一人の者」(2節)である。これは、後にバビロンを滅ぼしてユダの民を解放するペルシャの王キュロスを指すと、多くの注解者が見る。イザヤがこれを語ったのは、キュロスが歴史に登場するおよそ150年も前のこと。まだ存在しない王の働きを、神は「すでに決まったこと」として語られる。
その根拠として、神はご自身をこう名乗られる。「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ」(4節)。この「わたしがそれだ」、発音はアニ・フー。「アニ(わたしは)」と「フー(その者・それ)」の二語で、「わたしこそ、その方だ」という宣言になる。歴史の最初の頁にも、最後の頁にも、同じ「わたし」が立っている。だから未来を、過去のように語ることができる。
そして7節までの偶像作りの滑稽な描写——金細工人を励まし、釘で打ちつけて「動かないようにする」——のすぐ後に、その対極として、慰めの言葉が一気に流れ出す。
| ▼ 図解②——イザヤの慰めの言葉の流れ図(恐れるな/ともにいる/贖う者) |
「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ」(8節)。ここで神は、イスラエルを「わたしの友」と呼ぶ。発音はオハヴィー、「わたしを愛する者・わたしの愛する者」という意味だ。神が人を「友」と呼ぶ——この一語に、すでに福音の温度がある。
そして、聖書全体でも最も多くの人を支えてきた一節が続く。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(10節)。
この「恐れるな」、発音はアル・ティラー。「アル(〜するな)」と「ティラー(あなたは恐れる)」の二語で、「恐れるな」という優しい禁止の言葉になる。注目したいのは、この言葉が41章の中で三度(10,13,14節)も繰り返されること。神は一度言って終わりにしない。恐れがちな心に、何度でも、繰り返し語りかけてくださる。
さらに胸を打つのは、神が慰める相手の呼び名だ。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々」(14節)。「虫けら」——これは侮辱ではなく、現実である。小さく、力なく、踏みつぶされそうな者。けれど神は、その虫けらにこう続ける。「わたしはあなたを助ける。あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」。この「贖う者」、発音はゴーエル。古代イスラエルで、借金で奴隷に売られた親族を、身代金を払って買い戻す「最も近い親族」を指す言葉だ。後にルツ記でボアズが担い、究極的にはキリストが成就する役割である。虫けらのために、聖なる方が、最も近い親族として買い戻しに来てくださる。
その慰めは、渇いた者への約束へと展開する。「悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく……わたし、主は、彼らに答え……裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする」(17-18節)。第一部で見た、荒野の井戸の歌を覚えているだろうか。「わきいでよ、井戸」と歌った荒野の民。その情景を、神はここでもう一度、もっと大きな約束として語られる。あなたの荒野に、わたしは川を開く、と。
そして42章。ここでイザヤ書の中でも特別な四つの詩——「しもべの歌」と呼ばれる箇所——の、一つ目が始まる。
| ▼ 図解③——「しもべの歌」のメシヤ像(いたんだ葦を折らない) |
自分に注目を集めない方。
「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」(1節)。この「しもべ」、発音はエベド。仕える者、奴隷をも意味する言葉だが、ここでは神に選ばれ、神の霊を宿す特別な「しもべ」を指す。新約のマタイは、この箇所をそっくりそのまま引用して、イエス・キリストに当てはめている(マタイ12:18-21)。
このしもべの姿が、たまらなく優しい。「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(2-3節)。
「いたんだ葦」とは、すでに折れかかって、もう楽器にも杖にもならない葦のこと。普通なら、踏み折って捨ててしまう。「くすぶる燈心」とは、油が尽きて、もう炎は消え、最後のひと筋の煙だけを上げている灯心のこと。普通なら、ひと息で吹き消してしまう。けれどこのしもべは、折らない。消さない。折れかけた者を、消えかけた者を、最後まで生かそうとされる。
ここで三度繰り返される言葉がある。「公義」(1,3,4節)、発音はミシュパート。正しい裁き、神の秩序、という意味だ。普通、強い「公義」は、弱いものを切り捨てて成り立つように見える。けれどこのしもべがもたらす公義は、いたんだ葦を折らないことによって打ち立てられる。弱さを切り捨てない正義。これは人間の作る正義の論理を、根底からひっくり返している。
そしてこのしもべは、イスラエルだけのために来るのではない。「あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から……連れ出す」(6-7節)。異邦人への光。日本に住む私たちもまた、この「国々」の中に含まれている。二千数百年前、イザヤがこの言葉を記したとき、極東の島国に住む者たちのことも、神の視野には入っていた。
章の後半(18節以降)、調子は再び厳しくなる。神は「目の見えないしもべ」「耳の聞こえないしもべ」と、今度はイスラエル自身の鈍さを嘆かれる。「あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない」(20節)。慰めの章の中に、なぜこの厳しさが置かれるのか。それは、神の慰めが、現実から目をそらした甘い言葉ではないからだ。神は民の盲目をすべて知った上で、なお「恐れるな、わたしがともにいる」と言われる。慰めは、現実を直視した上での慰めだからこそ、揺るがない。
第三部:Ⅱコリント1章12-24節——約束は「しかり」、御霊の保証——
この箇所は、一見すると個人的な弁明の手紙に見える。パウロは、コリントを訪ねる予定を変更した。そのことで「あの人は約束を守らない、言うことがころころ変わる、軽率な男だ」と批判されていた。第三部は、その批判への応答として始まる。
「この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間的な計画であって、私にとっては、『しかり、しかり』は同時に、『否、否』なのでしょうか」(17節)。日常の小さな予定変更の話だ。けれどパウロは、ここから一気に、福音の核心へと話を引き上げていく。
「神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、『しかり』と言って、同時に『否』と言うようなものではありません」(18節)。この「しかり」、発音はナイ。「はい、その通り」という肯定の言葉だ。パウロは言う。私が宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「しかり」と「否」が混じるような方ではない。「この方には『しかり』だけがあるのです」(19節)。
そして、聖書全体を貫く一つの真理が、ここで凝縮される。
「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです」(20節)。
少し立ち止まりたい。「神の約束はことごとく」——アブラハムへの約束も、ダビデへの約束も、預言者たちを通して語られた約束も、すべて。それらが「この方において『しかり』となった」。創世記から始まり、今日読んだ民数記の青銅の蛇も、イザヤの「恐れるな」も「いたんだ葦を折らないしもべ」も、すべての約束は、キリストにおいて「ナイ(しかり)」と確定した。神は約束を撤回しない。「否」と言い直さない。キリストという一点で、すべての約束に「イエス」の判が押された。
だから私たちは「アーメン」と言う。この「アーメン」、ヘブライ語に由来する言葉で、「まことに、その通りです」と確認し、神に同意する応答の言葉だ。語根は「アーマン」、「確かである、堅固である、信頼できる」を表す。神が「しかり(ナイ)」と言われたことに、人が「アーメン」と応える。神の肯定と、人の信頼が、キリストにおいて出会う。第一部の青銅の蛇を「仰ぎ見る」のも、第二部の「恐れるな」を信じるのも、つきつめれば、この「アーメン」と言うことなのだ。
| ▼ 図解④——御霊の三つの保証(油注ぎ・印・手付金) |
そしてパウロは、この確かさの根拠を、三つの言葉で畳みかける。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」(21-22節)。
一つ目、「油をそそがれた」。発音はクリオー。これは「キリスト(クリストス=油注がれた者)」と同じ語根だ。つまり、油注がれた方であるキリストに結ばれた者は、その人自身もまた油を注がれる。私たちが神に仕えられるのは、自分が偉いからでも、訓練を積んだからでもない。油注がれたのは、神がなさったことだ。
二つ目、「確認の印」。発音はスフラギゾー。古代、王が手紙や所有物に蝋を垂らして印章を押し、「これは確かに私のものだ」と証明した、その「印を押す」という言葉だ。神は私たちに、ご自身の印を押された。「これは確かにわたしのものだ」と。
三つ目、「保証」。発音はアラボーン。これがとても美しい言葉なんだ。商取引で、契約を必ず履行する証拠として先に支払う「手付金」を指す。現代ギリシャ語では「婚約指輪」を意味するとも言われる。つまり御霊は、神が「あなたを必ず最後まで贖い切る」という約束の、先払いの手付金なのだ。今あなたの心に与えられている御霊は、やがて受け取る完全な救いの、確かな前金。婚約指輪のように、本番が必ず来ることの保証として。
ここまで来て、パウロはようやく、最初の予定変更の話に戻る。なぜ自分はまだコリントに行かないのか。「私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためだ」(23節)。問題を抱えたコリント教会に、今すぐ厳しく出向けば、互いに傷つく。だから時を待っている。約束を破ったのではない。愛のゆえに、あえて遅らせている。
そして、この手紙の中でも特に光る一節で、第三部は閉じられる。
「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです」(24節)。
この「協力者」、発音はスュネルゴイ。「スュン(共に)」と「エルゴン(働き)」が合わさった言葉で、「共に働く者」を意味する。英語のsynergy(シナジー)の語源でもある。パウロは、自分を彼らの「上に立つ者」とは決して言わない。信仰を握って支配する立場ではない、と。なぜなら、油を注いだのも、印を押したのも、手付金を与えたのも、すべて神だからだ。人にできるのは、その人が神を喜べるように、横で共に汗をかくことだけ。
ここに、福音を伝える者・教える者・仕える者の、あるべき姿が描かれている。福音に仕える者は——信仰を支配する者ではなく、喜びの協力者。油注ぎは神の領域、人は協力者の領域。この線引きを忘れた瞬間、仕えることは支配にすり替わる。パウロは、その線を、はっきりと引いた。
「あなたがたは、信仰に堅く立っているからです」。最後のこの一言が優しい。パウロは「私が立たせてやった」とは言わない。「あなたがたは(すでに)堅く立っている」と、信頼の言葉で締めくくる。協力者とは、相手の信仰を信じる者でもあるのだ。
第四部:全体の一貫性——仰ぎ見る信仰と、指し示す協力者——
今日読んだ三つの箇所は、時代も場所も文体もまったく異なる。荒野をさまよう民の記録、捕囚を前にした預言者の詩、地中海世界の教会への手紙。けれど、その底を流れる一本の糸を引き上げると、二つの真理が、より合わさって現れてくる。「仰ぎ見る信仰」と、「指し示す協力者」である。
まず、「仰ぎ見る信仰」から見てみたい。
民数記21章で、蛇に噛まれた民が救われたのは、ただ青銅の蛇を「仰ぎ見た」からだった。自分の傷を治す力も、噛んだ蛇を退治する力も、彼らにはなかった。求められたのは、ただ目を上げることだけ。イザヤ41章で、神が「虫けらのヤコブ」に「恐れるな、わたしはあなたとともにいる」と語られたとき、虫けらに求められたのも、強くなることではなく、ただその約束を信じて顔を上げることだった。Ⅱコリント1章で、パウロが「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となった」と告げたとき、人に求められたのは、その「しかり」に「アーメン」と応えること——つまり、キリストを信頼して仰ぎ見ることだった。
三つの箇所が、声を揃えて同じことを語っている。救いは、人の側の力や完璧さから来るのではない。掲げられたお方を、約束されたお方を、ただ仰ぎ見るところに来る。これは、日本で福音を伝えようとするとき、最も大切な一点かもしれない。私たちはつい、「立派な信仰者にならなければ」「もっと聖書を理解しなければ」「ふさわしくならなければ」と、自分を整えようとする。けれど聖書が一貫して語るのは、その逆だ。あなたは何もできなくていい。ただ、上を見なさい。虫けらのままでいい。折れかけた葦のままでいい。仰ぎ見る者は、生きる。
次に、もう一本の糸、「指し示す協力者」を引き上げたい。
ここで注目したいのは、これらの救いの場面に、必ず「指し示す者」が立っていることだ。民数記では、モーセが青銅の蛇を作り、旗ざおの上に掲げた。けれどモーセは、自分を見上げさせたのではない。自分が作った蛇を、民が仰ぎ見るように、上へと指し示しただけだった。イザヤ42章のしもべは、「叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない」(2節)方として描かれる。自分に注目を集めず、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」、弱い者を生かしながら、神の公義を指し示す。そしてⅡコリント1章で、パウロは自らをこう定義した。「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者(スュネルゴイ)です」(24節)。
ここに、福音に仕えるすべての者の、あるべき姿がある。私たちが誰かに福音を伝え、教え、ともに祈ることができるのは、自分が偉いからでも、訓練を積んだからでもない。油注がれたのは、神がなさったことだ(21節)。確認の印を押されたのも、保証の手付金として御霊を与えられたのも、すべて神の働きである。だから、人にできることは一つしかない。その人が神を仰ぎ見られるように、その人が神を喜べるように、横で共に働くこと——指し示す協力者であること。
この二本の糸は、別々のものではない。より合わさって、一本の太い糸になる。仰ぎ見る者がいるところには、必ず、指し示す者がいる。そして指し示す者自身もまた、かつては誰かに指し示されて、自分も仰ぎ見た者なのだ。モーセも、イザヤのしもべも、パウロも、まず自分が神を仰ぎ見た。仰ぎ見た者が、今度は他者に「あなたも、あの方を見上げなさい」と指し示す。この連鎖が、荒野から、預言者から、使徒へと、そして二千年を越えて、今日この聖書を読む私たちのところまで、途切れることなく続いてきた。
第一部の井戸の歌を、もう一度思い出したい。荒野で水を求めた民が、「わきいでよ、井戸」と歌ったとき、その井戸は、つかさたちが「笏をもって、杖をもって」掘った井戸だった(民数記21:18)。神が水を約束された場所で、人もまた手を動かした。神の恵みと人の働きが、一つの井戸で出会った——あの情景こそ、この二本の糸が一つになる姿だ。水をわかせるのは神。けれど人は、シャベルを置いて見ているのではなく、掘る。仰ぎ見る信仰と、指し示す働きが、一つの井戸で出会う。
そして、この連鎖の最も深いところに、油注がれたお方ご自身が立っておられる。青銅の蛇が指し示していたのは、十字架に上げられたキリストだった(ヨハネ3:14)。イザヤのしもべの歌が指し示していたのも、このキリストだった(マタイ12:18)。神のすべての約束を「しかり」とされたのも、このキリストだった(Ⅱコリント1:20)。私たちが誰かを指し示すとき、究極的に指し示しているのは、自分でも、自分の言葉でも、自分の働きでもない。ただ、上げられたお方、お一人である。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」(イザヤ41:10)。この約束は、仰ぎ見る者への慰めであると同時に、指し示す者への支えでもある。私たちが誰かに福音を語るとき、その結果を握っているのは私たちではない。油を注ぐのも、心に印を押すのも、信仰を生み出すのも、神の働きだ。だから私たちは、結果を恐れず、ただ忠実に指し示し、共に喜ぶ。なぜなら、私たちもまた、ともにいてくださる方の、喜びの協力者だからである。
| ▼ 図解⑤——三本の糸の統合図(仰ぎ見る・恐れるな・アーメン/二本の糸が一つの井戸で出会う) |
水をわかせるのは神。けれど人も、笏と杖で掘る。
原語語彙表
ヘブライ語(旧約:民数記・イザヤ書)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| שָׂרָף | サラフ | 燃えるもの。民数記21章の「燃える蛇」。イザヤ6章の「セラフィム」と同語根 |
| נָבַט | ナバト | 仰ぎ見る、じっと注視する。青銅の蛇を「仰ぎ見れば生きる」(民数記21:9) |
| אַל־תִּירָא | アル・ティラー | 恐れるな。〔アル=〜するな〕+〔ティラー=あなたは恐れる〕。イザヤ41章で三度繰り返される |
| אֲנִי־הוּא | アニ・フー | わたしがそれだ。〔アニ=わたしは〕+〔フー=その者・それ〕(イザヤ41:4) |
| אֹהֲבִי | オハヴィー | わたしの友、わたしの愛する者。神がアブラハムの末を呼ぶ言葉(イザヤ41:8) |
| גֹּאֵל | ゴーエル | 贖う者。身代金を払って親族を買い戻す「最も近い親族」(イザヤ41:14) |
| עֶבֶד | エベド | しもべ、仕える者。神に選ばれ霊を宿す「しもべ」(イザヤ42:1) |
| מִשְׁפָּט | ミシュパート | 公義、正しい裁き、神の秩序(イザヤ42:1,3,4で三度) |
ギリシャ語(新約:コリント人への手紙第二)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| ναί | ナイ | しかり、はい。キリストには「しかり」だけがある(Ⅱコリント1:19-20) |
| ἀμήν | アーメン | まことに、その通り。ヘブライ語「アーマン(אָמַן)」に由来し、「確かである・堅く立つ・信頼できる」を意味する語根から来た言葉(Ⅱコリント1:20) |
| χρίω | クリオー | 油を注ぐ。「キリスト(クリストス=油注がれた者)」と同語根(Ⅱコリント1:21) |
| σφραγίζω | スフラギゾー | 印を押す。所有と保証を証明する印章(Ⅱコリント1:22) |
| ἀρραβών | アラボーン | 保証、手付金。契約履行を約束する先払い。御霊は救いの先払い(Ⅱコリント1:22) |
| συνεργοί | スュネルゴイ | 共同労働者、協力者、共に働く者。〔スュン=共に〕+〔エルゴン=働き〕。synergyの語源(Ⅱコリント1:24) |
※原語の表記・発音は、Claude(AI)の支援を得てまとめ、辞書等で確認しています。発音はおおよそのカタカナ表記です。

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